福岡県宗像市は21日、同市田熊2丁目で発掘調査を進めていた弥生時代の「田熊石畑(たぐまいしはた)遺跡」の墳墓から、同時代中期ころ(約2200年前)の青銅器の細形銅剣4本と銅戈1本が出土したと発表した。
弥生時代中期前半(紀元前2世紀)の墓から出土した青銅武器としては最も数が多く、市教委は「一帯を治めた有力首長の墓だろう」としている。
銅剣は長さ27‐43cm、銅戈は長さ24cmで、武器として実用的な細形。
性別は分からないが頭骨とともに深さ約80cmの土中で見つかった。
被葬者の胸付近にそれぞれ切っ先を足元に向けて置かれていたとみられる。
近くから装飾品の翡翠製垂飾1点、碧玉製管玉十数点も発掘された。これらは髪飾りだった可能性がある
墳墓は南北に縦2m、幅70cm、高さ80cmで、木棺墓か土壙墓かは断定できない。
北部九州では、弥生時代中期から青銅武器が副葬され始める。この時代、国内でこれまで1つの墓から複数の武器形青銅品が出土したのは、福岡市早良区の「吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡」と福岡県古賀市の「馬渡束ケ浦遺跡(まわたりそくがうら)」で、銅剣や銅戈、銅矛など計4点の出土が最多だった。
中国の歴史書「漢書地理誌」はこの時代から1世紀ほど後の倭に〈百余国〉が存在したと記す。
専門家の意見
柳田康雄・国学院大教授(考古学)「吉武高木遺跡の墓と違って鏡こそ出ていないが、馬渡束ヶ浦遺跡とともに3者はほぼ同等のランクと考えられる。この時期にはすでに、福岡平野に限らず玄界灘沿岸で突出した首長を抱くクニが成立していたのだろう」
九州歴史資料館・西谷正館長「1人の墓から5本の銅剣、銅戈が出土したことは、宗像の地域に相当有力な首長が存在したことを裏付けており貴重だ」
[参考:西日本新聞、読売新聞]
弥生時代中期前半(紀元前2世紀)の墓から出土した青銅武器としては最も数が多く、市教委は「一帯を治めた有力首長の墓だろう」としている。
銅剣は長さ27‐43cm、銅戈は長さ24cmで、武器として実用的な細形。
性別は分からないが頭骨とともに深さ約80cmの土中で見つかった。
被葬者の胸付近にそれぞれ切っ先を足元に向けて置かれていたとみられる。
近くから装飾品の翡翠製垂飾1点、碧玉製管玉十数点も発掘された。これらは髪飾りだった可能性がある
墳墓は南北に縦2m、幅70cm、高さ80cmで、木棺墓か土壙墓かは断定できない。
北部九州では、弥生時代中期から青銅武器が副葬され始める。この時代、国内でこれまで1つの墓から複数の武器形青銅品が出土したのは、福岡市早良区の「吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡」と福岡県古賀市の「馬渡束ケ浦遺跡(まわたりそくがうら)」で、銅剣や銅戈、銅矛など計4点の出土が最多だった。
中国の歴史書「漢書地理誌」はこの時代から1世紀ほど後の倭に〈百余国〉が存在したと記す。
専門家の意見
柳田康雄・国学院大教授(考古学)「吉武高木遺跡の墓と違って鏡こそ出ていないが、馬渡束ヶ浦遺跡とともに3者はほぼ同等のランクと考えられる。この時期にはすでに、福岡平野に限らず玄界灘沿岸で突出した首長を抱くクニが成立していたのだろう」
九州歴史資料館・西谷正館長「1人の墓から5本の銅剣、銅戈が出土したことは、宗像の地域に相当有力な首長が存在したことを裏付けており貴重だ」
[参考:西日本新聞、読売新聞]