歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

枚方市・禁野車塚古墳 箸墓古墳と相似墳 築造時期3世紀末~4世紀初め

2008年12月12日 | Weblog
 枚方市文化財研究調査会などが11日、大阪府枚方市宮之阪の国史跡の前方後円墳、禁野車塚(きんやくるまづか)古墳(3世紀末~4世紀初め、全長約120m)が、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説がある奈良県桜井市の箸墓古墳(3世紀中ごろ~後半、同約280m)と同じ規格で造られた相似墳であることがわかったと発表した。全長はこれまでより約10m長い約120m、築造年代も出土した埴輪から4世紀代とされてきたが3世紀末~4世紀初めと遡った。同じような形状の古墳が府内で確認されるのは初めてで、府内最古級の古墳となる。
 同調査会が関西、京都橘、京都府立の3大学と調査団をつくり8月に測量調査した。▽前方部が、三味線のばち形をしている▽後円部からくびれ部にかけてスロープがある▽幅が最も狭い部分が前方部にある――などの特徴が箸墓古墳と共通し、縮尺を調整して測量図を重ねると等高線がほぼ一致したことから、相似墳と判断したという。
 箸墓古墳の相似墳は、3世紀中ごろから4世紀前半までに造られたとみられる約20基が西日本で確認されている。奈良県内には西殿塚古墳(全長約230m)など3基がある。他府県では、京都府木津川市の椿井大塚山古墳(同約175m)などがある。
 禁野車塚は、▽丘陵を利用せずに平地に盛り土で造られた▽大阪府柏原市の芝山産の石材が共に使われた点が、箸墓古墳と共通している。この2点の共通要素を含む相似墳は、他には神戸市の西求女塚(にしもとめづか)古墳(同約100m)しか確認されておらず、禁野車塚の埋葬者は箸墓の密接な同盟者だったとみられる。
 箸墓古墳を造ったのと同じ技術者集団が、淀川上流域を支配し大和王権と従属関係にあった人物を埋葬するために造ったと推定している。
 禁野車塚は、淀川支流の天野川東岸に面して造られている。1972年に国史跡に指定されたが、墳丘の発掘調査が実施されておらず、被葬者は分かっていない。
[参考:読売新聞、朝日新聞]

禁野車塚古墳
 全長110mの前方後円墳で、牧野車塚古墳とともに枚方市内では屈指の大型古墳です。
 後円部の直径は57m、同高さは9.9m、前方部の幅40mを測り、前方部を西に向けています。
 前方部はかなり削られていますが、後円部は2段に築成された様子が観察でき、葺石と埴輪の存在も認められます。
 内部構造や副葬品については明らかではありませんが、後円部上に板石が存在することから、主体部は竪穴式石室である可能性があります。
 したがってこの古墳が築造された時期は、予想される主体部と墳丘の状態から4世紀末~5世紀初頭頃と推定できます。
 この地が淀川と天野川の合流地点を臨むという良好な立地条件から、この地域の交通権を掌握した首長の墓と考えられます。
 2002年2月 文化庁 大阪府教育委員会 枚方市教育委員会               (現地案内板より)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 柏原市・河内国分寺 金堂遺... | トップ | 羽咋市・寺家遺跡 気多大社... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事