豪州訪問から帰ってから、もう2ヶ月半が過ぎても「震災」のその後の状況は、
とりわけ原発の問題は、身勝手な情報操作もあって、より見通しが暗くなり
進展どころか、深刻さは日に日に増しているのではないかという思いが募ります。
いとも軽々に「メルトダウンというのなら、それで結構です。」などと記者会見でいまさら
よくもいえたものだと情けなかった。メルトダウンとは、原子炉の破壊と再臨界につながるもので
「チャイナシンドローム」の恐怖を現実のものにする言葉であり
あまりにもいい加減な見通しと甘い想定、この期に及んでの覚悟のなさと他人事のような
あしらいに、嫌悪感を感じる・・・あとの3つの原子炉も同じだとすれば
今横たわる危機は一基の原子炉が崩壊したチェルノブイリの4倍に相当するのではないのか・・・
本当のことを知りたいのは、意味もなく同心円で囲われた避難区域の住民だけではない。
その上で、今更オーストラリア紀行なんていうたぐいの記事もないのですが
思い立って書きためていた草稿を起こしてみました。
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大陸の地にたっていることで、直感的に何が違うのかと言えば、それは目に入る「景色」なんかもしれません。
そのことの善し悪しの問題でもなく、オーストラリアで見る景色のどれもがパノラマのように
見渡す限り、はるか遠くまで広がっていて、大きな景色を目にするたびに深呼吸させられるほどです。
この大陸に暮らすものの多くがこの雄大な眺望を求めて暮らしているようにも思えます。
そこには、ただ雄大に繰り返す大きな自然のダイナミズムが存在があり、その大きさに畏敬の念を抱いているのです。
対して、日本に暮らしに寄り添う景色は、そこに山があり、家並みがあり、切り取った「箱庭」のように
存在していて、その中で繰り広げられる季節の移ろいを愛でて、味わいを求める暮らしぶりがあります。
スケールは小さいけれど、その分きめ細やかな変化を見てとり暮らし向きに取り入れてきました。
いいか悪いかの話やないんやけども、どうしたってそういう環境では、僕らは
自分以外の他人と肩があたるほどにせまっくるしくて、人とこすれあって、
人の顔色をうかがう生活になりがちです。誰かと同調することを求められもします。
職場であれ、住まいの近くであっても人の気に障るとたちまち息苦しさに包まれもします。
むしろ、それが故に微妙な言い回しや心の揺れ動きを映すようなきめ細やかな文化も生まれてきました。
その点、大陸に住んで暮らすと目に入る景色に比べて自分自身の大きさがあまりにも
小さくて、人との関わりなど第二義的な問題で、むしろ一人一人が独立して
どう強く生きるかを問われてくるようです。従って誰かと同じなどという考えすら存在しようがありません。
どこの組織や会社や団体のどこにいるかとかいうことが問題ではなく
自分というものがはっきりしていなければ、受け入れない社会を形成しています。
そこんところが意外にも自分がなじみやすく、どっちかって言うと
クレーマーみたいに、人と違うことをひけらかして見える僕のありように向いているのかと思えてきます。
子供のころから、しきりに「センセイ」にいわれた「みんな、おトモダチになりましょう 」という言葉に
どうしても引っかかり、違和感のうちに「みんなと何でも一緒は無理やろ」と言葉を飲み込んできた自分がいます。
「仲間はずれ」とか「付き合いが悪い」果ては、大人になると持ち上がる「人並みの」という
基準が、多くの人にのしかかるのです。
ところが、彼らは必要以上に群れません・・・何かのグループに入ることに安心はしないのです。
自分の評価をまず自分でしようとするから「人並み」というものさしに意味がなくなる。
彼らは常に1対1の関係で人と対峙します。そのときに相手のキャリアや
金持ちか貧乏か、ええしの出かそうでないかとか、バックボーンの家柄も地位も
全く気にもしていません。従って「敬語」という厳密な意味での言葉もほんの少ししか存在しないのです。
老いも若きもその点で場面場面では対等であるかのようです。
そして、そういうありようを通して自分以外の個々人を尊重し、あくまでも
人はそれぞれに違っているという前提が、特に多様な人種で構成されたオーストラリアの
現在の本質です。
英語と日本語の会話の決定的違いは、「主語」と「述語」の明快さにあります。
僕らが普段使っている自分たちの言葉を、「翻訳」して伝えようとするときに思い知らされます。
僕らの言葉に、「主語」と「述語」があいまいで、言葉の「責任」が全く消えていることを・・・
「我々は・・・」とか「私たち日本人は・・・・」とか、ひとくくりにして言う言葉も目立ちます。
裏返して言うと、それは「私は・・・」とか「僕は・・・」という主体を隠したり、省いてしまって
結果として、「責任」や「自分なりの結論」というものを避けた言葉にしています。
中学のころに思い余ってある教師に相談を持ちかけて、どう思うかを問うた時に
多くの教師がそうであるように「先生はな・・・」と彼は切り出しました。
僕は彼自身の率直な意見や考えを聞きたかったのであって、職員室の意見が聞きたかったわけではない。
そこには、「私」という存在が見えずに、結果信頼できなかった思いがよみがえる。
福島原発の問題でも、どの連中からも発せられるコメントは、政府であろうが、東電であろうが
あってもなくてもどうでもええような「保安院」であろうが、他人事に聞こえてしまうのは
自分がどう考え、どうするかという主体的な考え方を一切排除して、責任が及ばない言葉を選んでしまうからだと思うのです。
それは、責任を回避しているどころか、責任を取らないことこそが第一義で、組織を守ることが前提で
住民に対する事柄が二の次になっているように見えて仕方ないし、
原発事故の現場の必死の声を決して代表してはいないと思えてしまう。
少なくとも英語の世界では、まずはじめに「IとかYou」を言わなければ会話になりません。
時には、攻撃的で日本語のように多様な表現がないので 言葉の端々に思いやりがかけていて、
私たちにとってはあまりにもストレート過ぎることも往々にしてあります。
たとえば料理を出されて、口にあわないときに「おいしくない」などと言われると多くの人は
気分を害してしまいますが、英語の世界にそんな遠慮はありません。
彼らは覚えたての日本語で「マズイ」 と言い切ります。
一方、日本語で「あの人は賢いから・・・」と言えばその言葉を素直に受け取り、
その言葉に潜む日本語の裏側の「皮肉」を深読みして、感じ取るものは 少ないだろうと思います。
責任が及ばないように当たり障りのない主語のない言葉を連発するもの
その反対側で深刻な危機に際しても、依然として言葉の揚げ足をとろうと思うもの
挙句の果てに、政治ごっこに引きずり込んで、
今何をすべきかを完全に見失ったこの国の政治の現状を目の当たりにして
誰に代わったところで、同じ穴のムジナと絶望感にさいなまれます。
はっきり言うことを、「煙たい」としてきた文化をしみじみ考えさせられます。
目に見えない放射能の恐怖は、最悪の事態を想定して対処すべきことなら
あらかじめさじ加減した情報など何の役に立たないどころか、むしろ恐怖に陥れます。
確かに絶対的な危機に出くわしながら、整然と対処したこの国のありようは
世界から驚嘆されましたが、ひょっとしたら本当の恐怖や現実を隠された情報であったが故に
ある意味危機感を薄められていた側面もあるんやなかろうかとさえ今は思ってしまう。
人の気持ちを思い、気遣いすることを決して否定はしないし、
それこそが育ってきた文化で大事なことやと考えるし、
何もかもオーストラリアがいいってことではない、ついこの間まで
「白豪主義」が存在し、先住民のアボリジニらは決して恵まれず、裕福な支配層のような
白人社会が一方で現存し、アジアのような有色人種の多くも冷遇されている現実はあるけど
それでも多くを感じ取ることはできる。
あっけらかんと、ありのまま伝えすぎる言葉だとしても、主語と述語のはっきりした言葉を望みたいし
人の顔色をうかがいながら、生きようを使い分けすることが、こういう時期だからこそ、賢明とは思えません。
誰かがどうしたこうしたということを気にしすぎず、誰かがどう思うかにとらわれずに
自分は自分という考えをベースに自分自身をはっきりさせて、自分自身の考えを表にする。
そうする人々を尊重し、それぞれの人格が尊重されることが望ましい。
震災という大きな危機にあって、とっくに昔とは違って家族制度を崩してしまっており
政治の崩壊で能力がないことがわかった今は、
それでも公に寄りかかるのはむなしい。今までのありようを続けていても変わりようがない。
それならばこの際、今までの殻をぶち割って、僕は生きていこうと考えます。
それがオーストラリアでの滞在を経て持ち得た僕自身の得たもののひとつだからです。