歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

糸島市・潤古屋敷遺跡 地頭の館(屋敷)跡は一辺が96m 潤氏の館か

2011年11月30日 | Weblog
 糸島市教委が28日、同市潤の潤古屋敷(うるうふるやしき)遺跡の大溝(13-15世紀)が、一辺96mに達することが分かったと発表した。2009年度に発見された時は、一辺が70mを超える方形の館(屋敷)と想定されていた。
 大溝はV字形で幅約6-8m、深さ約2m。 昨年3月、南北方向に約60mの溝が見つかったが、さらに北方向に掘り進めると、隅部分が出土し、一辺の長さが判明した。
 糸島半島一帯(注1)は当時、豊後国(現大分県)を本拠地とした大友氏が元寇(1274,1281)の後、軍功があったとして、在地の地頭を支配する権利を幕府から得ていた。 このため、大友氏の古文書を調査したところ、在地地頭たちが大友氏に年貢を納めないことから、大友氏が幕府に訴え出て、年貢を納めさせるようにしたという文書(1305年)(注2)の中に、「潤」氏の名前を見つけたという。
 中国製の陶磁器の出土が多量なことから、この館(屋敷)を拠点に、在地地頭が中国との私貿易を行っていた可能性もあるとする。
 一般向け現地説明会が12月4日(日)午前10時~12時に開かれる。
[参考:西日本新聞、 前出]

(注1)怡土庄は、元は原田種直の領地であったが、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いでは平家方として戦い、平家没管領として関東御領になっていた。
(注2)嘉元3年(1305)8月2日の鎮西下知状か。

過去の関連ニュース・情報
 2010.9.7 糸島市・潤番田(うるうばんだ)遺跡 出土した陶枕は有力者が朝鮮半島と独自に貿易した証か
■ 潤番田遺跡・潤古屋敷遺跡は南北に隣り合う遺跡である。ともに、12~15世紀にかけて存続した「怡土庄」にあり、「潤」とは「怡土庄」の遺称地名である。
 この怡土庄には「地頭」が設置されている。潤古屋敷遺跡の東に隣接する東風小学校所在の字名は「潤地頭給(うるうじとうきゅう)」である。
■ 潤古屋敷遺跡は、弥生時代、平安時代(9-11世紀)、鎌倉~戦国時代(13~15世紀)の3時期を主とする遺跡である。
 昨年度に発見された大溝(幅5~6m、深さ約2m)内部には一辺約70mを超える方形の館(屋敷)があったと想定できる。(鎌倉時代(13世紀代)に形成され、戦国時代(15世紀代)に埋められた。)

 2010.7.13 糸島市・潤番田遺跡 14世紀の高麗青磁陶枕が出土

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日香村・飛鳥京跡苑池 南池で高さ3m以上の巨石を積み上げた池の護岸が見つかる

2011年11月29日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が29日、明日香村の「飛鳥京跡苑池(えんち)」(7世紀後半)で、庭園にある南北二つの池のうち、南池で東護岸(約24m)と南護岸(約6m)が出土し、東護岸では重さ2トン前後(1~1.5m大)の巨石を積み上げた池の護岸が見つかったと発表した。水深数十cmの浅い池だったとみられるが、高さ約3m以上の石組み遺構と確認され、視覚的な効果を重視した可能性が高いとしている。 南池の規模が東西65m、南北55mの5角形だったと判明した。
 飛鳥京跡苑池の全体規模は推定で南北約230m、東西約120mで、池の底には石が敷かれ、島や噴水石もあった。 周囲には桃や梅、柿などが植えられていたとみられる。
 また、「鳥養」と記されたとみられる木簡が出土した。
 現地説明会が12月3日(土)午前10時から開かれる。

過去の関連ニュース・情報
 飛鳥京跡苑池関連
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソウル松坡区・風納土城 東側城壁は二度の増築、基礎工事は3世紀中後半に開始

2011年11月29日 | 韓国の遺跡・古墳など
 韓国・国立文化財研究所が28日、4月より切開調査中である漢城首都期百済王城である風納土城(풍납토성、ソウル市松坡区)の南側城壁と隣接した東側城壁は、二度の増築過程を経て完成されたと発表した。

調査成果
■ 城壁の基礎工事は、整地して幅11mの区間に最大0.9mの高さに土を積んだ。 この区間から楽浪系土器・頚部暗文壷(경부암문호)、格子文牝瓦(격자문암키와)などが出土して、3世紀中後半に工事が始まったことが分かった。 さらにその上に骨組になる土塁:を積み、その内外にさらに土を重ね合わせて(版築法で)積み完成した。
■ 城壁の内部では、揮帳文がある直口短頸壺(직구단경호)が出土して、高句麗土器の製作技術との関連が推測される。
 前項の楽浪系土器を合わせて、このことは、風納土城築造当時、百済の北方地域で多様な物質文化が流入していたことを示している。
■ 今回の調査地点確認された城壁の幅は37mであり、高さは最大9.5mに達する。 完成以後二回の増築を行い、最終城壁の総幅が43mに達する。 城壁内壁には城壁と地表面を保護するための石垣施設も残っていた。 増築時期は、4世紀後半以後とみられる。

11月29日午後2時 ソウル・風納土城の東城壁発掘調査現場説明会が開催される。
[参考:聨合ニュースほか]

過去の関連ニュース・情報
 2011.6.21 ソウル松坡区・風納土城 東側城壁の切開調査を進行中(年末まで)
 風納土城関連
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日香村・飛鳥寺西方遺跡 同寺南西約130mを調査、「槻の木の広場」の南端の可能性も

2011年11月25日 | Weblog
 明日香村教委が24日、飛鳥寺西方遺跡の「槻の樹の広場」があったとされ場所で南北と東西に延びる7世紀後半ごろの石組み溝や石敷きが見つかったと発表した。東西に延びる溝の南には石敷きがなく、南北約200m、東西120mと推察されている広場の南端だった可能性もあるとしている。
 過去の調査で、同寺西側から南に約110m延びる石組み溝が確認されている。 今回の調査地、同寺南西約130mでも、延長線上に南北約9m分(幅約1・2m、深さ15cm)の石組み溝が出土し、溝の総延長が130mに及ぶことが判明した。
 近くからは、今回初めて東西に延びる14m分の石組み溝(幅約90cm、深さ10cm)が出土したほか、小石を敷き詰めた石敷きなども見つかった。
 2カ所の石組み溝は流水の形跡がないため、敷地を囲む目的などが考えられる。周辺は石敷きで整備され、建物跡が検出されなかったことから『槻の樹の広場』の南端か、一部の可能性もあるとしている。
 現地見学会が27日(日)午前10時から開かれる。
[参考:共同通信、日経新聞、産経新聞、読売新聞]
(注1) 読売新聞では、飛鳥寺西方遺跡・広場の南東隅としている。

過去の関連ニュース・情報
 飛鳥寺西方遺跡
2011.2.9
 「槻の木の広場」のすぐ西側、飛鳥寺西門跡の西約100mで、飛鳥時代の東西の道路跡と推定される石敷きが見つかった。
 石敷きは、幅2・4m、長さ80cm分。さらに、約150m西には甘樫丘がそびえる。
 飛鳥寺南門の参道の幅は2・2mで今回見つかった石敷きの幅に近く、石敷きは蘇我蝦夷、入鹿父子の邸宅があった甘樫丘方面から槻の木の広場を横切る参道だった可能性もある。
 また、その北55mでも石組み溝の底部とみられる石敷きが東西2・6m、南北80cm分、出土した。

2010.3.18
 飛鳥寺の南西約120mの地点で7世紀の石敷き跡が見つかった。「槻の木広場」の一部だった可能性がある。
 東西5・2m、南北2・4mにわたり、10~20cmのこぶし大の石を敷き詰め、周囲には一回り小さい砂利も敷かれていた。
 今回の調査地の北側で過去の調査と合わせ、石敷きは東西30m以上、南北70m以上に広がる可能性がある。
 近くには石敷きの約1m下から直径20cmの瓦製の土管暗渠埋められていた。土管には継ぎ目があり、過去の発掘でみつかっている北側の暗渠とつながり、北に170mほど続いていた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝山市白山平泉寺 僧侶跡から遺物1万点出土

2011年11月23日 | Weblog
 勝山市教育委員会は22日、同市平泉寺町平泉寺の国史跡白山平泉寺旧境内で進めている本年度の発掘調査で、平泉寺白山神社南側の南谷にある僧坊跡から、石垣や石畳などの遺構や、土器や陶磁器などの遺物約1万点が見つかったと発表した。
 木製品は木片などを含めて数百点見つかった。木製の器ではこれまでで最も大きい直径が50cmほどある黒漆の鉢の一部(約20cm)やしゃもじ(長さ21cm、幅最大8cm)など、保存状態のよい木製品が出土した。いずれも15世紀末~16世紀初頭のものとみられる。
 他に、13~16世紀の遺物として素焼きの器や越前焼の甕、中瀬戸美濃焼の碗、中国製の青磁や白磁の碗、皿、石製の「バンドコ」(いわゆる行火(あんか))などが出土した。
戦国期の石畳道や溝、石組みの井戸なども確認した。僧坊の入り口から続く石畳が途中で大きく曲がっているなどの特徴があった。
 現地見学会は26日午前10時~正午。 調査成果の一部は、勝山市元町1の市教育会館で同日開かれる「白山文化フォーラム2011」で展示される。
[参考:福井新聞、産経新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 白山平泉寺
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪市・瓜破北遺跡 6世紀の準構造船の一部が出土

2011年11月23日 | Weblog
 河内台地北端部の瓜破(うりわり)台地上に位置する瓜破北遺跡(大阪市平野区瓜破東)で、古墳時代の沼地の堆積層から各種木製品が大量に出土し、古墳時代後期(6世紀)の準構造船の一部が府教委の調査(期間:平成23年7月~平成24年2月)で見つかった。
 見つかったのは、船べりの一部(長さ1・2m)や船体の側板、船内の仕切り板など数十点で、いずれもスギ材。不要になった船の底部を井戸枠などに再利用するために加工し、残りの部分を捨てたものとみられる。
 湾曲した部材やほぞ穴の形状などから、準構造船の一部で、全長10数mの中型船(5~10人乗り)と推定している。
 現地公開が12月3日(日)13時~15時に行われる。
[参考:産経新聞、大阪府HP→埋蔵文化財情報]

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

全南霊岩・チャラボン古墳 20年ぶりに再発掘し、6世紀初めの築造を確認

2011年11月23日 | 韓国の遺跡・古墳など
 大韓文化遺産研究センターは22日、全南霊岩郡始終面泰澗里(영암 시종면 태간리)のチャラボン古墳(자라봉고분)を20年ぶりに発掘調査した結果、6世紀初めに築造された可能性が大きいと発表した。

■ 石室の中から出土した蓋杯、周溝から出土した瓶と碗、蓋杯などを見ると、墓を築造した時期は6世紀初期~前半頃と判断される。
■ 墳丘周辺には、周溝(最大幅6m、最大深さ1.8m)が巡らされていることが明らかになった。
■ 墳丘と周溝から、円筒形土製品(埴輪)約50点が出土した。同じ前方後円墳の光州・明花洞古墳、月渓洞1・2号墳出土品と似ている。
■ 石室は東西方向に長軸を設けた長方形で、長さ約3,3m、幅約2.4m、高さは1.85mであった。竪穴式石室と報告されたりしたが、さらに追加調査が必要としている。
[参考:聨合ニュース]

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鯖江市・弁財天古墳群がある弁財天山の頂上で、1世紀~2世紀初頭の高地性環濠

2011年11月23日 | Weblog
 鯖江市教委が22日、同市東部の弁財天古墳群がある弁財天山(120m)の頂上で、弥生時代後期前半(1世紀~2世紀初頭)の「高地性環濠」が県内で初めて見つかったと発表した。
 尾根状に盛り上がった頂上の約1800㎡を楕円形に囲む形で、V字の環濠(幅1・3~3・5m、深さ1・3~3m)が285mに亘り巡らせていた。一部は2重になっており、2重の環濠の間には土塁の跡も見つかった。
 「高地性集落」の一部とみられ、2世紀後半の倭国大乱を前に、防御が必要な緊張状態にあったことを示す発見で、北陸の戦乱が福井から広がっていった証拠として、この地が後に邪馬台国を支える国になった可能性もあるとみている。
 戦闘の形跡はなかったが、環濠から出土した土器は「近江系土器」と呼ばれる滋賀県特有の壺や甕、高杯など数百点で、市教委は畿内の勢力が集落を造ったか、その影響下で造営されたとみている。
 環濠のある高地性集落は紀元前2世紀頃から瀬戸内海沿岸などで増え、2世紀後半頃には石川県や新潟県などに伝わっており、その初期段階とみられる。
 現地説明会が26日に開かれる。午前10時に同市落合町の北中山公民館に集合。
[参考:福井新聞、産経新聞、読売新聞]

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊橋市・内田貝塚 弥生時代後半の大溝を発見、環濠集落の可能性も

2011年11月21日 | Weblog
 豊橋市教委は16日、同市牟呂町若宮の「内田貝塚」で、段丘下から弥生時代後半の大溝が、段丘斜面から中世に作られた非常に厚い貝層が発見されたと発表した。
 大溝は長さ約20mで途切れ、別の大溝が隣に連なるように掘られている。 周囲では祭祀行為をしていたような痕跡も見つかっている。 昨年度調査した若宮遺跡では、長さ30mの大溝が見つかり、集落を取り囲む「環濠」と断定された。 今回の大溝が昨年発見された環濠の一部とすれば、弥生時代に大規模な環濠集落があった可能性が考えられる。
 また、12世紀末から16世紀初めにかけての貝殻の堆積も確認された。貝の層は最大2mあり、ほとんどがハマグリだった。
 内田貝塚は長さ約3km、幅約1kmの段丘の先端にあり、東海地方屈指の規模。また、縄文時代以降も貝塚が形成され続けた、全国的に珍しい遺跡として知られる。
 現地説明会が、23日(水・祝)午前10時半と午後2時の2回開かれる。
[参考:2011.11.17 東愛知新聞、2011.11.21読売新聞、豊橋市HP]

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大田市・石見銀山遺跡 江戸初期のマンガン採掘跡が初めて見つかる

2011年11月19日 | Weblog
 島根県教委が18日、石見銀山世界遺産センター(大田市大森町)で開かれた石見銀山遺跡調査活用委で、同遺跡で江戸時代初期のマンガン採掘跡が初めて見つかったと明らかにした。 石見銀山ではマンガンを使った銀製錬が行われていたことが文献資料により知られているが、初めて現地で裏付けることができたとする。
 遺跡中心部の仙ノ山地区を今年5月から調査し、マンガンを採掘した露頭堀り跡と、採掘のための「間歩(まぶ)」(坑道のこと、直径1m、長さ数m)3か所を確認した。 周辺からマンガン鉱石を砕いた破片が大量に見つかった。 砕いた破片は、良質のマンガンだけを製錬に使っていた様子がうかがえるとしている。
 江戸時代、マンガンは「錬(こわり)」と呼ばれ銀鉱石を溶かしやすくするために使用された。 江戸時代中期の銀山の古地図には、マンガン鉱床を示す「三石錬山(さんごくこわりやま)」の地名があり、今回の採掘跡がこの錬山とみられるという。
 江戸時代に編纂された「銀山旧記」には、石見銀山でマンガンを使った独特の銀製錬が行われてきたことが紹介されている。
[参考:読売新聞、朝日新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高知市・御手洗遺跡 鎌倉~室町時代の屋敷跡と龍泉窯製青磁などが出土

2011年11月19日 | Weblog
 高知市教育委員会が17日、高知市神田で鎌倉~室町時代の溝や柱穴などが多数出土し、屋敷跡を含む遺構が見つかったと発表した。 「御手洗遺跡(みたらいいせき)」と名付けられた。
 同遺跡は3月に発見され、10月から本格的な調査が始まった。これまでに、主に中世の溝7本、土坑13個、柱穴などの穴約190個が見つかっている。
 柱穴は、東西に掘られた3本の溝をはさんで北側と南側の計2カ所にかたまって発見されており、少なくとも2棟の屋敷があったとみられる。 常滑(愛知県)、備前(岡山県)などの甕や鉢のほか、中国「龍泉窯(りゅうせんよう)」で生産されたとみられる青磁の碗などが出土しており、当時経済的に裕福な人物が住んでいたとみられる。
 神田地域で中世の屋敷跡は2例目となる。
 現地説明会は、20日(日)午後1時半~2時半に開かれる。
[参考:読売新聞、朝日新聞、NHK高知]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久留米市・水分遺跡 2~3世紀の住居跡から水銀朱が付着した土器の鉢などが出土

2011年11月18日 | Weblog
 久留米市は17日、同市田主丸町常盤の水分遺跡(みずわけいせき)から、弥生時代後期(2~3世紀)の17棟分の竪穴式住居跡や二重環濠の一部(幅2・6m、深さ60cm)を発見したと発表した。 住居跡の一つからは、赤色顔料の水銀朱やベンガラがまとまって見つかったほか、顔料加工に用いたとみられる土器製の鉢2点やガラス製の勾玉1点、小玉238点、さらに鉄・銅・骨製の矢尻などがまとまって出土した。 住居跡17棟のうち9棟で赤色顔料を確認したという。
 赤色顔料が入った鉢などが見つかった住居跡は縦5・8m、横5m、深さ60cm。中央に炉の跡があり、周辺には大量の土器などが散在していた。
 見つかった2点の鉢(縦39cm、幅26cm)は、焼成後の甕を縦に二つ割りにした1対で、それぞれの切削面が合致する。中には水銀系の赤色顔料が入っていた。
 焼成後の甕を切削して二つの鉢として利用した例は極めて珍しいという。当時、赤色顔料は祭祀に利用されたもので、見つかった住居跡には祭祀に使う品物をまとめて保管していたらしい。 交易などの形で朱を扱う集団の集落だった可能性があるとしている。
 現地説明会が23日午前10時から開かれる。
[参考:西日本新聞、共同通信、毎日新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良市・平城京 朱雀門そばに鉄鍛冶工房跡が見つかる

2011年11月17日 | Weblog
 奈良文化財研究所が17日、平城京跡の朱雀門前の南東約130mの場所(左京三条一坊一坪)で、奈良時代前半(8世紀前半)の鉄鍛冶工房跡とみられる3つの建物跡が見つかったと発表した。最大のものは東西約19.5m、南北約6mだった。平城京エリアでは最大規模の工房群という。 710年の遷都に先立って短期間に運営されていた可能性があるという。運営後は粘土で埋められ、広場のように造成されていた。
 工房群跡は、今年3月に出土した六角形の大型井戸跡に隣接している。 周辺から大量の炭を含む、焼け焦げた炉跡が約50基出土した。 炉跡は地面に掘った直径30~40cmの円形で深さ約10cm、鉄くぎや、鍛冶や金属加工に使う金床石(かなとこいし)や砥石、鞴(ふいご)の羽口、鉄滓も確認された。
 井戸からは「天平二年」(730年)と書かれた木簡や「右相撲(みぎのすまい)□」、「□撲司」と記された墨書土器も出土し、井戸は工房が役目を終えた後に掘られたこともわかった。
 続日本紀には聖武天皇が天平6年(734)と同10年(738)に相撲を観た記録(注1)があり、7月7日の宮中行事だった「相撲節会(すまいのせちえ)」が調査地の朱雀門近くで行われた可能性もあるという。
 現地説明会は19日(土)午後1時半から開かれる。
[参考:時事通信、共同通信、産経新聞、毎日新聞、奈良新聞]

(注1)
続日本紀 天平六年(734) 秋庚甲朔七月丙寅(7日)、天皇觀相撲戯。
続日本紀 天平十年(738) 秋丁卯朔七月癸酉(7日)、天皇御大藏省覽相撲。
この後、日本後期にも度々7月7日に「観相撲」との記述が出てくる。
遡って、日本書紀にも相撲の記述が7月の条に現れる。
日本書紀・皇極天皇元年(642)七月乙亥(22日)、饗百濟使人大佐平智積等於朝。乃命健兒相撲於翹岐前。智積等宴畢。而退拜翹岐門。
日本書紀・天武天皇十一年(682) 秋七月壬辰朔甲午(3日)、隼人多來、貢方物。是日。大隅隼人與阿多隼人、相撲於朝廷。大隅隼人勝之。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高松市・萩前・一本木遺跡 古墳時代から奈良時代にかけての大規模集落跡で、煮炊き用かまど跡を多数発見

2011年11月17日 | Weblog
 高松市教委は16日、香川県高松市仏生山(ぶっしょうざん)町の萩前・一本木遺跡(はぎのまえ・いっぽんぎいせき)の発掘調査で、当時の人が煮炊きに使ったかまど跡が多くの竪穴建物内で新たに見つかった。
 これまでの調査で竪穴建物35棟、掘立柱建物12棟を確認し、うち19棟の竪穴建物でかまどが見つかった。
 現地説明会が19日(土)午後1時から30分毎に計5回開かれる。
[参考:四国新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.8.19 高松市・萩前・一本木遺跡 古墳時代から奈良時代にかけての大規模集落跡が見つかる
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安芸高田市・甲立古墳 後円上部から4世紀の埴輪列と石敷遺構が出土

2011年11月17日 | Weblog
 安芸高田市教委は16日、県内で最古級、3番目に大きい4世紀後半の前方後円墳「甲立(こうたち)古墳」(安芸高田市甲田町上甲立)の後円部分から、河原石を長方形に並べた石敷遺構と、周辺を囲むように4世紀代の円筒埴輪、楕円筒埴輪の埴輪列の跡が見つかったと発表した。広島県内で4世紀の埴輪列と石敷遺構が確認されたのは初めてという。
 石敷は後円部の南東墳頂部にあり、拳から手のひら大の石が長さ6・3m、幅2mの長方形に敷かれていた。周辺では崩れたと思われる石が見つかっており、当初の幅は4m近かったとみられる。また、埴輪の列からは円筒埴輪(直径約30cm)15基と楕円筒埴輪9基の土台部分が出土し、石敷付近からは数基の家形埴輪の破片も見つかった。 楕円筒埴輪とともに家形埴輪も県内最古の出土例という。
 石敷の下には、竪穴式石室か粘土槨の「墓壙」があると思われるが、今回も確認されていない模様。
 現地説明会が23日(水・祝)午前10時からと、午後1時半から開かれる。
[参考:中国新聞、読売新聞、安芸高田市HP]

過去の関連ニュース・情報
2010.11.20甲立古墳 県内最古の家形埴輪片?が出土
 前方部頂上付近の中心から1辺10~15cm、厚さ1cmの形象埴輪片10点が見つかった。筋状の模様や形から、県内最古の出土例とされる4世紀後半の家形埴輪の屋根の一部と推定。
 埋葬施設として、棺を入れるために掘られた長方形の穴の中に竪穴式石室か粘土槨の「墓壙」があるか確認中。
2010.10.7甲立古墳 測量と部分発掘調査を実施
2009.11.22甲立古墳 広島県内で3番目に大きい前方後円墳が見つかる
 全長75m、高さ13m、4世紀後半築造の前方後円墳と確認、地名から「甲立古墳」と命名された。
 埴輪を置くテラス状の段築が2段に築かれ、周辺から円筒や舟形埴輪片約20点が出土。
 未盗掘でほぼ原型のまま残っており、後円部中央に竪穴式石室があると見られる。
 前方後円墳の規模は、東広島市の三ツ城古墳(全長92m、5世紀後半)、神石高原町の辰の口古墳(全長77m、4世紀後半)に次ぎ3番目。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする