歴歩

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韓国慶北 大蓮里古墳群(仮) 新羅時代初期? 韓国国内最大の横穴式石室墳を発見

2008年12月18日 | Weblog
 12日慶北道文化財研究院は、今年1月から11月まで浦項市興海邑大蓮里(대련리)で発見された古墳30数基に対する発掘調査を実施した結果、国内で最も大きい規模の横穴式石室墳(횡혈식석실분)を発見したことを発表した。
 発掘された古墳の中で、1号石室は長さ5.87m、幅4.25m、高さ2.03m、面積が24.9㎡で、今までに韓国で確認された横穴式石室の中で最も大きい規模である。
 これまでで最も大きいものは、浦項市興海邑冷水里石室墳で玄室面積が22.1㎡という。
 1号石室では、典型的な新羅時代土器の高杯(고배)、短頸壺(단경호)と瓦などが出土し、ほかの10号と16号石室でも多数の金銅製遺物が出土するなど、発掘過程で300点余りの遺物が出土した。
 これとともに石室内部木材が多数確認され、木棺があったと推定される。
文化財研究院はこの古墳らは出土した遺物からみて、6世紀中葉から7世紀前葉まで数回にかけて使われた家族の墓である可能性が高いと説明した。
 この古墳群は、慶州地域に横穴式墓が導入される三国時代初期の慶州を含む東海岸地域の石室構造と系統を明らかにするのに重要な資料になると評価し、さらに慶州にも新羅初期の横穴式石室墓が殆どないのに今回、浦項で発見されたことは大きい意味があるとする。
 今回発掘した30余基のうち、規模が大きく、遺物が出土した1号と10号、16号の3古墳の石室は移転して復元される模様。
[参考:2008.12.12聯合ニュース]

コメント: 最大規模とは、玄室の面積の大きさで表現されている。
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中野市・柳沢遺跡 昨年出土の礫床木棺墓のひとつが県内最大規模と判明

2008年12月17日 | Weblog
 長野県埋蔵文化財センターは15日、柳沢遺跡で昨年出土した礫床木棺墓群の中央部分の墓が、県内で見つかっている中で最大規模だったことが調査で分かったと発表した。
 77個の管玉を確認。約40m南側から同時代とみられる弥生時代中期の青銅器の「銅鐸」「銅戈」が出土しており、埋葬されたのは集落のリーダー的な人物で、青銅器と係わりがあったと考えるほうが自然とみている。
 礫床木棺墓は底に小石を敷き詰め、遺体を板で四方に囲って盛り土をしたと考えられる埋葬法で、県内特有の形態という。
柳沢遺跡からは18基の墓と、さらに北側約40mの地点で2基の計20基の墓が見つかった。
 多くの墓が縦約1.5m、横約60cmであるのに対して、中央部分の墓は縦約2・5m、横約2・3m。遺体安置部分が縦約1・4m、横約70cmで、その周りをたくさんの大きめの石で囲んでいる。石は近くを流れる千曲川のものとみられる。
 同木棺墓は、同遺跡を含め長野市や松本市など10遺跡、計89基となるという。
 昨年12月1日同新聞で、中野市の柳沢遺跡「礫床木棺墓」出土として報じられていた。
[参考:信濃毎日新聞]
前出
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大和郡山市・額安寺 宝篋印塔の矢跡は中国・寧波がルーツ

2008年12月17日 | Weblog
額安寺の石塔「宝篋印塔」矢跡のルーツは中国・寧波
 今年9月25日のニュースで、額安寺(大和郡山市)の石塔「宝篋印塔」を解体修理中に「矢」の跡が見つかったことがわかった。
 その「矢」と呼ばれるくさび状の道具を使った石割り技術が、中国浙江省・寧波から国内に伝わった可能性の高いことが分かり、現地を調査した中日石造物研究会などが12日、発表した。
 「矢」は金属で作ったくさび状の道具で、石に開けた穴に差し込んで、たたき割る。国内では13世紀に畿内で広まるが、ルーツは不明だったが、中国の工人らが技術を急速に伸展させたとみられる。
 額安寺の石塔(高さ約2.83m、花崗岩製)は、1260年に石工の大蔵安清が製作。修理のため市教委が解体したところ、台座に6個の矢穴が残っていた。底が丸くなった半円形で、1個の幅は約10cm。銘文がある宝篋印塔としては国内2番目の古さだが、京都府の阿弥陀笠石仏(1262年)を遡り、国内最古の矢穴痕跡と確認された。
 調査したのは、考古学者らでつくる「中日石造物研究会」(代表=藤澤典彦・大阪大谷大教授)と、学際研究グループ「寧波プロジェクト」(代表=小島毅・東大准教授)の2グループ。
 寧波は、鎌倉時代に南宋時代(1127~1279)の貿易港であった。11月に、当時の石造物を調査。市内の石造物庭園に残る武人像(高さ約3m)の底部に矢穴跡4カ所を確認した。芦屋市教委の森岡秀人・文化財担当主査の鑑定で、矢穴の形状がいずれも半円状で幅は約8~10cm、額安寺の石塔、宝篋印塔の矢穴跡6カ所と形状や大きさが同じだったと分かった。
 額安寺の塔は、武士石像よりも25年以上新しく、鎌倉時代の東大寺復興時に重源上人が招いたという宋の石工が技術をもたらし、継承された可能性が高いという。
 同グループは、東大寺(奈良市)の石造獅子(重要文化財、同)の牡丹文と、寧波・天童寺の石造物の文様との類似性も新たに確認。泉涌寺(京都市)の開山無縫塔(重文、同)と酷似した塔も寧波・阿育王寺で確認したとしており、中世石造物の技術のルーツが寧波一帯にあったことを裏付ける成果という。
[参考:2008.9.12奈良新聞、産経新聞、朝日新聞、共同通信]

参考:
東大寺南大門 石造獅子 中国の石材「梅園石」か
矢穴

[2008.9.25掲載分]
大和郡山市・額安寺 宝篋印塔を解体修理し重文申請へ
 聖徳太子が建立した「熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)」が前身とされる古刹・額安寺(かくあんじ、大和郡山市額田部寺町)で24日、鎌倉時代の石塔「宝篋印塔」(市指定文化財)の解体修理作業が始まった。
 倒壊の恐れがあるためで、京都市内の工房で修理され、来年3月には造られた当初のような姿を見ることができる。同寺では修理後、文化庁に重文の申請をするという。
 宝篋印塔は中世以降に供養塔などとして造られた石造物。「相輪」「笠」「塔身」などいくつかの部分から成る。額安寺のものは本堂南方にある明星池の中島にあり、高さ2.84m。花崗岩でできており、塔身には表面から2段彫り込んだ上で月輪(がちりん)が刻まれ、その中に古代インドのサンスクリット文字・梵字などで四つの仏が彫られている。基礎部分にある銘文によると、文応元(1260)年に石工・大蔵安清が制作。銘文のある宝篋印塔としては輿山往生院(生駒市)の1259年に次いで全国で2番目に古いという。
 寺では1973年、池に落ちていた塔の一部を引き上げて島に置いたが、島の浸食などの影響で塔が傾いていることが04年に判明。再び倒壊しないよう、解体修理をして本堂近くに移動させることになった。
 解体作業では、クレーンを使って塔を五つの部分に分解。慎重に梱包してトラックに載せ、修理される京都市内の工房に運んだ。そのうち、塔身からは経典を納めたとみられる穴(直径14cm、深さ24cm)が見つかった。また、石材を割るために打ち込む「矢」の跡も見つかった。矢の使用例としては最古という。
 修理を担当する京都市左京区の石工、西村金造さん(70)は「当時の最高の技術を使って造られており、修理に携われることはありがたい。断面がV字形の薬研彫りなので、丸彫りと違い、700年たっても文字が残っている。仏様をお守りするため、手間暇をかけた苦労がうかがわれ、1000年先に残る修復をしたい」と話した。同寺の喜多寿佳(すが)住職(97)は「以前からの念願がかなって、本当にうれしい」と喜んでいた。
[参考:読売新聞、毎日新聞]

銘文
「文応元年十月十五日 願主永弘・大工大蔵安清」
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京都・鹿背山瓦窯跡 平城宮の瓦の官製一貫生産工房か 現地説明会12/21実施

2008年12月17日 | Weblog
2008.12.21現地説明会開催
 奈良時代中期の粘土採掘場や窯、運搬用通路の跡などが見つかった木津川市鹿背山の「鹿背山瓦窯跡」で21日、現地説明会が開かれ、参加した約300人の考古学ファンらは、平城宮に瓦を供給した古の光景に思いをはせた。
[参考:読売新聞]

[2008.12.27掲載分]
京都・鹿背山瓦窯跡 平城宮の瓦の官製一貫生産工房か 瓦製造工程くっきり  
 府埋蔵文化調査研究センターが16日鹿背山瓦窯(かせやまがよう)跡(木津川市鹿背山)で、奈良時代中期の粘土採掘場や作業用通路、瓦窯などの跡が見つかったと発表した。
 同時に出土した瓦の文様が平城宮の建物(式部省)の瓦と一致し、瓦生産の官制の一貫生産工房だったとみられる。
 瓦生産の行程全体が分かる奈良時代の遺跡の確認は全国初で、聖武天皇が恭仁宮や難波宮などへ遷都を繰り返し、平城宮へ再遷都した時代にフル稼働した可能性もあるという。
 出土したのは、
▽粘土の採掘坑(長さ10・8m、幅2・4m)
▽並行する2本の石敷き通路
 長さは48mと34m。幅4m、深さ1mのU字形に掘りくぼめられ、底に砂利を丁寧に敷き詰めていた。砂利には運搬用の一輪車(注1)が何度も通ってできたとみられる幅30cmほどの轍(わだち)が残っていた。傾斜の違いがあることから「上り専用」「下り専用」に分かれていたとみている。通路を往復すれば、粘土採掘から製品搬出まで、一連の工程がたどれるという。採掘坑からは粘土を運ぶ「もっこ」も出土した。
 注1:一輪車は吉田南遺跡(神戸市)でも出土している。
▽2基の窯跡。瓦窯跡は、平城京の北に広がる丘陵の北東部に位置。多数出土した瓦の文様から730-745年ごろに操業していたらしい。
 1基は登り窯から2度改修されており、奈良後期以降主流になった平窯に作り替えられていた。
▽瓦を成形、乾燥するための工房とみられる掘立柱建物跡(長さ21・8m、幅4・5m)。通路は、西に位置する採掘坑から東方向に延び、その先に窯跡や建物跡が配置されていた。
▽「軒丸瓦」や「軒平瓦」も出土。少なくとも11点は平城宮の建物の屋根にふかれた瓦と文様が一致した。
 現地説明会は21日午前11時から。JR木津駅から東へ徒歩約20分。問合せは現場事務所。
[参考:産経新聞、京都新聞、共同通信、中日新聞、静岡新聞]
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統一新羅初の双塔一金堂式・四天王寺址(慶州) 発掘調査で新たな出土

2008年12月16日 | Weblog
 12月10日の聯合ニュースで、史跡第8号慶州・四天王寺が、統一新羅時代の寺院で最も早い年代のものであることが確認されと報じられた。
 慶北慶州排盤洞四天王寺は、統一新羅初期の文武王19年(679)に創建された寺である。「三国遺事」は「文武王時期に唐と戦争をした新羅が明法師の建議で狼山南側神遊林に道場を建てて文豆婁秘法を行って、唐軍隊を大きく退けた」という記録がある。
 四天王寺が護国寺院としてだけでなく密教寺院の役割も果たしていたとみられる。
 四天王寺址は木塔2基が配置された双塔式伽藍配置(双塔一金堂式)である。先に明らかになっっている神文王2年(682)に創建された感恩寺の伽藍形態と似ている。(ただし、感恩寺の塔は三層石塔である)
 文化財庁国立慶州文化財研究所が2006年から継続してきた発掘調査で、東塔跡、東南回廊跡、中門跡、推定壇席跡(注1)等が現れた。
  注1:仏教儀礼を行う場所。これまでは、鐘楼および経楼と考えれれていた。
 講堂の右側では、感恩寺址のような長方形建物跡が確認された。
 
伽藍配置でわかったこと。
 南回廊(22間)の中央に中門(3間×2間)がある。この中門と金堂(5間×3間)、講堂(現在未発掘状態だし鉄道によって一部流失した可能性がある)が南北に1直線に並ぶ。金堂の両側に木塔が建てられていて、金堂と東西回廊(31間)を翼廊(9間)が連結している。講堂の右側で感恩寺跡のような長方形建物跡が確認された。
 寺刹の中心建物の金堂と木塔の基壇は川石と土砂を交互に重ねて固めて積んだ特異な構造で築造されている。土砂だけ何回も反復して基壇を築造する百済の版築技法とは根本的に違う。
 それらをまとめると、添付のような伽藍配置になる。
 その他にも繊細で躍動感あふれる人物が表現された綠釉塼3種が、西木塔跡(2006年調査)に続き東木塔址でも確認された。この綠釉塼は木塔の基壇部を飾った面石に使われており、配置順でも基壇の階段を中心に人物の顔方向に合わせて、各面に6ヶずつ(3像×2種)全24ヶ(4面×6ヶ)が配置されて、木塔の四方を守る姿であるのが明らかになった。
 そのほかに、調査区域では、国内で初めて現れた草花文が彫られた模様前石も出土した。
[参考:2008.12.10聯合ニュース]
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松本市 会田氏居館跡 発掘調査で遺構出土

2008年12月14日 | Weblog
 松本駅から北に約15kmほどのところから、鎌倉時代中頃から戦国時代にかけて支配した会田氏の居館跡とみられる遺構が出土したとのニュースが報じられた。
 会田氏は海野一族で当地を支配して会田氏を名乗ったらしい。標高1136mの虚空蔵山(こくぞうさん)の中腹に本城を配し、山頂には物見の砦などを設け、要害城とし、居館を含めた全体を会田城と称すとも。
今回、出土した遺構は、十四世紀後半から十五世紀末とみられる石積み、礎石、柱穴、堀状の溝など。ほかにも、宋銭や明銭などの渡来銭約二十五点、青磁の碗や天目茶碗の破片も出土したほか、「かわらけ」と呼ばれる酒器の破片、木製のはしなども見つかったという。
 出土した天目茶碗も同じ時期なのか興味深い。
 13日は現地説明会を行い、市民ら約120が参集し現場見学会が行われた。市教委は来年2月に報告会を開くらしい。
[参考:中日新聞] 
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河内長野市・烏帽子形城跡 空堀から「堀内障壁」が見つかる

2008年12月13日 | Weblog
 市教育委員会は12日、16世紀後半の烏帽子形城(えぼしがたじょう)跡(同市喜多町)で、空堀の中から敵の移動を妨げる「堀内障壁」が見つかったと発表した。関西では、豊臣(羽柴)秀吉が築いた大坂城の例しかなく、その時期よりも早く貴重な資料。
 空堀は二重になっており、深さ約4mの内堀の1カ所に障壁が残っていた。高さは約1.2m、厚さは最大約5mとみられる。空堀は通路としても使われたため障壁を設けたらしい。
 市は2005年度から城跡を調査。今回は堀の1区画(横3m、縦5m)を2m掘り下げたところ、2か所で、堀と直交するように固い岩盤で造られた堀内障壁の一部(高さ約1・2m)が確認された。
 文献によると、1584(天正12)年に秀吉の命令で、根来寺(和歌山県)を攻略するための前線基地として、廃城となっていた烏帽子形城を岸和田城主が改修したとあり、堀の形状などから、その時に築造された可能性がある。
 堀内障壁は、関東で勢力を持った後北条氏の城に特徴的な施設で、関東、東海地域の約30の城で確認されている。
 現地説明会は14日午後1~3時。問合せは、河内長野市教委へ。
[参考:共同通信、読売新聞]

備考:
小田城跡
水戸城跡
小田原城跡
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栃木県壬生町・大光寺町 吾妻古墳 全長128mを確認 現地説明会12/13

2008年12月13日 | Weblog
 本日行われた、吾妻古墳現地説明会のニュースが下野新聞で18枚の写真とともに報道されていました。約200名が参集した模様です。 

[12月11日掲載分]
 県埋蔵文化財センターより、現地説明会のお知らせの案内が発表されました。
 前回と今回の計測結果より全長が127.8mとなり、それまで最大であった小山市琵琶塚古墳(全長123.1m)を抜いて、栃木県最大の古墳と確認されたそうです。また、横穴式石室が約100年ぶりに見られるとのことです。
 日 時:  平成20年12月13日(土) 10:30~11:30 (小雨決行)
 場 所:  吾妻古墳の南西川 (トヨタホーム工場の東側)
 問合せ: (財)とちぎ生涯学習文化財団埋蔵文化財センター
 内 容:
① 後円部の北側で墳丘の端が確認され、昨年確認された前方部の端を考慮すると全長が127.8mとなり、それまで最大であった小山市琵琶塚古墳(全長123.1m)を抜いて、栃木県最大の古墳と確認された。
② 周堀の深さは最大で2.8mであり、かなりの掘削をして造られていたことがわかった。また、外側を調査した結果、二重目の堀や周掘を巡る土手などは存在しないことを確認。
③ 2段目の墳丘頂上や斜面、裾から埴輪片(殆んどが土管のような円筒埴輪)が多数出土し、表面にハケが見られる特徴などから6世紀後半に築造されたと考えられる。
④ 前方部で横穴式石室が確認された。奥行き2.4m、幅1.7mの広さで玄室と考えられ、両側の壁と奥壁は、それぞれ1枚石を使用し、内面が赤く塗られている。
 など
[参考栃木県埋蔵文化財センター]

備考:
 今年1月に発表された報道記事では、全長134m、2段造成。さらに、出土する埴輪の大半が大型の円筒埴輪で、ハケメが細かいのが特徴などから、古墳の南約3kmにある「飯塚埴輪窯跡」(小山市)の生産品に似ており、古墳は6世紀後半に造られたことが裏付けられたとしていた。また、堀を含めた長さは165mで、琵琶塚古墳(200m)、小山市の摩利支天塚古墳(197m)に次ぐ第三位の大きさに対しては変更がない模様。
[参考:2008.1.17東京新聞、毎日新聞]

[壬生領史略(嘉永3年(1850)編纂)]
 「(吾妻古墳の石室は)南一方に口あり。厚石を以、上と左右を五六尺に囲、夫より奥に入には、幅三尺五六寸、竪四尺四寸計に穴を穿あり、此の穴を潜りて奥に入ば、九尺四方計、高さ八九尺。皆厚石を以て囲たり。」
 これより、羨道:高さ、奥行き約1.8m、玄室:2.7m四方が推定されていた。

[現地の説明版より]
 国指定史跡 吾妻古墳(あずまこふん)
 昭和45年7月22日指定 壬生町大字藤井字吾妻  栃木市大光寺町
 吾妻古墳は、黒川東岸の台地上に築かれた前方後円墳です。墳丘は二段につくられ、墳丘第一段の平坦面(基壇・・きだん)が幅広くつくられているのが特徴です。墳丘の全長は第一段が117m、第二段が86mあり、堀(周湟・・しゅうこう)の底からの高さは約10mあります。墳丘の周囲には、保存の良い状態で堀が廻っています。東側では、堀の内側に突き出した張り出し部がみられ、堀を渡るための橋がかけられていたと考えられます。堀を含めた古墳の総全長は約170mに達し、壬生町では最も大きな古墳となります。
 吾妻古墳の石室については、昔の記録から凝灰岩の切り石を使用した横穴式石室が前方部前端につくられていたことがわかっています。石室の玄門(げんもん)は、現在壬生城址公園内に保存されています。墳丘からは埴輪が出土しており、これらの資料から吾妻古墳は古墳時代後期(今から約1400年前)につくられた古墳と考えられます。
 平成3年3月 壬生町教育委員会
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宗像市 田熊石畑遺跡 青銅武器計15本出土 現地説明会 12/14

2008年12月13日 | Weblog
 本日の新聞ニュースでも、明日開催の現地見学会の記事がありました。
 市の中心部に位置する遺跡の面積は3万㎡を超え、周辺には弥生時代前期初頭の環濠集落跡などがある。
 7月上旬までに出土した青銅武器は15点を数えたが、内訳は、木棺墓9基のうち6基から中細形・細形銅剣9本▽銅戈3本▽銅矛3本。
 見学会の内容は遺跡内の見学と、出土遺物の展示。
 青銅器や石包丁などの実物を初公開するほか、実物大の木棺模型などを展示する。
 墓域のほか、同遺跡内で新たに見つかった環濠、貯蔵穴、高床式倉庫群の掘立柱建物の遺構見学もある。
 市教委文化財担当者が説明に当たり、遺跡内には簡易の展望施設も設置する。
 日 時:12月14日(日曜日)午前10時から午後4時(少雨決行)
 会 場:宗像区検察庁横
[参考:西日本新聞、毎日新聞]

[12/1掲載分]
宗像市 田熊石畑遺跡 青銅武器計15本出土
 宗像市より12月1日付けで、田熊石畑遺跡現地説明会のお知らせがありました。
 内容は、遺跡内の見学と、出土遺物の展示とだけしか書かれていませんが、台地の北東部から弥生時代前期の環濠の出現したほか、出土品もいろいろある模様です。
 ちなみに、7月上旬までに出土した青銅武器は15点を数えていました。
 日 時:12月14日(日曜日)午前10時から午後4時(少雨決行)
 会 場:宗像区検察庁横

[2008.7.2掲載分]
宗像市 田熊石畑遺跡 青銅武器8本が出土し 合計13本に  
 田熊石畑(たぐまいしはた)遺跡で弥生時代中期前半(紀元前2世紀)の墓から銅剣などの青銅武器8本が新たに出土し、つい先日6月21日に青銅器が5本が見つかったことが発表されてから合計13本となった。
 約200㎡の範囲で、規則的に配列された9基の木棺墓が確認され、うち5基から、新たに細形、中細形の銅剣4本、銅戈2本、銅矛2本が見つかった。装身具も勾玉、管玉、垂飾が出土した。
銅戈の1本は全長13センチで、同時期の出土品としては最小。
 この時期の青銅武器の出土数として、これまで吉武高木遺跡、吉武大石遺跡(福岡市西区)の各11本が最多で、宇木汲田(うきくんでん)遺跡(佐賀県唐津市)の9本、吉野ヶ里遺跡の8本が続く。田熊石畑遺跡はこれを上回る。
同時代の吉武高木遺跡(福岡市西区)や、吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼市、吉野ヶ里町)の出土数をしのぐもので、宗像地域に福岡平野や佐賀平野と並ぶ有力な地域集団がいたことを表すものと専門家は注目する。
[参考:読売新聞、西日本新聞]
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成田市・船形手黒遺跡 現地説明会 11/15

2008年12月12日 | Weblog
 印旛郡市文化財センターは、11月15日に現地説明会を行った。その結果を含めて11月11日の掲載分を、修正および補足した。
 8月より船形手黒遺跡(成田市台方)の発掘調査を実施しており、遺跡内の古墳(円墳・木棺直葬・5世紀後半)から、石枕(1個)、立花(滑石製4個)、直刀(3本)、銅鏡(直径7cm、1個)、鉄製斧などが出土した。
 同遺跡は、印旛国造・伊都許利命(いつこりのみこと)の墓とされる公津原39号墳(方墳・横穴式石室、7世紀)の約100m南に位置する。
 公津原39号墳を軸として、南面には扇状に細長い台地がいくつか並んでおり、船形手黒遺跡の200mほど東に台方下平(だいかたげべ)Ⅰ遺跡が、さらに300m東に台方下平Ⅱ遺跡が連なる。両遺跡は、ともに標高35mの台地上に位置し縄文時代から奈良・平安時代にかけての住居跡が見られる。中心となる遺構の始まりの時期は、Ⅰ遺跡は古墳時代中期後半から、Ⅱ遺跡は古墳時代後期からで、ともに奈良・平安時代まで継続してみられる。船形手黒遺跡は標高約34mの台地上に位置する。台方下平遺跡と比較するとどのような違いがあるのであろうか。少なくとも古墳があるなしの違いがある。
 出土した石枕は、立花との伴出であるので、いわゆる常総型と呼ばれるものである。石枕の出土例は約120例といわれ、そのうち常総地域からの出土例は68例である。(2003年時点) しかしながら、約120基の古墳があるといる公津原(こうづがはら)古墳群からの出土例は、今までに大塚古墳の1例のみであったのか。今回で2例目が出土したわけである。
 大塚古墳: 円墳 直径27m 木棺直葬 副葬品 石枕、鉄鏃、円筒埴輪ほか、築造時期は、船形手黒1号墳(仮)よりやや古いとみられる。石枕自身も、頸部の受け部がくびれており、船形手黒1号墳の開く形と比較しても古そうである。こには、あるべきはずの立花が書かれていないので、出土しているかどうかは不明である。石枕の材質は、殆んどが群馬県産の滑石であるが、これもわからない。
 現地説明会開催案内および現地説明会資料には、出土した石枕の写真があるので、その様子が窺える。馬蹄形で縦29.2cm、横34.9cm、高さ8cmの大きさである。2段の高縁があり、第2平坦面に立花を挿す孔が10個、副孔が1個ある。時代とともに、段数と立花を挿す孔が増えるという。
 一般的には、石枕の副葬時期は4世紀の後半から6世紀代で、畿内ほかで石棺が多用された始めた時代に、入手することが難しかった常総地域は石棺の代わりに、木棺直葬と単独の石枕の形態を取り入れる。もともと石枕は石棺に彫刻されたのが由来らしい。形としては、馬蹄形もしくは箕のような形である。群馬県で出土された、立花がなく1段高縁の石枕が初源ともいわれる。
 立花は、遺体を安置している時には石枕の孔に立てて、埋葬する時には外したようである。 

船手黒1号墳(仮称)
 円墳、径25m、高さ2.2m、古墳の周りには最大で幅5m、深さ80cmの周溝が巡る。
 墳頂部からは、木棺直葬主体部が検出された。埋葬された人物が複数存在した可能性がある。
 出土した遺物から、古墳時代中期後半(5世紀後半)築造とみられる。
 
遺跡現地説明会
 日 時: 平成20年11月15日(土) 午後1時から3時
 場 所: 成田市台方字鶴巻・現地
 内 容: 古墳の見学および出土遺物の展示・説明
 問合せ: 早稲財団法人 印旛郡市文化財センター Tel.043-484-0133

[参考:成田市印旛郡市文化財センター、現地説明会資料]
[参考文献:関東における古墳形成の特性/白井久美子(考古学研究54-3,2007Winter)]

備考
 石枕についての詳細な解説が、インターネットでも公開されていた。
 東京工業大学亀井宏行研究室がおこなっているサービス「ARCADIA」である。  「石枕」については白井久美子さんが、まとめられたのであろう。是非参考にしていただきたい。(感謝 !!)
 それによると、石枕の外形の形状、頸受け部の形、平坦面の数の3つを記号で区別して表わすことができる。
 公津原古墳群からの出土2例を記号で表わすと下記のようになる。
  船手黒1号墳(仮)Cb3、 大塚古墳(瓢塚32号墳)Ed3
[参考:ARCADIA「(9)石枕」]


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羽咋市・寺家遺跡 気多大社の前身証拠 9世紀地層から墨書土器などが出土

2008年12月12日 | Weblog
 羽咋市教委が11日、寺家(じけ)遺跡(同市寺家町)の平安時代(9世紀)の地層から、掘っ立て柱建物の柱穴や墨で文字のようなものが書かれた土器などが見つかったことを明らかにした。
 今年見つかった柱穴は直径80cmで、計3カ所あった。建物は平安前期に建てられたと推測され、祭祀関係者の住居だった可能性があるという。土器の底には漢字の「三」のような3本の線が書かれていた。また祭具を焼く際の道具や、焼いた跡とみられる焼土が確認された。
 市教委はこれまでの調査で、遺跡が20万㎡の広大な敷地に広がっていたとみており、北東800mの気多大社の前身だった可能性が強く、今回の調査結果が裏付けになるとみている。
 寺家遺跡の調査は、能登有料道路の造成工事に伴い、78年から始めた。これまで宮司の社務所とみられる大型建物群や、銅鏡などの祭具が大量に見つかっている。今後は国史跡の指定を目指して、調査を続けるという。
 14日午前10時半から現地説明会が行われる。問合せは同市教委文化財室。
[参考:毎日新聞]

[主な発掘経緯]
 奈良時代に大規模な火祭りが行われていたことを示す焼土や、平安時代(9世紀)の地層から石を長方形(縦5m、横6m以上)に並べ、内側の地表を火で清め、武具や土器などを供えた祭りの遺構が発見された。[参考:2003.12.10読売新聞]

 平安時代の地層から、大型建物の柱穴直径1・1m1基が発見された。以前の調査で明らかになった大型建物群の一部の可能性が高いとみている。また、柱穴付近から大型建物を表す「館」と書かれた墨書土器が発見された。
 また、奈良時代の地層から、神社へ奉納するものなどを作っていた「神戸」と呼ばれる人の住居の柱穴6基以上も発見された。
 1978年には、役人の館や台所とみられる建物を含む、平安時代の大型建物群が発掘されている。[参考:2002.8.30読売新聞]

参考:
万葉集巻174025 
守大伴宿彌家持の春の出挙に諸郡を巡行し、時に当たりて属れる所の歌 (天平二十年(748))
気太の神宮に赴き参り、海辺を行きし時に作れる歌一首
 之乎路から直越え来れば羽咋の海朝凪ぎしたり船楫もがも
[意] 之乎路をまっすぐに越えてくると、羽咋の海は朝凪している。船と梶があったらなあ。
[参考:万葉集・中西進(講談社文庫)]
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枚方市・禁野車塚古墳 箸墓古墳と相似墳 築造時期3世紀末~4世紀初め

2008年12月12日 | Weblog
 枚方市文化財研究調査会などが11日、大阪府枚方市宮之阪の国史跡の前方後円墳、禁野車塚(きんやくるまづか)古墳(3世紀末~4世紀初め、全長約120m)が、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説がある奈良県桜井市の箸墓古墳(3世紀中ごろ~後半、同約280m)と同じ規格で造られた相似墳であることがわかったと発表した。全長はこれまでより約10m長い約120m、築造年代も出土した埴輪から4世紀代とされてきたが3世紀末~4世紀初めと遡った。同じような形状の古墳が府内で確認されるのは初めてで、府内最古級の古墳となる。
 同調査会が関西、京都橘、京都府立の3大学と調査団をつくり8月に測量調査した。▽前方部が、三味線のばち形をしている▽後円部からくびれ部にかけてスロープがある▽幅が最も狭い部分が前方部にある――などの特徴が箸墓古墳と共通し、縮尺を調整して測量図を重ねると等高線がほぼ一致したことから、相似墳と判断したという。
 箸墓古墳の相似墳は、3世紀中ごろから4世紀前半までに造られたとみられる約20基が西日本で確認されている。奈良県内には西殿塚古墳(全長約230m)など3基がある。他府県では、京都府木津川市の椿井大塚山古墳(同約175m)などがある。
 禁野車塚は、▽丘陵を利用せずに平地に盛り土で造られた▽大阪府柏原市の芝山産の石材が共に使われた点が、箸墓古墳と共通している。この2点の共通要素を含む相似墳は、他には神戸市の西求女塚(にしもとめづか)古墳(同約100m)しか確認されておらず、禁野車塚の埋葬者は箸墓の密接な同盟者だったとみられる。
 箸墓古墳を造ったのと同じ技術者集団が、淀川上流域を支配し大和王権と従属関係にあった人物を埋葬するために造ったと推定している。
 禁野車塚は、淀川支流の天野川東岸に面して造られている。1972年に国史跡に指定されたが、墳丘の発掘調査が実施されておらず、被葬者は分かっていない。
[参考:読売新聞、朝日新聞]

禁野車塚古墳
 全長110mの前方後円墳で、牧野車塚古墳とともに枚方市内では屈指の大型古墳です。
 後円部の直径は57m、同高さは9.9m、前方部の幅40mを測り、前方部を西に向けています。
 前方部はかなり削られていますが、後円部は2段に築成された様子が観察でき、葺石と埴輪の存在も認められます。
 内部構造や副葬品については明らかではありませんが、後円部上に板石が存在することから、主体部は竪穴式石室である可能性があります。
 したがってこの古墳が築造された時期は、予想される主体部と墳丘の状態から4世紀末~5世紀初頭頃と推定できます。
 この地が淀川と天野川の合流地点を臨むという良好な立地条件から、この地域の交通権を掌握した首長の墓と考えられます。
 2002年2月 文化庁 大阪府教育委員会 枚方市教育委員会               (現地案内板より)

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柏原市・河内国分寺 金堂遺構発見

2008年12月11日 | Weblog
 大阪府柏原市教育委員会は11日、8世紀中ごろの建造とされる河内国分寺の金堂の遺構を発見したと発表した。
 建物跡が見つかったのは、塔跡から谷を挟んで100mほど西の隣の尾根上。基壇周囲を巡る延べ石列を東西28m以上、南北8m以上にわたって確認した。階段は幅16.7mで、今秋見つかった新薬師寺金堂(奈良市)に似た幅広い階段だったとみられる。基壇は大半が失われ、柱の配列などは不明。
 寺を建築する以前に回廊状の建物があり、周囲に玉砂利が敷き詰められていたことも判明。
 寺院が山腹に建てられた事実は知られているが、中心建造物の金堂跡が確認されたことで、同教委は特殊な立地であることが改めて明確になり、河内国分寺の全容を知る手掛かりになるとしている。造営地は平たんな地形が多いが、河内国分寺は塔と金堂が異なる尾根の上に建立され、起伏に富んだ地形を巧みに利用している。
 当時、天皇・皇后が外出する際に利用した宿舎の眼前に位置しているのは、全国の国分寺に例がない
[参考:時事通信、日経新聞]
河内国分寺の金堂遺構発見=特殊立地、全容解明手掛かりに-大阪(時事通信) - goo ニュース
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奈良市・開花天皇陵(念仏寺古墳) 江戸期の墓地跡と5世紀の埴輪片が出土

2008年12月11日 | Weblog
 宮内庁が発掘している奈良市の開化天皇陵(念仏寺山古墳)を考古学研究者らが見学し、現場から江戸時代の骨壺の破片などが出土していることから、陵墓近くまで墓地だったことが11日に分かった。
 1975年の鳥居の建て替え工事でも、江戸時代の骨壺や棺が出土。今回も同じ場所を発掘し、同時期の骨つぼの破片や寛永通宝が見つかった。
 古墳前方部の近くにある鳥居の建て替えに伴う発掘で、宮内庁が研究者側の要望に応じ見学を許可。調査区に同日午後、約30分間にわたり研究者らが立ち入った。
 5世紀ごろの蓋(きぬがさ)形埴輪の破片も1点出土したが、公開されなかったという。
[参考:共同通信]
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 5世紀といえば倭の五王の時代に当たる。「讃」に比定される履中天皇は17代天皇である。開花天皇は9代目の天皇であるが、実在したかは疑問が持たれている。
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大津市・中路遺跡 近江国府跡、勢多(瀬田)唐橋につながる東西一直線の道路跡を確認

2008年12月11日 | Weblog
 近江国府跡(大津市)から勢多唐橋(瀬田唐橋=せたのからはし)につながる東西一直線の道路跡が、奈良時代から平安時代にかけての近江国庁跡近くの中路(ちゅうろ)遺跡(大津市神領2丁目)で見つかったと大津市教委が11日、発表した。
 近畿から東北へ通じていた古代の官道・東山道の一部とみられる。路面幅は12~13mで、官庁街のメーンストリートと推定される。
 確認された道路跡は長さ約5m分だが、約800m西にある唐橋を向いている。2001年に国庁跡の南側で見つかった幅24mの南北道路と接続していたと推定される。
 路面の両脇に、深さ約1・8m、幅約2mの排水用の側溝がつく。南側の側溝は幅2m、深さ1.8m、北側は幅1m、深さ1mだった。
 周囲より約5m高い場所にあり、西側に坂道か階段があったと推測される。
 これにより、東西に並ぶ石山国分遺跡(推定保良宮跡)~勢多唐橋遺跡~堂ノ上遺跡(推定「勢多駅家」跡)~役所跡と見られる中路遺跡~倉庫跡がある惣山遺跡、を結ぶ大通りの存在が確実になったとする。
 また南東300mにある青江遺跡では、国司の館跡と、国庁を南北に結ぶ道路跡(長さ2m、幅20m)も発見。この道路は、近江国国司館(推定)と近江国庁を結ぶ約270mの官道の一部と考えられる。側溝を含めた道路幅は20mあまりに達し、西側には築地塀の跡(長さ9m、幅1.4m)もあった。
[参考:産経新聞、京都新聞、読売新聞、毎日新聞、中日新聞]


キーワド:近江国府跡・国庁跡
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