太宰府市教委が12日、古代の大宰府政庁から北西1・2kmに位置する同市国分の国分松本遺跡(こくぶまつもといせき)で、戸籍に関連する飛鳥時代後期(7世紀末)の木簡が見つかったと発表した。 ほかにも飛鳥時代から奈良時代にかけての木簡9点が出土した。
戸籍に関する木簡は、正倉院に伝わる現存最古の戸籍(702年)より古く、中央集権国家が完成したとされる大宝律令の制定(701年)より早い段階で、中央集権国家の要となる戸籍関連の制度が確立されていたことを示す第一級の資料として注目される。
今年3~6月の調査で河川跡で川底だった地層から出土した木簡10点のうち1点には、「竺志前国嶋評」の表題と24枚の木簡を束ねていたことが記されている。 「竺志」は「筑紫」であり、「竺志前国」は筑紫国が筑前・筑後に分かれた後の「筑前国」のことである。(注1)
当時「竺志前国嶋評」と呼ばれた地域は、福岡県糸島市周辺の旧志摩町付近の地名で、現在の福岡県糸島市や福岡市西区に当たる。
また、別の状態の良い戸籍に関する木簡(長さ31cm、幅8・2cm、厚さ8mm)の両面に、「川部里」という地名やそこに居住していたとみられる16人分の人の名前や戸主の表記や身分、続柄などが記載されていた。 転入など増加を示す「有」「附」、転出など減少を示す「去」、世帯を2つに分けたことを示す「二戸別」、別れる前の戸主「本戸主(もとのこしゅ)」といった異動状況も詳細に記されていた。 木簡表側、最初の文字の右上に記された曲線(¬)は、内容をチェックしたことを示す印だという。
「戸主は、建部身麻呂(たけるべのみまろ)」、次に21~60歳の健康な男子を指す「政(正)丁」、その中から徴発される「兵士」の表記や、妹の「夜乎女(やおめ)」、「白髪部伊止布(しらかべのいとふ)」など同じ集落に住む16人分が確認された。
大宝律令以前の法制度として、持統天皇が689年に「飛鳥浄御原令」を制定し、翌690年に全国で「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」が作られた。 しかし浄御原令の実態ははっきりせず、庚寅年籍も現存していない。 現存する最古の戸籍は、奈良・東大寺の正倉院に伝わった文書「筑前国嶋郡川辺里戸籍」(702年)などだが、木簡は、冠位「進大弐」の使用が始まった685年からに「評」が「郡」に変更された701年に作成された、「計帳」という当時の住民台帳の元になった公文書とみられる。 庚寅年籍からの異動内容を記録した木簡の可能性も考えられる。
現地説明会が16日(土)午前10時から、市文化ふれあい館(同市国分)で開かれる。 また、24日まで同館で木簡を展示する。
[参考:共同通信、時事通信、西日本新聞、日経新聞、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、MBS毎日放送、NHK]
(注1)日本書紀、続日本紀における初見
■「筑紫国」の初見は
『日本書紀』持統四年(690)九月丁酉(23日) 大唐學問僧智宗。義徳。淨願。軍丁筑紫國上陽郡大伴部博麻。從新羅送使大奈末金高訓等。還至筑紫。
■「筑前国」の初見は
『続日本紀』文武二年(698)三月己巳(9日) 詔。筑前國宗形。出雲國意宇二郡司。並聽連任三等已上親。
その後、次に「筑前国」と「嶋郡」が合わせて記されている。
『続日本紀』和銅二年(709)六月乙巳(21日) 令諸國進驛起稻帳。筑前國御笠郡大領正七位下宗形部堅牛。賜益城連姓。嶋郡少領從七位上中臣部加比。中臣志斐連姓。
■「筑後国」の初見は
『日本書紀』景行天皇十八年秋七月辛卯朔甲午(4日)。 到筑紫後國御木。居於 高田行宮。(略)
この頃の時代は、律令制度の行政区画に基づく表記と考えられている、したがって次の下記が初見とみるべきか。
『続日本紀』慶雲四年(707)五月癸亥(26日) (略) 筑後國山門郡許勢部形見等。各賜衣一襲及鹽穀。(略)
■「嶋郡」の初見は
『日本書紀』推古天皇十年(602) 夏四月戊申朔。將軍來目皇子到于筑紫。乃進屯嶋郡。而聚船舶運軍粮
日本最古の「住民票」か=大宝律令前、7世紀末の木簡―人の転出入を把握・福岡(時事通信) - goo ニュース