歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

田原本町秦庄・秦楽寺遺跡 古墳時代の玉作り工房跡

2008年04月17日 | Weblog
 古墳時代中・後期(5世紀後半~6世紀前半)の秦楽(じんらく)寺遺跡から、琥珀や瑪瑙(めのう)などを加工した玉製品の完成品や未製品、石を磨く砥石)などが見つかり、町教委が17日発表した。この地域一帯の支配者の首飾りなど、玉製品の生産が行われていたことを示す貴重な資料になりそうだ。
ため池の護岸工事に伴って150㎡を調査したところ、滑石製の勾玉や管玉、琥珀を加工した丸い玉などの完成品や未製品約130点が出土。いずれも数mm~数cm大。加工する前の水晶や碧玉、琥珀などの原石も見つかった。
また、[原石を荒く割り、粗く削り、糸を通すための穴を空け、研磨する] 玉作り加工途中とみられるような石も出土した。
県内橿原市の曽我遺跡では、数十万個とも推定される大量の玉製品が見つかり、大和政権直轄の国内最大の玉作り工房とされている。秦楽寺遺跡は、同町域一帯を支配した首長のもとで玉製品が生産された可能性もあるという。
現場はすでに埋め戻されており、4月19日~5月25日(毎週月曜休館)に同町阪手の唐古・鍵考古学ミュージアムで開かれる発掘速報展で公開される。[産経ニュース]
参考: 秦楽寺遺跡は、曽我遺跡からは北北東に3.5kmほどの距離にあり、その直線上の途中には多氏ゆかりの多神社がある。
曽我遺跡は、秦楽寺遺跡と同様に5世紀後半から6世紀前半までの期間に営まれた大規模な玉造りの生産遺跡。滑石、碧玉、緑色凝灰岩、琥珀、水晶等の原石が各地から持ち込まれ、玉が生産されていた。出土した玉は完成品をはじめ、多くの未製品、そして玉に加工をするための道具等も一緒に出土している。周辺には天太玉神社という玉造生産に深く関わりのある神社があり、この場所一帯が玉造生産を行っていた地域であったと言えよう。
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米子市・博労町遺跡 2個が背中合わせのX字型の勾玉が出土(全国でも異例)

2008年04月04日 | Weblog
 米子市教育文化事業団は3日、米子市博労町四丁目の博労町遺跡で珍しい形の勾玉が出土したと発表した。
 勾玉は左右がほぼ対象で、大きさは縦21mm、横26mm、厚さ8mm。滑石製で、青みがかった灰色をしている。
 大きさの違う勾玉をくっつけた例はこれまでにも確認されているが、同じ大きさを組み合わせたものは珍しく類例が見当たらない。全国で初めてだろうとしている。
 紐を通した跡があり、他の勾玉と同様に装飾品として使われたらしい。地下1.9m付近から一緒に出土した土器片などから古墳時代前期(3―4世紀)ごろのものとみられる。
 出土した勾玉が同時代の「立花(りっか)」と呼ばれる関東独特の祭祀系遺物に形と素材が似ている点に注目。近くで勾玉を作っていた跡や滑石の採石場は確認されておらず、関東と山陰の間に何らかの交流があったのではと推測する。祭祀に使われた可能性もある。
 遺跡からはほかにも未完成と一部が欠けた勾玉各1個が出土した。
 古墳時代前期の竪穴住居跡七棟や大量の土器が出土したほか、貴族が身に付けた腰帯具や墨書土器が出土したことから、奈良~平安時代には役所関連の遺構があったと推定される。
 現地説明会は5日午後1時30分から。
[参考:山陰中央新報、日本海新聞、読売新聞、産経新聞]
備考:
○博労町: 博労とは、もともと馬の良しあしを見分けたり、馬の病気を治す人のことであるが、日本橋馬喰町と同じように、牛馬の売買や仲介をおこなう博労頭たちが住んでいたことにちなみ、博労町としていたとおもわれる。
○立花: 立花は勾玉を背中合わせにして結びつけた形を表し、殆んどが滑石製である。石枕と一緒に出土することが多いが常総半島に限られている。常総半島では埋葬儀礼の意味を示している。石枕と一緒に出土する場合は、石枕に立花を挿す孔があいているのが殆んどであるが、石枕に孔がなく、立花が一緒に出土した例がある。立花自体の分布は、西は静岡県、北は群馬県から茨城県の那珂川下流域にわたってである。[参考文献:「関東における古墳形成の特性」白井久美子 考古学研究54-3 2007winter]
○常総半島で見つかる場合には埋葬儀礼として用いられるが、その他の場所ではそれ以外の目的で使用された可能性がある。立花は孔に挿すための軸があるが、今回出土のものは軸がなく、立花としては例のない左右の頭に穴があった。今回は首飾りで装飾用の可能性。
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