歴歩

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伏見城・城下町跡 黄金の天目茶碗が出土

2008年12月26日 | Weblog
伏見城・城下町跡 黄金の天目茶碗が出土
 「24日までに、京都市伏見区の伏見城城下町跡の発掘調査で16世紀末の天目茶碗が出土した」と、京都新聞が報じた。
 「調査地は、古地図には武将富田信高の屋敷と記されている」としているから、11月に金製品が約20点出土したといわれる桃陵遺跡か。
 東西幅14mの礎石建物の横の溝から出土した茶碗の破片は、長さ7cm、幅4cmで、金は輝きを放ち、緑色の斑点が付いている。
 調査した西近畿文化財調査研究所(兵庫県)は、「大名が使ったとすれば黄金趣味の茶会が、一般大名にも広がっていた可能性がある」と話している。
[参考:2008.12.24京都新聞]

[2008.11.19掲載分]
伏見城跡・桃陵遺跡 金製品約20点が出土
 西近畿文化財調査研究所(兵庫県加東市)によると、豊臣秀吉が築いた初代伏見城(指月城)跡・桃陵遺跡(京都市伏見区)の堀跡とみられる遺構から、江戸時代前期の純金製飾り金具の一部や金箔を施したピンセット状の道具など金製品約20点が見つかった。家紋が入った漆塗りの椀 も出土した。
[参考:読売新聞]
金ピカお道具20点も…太閤さんの伏見城跡出土品(読売新聞) - goo ニュース

[10月28日掲載分]
伏見城跡・桃陵遺跡 堀・石垣跡が出土
 西近畿文化財調査研究所(兵庫県加東市)は27日、京都市伏見区東奉行町・西奉行町の伏見城跡・桃陵(とうりょう)遺跡で、堀や石垣跡(16世紀後半)が出土し、豊臣秀吉(1537~98)が1592(文禄元)年に築造した初代伏見城(指月(しげつ)城)のものである可能性が高いと発表した。
 堀の底から金箔が施された銅製煙管(きせる)の吸い口と先端(長さ各5cm)や瓦、高麗青磁の茶道具、16世紀後半の陶磁器なども出土し、秀吉の好みが反映された城の一端がうかがえる。見つかった堀は東西の幅16m、南北の長さが11m、深さ2・2mだった。本丸移築後、秀吉の家臣・富田信高の屋敷があった場所だという。堀は1600年ごろに描かれた伏見の城下町絵図などに記されていないし、屋敷のものとしては規模が大きいことなどから、初代伏見城(指月城)の遺構である可能性が高いという。現場から南約200mにある宇治川に合流していたとみられる。西側の護岸には4段の石垣が確認された。
 堀の西側から見つかった建物跡は、江戸時代の絵図などから、秀吉に仕えた戦国武将富田信高(?~1633)の屋敷とみられる。
 指月城は、秀吉が隠居所として築造したが、4年後の「慶長伏見大地震」で倒壊。その後北東約500mの木幡山に移された。
 また、堀に隣接して江戸末期の伏見奉行所跡も見つかった。幕末の鳥羽伏見の戦いで新撰組など幕府軍が陣取り、薩摩軍の砲撃で全焼した史実通りに、焼けた瓦や土壁、崩れた石垣などが出土した。
 現地説明会は11月1日午後1時から。
[参考:読売新聞、京都新聞、産経新聞、朝日新聞]
秀吉好み、金のキセル出土…伏見城跡の桃陵遺跡(読売新聞) - goo ニュース

[指月城→木幡山城→伏見城概略年表]
1592年 豊臣秀吉が隠居所として指月山に指月城を築城。
1596年 慶長伏見大地震で倒壊のため、約500m離れた木幡山(現在の桃山)に新たに木幡山城を築城。
1598年 豊臣秀吉がこの城で死去。
1600年 伏見城の戦いで焼失。
1601年 徳川家康により再建。
1625年 廃城。

[富田 信高(とみた のぶたか)]
宇多源氏佐々木氏の庶流
父・左近将監一白は秀吉が近江長浜城主の頃からの古参家臣。豊臣政権初期の奉行として活躍する。
1588年 秀吉に仕える。
1595年 一白が伊勢国安濃津3万石を拝領。
1599年 一白が死去し、遺領を引き継いで安濃津5万石の主となった。津城(安濃津城)に入る。
1600年 家康の上杉討伐に従軍。安濃津城攻防戦が開始されたが遂には開場する。剃髪して高野山に入る。
1608年 伊予国宇和島藩12万石に加増移封された。
1613年 坂崎直盛との係争がこじれて改易となり、磐城平藩鳥居家に預けられた。
1633年 死去。
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伊賀市・霊山寺 石造宝塔 伊行元の作と判明

2008年12月26日 | Weblog
 伊賀市教育委員会は25日、同市下柘植の霊山山頂(標高765.8m)にある鎌倉時代の石造の宝塔(霊山寺所蔵)を市文化財に指定した。
 石造宝塔は、霊山山頂にあった鎌倉時代の寺院跡から、笠(高さ40cm、縦・横62cm)、塔身(高さ41cm、直径53cmの円柱形)、基礎部分(高さ38cm、縦・横66cm)が確認された。ともに花崗岩製。下から基礎、塔身、笠、相輪で構成される宝塔のうち、相輪部分は失われ、塔身と基礎は山頂の石室にある聖観音菩薩像の台に、笠は近くの五輪塔に、それぞれ使われていた。
 市教委が各部の拓本を取るなど調査を進めた結果、基礎に「永仁3年」(1295年)、「大工伊行元」と彫られていることが確認できた。伊行元(い・ゆきもと)は行末の孫に当たるとみられる。
伊派は東大寺を復興した重源上人が中国から招致した石工の子孫とされ、大和を中心に優れた石造物を多く残した。重源上人は新大仏寺(伊賀市富永)とのかかわりが深かったため、今回の石造宝塔についても、伊派の一族が伊賀で仕事をしていたことをうかがわせるという。伊派が伊賀地域でも活躍していたことを証明する貴重な資料という。
 伊行元の作品としては、大宇陀春日神社の五輪塔(奈良県宇陀市)や藤原不比等の墓と伝わる十三重石塔(奈良県桜井市)が確認されている。
 伊派が作った石造物の発見は、昭和48年、奈良県大和郡山市の額安寺の宝篋印塔が確認されて以来、35年ぶりとなった。
 市教委は、聖観音像が現在も信仰されているため、塔は復元せず現状のまま保存する。
[参考:産経新聞、中日新聞]

霊山寺(れいざんじ)
最澄が開基したと伝えられる古刹。山頂765mに大伽藍があったらしい。江戸時代に標高395mの現在の場所に再興された。
本尊は十一面観音世音菩薩(像高1.8m)、江戸時代初期作。

参考:前出
大和郡山市・額安寺 宝篋印塔の矢跡は中国・寧波がルーツ
東大寺南大門 石造獅子 中国の石材「梅園石」か
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