トシコロのありのままの暮らし


  世田谷カフェとの交信の必要性で、登録しました。それ以外の皆さんもよろしくお願いします。

実録小説・シマハタの光と陰・第3章・林田博士の苦悩と、出会い

2018-06-22 13:34:20 | 日記
  第3章・林田博士の苦悩と、出会い





ここで林田博士の説明を少ししよう。林田聖樹。1908年長野市生まれ。奇しくも私と同郷である。若い時からキリスト教信仰を持ち、その愛に従い、医学の道を歩み、西洋医学を修め、特に戦後はまだ世間も目を向けなかった障碍児医学を次第に行なっていった。戦前以前も障碍児はたくさん生まれたが、医学が未発達だったため、その多くは生後間もなく、死亡していた。しかし、戦後になり、日本の医療水準は上がり、又、健康保険制度でほぼ全国民が医療の恩恵を受けられるようになり、障碍児も医療ケアが行き届き、その幼児死亡率も低下したわけである。でも、諸々の障碍児の状態を詳しく知る医者はまだ少なかった。その中で林田博士は働き盛りであったこともあり、障碍児医療にバリバリ取り組んでいた。当然ながら、診察の時は母親たちの話を多く聞き、障碍児を持つ家庭の状況の大変さも知っていった。診察の場面から。


   「うちの子は歩けるけれど、目を離すとどこかにすっ飛んでしまうの。大変だわ」

  博士は

  「それはご苦労な事ですね。精神薄弱ですね。精神薄弱児にも様々な症状がありますが、体は丈夫でも、判断力みたいなものがないわけです。脳神経の不具合で起きるものです。冬は特に火鉢などの管理に注意してあげて下さい。火のある所にはなるべく行かせないように。火事になったら、大変ですから」。

  「うちの子は、寝たきりで、こっちの話す言葉も判らないようです。いつも『アー、ウー』としか言わないわけです」。

  博士は

  「脳性まひと精神薄弱の重複ですね。養育は特に難しいわけです。消化力もよわい。だから、おじやや、リンゴのすり下ろしたものをいつも上げて下さい。食べ物がのどに詰まらせないように気をつけて」。

  アドバイスしか送れない事に、いつも自分の無力さを感じていた。

   そうしている内に、パチンコ関係の大立者、島畑尚三郎と出会った。彼の息子の一人、明男君が重い知的障害とテンカンを持つ障害児だったからである。

   林田博士は明男君を診断して

   「これはひどい障害だ。しかも、重複。目をご家族も離せないでしょう。いくらお金があっても、大変だ」と驚いた。

   林田博士と島畑氏はその後も何回も話し合い、日本で初めての重度心身障碍児施設を創る方向で進んだ。島畑氏は多摩地区に広い土地を持っているので、それを提供してもらって。
   林田博士は島畑氏に

   「欧米ではキリスト教会が盛んである事もあり、すでに多くの障碍児のためのナーシング・ホームが作られています。日本でも作られて当然です」と熱く語った。



  そうして、日本初の重症心身障害児施設のシマハタ療育園が東京都の多摩市に、1961年(昭和36年)作られたわけである。当時の日本は池田勇人首相の下、高度経済成長路線を走り始め、また、東京オリンピックと新幹線開通も目前に迫っていた。日本国民の関心は経済問題に集中していたわけである。その中、障碍児者問題は日が当たる事はなかった。林田博士はキリストの力を借りて、障碍児問題にも光を当たらせることを決意した。