人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

中山七里著 「恩讐の鎮魂曲(レクイエム)」 を読む ~ 「どんでん返し」以上に モーツアルト 「レクイエム」 の 「ラクリモーサ(涙の日)」 の卓越した文章表現力に驚嘆!

2018年06月19日 07時51分16秒 | 日記

19日(火)。わが家に来てから1356日目を迎え、トランプ米大統領が17日、米韓合同軍事演習の中止方針について、米朝首脳会談で北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長から求められたのではなく、「私の要請だった」とツイートした というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

     否定はしない 北朝鮮の非核化の費用は日韓で負担しろというのもあんたの要請だ

 

         

 

昨日、夕食に「カレーライス」と「生野菜とアボカドのサラダ」を作りました たまにカレーが食べたくなります

 

     

 

         

 

中山七里著「恩讐の鎮魂曲(レクイエム)」(講談社文庫)を読み終わりました 中山七里の作品はこのブログでも数多くご紹介してきました 1961年 岐阜県生まれ。「さよならドビュッシー」で第8回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞し2010年にデビューし、その後数々のミステリー作品を世に送り出してきました この「恩讐の鎮魂曲(レクイエム)」は、「贖罪の奏鳴曲(ソナタ)」「追憶の夜想曲(ノクターン)」に次ぐ 御子柴礼司シリーズの第3作に当たります

 

     

 

14歳の時に殺人を犯した御子柴礼司は、医療少年院で生活を送った後、独学で勉強して司法試験に合格、弁護士を開業しているが、敏腕ではあるが金に汚く、裁判に勝つためなら手段を選ばないという悪評を受けている 犯行時の園部信一郎という名を御子柴礼司に改めて弁護士活動を続けていたが、過去の凶悪犯罪が暴露されたことから依頼者が激減し、事務所を安い物件に移さざるを得なくなっていた そんな折、少年院時代の教官・稲見武雄が殺人容疑で逮捕されたというニュースを知る  国選弁護人は決まっていたが、御子柴は恩師を救いたい一心で悪智恵を使ってその弁護の仕事をもぎ取る

事件は、特別養護老人ホームの入居者である かつての恩師・稲見がホームの職員・栃野を撲殺したというものだったが、稲見は最初は御子柴を拒否する 何とか説得して承諾させるが、「自分は職員を殺したことは間違いないのだから罪を認め服役する」と言い張ってきかない 背景に何かあると確信した御子柴は老人ホームに入居する老人たち一人一人に、事件当日いったい何があったのか、殺された職員はどういう人間で入居者にどういう態度で接遇していたのか、について聞き出していく 稲見に殺された職員・栃野は過去に、船が遭難した時、自分が助かるために他人に暴力を振るって救命胴衣を奪い取って生き延びた人物だった その時の裁判所の判断は栃野の行為は”緊急避難”であり罰せられないというものだった。御子柴は そんな過去を持つ栃野が老人ホームで何をしていたのかを追求していき、なぜ稲見は栃野を殺害しなければならなかったのかの真相を突き止める

いつものように まさかの どんでん返しが何度もあります   あらかじめ随所に仕組まれた伏線は後できっちり回収され、最初はまったくバラバラだった登場人物たちがどこかで繋がっていることが説明され、「してやられた」と思います。いつもそうですが

どうでもいいことですが、小説の中に 私が勤めていた元の職場のビルに入居するレストランが出てきて「おやっ!?」と思いました(35ページ)。レストラン名は伏せてありますが、何度も利用したことがあるので懐かしく思いました

さて、タイトルの「恩讐の鎮魂曲(レクイエム)」のレクイエムというのは、老人ホームの入居者・小笠原栄という老婦人がいつもCDラジカセで聴いているモーツアルトの「レクイエム  K.626」のことを指します 裁判が終わり、御子柴が再度ホームにいる小笠原婦人を訪ねた時もCDラジカセでレクイエムを聴いていたとして、中山七里はこの曲について次のように記述しています

「CDラジカセの貧弱なスピーカーからでも、死者を悼む曲想の荘厳さが伝わってくる 『レクイエム』(死者のためのミサ曲)はモーツアルトが作曲途中に病死したために未完であったものを、弟子たちが完成させた曰く付きの曲だ 当時のモーツアルトの精神状態を反映してかひどく陰鬱な印象があり、長らく御子柴の琴線には触れなかった。今流れているのは、モーツアルトの絶筆部分とされる第8曲『ラクリモーサ』(涙の日)の冒頭だ。ニ短調のラルゲット8分の2拍子。咽び泣くようなヴァイオリンの調べに乗って女声合唱が哀悼を歌う 伴奏は単調だが、上向しては止まり、また上向しては止まりの反復が祭壇への葬列を連想させる。階段を上がり切ったところで曲調はそこに留まり、女声は静かに啜り泣く。死者への想いと悲劇への慟哭が胸を締めつける。上向と下向をゆっくり繰り返す中、喪失感と祈りが綯い交ぜになって心の襞に入り込んでくる。メロディはいったん平穏になり、在りし日の思い出に遊ぶが、それもひと時で終わる 慰撫される間もなく曲は短調に落ち、突如として入ってきた男声合唱が更なる哀しみを歌うー」

中山七里がここで書いている「ラクリモーサ」は演奏時間にしてわずか4分弱の曲です 実際にフリッチャイの指揮によるCDでこの曲を聴きながら上の文章を読んでみると、彼がいかに的確に音楽を言葉に置き換えているかが分かります

 

     

 

雑誌か何かのインタビューで読んだのですが、「さよならドビュッシー」「おやすみラフマニノフ」「いつまでもショパン」「どこかでベートーヴェン」などの音楽シリーズをはじめ、音楽に関わる作品を多く書いているのにも関わらず、中山氏は音楽に関してはまったくの素人で 楽器の演奏も一切出来ないと語っていました   それでも、上記のような文章が書けるというのは 小説家とはいえ 驚嘆すべきことです もちろん、文章を書くにあたっては CDを聴いたり曲目解説や音楽関連書籍を読んだりという作業は当然のこととして実行していると思いますが、それを自分自身の言葉として表現するには優れた文章力が必要とされます   ボキャ貧の私などは七里どころか百里も引き離されて、中山氏の足元にも及びません

そんなこともあって、私が中山七里の作品を読んでいつも思うのは、「どんでん返しの帝王」と呼ばれる彼のストーリー展開の見事さはもちろんのこと、それ以上に、上記のような類まれな文章力の凄さです

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