歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

橿原市東池尻町 「磐余池」候補地から粘土層を確認

2012年06月30日 | Weblog
 橿原市教委は29日、同市東池尻町で「磐余池」とみられる人工池の底の粘土層を確認したと発表した。
 粘土層から6世紀末~7世紀初めの土器片数十点が出土し、6世紀末に池が実在したことが裏付けられた。
 用明天皇が585年、磐余池のほとりに宮殿を設けたとする日本書紀の記述(注1)と合致する。
 最上層に13世紀の土器片が数百点あり、池は600年あまり存在した後、埋められ水田に転用されたらしいとしている。
[参考:読売新聞、産経新聞]

(注1)
『日本書紀』用明天皇即位前紀 橘豐日天皇。天國排開廣庭天皇第四子也。母曰堅塩媛。(略) 十四年秋八月。渟中倉太珠敷天皇崩。 九月甲寅朔(5日)戊午。天皇即天皇位。宮於磐余。名曰池邊雙槻宮。

日本書紀や万葉集に登場…「磐余池」は実在(読売新聞) - goo ニュース

過去の関連ユース・情報
 2011.12.16 橿原市東池尻町 「磐余池」候補地から堤や建物跡(6世紀後半)を発見
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韓国・江原道高城郡・文岩里遺跡 新石器時代中期の耕作遺構(畑)を発掘 東アジア初

2012年06月29日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立文化財研究所は26日、江原道高城郡竹旺面の「高城文岩里遺跡(고성문암리 유적)(史跡 第426号)で、新石器時代中期の耕作遺構(畑)が見つかったと発表した。 一緒に出土した土器片などから紀元前3600〜3000年ごろの畑作の跡とみられ、中国、日本でも発見された例がない東アジア最初の新石器時代畑遺構と推定されるとしている。

 発掘された畑(밭)は2層に分かれ、上層(1260㎡)は典型的な畝(이랑)畑の形態を帯びるが、青銅器時代(BC1500?~BC400年)の畑の形態と比較した時、畦(두둑)と畝間(고랑、うねあい)の幅が一定でなく、畝が並んでつながっていない古式的形態である。
 下層(1000㎡)は複合区画の畑の形態で原始的な姿を帯びている。 新石器時代中期(紀元前3,600年~紀元前3,000年)の土器片(短斜線文土器(짧은빗금무늬토기): 櫛目文土器のひとつ)、磨製石鏃とともに新石器時代住居跡1基が確認され、年代が推定された。

 これまで韓国で確認された畑遺跡中、最も古いものは青銅器時代のものだった。 韓半島の新石器時代農耕に対しては石器(石鍬、掘棒、耜(スキ)属、石皿、石棒など)と炭化穀物(粟(アワ)、黍(キビ))を根拠にその存在が推定されていた。
[参考:2012.6.26聨合ニュース、2012.6.27産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
2008.12.10 中国浙江省・田螺山遺跡 世界最古のイチョウの木器、楽器か?
 約6800年前の地層から、楽器とみられるイチョウの木器が見つかる
2008.11.29 中国浙江省・田螺山遺跡 6000年前の茶畑か、栽培起源示す
 6000-5500年前の地層から世界最古の茶畑とみられる遺構が見つかる。
 田螺山遺跡(浙江省余姚市)は約7000年前の初期稲作文化の集落跡である。

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松浦市・鷹島神崎遺跡 元寇沈没船の全長は27mと推定

2012年06月27日 | Weblog
 松浦市鷹島沖の水中遺跡「鷹島神崎遺跡(たかしまこうざきいせき)」で、鎌倉時代の元寇船とみられる沈没船を調査している松浦市と琉球大・池田教授(考古学)のチームは26日、船底の背骨に当たるキール(竜骨)のものとみられる漆喰の破片を発見したと発表した。
 調査は18日から、船の規模などを確定するため、昨年10月に発見した船体の一部の東側で南北5m、東西6・5mにわたり実施した。キールの木材は確認できなかったが、接着剤として用いられたとみられる漆喰の破片が、キールの先端から約1・5m先まで2列に点在して見つかった。
 破片の分布範囲や中国や韓国で発見された同時代の船の形状から、キールはこれまでの調査より約1・5m長い約13・5m、船の全長はキールの約2倍の約27mと推定した。
 周辺では木材も見つかったが、調査した地点が船首か船尾なのかは、発見した木材の浸食が激しく確認できなかった。
 ほかに、中国製陶磁器の破片やレンガも発見された。
[参考:共同通信、西日本新聞、産経新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.10.20 松浦市鷹島町沖 海底から元寇船の底部を発見



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天理市喜殿町 中ツ道の東側溝遺構を確認

2012年06月25日 | Weblog
 県立橿原考古学研究所は24日、天理市喜殿町(きどのちょう)で実施した県道51号(天理環状線)の拡幅工事に伴う道路の東側560㎡の発掘調査で、古代の幹線道路「中ツ道」の東側溝が幅6・5m以上、深さ1・4m、長さ約30mにわたって見つかったと発表した。
 溝は南から北へ傾斜し、砂が堆積していることから、水がゆるやかに流れていたと想定される。 側溝は調査地の西側にさらに広がり全幅8~9mあり、道路部分は確認されていないが、溝の規模から幅は約23mと推定される。
 溝からは飛鳥時代の瓦や奈良時代の須恵器、平安時代の黒色土器などが出土。これらから11世紀まで溝が存続したと考えられるという。また馬の歯や骨が多数出土した。
 現場は藤原京と平城京の中間部に位置。藤原京内で中ツ道の東西側溝と指摘される調査成果例があるが、京外で側溝が見つかったのは初めて。
 この日は地元向けの現地説明会があった。現場はすぐに埋め戻すため、一般向け説明会は行われない。
[参考: 共同通信、奈良新聞、朝日新聞、読売新聞、産経新聞]
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奈良市・平城京跡 朱雀門前で「造平城京司」建物4棟を確認?

2012年06月22日 | Weblog
 奈良文化財研究所が21日、平城宮の朱雀門門前で新たに建物4棟の遺構が見つかったと発表した。
 平城京を造営した役所『造平城京司(ぞうへいじょうきょうし)』の可能性がさらに高まったとしている。
 現地説明会が23日(土)午後1時半から開かれる。
[参考:読売新聞]
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長岡京市・宇津久志1号墳 副葬品として出土していた重層ガラス玉が古代ローマ製

2012年06月22日 | Weblog
 奈良文化財研究所と長岡京市埋蔵文化財センターが21日、長岡京市の宇津久志(うつくし)1号墳(5世紀前半)から1988年に副葬品として出土していた重層ガラス玉3点が、帝政ローマ時代に領内の黒海の周辺地域などで製造されたローマガラスと同成分だったことが判明したと発表した。
 同古墳は5世紀前半に築造された1辺7mの方墳で、1988年の調査で副葬品としてガラス玉約500点が出土した。 このうち重層ガラス玉3点(直径5mm)で真ん中に直径1.5mmの穴が開いた物が1個と、1mm程度の破片2個を、奈文研が蛍光X線分析などで調べたところ、ガラスに金箔を挟む古代ローマ特有の技法を用いていた。 原料にナトロン(炭酸ナトリウム水和物)を用い、酸化カリウム・マグネシウムの含有量が少ないなどローマガラスの特徴を確認できた。国内で出土した重層ガラス玉がローマガラスと確認されたのは初めて。
 奈文研によると、重層ガラス玉は全国各地の約80の遺跡で約200点が出土しているが、成分分析されたのは今回を含め5遺跡10点程度で、いずれもアジアなどで作られた物という。 新沢千塚126号墳(橿原市)でも5世紀代の重層ガラス玉が見つかっており国内最古級だが、成分分析されていない。
 同古墳の出土品にはインドや東南アジアの産物と見られるガラス玉もあったといい、中国南部でも同時期の重層ガラス玉が見つかっていることから、海路で日本に伝わった可能性もあるとしている。
 重層ガラス玉は11月に長岡京市埋蔵文化財センターで展示される。
[参考:時事通信、共同通信、京都新聞、日経新聞、産経新聞]

備考
宇津久志古墳群(長岡京市天神5丁目)
 周囲に幅約0.6mの周溝を巡らせる方墳(一辺7~8m)2基からなる。
 1号墳は、墳丘の中央部で木棺直葬の主体部を検出した。副葬品として直刀・勾玉・ガラス製管玉・ガラス製小玉などが出土した。
 西北約200mのところに、乙訓地域で最後に築造された大首長墓と考えられる今里大塚古墳(7世紀前半)がある。

今里大塚古墳(長岡京市天神5丁目)
 直径約45m、高さ5.5mの円墳、あるいは墳長約80mで幅約20mの周濠がめぐる前方後円墳と考えられる。
 乙訓地域の石舞台古墳とも称され、埋葬施設は巨石を用いた玄室長5.5m、幅3m、高さ3.6mの横穴式石室(両袖式)である。 羨道の長さは10mに及ぶと推定される。 中には家形石棺が収められていた。

古代ローマの重層ガラス玉か=国内初、古墳で出土―京都(時事通信) - goo ニュース



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大津市・南滋賀遺跡 大壁造り建物跡2棟が新たに見つかる

2012年06月21日 | Weblog
 大津市教委が20日、朝鮮半島の特徴を持つ古墳時代後期(6世紀後半~7世紀前半)の大壁造り建物が見つかっている「南滋賀遺跡」(大津市南志賀)で、新たに同時代とみられる2棟の大壁造り建物跡と土器などが見つかったと発表した。
 今回新たに見つかった2棟のうち1棟はほぼ正方形(一辺約7.8m)で、もう1棟は不明。 近くでは、移動式の竈(かまど)などの土器なども出土した。
 大壁造り建物が検出された平成21~22年度調査地の東140m、平成23年度の調査地からは東に約120m離れた場所(南滋賀3丁目)で見つかったため、過去の推定より東に広がり、さらに大規模な渡来系の人々の集落があった可能性があるという。 また、集落の範囲がさらに東に広がる可能性があるとしている。
 現地説明会は23日午前10時半から1時間程度の予定で開かれる。
[参考:産経新聞、BBCびわ湖放送、大津市HP]

過去の関連ニュース・情報
 南滋賀遺跡

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桜井市・脇本遺跡 県内4例目の「松菊里型住居跡」

2012年06月20日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査中の脇本遺跡で、7世紀後半頃の大来皇女が滞在した「泊瀬斎宮(はつせのいつきのみや)」、と関連する可能性なる建物跡以外に、弥生時代前期末の竪穴建物跡1棟が見つかった。
 直径7・5mの楕円形で、中央に2本の柱穴と炉跡を中心に柱穴8本が巡る「松菊里型住居」(注1)と呼ばれる竪穴建物で、県内では鴨都波遺跡(御所市)、原遺跡(五條市)・越部ハサマ遺跡(大淀町)に次いで4例目。
 床面からは、石器づくりをしていたと考えられる原料となるサヌカイトの破片が出土した。
[参考:奈良新聞、毎日新聞、TVN奈良テレビ、橿原考古学研究所HP]

(注1) 松菊里型住居跡: 韓国語(ハングル)では“송국리형 주거지”

過去の関連ニュース・情報
 松菊里型住居跡“송국리형 주거지”
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千葉県栄町・岩屋古墳 東日本最大の方墳、二重周溝を含めると日本最大の方墳と判明

2012年06月20日 | Weblog
 栄町教委が19日、発掘調査中の国指定史跡「岩屋古墳」(印旛郡栄町龍角寺、龍角寺古墳群105号墳)で周辺施設を含めた古墳全体の規模が東西108.1m、南北96.6mで墳丘部分は、東西75.7m、南北77.1mと判明したと発表した。
 古墳の東西と北側の3ヶ所を試掘して構造を確認し、さらにこの日、人工衛星を活用した測量で正確な長さを調べた。
 墳丘の規模は奈良県橿原市の桝山古墳(96×90m)に及ばないものの、周囲に巡らされた二重の周溝も含めると日本一の大きな方墳になる。 これまで、富津市の「割見塚古墳」が周溝を含めると一辺の長さ107・5m(墳丘は1辺40m)で日本一の方墳だった。
 また、古墳東側の外周溝から外側にかけて、雲母片岩の破砕破片が集中して出土したという。
 7世紀初頭に印旛沼周辺を支配した国造の墓とみられる。
 現地説明会が23日午後1時~3時に開かれる。
[参考:産経新聞、東京新聞、千葉日報、栄町HP]

過去の関連ニュース・情報
 2011.10.18 千葉県栄町・岩屋古墳 7世紀最大の方墳を初の本格的発掘調査開始

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桜井市・脇本遺跡 7世紀後半の泊瀬斎宮の大型建物跡を発見か?

2012年06月19日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が19日、天武天皇の娘・大来皇女(おおくのひめみこ)が滞在した「泊瀬斎宮(はつせのいつきのみや)」があったとされる桜井市の脇本遺跡で、7世紀後半ごろの建物跡が見つかったと発表した。
 橿考研は今回の調査で、新たに東西約9m、南北約3mの範囲に「L」字型の柱列跡4個を確認した。 東側エリアでは過去に、「コ」の字型の柱列跡(14本の柱跡)を確認していたが、建物跡か判然としなかった。今回の調査で、柱列跡を含む全体規模が東西約18.8m、南北約8mの大型掘っ立て柱建物跡と判明した。過去に発掘された7世紀後半の柱列と建物の東西の柱筋が一致するため、同年代と判断した。
 『日本書紀』 天武天皇二年(673)の条に、「夏四月丙辰朔己巳(14日)。欲遣侍大來皇女于天照大神宮。而令居泊瀬齋宮。是先潔身。稍近神之所也」。と記されている。 このため橿考研では、今回確認された大型建物跡が、周辺の地形などから泊瀬斎宮の南端に建てられた宮の関連施設の可能性もあるとしている。
 ただし、『日本書紀』天武天皇八年(679)の条に、「八月己未(11日)、幸泊瀬以宴迹驚淵上。先是詔王卿曰。乘馬之外更設細馬随召出之。即自泊瀬還宮之日。看群卿儲細馬於迹見騨家道頭皆令馳走。」の記述があり、大型建物は行幸先泊瀬宮で設けた行宮(あんぐう)の関連施設の可能性もあるとしている。
 前回調査と合わせ、3〜6世紀にわたる19棟の竪穴建物跡も発見。竪穴建物による集落が継続していたことも明らかとなった。
 現地は埋め戻されており、説明会は行われない。 出土遺物は7〜9月に橿考研付属博物館で展示する予定。
[参考:共同通信、日経新聞、産経新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.8.18 桜井市・脇本遺跡 大来皇女が滞在した泊瀬斎宮の掘立柱穴列か?
 2010.6.3 桜井市・脇本遺跡 大型建物跡が出土 欽明天皇の宮殿か?
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群馬県榛東村・金井古墳群 2基の円墳から金銅製馬具などの副葬品が出土

2012年06月16日 | Weblog
 北群馬郡榛東村広馬場地内にある6世紀末から7世紀半ばごろの金井古墳群の2基の古墳(榛東村54号墳・55号墳)で、装飾性の高い馬具や権威を示す武具などの副葬品がまとまって出土した。
 両古墳は、長さ3~4m、幅2mの玄室に長さ3m前後の羨道が付く横穴式の石室を持ち、その上部に直径20m、高さ1.5mほどの円錐台状に盛り土した円墳。
 54号墳は胴張りの石室が特徴で、鉄製の小刀や鏃、金銅製の耳飾りなどが見つかった。
 55号墳からは、杏葉と辻金具、具(かこ)や鞍の一部などの馬具や直刀の鍔(つば)、須恵器などが出土した。
 現地説明会が17日午前10時~午後3時に開かれる。
[参考:上毛新聞、群馬県埋蔵文化財調査事業団HP]

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京田辺市・口仲谷古墳群 2基の円墳に3ヶ所の木棺埋葬跡を確認

2012年06月13日 | Weblog
 京田辺市教委は12日、同市松井宮田の口仲谷古墳群(くちなかたにこふんぐん)の発掘調査で長さ1・5~2mの木棺の埋葬跡3ヶ所を確認したと発表した。
 これまで円墳13基があると推定されていたが、今回の調査で1基は自然地形と判明、2基で一つと推定される古墳もあり、直径6~13mの円墳11基が点在することが分かった。
 見つかった木棺の埋葬跡3ヶ所のうち2号墳(円墳)からは、縦に並んだ2箇所の木棺直葬跡が確認された。 副葬品などはなかった。丘陵地に土を盛った比較的簡素なつくりで、6~7世紀の古墳時代後期のものと考えられるという。
 周辺で見つかっている同時期の古墳の大半は横穴式で、円墳にこだわった一族がいたのかもしれないとしている。
 現地説明会が16日(土)午後1時半からを開かれる。
[参考:京都新聞、京田辺市HP]

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太宰府市・国分松本遺跡 大宝律令前の最古の「戸籍」木簡出土

2012年06月13日 | Weblog
 太宰府市教委が12日、古代の大宰府政庁から北西1・2kmに位置する同市国分の国分松本遺跡(こくぶまつもといせき)で、戸籍に関連する飛鳥時代後期(7世紀末)の木簡が見つかったと発表した。 ほかにも飛鳥時代から奈良時代にかけての木簡9点が出土した。
 戸籍に関する木簡は、正倉院に伝わる現存最古の戸籍(702年)より古く、中央集権国家が完成したとされる大宝律令の制定(701年)より早い段階で、中央集権国家の要となる戸籍関連の制度が確立されていたことを示す第一級の資料として注目される。

 今年3~6月の調査で河川跡で川底だった地層から出土した木簡10点のうち1点には、「竺志前国嶋評」の表題と24枚の木簡を束ねていたことが記されている。 「竺志」は「筑紫」であり、「竺志前国」は筑紫国が筑前・筑後に分かれた後の「筑前国」のことである。(注1)
 当時「竺志前国嶋評」と呼ばれた地域は、福岡県糸島市周辺の旧志摩町付近の地名で、現在の福岡県糸島市や福岡市西区に当たる。
 また、別の状態の良い戸籍に関する木簡(長さ31cm、幅8・2cm、厚さ8mm)の両面に、「川部里」という地名やそこに居住していたとみられる16人分の人の名前や戸主の表記や身分、続柄などが記載されていた。 転入など増加を示す「有」「附」、転出など減少を示す「去」、世帯を2つに分けたことを示す「二戸別」、別れる前の戸主「本戸主(もとのこしゅ)」といった異動状況も詳細に記されていた。 木簡表側、最初の文字の右上に記された曲線(¬)は、内容をチェックしたことを示す印だという。
 「戸主は、建部身麻呂(たけるべのみまろ)」、次に21~60歳の健康な男子を指す「政(正)丁」、その中から徴発される「兵士」の表記や、妹の「夜乎女(やおめ)」、「白髪部伊止布(しらかべのいとふ)」など同じ集落に住む16人分が確認された。

 大宝律令以前の法制度として、持統天皇が689年に「飛鳥浄御原令」を制定し、翌690年に全国で「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」が作られた。 しかし浄御原令の実態ははっきりせず、庚寅年籍も現存していない。 現存する最古の戸籍は、奈良・東大寺の正倉院に伝わった文書「筑前国嶋郡川辺里戸籍」(702年)などだが、木簡は、冠位「進大弐」の使用が始まった685年からに「評」が「郡」に変更された701年に作成された、「計帳」という当時の住民台帳の元になった公文書とみられる。 庚寅年籍からの異動内容を記録した木簡の可能性も考えられる。
 現地説明会が16日(土)午前10時から、市文化ふれあい館(同市国分)で開かれる。 また、24日まで同館で木簡を展示する。
[参考:共同通信、時事通信、西日本新聞、日経新聞、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、MBS毎日放送、NHK]

(注1)日本書紀、続日本紀における初見
■「筑紫国」の初見は
『日本書紀』持統四年(690)九月丁酉(23日) 大唐學問僧智宗。義徳。淨願。軍丁筑紫國上陽郡大伴部博麻。從新羅送使大奈末金高訓等。還至筑紫。
■「筑前国」の初見は
『続日本紀』文武二年(698)三月己巳(9日) 詔。筑前國宗形。出雲國意宇二郡司。並聽連任三等已上親。
 その後、次に「筑前国」と「嶋郡」が合わせて記されている。
『続日本紀』和銅二年(709)六月乙巳(21日) 令諸國進驛起稻帳。筑前國御笠郡大領正七位下宗形部堅牛。賜益城連姓。嶋郡少領從七位上中臣部加比。中臣志斐連姓。
■「筑後国」の初見は
『日本書紀』景行天皇十八年秋七月辛卯朔甲午(4日)。 到筑紫後國御木。居於 高田行宮。(略)
 この頃の時代は、律令制度の行政区画に基づく表記と考えられている、したがって次の下記が初見とみるべきか。
『続日本紀』慶雲四年(707)五月癸亥(26日) (略) 筑後國山門郡許勢部形見等。各賜衣一襲及鹽穀。(略)
■「嶋郡」の初見は
『日本書紀』推古天皇十年(602) 夏四月戊申朔。將軍來目皇子到于筑紫。乃進屯嶋郡。而聚船舶運軍粮

日本最古の「住民票」か=大宝律令前、7世紀末の木簡―人の転出入を把握・福岡(時事通信) - goo ニュース

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南アルプス市・江原浅間神社 11世紀頃に作られた富士山信仰に関わる最古の木像

2012年06月10日 | Weblog
 南アルプス市の調査で、同市江原の江原浅間神社(えばらせんげんじんじゃ)のご神体の女神像が、平安時代11世紀ごろに作られた、富士山信仰に関わる最古の木像とみられることが確認された。
 女神像は高さが40cmで、いずれも髪を長く垂らし、胸の下で手を合わせた3体の女神が中央の如来像を中心に三方を向いて囲んでいる。 一本の木を中空にせずに彫り出す技法や、各像の体格や髪の表現と台座にのみ目が残ることなどから、平安時代(11世紀ごろ)に作られたものと考えられるという。
 浅間神社は富士山の噴火が鎮まるように祈るため、奈良-平安時代に建てられたとされ、全国に約1300社の分社がある。 これまでは忍野村の忍草浅間神社(しぼくさせんげんじんじゃ)にある木造女神坐像(コノハナノサクヤヒメ像、1315年作、重要文化財)が、富士山信仰の最古の神像とされていた。
 調査した鈴木麻里子・市文化財保護審議会委員は女神像について、文献では鎌倉時代に天女からかぐや姫などとなり、近世以降にコノハナサクヤヒメに統一されていったという。今回の女神像は、天女を表現しているとみられ、文献に記された信仰の歴史を確認できるものとしている。
[参考:山梨日日新聞、読売新聞]

備考:
 江原浅間神社は富士山頂から北西約40kmのところあにある。 景行天皇の御代に創始されたと伝わる。 ご祭神は木花之開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)。 稲作の神として毎年五穀豊穣を祈願していた。

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京都市・西岸寺 「玉日姫君御廟所」で親鸞の妻・玉日姫の骨が出土?

2012年06月09日 | Weblog
 京都市埋蔵文化財研究所と山形大・松尾剛次(けんじ)教授(日本宗教史)が8日、浄土真宗の宗祖・親鸞(1173-1262)の妻とされる玉日姫(たまひひめ)の墓所が伝わる京都市伏見区の浄土真宗本願寺派・西岸寺(さいがんじ)で、墓所から骨壺と骨の破片が出土したと発表した。
 玉日姫は摂関家の九条兼実(1149-1207)の娘とされるが、実在したかどうかを含めて諸説ある。
 同研究所が今年4月、遺跡調査の一環で西岸寺境内にある「玉日姫君御廟所」を発掘した。 骨の破片は大部分が頭骨。性別や年齢は分からず、DNAの採取などもできなかった。 骨壺は素焼きの壺で、江戸後期に作られたものと特定できたという。 現時点では玉日姫の遺骨と断定できないが、松尾教授によると江戸後期に九条家が御廟所を改葬されたと伝える文書があるため、実際に玉日姫の遺骨が埋め直された可能性が高いという。
 一方、同研究所は考古学的には証明できておらず、鑑定には技術進歩が必要と話している。
[参考:共同通信、日経新聞、朝日新聞]
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