歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

京都市伏見区・伏見城城下町跡 伊達家屋敷跡から「竹に雀」を表現した金箔瓦が出土

2014年05月16日 | Weblog
 京都市の伏見城城下町跡で、仙台藩主・伊達政宗の上屋敷跡とされる場所から家紋「竹に雀」を表現したとみられる金箔瓦の破片が見つかった。
 調査した京都市埋蔵文化財研究所は、仙台城でも見つかっていないおしゃれなデザインで貴重な瓦という。
 発掘調査は2012年(注1)、伏見区桃山町正宗で実施した。 安土桃山時代末期から江戸時代初期の遺物(注2)とともに鳥の文様の軒丸瓦(直径約17cm)(注3)と、筍と竹の葉を描いた軒平瓦(長さ約26cm)(注4)の破片計10点が出土した。 鳥の一部には金箔が施され、筍の部分にも金箔の下地の漆が残っていた。
 「竹に雀文」は伊達家の代表的な家紋で、向かい合う2羽の雀が竹の輪の中で羽ばたいている。(注5)
 調査担当のモンペティ恭代主任が破片を屋根に葺き上げた状態で復元したところ「竹に雀文」と似た図柄になった。主任は「高い屋根で複雑な家紋を表現しても下からは見えにくいため、瓦ごとの図柄を鳥やタケノコに分けることで見やすいようにしたのではないか」と推測している。
[参考:2014.5.14読売新聞、2014.5.15共同通信]

インターネットで、第248回京都市考古資料館文化財講座『新発見!伏見城城下町「正宗」の武家屋敷』(2013.9.28 (財)京都市埋蔵文化財研究所 モンペティ恭代)の資料が公開されていた。 既に、この段階で前述の内容が報告されていた。それをもとに、若干の(注)を付けてみた。
(注1) 2012年11月12日から12月15日の約1ヶ月間
(注2) 瓦に関しては、このほかに巴文軒丸瓦・唐草文平瓦が出土している。
(注3) 鳥文軒丸瓦
(注4)竹の葉文軒平瓦
(注5)仙台城や伊達江戸屋敷の発掘調査では、家紋瓦として「三引両文」、「九曜文」は報告されているが、「竹に雀文」はない。

過去の関連ニュース・情報
 盛岡市・松峰山 東顕寺
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袋井市岡崎 1983年に茶畑から出土した梵鐘は豊橋市普門寺の前身の寺に懸けられていたことが判明

2014年05月15日 | Weblog
 袋井市岡崎の茶畑から31年前(1983)に出土し、市役所ロビーそして今は郷土資料館(袋井市浅名)に展示されている梵鐘(青銅製で高さ92・4cm、口径53cm)が、平安時代末期に製作された貴重な鐘であることが、公益財団法人・元興寺文化財研究所(奈良市)の調査で分かった。
 袋井市と旧浅羽町との合併を機に同研究所に調査を依頼。今年3月に調査報告書がまとめられた。
 梵鐘表面に「高松院(注1)によって施入(せにゅう、献上)された釣り鐘を天皇(注2)の了解の元に左衛門尉藤原師光(注3)を奉行として平治元(1159)年8月13日に三河国(愛知県)の紇哩岡(きりおか)寺(注4)に賜った。平治2年(1160年)に鋳造され、同寺に懸けられていた」との銘文が刻まれていた。 銘文がある梵鐘としては、妙心寺(京都市)や興福寺(奈良市)などに次いで12番目に古いという。 紇里岡寺は愛知県豊橋市にある普門寺(注5)の前身で、奈良時代の僧行基の創建と伝わる。
 鐘がなぜ袋井市内の茶畑に埋められていたかは不明だが、市教委は、戦国時代に三河地方まで勢力を伸ばした戦国大名の今川氏が持ち帰った可能性が高いとみている。
[参考:2014.5.3朝日新聞、2014.5.11読売新聞]
過去のニュース・情報
 豊橋市・普門寺

(注1)高松院(1141-1176、姝子内親王): 二条天皇の中宮(1159年2月)。鳥羽天皇の皇女。1160年8月出家。
(注2)二条天皇(1143-1165)、在位は1158-1165。
(注3)藤原師光(?-1177): 信西(藤原通憲)の家来となり、平治の乱で信西が死ぬと出家して西光と名乗る。後に後白河法皇に仕えた。
(注4)紇哩岡寺、紇里岡寺どちらの字を当てるのが正しいかはわからない。「紇」はあるいは「紀」とも。
(注5)真言宗船形山普門寺(豊橋市雲谷): 普門寺は静岡県境の弓張山系の南端にある山岳寺院。 標高約220mの山中にある。 現在は真言宗の寺院だが、 もとは現在の場所より北側の船形山の斜面に広大な境内を持つ密教系の山岳寺院だった。
 かつての境内跡とされる山の斜面には、本堂だった元堂や元々堂の跡のほか、「平場」に僧侶が生活した坊院跡が200カ所以上も点在し、信仰の対象となった巨岩も残されている。
 「三州船形山普門寺略縁起」では、神亀4年(727)年に行基が開山したとされる。
 これまでの発掘調査から、 平安時代中期(10世紀)の創建とみられる。
 嘉応年間(1169~71年)に兵火にあって焼失。
 養和年間(1181~82年)に源頼朝の叔父とも舎弟とも云われる化積上人が学頭となり寺を再興。頼朝の保護を受けた鎌倉時代に大いに繁栄した。
 頼朝が立ち寄ったと伝えられている。源頼朝が上洛したのは建久元年(1190)。10月3日に出発し、11月7日に入洛、12月29日に鎌倉に戻る。普門寺近くを通った可能性があるのは、(往)10月13日菊河(菊川)、18日橋下(橋本)、25日野間庄(復)12月18日小熊、20日橋下(橋本)、21日池田。
 戦国時代は全山が焼失したが、今川氏により再興され、江戸時代には徳川家や吉田藩の保護を受けた東三河有数の古刹とされる。
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