トシコロのありのままの暮らし


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動物共生と障碍者問題

2018-09-17 12:52:21 | 日記
  ペットを飼っていないせいか、世間で言う所の動物愛護の事に疎かった僕だが、フェイスブックでそのような記事を数多く投稿されている方と知り合い、考え込み、この面にも目を向けてみた。


  まず、言葉の問題だが、僕特有の感じ方のせいかもしれないが、「愛護」という言葉が気にかかる。人間が動物を保護して上げるという感じで。我々人間も動物の一種に過ぎないし、しかも、後発の動物でもある。同じ命も持つ。彼らの言葉が判らないだけで、犬も牛も感情はあるわけで、痛みも感じる。だから、僕は「動物と共生」とか「尊重」という言葉を使いたい。


  前置きはともかく、動物たちは人間に通じる言葉を持たない。同種の動物同士は通じ合う言葉も持っているものもあるかもしれないが、我々には判らない。ものも言えない動物たちも尊重し、動物たちへの虐待や虐殺にも敏感になり、反対運動も繰り広げられている人たちは本当に優しい人たちだと最近気が付き、尊敬の気持ちも持った。考えてみれば、それは人間の中の障碍者問題にも通じるわけである。何故なら、重い知的障碍を持つ方たちがまさにそうだし、僕もそうだが、言語障碍を持つ人たちも同じである。例えば、何かの痛みに「アー・ウー」と、言葉にならない音声を発する事こそ、痛みや感情の究極の反応であり、真の言葉だとも思われるからだ。また、僕自身も子供向け科学の文にはよく生物の事を述べ、「命の尊さ」を述べているが、動物共生を目指している人たちと同じ目的を持っている事にも気が付く次第である。

  ところで、昔から僕が動物虐待だと思い、問題に感じている事に、フォアグラの事がある。ガチョウに無理やりトウモロコシを機械で流し込むように食べさせて、その結果、炎症を起こして油が乘った肝臓を食べる。今はそれへの批判や反対も世界中から出ているようだが、非常に残酷な事ではないか。ガチョウの痛みはどうなる。もし、牛など、他の動物を殺して食べなければならない宿命が我々人類にあるのならば、せめて苦痛を与えない殺し方をしなければならないと。

  また、フォアグラのように、他の動物に非常な苦痛を与えてまで、グルメを求める今の人間たちの生き方や価値観も何なのか。確かに、誰でもおいしいものを好むが、おいしいものを常に食べて、人は本当に幸せになるのか。個人個人の価値観にもよるが、僕はそうは思わない。グルメにばかり関心が行くと、他人の事も余り考えられなくなり、友人もできなくなるのではないかと。そんな気がしてならないからだ。おいしいものを食べる為に生きているとしたら、余り生きる価値はない気が僕にはするわけです。

  とにかく、人間は後輩の動物に過ぎません。地球の王様なんかではないし、自然を勝手に改造し、支配する事はできない。苦痛を与える事はできないわけですが。

  もう一つ。一部には動物虐待を意識的にする人たちもいるわけです。そのような人は他人や社会に劣等感を持っています。意識的・無意識的に自分と他人を比較して、自分は劣ると勝手に判断し、その反動で動物をいじめて、支配し、優越感を持ち、ウサを晴らすという。封建時代以来の「中心・トップと辺境」という社会構造が根にあるから、そのような人たちにいくら命の大切さのお説教をしても効果はないでしょう。でも、封建的な社会構造が消え、一人一人が中心になり、尊重されるような社会構造になった時、そのような動物虐待も消えると僕は見ていますが。そうなってほしいものです。そのような社会では、障碍者差別や家柄差別なども消えるでしょう。