すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

光の道―七ツ石山

2019-03-22 15:25:43 | 山歩き
 二日目、ゆっくりゆっくり雲取山頂に登り返すと、絶好の快晴。先に出発したおじいちゃんと孫が、遠方の山並みと展望案内板を見比べていた。「南アルプス見えませんね」と言ったら、「いえ、うっすらと見えていますよ。ほら、あのあたり」と指さされた。ぼくには見えない。双眼鏡は携行するものだ。
 下山は登りとほとんど同じ道だ。違いはひとつだけ、行きは時間短縮のためにまき道を通った七ツ石山に寄ったことだ。これが今回の山登りのハイライトになった。
 雲取から下る途中、小雲取あたりから前方に七ツ石山の広い真っ白な斜面が正面に見えていた。山荘を出てからそこまでの間に、七ツ石に寄ろうか、昨日来た巻き道を戻ろうか迷っていた。もう昨日体力は使ったから下るだけでもいいかな、と思っていた。だが、登山道はあの白い斜面についているはずだ。うん、やはり、登ろう。
 ブナ坂から、細い道の方に入った。まもなく急登が始まった。ふと右わきを見ると、急斜面に乱れた足跡がついている。何人もが同じところを通った跡でなく、めいめいが勝手に通った跡。頂上に向かって直登した人たちがいるのだ。
 ぼくもやってみよう、と思った。登山道を逸れて右に踏み込んだ。最初は、その方が登りやすいから、踏み跡の上を選んで歩いた。でも、昨日今日の跡ではないらしく、浅いし、とぎれとぎれについている。途中から、ぼくも勝手に歩くことにした。
 北西の斜面なので雪は深い。山頂は南東方向にある。ちょうど、太陽が山頂のすぐ上にあって、ぼくの行く手は白銀に輝いている。太陽と雪の輝きがまぶしくて正面が見られないほどだ。その中を、光に導かれるように、ひと足ずつ慎重に登る。
 いまぼくの履いているアイゼンは夏山の雪渓用の6本爪なので、こんな斜面には保持力が足りない。靴底の真ん中部分に爪がついているので、つま先を雪にけり込んで登ることができない。若い頃持っていた10本爪なら、もっと楽に登れたろう。仕方なく、斜面に平行に上からたたきつけるように足を踏み込んで、両手のストックを頼りに登るが、かなり頼りない。
 途中で下を見たら、思った以上に急斜面に見える。「落ちたら、下のあのあたりの樹林にそのまま突っ込むな」、と思う。一巻の終わりかもしれない。前は相変わらず、光の斜面が続いている。否応なしに心拍数が上がる。
 頂上直下で、無意識のうちに左の方に逃げていたらしく、かなり登山道に近づいているのに気づいた。頂上は右手だ。斜めに進むのは直登よりもっと怖いので、そこで冒険は断念して道に合流した。
 山頂まで、標高差約100m、コースタイムで20分のところ、ほぼ1時間かかった。
 山頂は暖かく静かで、大きな標柱に寄りかかって腰を下ろして息を整えた。ぼくだけの、純白の小天地。天国のようだ、とマジに思った。そうだ、今日は時間はたっぷりあるはずだからここでのんびりお昼にしよう、ココアも飲もう、とリュックを開いた。
 …祝祭日のような高揚感は、ここで急転直下に終わる。
 リュックの中身を底まで出して捜したが、魔法瓶が無かった。朝、小屋でお湯と水をもらって、ペットボトルだけ持って魔法瓶を忘れてきたのだ。
 前夜、マッキンレー登山の同じ歳のおじさんが、「ラーメン食べようと思ってリュックを探したけど魔法瓶がなくてさ。お湯を入れて家に忘れてきちゃったんだよね。いやあ、こんなことが最近多くて。百回記念の気分が台無しさ」と言ったのをみんなで楽しく笑ったのを思い出して、高揚が一気に引いた。
 彼の魔法瓶は家に帰ればあるけれど、ぼくのは小屋に戻らなければない。戻れない時間ではないのだが、もう戻るだけの気力はない。
 仕方なく昨日の残りのお稲荷を食い、チーズとチョコをかじって水を飲んで下山することにした。
あとは、うんざりするほど長い下り坂があるだけだった。
 バス停に12時ちょうどについた。バスの時間まで2時間ある。湖面まで降りてみた。大きな多摩湖も、このあたりでは広めの川のようだ。濃い緑にやや茶色がかった水が、強い風でさざ波立って、波は上流へと動いていく。まるで逆さに流れているようだ。上流側の湖面が広く光を受けてちらついている。そのさらに奥の上空に、トビだろうか、滑空して輪を書いているいる鳥がいる。
 ヘッセの「シッダールタ」の中に、「流れる水の中にはすべての人、すべての命の声がある」というようなことが書かれていたはずだな、と思った。ここの水は流れてはいないけれど、湖底に家々や神社の跡を沈めたまま、表面はまるで流れているように見える。じっと見ていると懐かしい人の顔は思い浮かぶが、ぼくには声は聞こえない。
 バス停に戻ったら、おじいちゃんと孫の二人連れが到着していた。ベンチに腰を下ろして、気持ちのいい風に吹かれながら、しばし、世間話を楽しんだ。

参考所要時間:雲取山荘スタート6:00、山頂6:47、奥多摩小屋7:32、ブナ坂8:05、七ツ石山9:02、七ツ石小屋9:41、堂所10:25、鴨沢バス停12:01
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