すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

野中の自然教室

2019-03-01 20:30:33 | 自然・季節
 「姉崎一馬の自然教室」を読んだ。このブログにときどき登場する植物写真家、姉崎さんの1997年に山と渓谷社から出された本だ。
 今は世界遺産になっている和歌山県の熊野古道の中辺路の真ん中あたりにある野中という集落の、廃校になった小学校での夏の自然教室の記録だ。1975年から18年間続いた。
 胸が痛くなるほど懐かしく、心が痛くなるほど恥ずかしかった。
 「懐かしく」というのは、ぼくも4年目ぐらいから10年間くらいはリーダーとして参加していたからだ。「恥ずかしい」というのは、あの頃ぼくは姉崎さんが考え、実行しようとしていたことがほとんど分かっていなかったと、あらためて痛感したからだ。
 私事を先に書くと、ぼくは25歳の時に、4か月ほどいたフランスから帰ってきて、体力をつける必要を痛感して、友人に初めて山登りに連れて行ってもらった。それで山に夢中になってしまって、自然についても勉強したいなと思っていたところ、「日本ナチュラリスト協会」というところの、「ナチュラリスト養成講座開催」という記事を見つけて行ってみたのだ。
 ぼくとしては、いろいろ教えてくれるものと思って行ったのだが、実際は自然教室実施のためのリーダー養成講座で、自然教育園でのバードウオッチング、とか、高尾山南尾根での植物観察とかは何度かあったが、すぐにその夏の山形県朝日連峰での自然教室にサブリーダーとして参加することになり、子供たちにどう接していいやら、何をすればいいやら、自然の見方についてはまだ全く知らないし、当惑と大混乱、みたいな状態で数日を過ごして、最後の日には自分が朝日川の川原で転んで前歯を二本折って、それでもそのまま現地で子供たちと別れて大朝日岳に登って、「ちょっとあれはもうぼくには向いてないかなあ」とか思いつつ、でも子供たちと過ごした数日間の体験は忘れがたく、そのまま協会には残ることにした。
 1975年、野中の自然教室が始まったときには、ぼくはマウンテンゴリラの記録映画を撮る撮影隊の通訳兼助手として、ザイール(現在のコンゴ民主共和国)東部の山地性ジャングルの中にいた。11か月いて帰ってきた翌年、今度はアルジェリアに科学技術通訳として一年間行って、帰国後、野中の自然教室に誘われたのだった。
 野中は素晴らしい所だった(現在では観光地になっているかもしれないが)。姉崎さんの本に詳しく書かれているからぼくは重ねて書くことはしないが、学校は中辺路の旧道や国道から急斜面を下った野中川の川沿いの、川からは一段高くなったところにあって、前にグランドがあり、その周りには数軒の農家の住宅と田んぼがあり、正面は谷の深い山地になっている。
 校舎の前の石段に腰を下ろして夜の明けるのを、日の沈むのを、子供たちが昼寝から覚めて来るのを、その日の野外活動から帰ってくるのを待っていると、心がシーンと明るく澄んで、自分があの空の高くを飛んでいるトビになったような、あるいは向こうの山の上に沸いた夏雲になったような、川沿いに吹いて行く風になったような心持になったものだ。旧道沿いには日本百名水のひとつ「野中の清水」が夏でも冷たく湧き出している。明かりのない長い隧道を通り抜けると、日置川の上流部の、驚くほど透明な瀬や渕での川遊びが待っている。子供たちはその場所を「がきんちょ天国」と呼んでいた。
 子供たちと過ごす時間は本当に楽しかった。ぼくは相変われず、自然の見方について子供たちにどう伝えたらいいかわからず、自然についての基本的な知識もなく、農道を歩いていても、「ほら、ここにこんなものが」とか見つけ出す目も持っていず、相棒になったもう一人のリーダーに頼るばかりだったが。
 林道に数十m間隔で一人で座って耳を澄ましながら夜の明けるのを待つ体験、明かりのない真っ暗な道を歩く体験、清流が泡を立てて落ちる渕をシュノーケルをつけて覗き込む体験、ぼく自身にも、鮮やかな感動の体験だった。
 …だけど、手探りで運営していくのは大変だった。安全管理、健康管理、食料の調達、スケジュールの管理、予期せぬ出来事への対応…ぼくたちはミーティングにミーティングを重ね、でも、その話し合いの大部分は運営にかかわるものであり、理念を共有するための話し合いをじっくりとしている余裕はあまりなかったように思う。 
 ぼく自身の関心は次第に、自分の関わっている横浜地域の子供たちの一人ひとりの性格や気持ちや日頃の生活環境や家庭環境などの方に移っていき、最後の数年は同じ野中で時期を前後させて自分たちだけの教室をやるようになった。
 今回、姉崎さんの目指していたものがいかに大きく、視点の深いものだったかに改めて気づかされ、自分の考えの浅さに、心が痛んだ。
 野中の自然教室の全体が、自然を自分の全存在で味わう、と言うだけでなく、水の循環を大テーマに、たとえば野中川の水系をめぐる環境とか、それを支える山の自然とかだけでなく、食器を洗う、調理をする、掃除や洗濯をする、ごみを処理する、自分たちの出す生活排水とか環境に対するやさしさとかを、具体的に一つ一つ子供たちと一緒に体験し、考えを深めていくプロセスでもある、という一番のおおもとの考え方さえ、ぼくはあの頃よくわかっていなかったようだ。「子供一人ひとりの個性を尊重する」、なんて、言うまでもない前提だったし、ぼくよりも姉崎さんの方がずっと深く考えていたのに気づかなかった。
 ぼくが自分たちだけでやろうとしたのは、あの頃、母体である日本ナチュラリスト協会という組織の中心的な人たちの方針に不信感を持っていたからだった。当時、「日本の自然保護のためにはとにかく組織を大きく強くして、できるだけ早く社団法人化して…」と考えて若いリーダーたちを教育していこうとする人たちが中心になっていて、それを鵜呑みにして組織のために尽くそうという若い人たちもいた。
 姉崎さんが、そういう考え方からは一線を画して、独自の方法論と展望を持っていたことを、同学年のぼくは気が付いていたはずなのに、十分に話をしなかったのは、残念なことだ。
 野中の教室は、校舎の老朽化や周辺環境条件の変化のため18年で終了し、彼は今、結婚したエミさんと二人で山形の朝日連峰のふもとの「わらだ屋敷」というところに自分の家と土地とフィールドをもって教室を続けている。子供たちの中からは、南極越冬隊員まで出ている。
 この夏は訪ねてみたい。
コメント (2)
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