トシコロのありのままの暮らし


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神戸の人たちの恐怖感を受け止められなかったこと

2015-03-10 11:44:51 | 日記


   1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きた。テレビのニュースで知った時は僕も驚きました。でも、それから2ヶ月たち、オウム真理教事件が起きると、僕の関心もオウム真理教に向かい、阪神の大震災の事は次第に忘れるようになりました。その年の秋にラジオで、神戸で震度7の地震に遭われた一人の短い発言を聞きました。

  「すでに日本中の人たちが神戸震災の事を忘れている。過去の事だと思い、冷たい態度を取る。でも、震度7の体験を受けた我々は忘れるものではない。復興も程遠いありさまだ」。

  その時から16年たち、東日本大震災で東京でも震度5。僕も神戸の人たちの恐怖感を判っていなかったことがよく判りました。ただし、その時は何故判らなかったのか?という事までは考えませんでした。

  東日本大震災を振り返り、阪神・淡路大震災の事も一緒に考えてみると、1995年の時は僕も新聞・テレビ・ラジオなどの放送とか、災害ボランティアで行かれた人たちの手記文を通して聞いたものばかりだったから、恐怖感が伝わらなかったと思います。それらは会話言葉や文によって伝えるシステムですね。でも、「恐怖感」はまともな会話や文にする事ができるでしょうか。できません。僕の東日本大震災の時の恐怖感も言葉にはいまだにできないわけだし。言葉には限界があるわけです。

  1995年当時の僕はパソコンはしておらず、また、フェイスブックなどのSNS(Social Net Service)もなかった時代でした。人々の情報はマスコミと出版に頼っていたわけです。マスコミや出版関係はその性質上、まともな文や会話にできない言葉は切り捨てていくシステムですから、当然ながら、「恐怖感」とか「差別や隔離された叫び」も切り捨てられ、世間に伝わらない。それゆえ、大震災に遭われた人たちの恐怖感とか、ハンセン氏病元患者の隔離された叫びなども世間に伝わらなかった。伝えられたのは、体裁よい言葉にできる部分だけです。それは、上べだけの言葉です。阪神・淡路大震災の事が忘れられたのもこのようないきさつがあったと思います。

  でも、東日本大震災の時にはSNSが発達していましたから、被災民たちが「叫び・恐怖感」を、会話にならない言葉を発信し、日本を越えて、世界中に広まった。大きな違いですね。

  最後に僕の子供時代の事をお話しします。自我が芽生えてきた小学4年から6年に掛けて、特に僕は作文を嫌いました。苦手でもあった。一度、白紙回答した事もあります。でも、情景描写みたいな事は書けるのです。当時の日本の学校での作文指導は「自分の気持ちを書かせる」ことに力を入れていた。どうやら、「気持ちをまともな文にできるか」という事が白紙回答した理由だったと思います。ある意味ではその通りなんですね。当時の僕なりに、「正解」していたようです。叫びや恐怖感をムリに文章化すると、まったく違った内容になり、逆効果だと思われるからです。そのような遠い過去の事も思い出されました。