富田パソコンサークル (Tomita PC Circle)

京都の京丹波町富田の「公民館」をホームに活動するパソコンサークルのブログ。

失望

2008年06月23日 | フットボール
オランダがこともあろうに「ヒディング」に
ええようにあしらわれて、ベスト8止まりで姿を消した
クライフを見たときから、オレンジ色のフットボールが忘れられない
Euro2008 は明らかにオレンジ色に染まるかに見えたが
オランダ人が率いるロシアの戦略の前に、何もすることなく敗退した。

「失望」はこの試合に対して抱いたものではない。敗れたとはいえ
オランダが見せてくれたフットボールは、
ゲームとしておもしろく魅力的だった。

時を同じくして、岡田なるものの選んだ代表の3次予選の最終戦は
相も変わらず、ベンチから局面ごとにがなり立てるコーチらのノイズが
集音マイクに拾われて、耳障りな上に、首脳陣とかゆう連中に
ゲームとして「90分」という時間と流れと組み立てをみる目も
なければ、そういう視点すらないことを露呈していた。
それ故に、余計にこの連中と「代表」という名のメンバーとの
かい離が感じられて、チームが無責任で、想像力のないパスを
繰り返しているように見える。

首脳陣を自認する連中がまだ捨てきれずにいる
色あせたサッカー教則本にのっとったフォーメーションサッカーとやらは、
もう今のフットボール世代の欲求にこたえられるものではなく
今更させられている代表の動きは、やたら ぎこちなく
どの動きも全体としても戦略もなければ、チームとしても
能力を全く感じさせない。
これはそうさせられている選手の側に問題があるのではない
むしろ、イマジネーションもなく、ボール扱いすらできないで
いっかどそうに、昔の習い事をそうさせている方にある。
俊輔は代表の軸になる器にしてはならない。そしてそれほどの選手でもない。
ボールの扱いは秀でていても
彼のフィジカルはそう物語っているし、メンタル面において全体を構築できる
それほどのリーダシップはない。彼は周りにいる一人として有能である。
結局は世界の舞台では簡単に封じ込まれるだろう。
残念ながら岡田なるものの選んだ両サイドなど、とても世界の比ではなく
我が代表が、これほどまでに「バーレーン」という小国に対等に
対峙されては、アジアのトップクラスなどというのもおこがましい

少なくとも、最終予選の列強を相手に(しかもアジアというレベルでさえも)
勝ち進むには心許ない

何度も言うが、我々のフットボールは、最低でも
W杯の出場をなしえてこそ、ようやく「Jリーグ」の支えでもあり
リーグを「Jリーグ」にした意味もある
この国のフットボールの命運をたくすのに、岡田なるものの器量は小さすぎる
せめてフットボールのおもしろさを体感しているものが指揮を執らねばならない。
指導者などと呼ぶにはそれ相応の「カリスマ」がなければ
ドイツのW杯で蹂躙されたアジアンサッカーの再構築はない。

岡田なるものだからこそ代表を辞退する稲本や小野や中田などの
タレントがいる事実を見ても、一日も早く彼や彼らに退場を促し
もうこんな程度の「サッカー」を見せられるのは勘弁してほしい
ファンバスティンは幼かったという人がいるかも知れないが、彼自身は
フットボールの何かをわかっていて、何をすべきかはわかっていたのだが
我々の代表の監督には、そこのところを知る術を持っていないのだ。


南アへの道が一段とかすんで見えた
たかだか3次予選の最終戦に「失望」した。

オランダがオレンジ色に輝いてた

2008年06月14日 | フットボール
よくもこれほど、事件や災難が続く
あれほど身の毛もよだつ事件からわずか一週間
今度は地震、そこにめちゃめちゃ壊れた橋と山ごと壊れた
おびただしい地滑りが画面を覆っていた。
忘れる前に恐ろしい事柄を飲み込むように立て続けに繰り返してる
「負の連鎖」に見える
その一方で、まったく能のない政治がぬめーっとシタ表情で映っている。

無理ゆうて、フランスと対峙したオランダの試合のビデオとってもうた。

食い入るように見た90分は、あっという間に過ぎる
誰彼なしに、繰り出すパスと球を止める技術
何一つ止まらない試合の流れ、それは敗者のフランスとの
調和にもあるように思えるほど
球際、走り込み、ターンオーバー、イメージ、何より一つ一つの
判断力のスピードはチームとして躍動し見るものをひきつけていた。
速さというパワーは、イメージが共有されて存在する。
しかし、そのための個性が見事に自立していて、入れ替わり立ち替わり
形を変えたとしても速さに衰えがなかった。

かえって、この国の代表に思いがいって、悲観的になる。
「おかだ」なるものが、いっかど「機能」とか「チームコンセプト」
という言葉を言うには言うが、彼がいうもの、見ているものはとても
ファン・バスティンと同じものではない。

細かすぎて、局面にとらわれすぎてて、視点が低すぎる「分析」などあてにもならない
機能してるとか、局面がどうのこうのと所詮見聞きした「技術論」でしかない
ゲームとしてフットボールとしての90分を彩る
本質的な視野がかけらもないのだ。
今夜アウェイでの予選がある。

オレンジ色に輝いて見えたフットボール
比較にならない本物のコンテンツがフットボールとして存在していた。

オランダを見たあとで代表の試合を見るのも皮肉やけども

たとえアジアの予選をこえても、あの程度の
見識しかない「おかだ」をもっと早く退けて、今までの有りようを
脱却して
こうした本物のフットボールに少しでも近づけないと
この国にまた、フットボールの「氷河期」がやってくる

残念ながら、今までの延長線上に
これから先は、フットボールにも政治にもない。

悲しい  Wカップ予選

2008年03月28日 | フットボール
これは、親善試合でも、壮行試合でもない
「フットボール」において、W杯予選というものは、
まぎれもなく本番そのもので、何ものにもかえがたい目標である。


残念ながら、バーレーン戦で敗れた代表に
失望して、そこには深刻な危機を感じてしまう。
システムなどというモノに、ゲームの上で本当の意味などありもしない
しかし、そのことに意味を求めて、「機能する」とかしないとかだけを
見続けて、それぞれがばらばらのありようは、悲しかった。
「考えて走る」なんていうのは、どこへ行ったんだろう。
球を追いかけているだけに見える姿は、次につながる連動性もなく
一人一人が、創造性もなくただ、ボールに集散して消耗し、動く有様は
何度も聞かされた「システム」とやらに頭が硬直しているようだ

フットボールは、「布陣」や「システム」で点を取るスポーツではない
一人一人のアイデアやイマジネーションが反応して点に結びつく
そのために誰がどこにっていう話で、結果として布陣が存在する。
オカダは、それを真逆に考えているようだ。

それに監督という存在を、必要以上に「尊大」なものに感じてもいるようだ
選手にマッチしたアイデアを伝えるだけでいいのに
日本のマスコミが、「オカダ・ジャパン」などとありもしない呼び方を
本気で受け止めてるフシが感じられて、余計にいやになる。

遠藤を外してまで、
ただの「フレンドマッチ」で、周りにマッチしていないからこそ
こぼれ球にたまたま反応出来て、たまたま点を入れた山瀬を、
彼のなじみやからと先発させて、相手がどうアレ
それでも3人のバックに2人のボランチという短絡さ加減に、上半身裸で
腰をひいて身構えるボクサーのように見えた。
それに関わらずに「システムがどうのこうの」とだけ唱えるものに
選手が尊敬と信頼を持ってもいないし終始、当惑している証しに見えた。


我々は明らかに間違っている。我々が選んだという「オカダ」らは、
本に書いてある「システム」とか、いっかどの「戦術」や「定石」
が頭を支配してて、局面しか見えないでいる。
ドイツW杯での完膚無きまでの敗戦後に、「復活」を目指した道のりまで
この間の試合を見て崩してしまっていることに愕然とする


試合後の会見で
「一から選手を見直す」とした「オカダ」
これは、明らかに代表の選手の側にある問題ではない
彼のリーダーシップの欠落とアイデア不足、彼の資質というか
持っているものの程度の問題だと見える。
かれが、この国のフットボールの指針を具体化できる才能があるとは
とても思えないし、残念ながらあまりにも荷が重い。


変えなければならないのは、まず「オカダ」をはじめ
いわゆる首脳陣であり、その場しのぎの選択をした協会の幹部達である。
カズ以後とカズ以前のフットボーラーは、本質が違う
素質において、考えにおいても違いすぎている。
だからこそ、「日本リーグ」時代を過ごしたモノどもに
支配されているわけにはいかないのだ。

W杯予選は、フットボールの究極の目標であり
ここをクリアできないで、未来もない。
彼らはその期待をかなえる器でもない

「フットボール」の本質や楽しさや本当の意味の
スペクタルを全く知らない彼らに
この国のフットボールの未来は託せない。
後生大事に抱え込んでる「サッカー教則本」は、
今となっては、古事記のような古典である。
そんなもの読んでも、ドイツで蹴散らされた「サッカー」から
進化出来るはずもない。


そのことに立ち戻って、変えていかなければ・・・・
間に合わないとしても今すぐ「オカダ」と「オカダ」を
選んだものタチの退場が先決だと実感する。


認めたくないこと2007:「サッカー日本代表」の憂うつ

2007年12月29日 | フットボール
サッカーなんていう呼び方は、もともと
本当は世界的にはマイナーな「アメフト」をフットボールって
呼びたいために、わざわざロシア語から
アメリカ人が探し出してきた言葉やとも聞きます・・・

思い出せば、2006のワールドカップで、こてんぱんに
日本の「サッカー」がやられたのを契機に
意識も取り組みも「かわらなアカン」のんやったら、
これからは、意識して「サッカー」と呼んできたことを
世界では一般的な「フットボール」と
呼ぶ方がええだろうと思い直した。


Jリーグのコンセプトに、日本のプロ野球とは違って
チームの呼称は、ホームタウンの都市名をちゃんと入れて
意識して呼ぼうっていうのがあるわりに
例の「読売」も公共放送の「NHK」さえも「ガンバ」やの「レッズ」やのと
呼んではばからない。

「ガンバ大阪」やし「浦和レッズ」やのに・・・
地域に根ざしたクラブ作りが失われたスポーツ文化の
再生の一番基本にあるのに・・・・
わざと、「ジャイアンツ」と同じ呼び方を好んでいる。

このことは、大げさに言えば、企業色だけで地域性もクラブとしての
スポーツを楽しむという基本を見失ってきたプロ野球の
今に至る衰退に続く道である。


それよりも何よりも
2010南アWcupの予選を前に、倒れたオシムの後釜に
「オカダ」を選んだ「サッカー」協会の
本質が、大きな失望を与える。


この国のフットボールが、どうしてももう一段すすめないわけの
一つに「メキシコ五輪」の「栄光」???から目をそらせない
呪縛が、全体にはびこっているからだ。

彼らは、学生サッカーの延長で
学生スポーツなどという悪しき風習の元
大学出身者だけの代表を形成し、運だけには恵まれて
ビトマール・クレマーの教則本にはめ込まれて
思わぬ、「銅」メダルを栄光???を手にはした。

しかし、ラグビーにも言えるように「学生スポーツ」という
カレッジだけの偏ったありようは、前述の企業スポーツという
ありようの延長線上に存在していて
もっというと、「体育」という悪しき観念がどこかに見え隠れして
出来るもの、出来ないものの区別がはっきりあって
楽しむなんて発想がそこにはないままに
一部の人間のするスポーツとしてだけ存在してきた。
結局はマニアックな体育であるスポーツのままにとどまり
実際には底辺を広げることなく、子供や老人までの興味をそいで
結果、「サッカー」そのものは、「カズ」の登場までに
マイナーからメジャーに引き上げるのに、ものすごい時間を要している


そこから抜け出ることこそが、Jリーグの本当の意味での
目的であったはずなのだが、
実は協会そのものをいまだにこの「五輪」世代が
ほとんどの要職をしめており、「オカダ」なる人物もまた
その流れの延長線上にいるという憂うべき現状がある。

彼は、言い換えれば彼をよしとした全ての関係者らは、
フランスでほとんど何もすることはなく、するアイデアもなく
そればかりか、「システマチック」とは言いいながら、
まるで安っぽい12チャンネルのサッカー講座のようなゲームに
明けくれて、代表からわざわざカズを排除してまでも、
ただの守備一辺倒の創造性もなにもない
「サッカー」なるものを示して、その才能の底を見せている。
案の定世界には全く通用しなかった。


だからこそ、私たちの「フットボール」は
あえて、この国以外のフットボールを知る人物にゆだねる必要があり、
決して、彼のようなものを選んではならないと思う。
たとえ時間がかかろうとも、「ベンゲル」のもとを
たずねるべきだと考える。


安っぽいマスコミの「オカダ・ジャパン」と呼ぶ言い方も
ヘドが出そうになる
監督やコーチの色や支持というモノが要素のすべてかのような
錯覚や思いこみこそが、縦割り社会の投影のように
退屈な「サッカー」を繰り広げる。
個という具体的な「才能」「アイデア」それを見抜ける
あるいは、表現する術を身につけているなどととても思えない。
チームのコンセプトは、そこに集まったもの達によって
かもし出されるもので、未だに日本では
一番にチームコンセプトが来て、その次が何もない
チーム作りに終始している。
指導者自体の幅もなく、余裕そのものがない。



オシムのリタイアは、代表にとってだけ、いえば
結果として、すこしいい兆しに見えたが
旧態依然とした協会によって、思いっきり時計を巻き戻され
こともあろうに、「オカダ」を選んだ「最悪」に
立ち会ってしまった。


残念ながら認めたくもない選択であり
彼には、「フットボール」なんか全く見えてもいない
すぐにでも、変えなければ
また長い停滞が始まる気がする。