歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

香川県東かがわ市・田中遺跡 琴柱形石製品が昨年前半に出土

2011年05月31日 | Weblog
 香川県埋蔵文化財センターでは、昨年6月~10月の間、田中遺跡(東かがわ市白鳥)の発掘調査を行い、琴柱形石製品2個(5世紀前半)が出土していた。 新聞のニュースには出ていなかったので、今までまったく気がつかなかった。
 その概要は、香川県埋蔵文化財センターのホームページと、広報誌「いにしえの讃岐 67号」(2010年10月発行)に記載されている。
 琴柱形石製品は近畿と中部で多数出土しているが、中国、四国では僅かである。 今回の出土は香川県では2例目となる。
 出土した石製品(高さ3.5cm、滑石製)を上部・中部・下部に分けて見ると、上部は大きなV字の切り込みとその左右に小さなV字の切り込みがあり、両端近くに上下方向の孔を穿ち、中部は胴が湾曲して細くなり恵解山型の様相を示すが、下部には下端に2つの突起を持ち、それぞれ上下方向に孔を穿ちに宮山型の様相を示しており、これまでの琴柱形石製品では初めての形である。
 現地説明会の資料には、四国、中国、九州地方の琴柱形石製品一覧表が載せられているが、他の遺跡での調査報告書で、記載されていたものを含めてリストとしてまとめてみると下記のようになる。

[西日本における琴柱形石製品出土リスト]  *は追加部分
四国 田中遺跡 香川県東かがわ市 5世紀前半 2個 (恵解山+宮山型)
四国 羽立峠西古墳 香川県さぬき市鴨部 5世紀前半 1個 (恵解山型)
四国 *伝・小森所在古墳 徳島県鳴門市姫田 1個 (宮山型) (注1)
四国 谷口山上古墳 徳島県鳴門市大麻町 5世紀後半 1個 (恵解山型)
四国 宮尾神社西山古墳 徳島市鳴門市大麻町 5世紀前半 2個 (宮山型)
四国 恵解山2号墳 徳島県徳島市八万町 5世紀前半 4個 (恵解山型)
中国 畑原開山9号墳 広島市三次市大田幸町 5世紀後半 2個 (宮山型)
中国 *大久保9号墳 広島県三次市 2個 (不明) (注2)
中国 東福寺山頂古墳 岡山県瀬戸内市邑久町 5世紀中頃 1個 (恵解山型)
中国 上神大将塚古墳 鳥取県倉吉市 4世紀末 4個 (宮山型)
中国 長瀬高浜遺跡 鳥取県鳥取市羽合町 4世紀 1個 (本村型) (注7)
九州 森の上古墳 佐賀県佐賀市大和町 5世紀後半 1個 (恵解山型)
九州 *久保泉丸山2号墳 佐賀県佐賀市久保泉町 5世紀中頃 4個 (宮山型) (注3)
九州 浜山花見2号墳 福岡県古賀市 5世紀 2個 (恵解山型)
九州 *南原5号墳 福岡県古賀市 1個 (不明) (注4)
九州 七夕池古墳 福岡県糟屋郡志免町 4世紀末 2個 (恵解山型)
九州 人丸古墳 福岡県糟屋郡新宮町 4世紀後半 2個 (恵解山型)
九州 *四反田 3号墳墓 福岡県志摩町 4世紀後半 1個 (恵解山型) (注5)
九州 *塚田3号墳 福岡県二丈町 5世紀 1個 (宮山型) (注6)
九州 城2号墳 熊本県宇土市上網田町 5世紀中頃 2個 (恵解山型)

参考文献、資料
(注1) 徳島県立博物館所蔵、出土古墳は不明。 亀井正道1973「琴柱形石製品考」による
(注2) 奈良県大宇陀町の北山古墳調査報告書の出土一覧表に記載。 型式の記載なし。
(注3) 人丸古墳/新宮町教育委員会 1991
(注4) 古賀市HPに記載だが、型は不記載
(注5) 岡寺良「琴柱形石製品の形式学的研究」2005.3、河村裕一郎「四反田古墳」Ⅱ志摩町教育委員会
(注6) 橋口達也他1982「今宿バイパス関係埋蔵文化調査報告」第7集
(注7) 下曽我遺跡・永塚下り畑跡第Ⅳ地点2002.9 鎌倉遺跡調査会/下曽我遺跡調査団 

備考:
① 本リストから、兵庫県出土のものは除いた。兵庫県は、恵解山型3遺跡4点、宮山型2遺跡4点、松林山型3遺跡3点を出土しており、近畿圏に属すると思われる。
② 琴柱形石製品の最近の出土は少ない。この5年の中に限ってみてもせいぜい下記の3件くらい。
 2006年2月24日(常陽新聞) つくば市・下河原崎谷中台遺跡で琴柱形石製品が茨城県内初出土。5世紀、恵解山型
 2006年7月11日(読売新聞) 糸魚川市・笛吹田遺跡で琴柱形石製品が新潟県内初出土。4世紀、丸山型
 2010年5月15日(現地説明会資料) 府中本町・武蔵国府関連遺跡出土、異形石製品(琴柱形石製品)。4世紀、本村型

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 琴柱形石製品

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奈良市・薬師寺 金堂西側横に大量の瓦が埋もれて出土

2011年05月28日 | Weblog
 今朝の読売新聞で、「奈良市の薬師寺の金堂西側で、奈良時代を中心とした大量の瓦が出土した。」と報じていた。
 地下0・8mから幅6m以上、深さ0・3mの穴が見つかり、膨大な瓦が折り重なって埋められていた。
 薬師寺は710年の平城遷都に伴い、718年に藤原京(橿原市)から現在地に移建されたとされており、大半はこの時期の瓦で、前身の本薬師寺(橿原市)や平安時代のものとみられる瓦もあった。
 瓦に焼けた痕がないことから、文安2年(1445)の大風で金堂が倒れた際に落ちた瓦で、後片付けを急いで近くに埋めたとみているとしている。 現場は既に埋められている。

 2008年3月25日~6月8日まで東京国立博物館で開催された「国宝 薬師寺展」で購入した図録には、
 天禄四年(973) 2月の食堂から出た火災により、講堂、三面僧坊、回廊、経蔵、鐘楼、中門、南大門などが焼失するも、金堂と東西両塔は何を逃れた。(日本紀略)、「薬師寺縁起」)
 永祚元年(989) 8月、大風で金堂上層倒壊す。(「薬師寺縁起」)
 文安二年(1445) 大風により、金堂、南大門など倒る。(薬師寺濫觴私考「東大寺堂方方年中行事記」)
 享禄元年(1528) 9月、兵火のため、金堂・講堂・中門・西塔など焼失(「薬師寺年記」)
と記載されている。

 今回、瓦に焼けた痕がないことから、文安2年(1445)の大風による倒壊としているが、永祚元年(989)の大風でも倒壊した記録が残っている。
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奈良県三郷町・勢野東遺跡 縄文時代草創期の石器工房跡か、2万点の石器が出土

2011年05月27日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所と三郷町教委が27日、奈良県三郷町の勢野(せや)東遺跡で縄文時代草創期(約1万5000年前)の石器工房跡が見つかったと発表した。
 狩りで使う槍先形尖頭器を作っていたとみられ、石器約2万点がまとまって出土した。この時期で同じ石器が大量に出土した遺構はこれまでに東京、新潟、長野で計4カ所確認されているが、西日本では初めてという。
 石器は殆どが1cmから十数cmまでの破片で、製作過程の破片や失敗作とみられる未完成品ばかりが残されていた。
 出土状況から、川べりで石のハンマーを使って石器の形を整えていたとみられる。
 石材は、9km南の二上山で採れるサヌカイト(安山岩の一種)とみられる。 また石材の「チャート」で作られた槍先形尖頭器も1点出土し、奈良では採れないため、岐阜県や兵庫県丹波地方などの産地と交流していた様子がうかがえるという。
 石器は6月1~9日、三郷町役場隣の町文化センターで展示される。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞]

勢野東遺跡


キーワード:勢野東遺跡
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宇治市・旦椋遺跡 円墳や竪穴住居跡を発見、大規模な群集墳の可能性

2011年05月27日 | Weblog
 宇治市は26日、古墳時代の豪族、栗隈氏(くりくまし)の拠点と推定される旦椋遺跡(あさくらいせき、宇治市大久保町)の発掘調査で、古墳時代後期(6世紀後半)の小型円墳(直径18~20m)1基と飛鳥時代(7世紀)の竪穴住居跡6棟が見つかったと発表した。
 円墳や住居跡は、室町~江戸時代に繰り返されたとみられる洪水で土砂が堆積し、地表から約2m下から出土した。
 円墳は6基目となる。 古墳の分布範囲は旦椋神社(同市大久保町)が北限とみられていたが、今回は神社の北西側で出土したため、古墳の造られた推定範囲が、今回の発見や一帯の地形から従来の倍に広がる可能性があるとみている。
 現地説明会は28日午前10時~正午に行われる。
[参考:京都新聞]

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渋谷区広尾・瑞泉山祥雲寺 金森家の菩提寺として

2011年05月27日 | 瑞泉山祥雲寺
 再度、渋谷区広尾の祥雲寺に行ってきました。 いつもは、朝早いうちに行くのですが、今回は夕方近くからでした。
 カラスに襲われました。 といっても威嚇ですが、頭上すれすれをめがけて5、6回飛んできて威嚇されました。
 祥雲寺の墓地は、北側3分の1くらいが丘のようになっていて、多少木が生えており、もしかしたらそこに巣を作っているのかもしれません。 夕方に行かれる方は是非気をつけてください。

 さて、祥雲寺および京都・大徳寺と金森家の関係について、少々調べました。

 まず、大徳寺との関係は、資料「大徳寺の歴史」(山田宗敏編 平成5年5月 毎日新聞社発行)によると、
■ 金森兵部卿法印素玄五郎八長近(1524-1608) 飛州(飛騨)高山城、三万八千石、織田信長の冥福を薦るために、大徳寺に金龍院を剏(創)る。(法名:金龍院素玄要仲玄英)
 曾孫長門守頼直(1621-1665) 飛州に大隆寺を建てる。禅海俊公を開祖とする。
 長近の孫・飛騨守重近(1584-1657)は病と称して辞職する。 卜居し、京都にて剃髪し入道となる。 名を宗和といい、茶会を能くし、世に名声あり。
■ 金龍院 慶長年中、金森五郎八長近が松嶽紹長を請じて造立する。 松嶽紹長は故あって山門を擯出したため、傳叟を請じて住持とした。天瑞の西にあり。
■ 妙高山大隆寺 某年、飛州金森長門守頼直は、傳叟を嗣ぐ禅海(宗俊)禾上を開祖として高山城に建立する。 2世は大陰禾上。金龍院に属する。(注2)
のようになります。
(注1) 金龍院は、文禄元年(1592)に建立されましたが、明治22年に廃寺となり、同じ大徳寺の龍源院に統合されました。
(注2) 元禄5年(1692)、6代藩主金森頼時が出羽国上山藩(現山形県上山市)に移封となると衰退し、安永7年(1778)に大而宗龍が曹洞宗の寺院として再興。 境内には金森頼直夫妻とその子の墓碑がある。

 金森家は江戸においては、広尾にある大徳寺派・瑞泉山祥雲寺を菩提寺としました。
 先日、ブログ・「飛騨の歴史再発見!」で金森氏の戒名がたくさん書かれていたので、それを書かれた徳積善太さんにリンクさせていただくことをお許しいただいて、それを元に今回、祥雲寺を再訪問したしだいです。
 金森氏と祥雲寺の関係

 もとは、いくつかのあるいはたくさんの墓が並んでいたと思われますが、どうやら今は少なくとも2つに集約されてしまっているようです。 わかっている2つの墓石(塔)には下記のように刻まれています。
 

左: 源姓金森累世之塔
右:(表)源姓土岐金森累世父母霊
  (裏)延享二乙丑年(1745)八月十二日兵部侍部源頼錦建
  (表下部基礎石)覚樹院殿前兵部侍郎茅山清藍大居士

 金森頼錦(1713-1763)は1736年に家督を継いでいますので、その9年後にこの墓塔を建てました。 藩内の騒動により、1758年改易され盛岡藩の南部利雄に預けられた後、宝暦13年(1763年)6月6日に死去しました。 墓の下部基礎石に小さく刻まれた戒名は、恐らく死去後に刻まれたと思いますが、「茅山清監」の部分は、「茅」は「芳」あるいは「第」、「清」は「青」と書かれているものがあります。 先の「金森氏と祥雲寺の関係」では「第山清藍」としています。 「飛騨遺乗合符」(桐山力所編纂)の「金森家大系図」では「芳山清藍」としています。ちなみにWikipediaでは「芳山青藍」としています。

追記2011.6.17 「金森氏雑考」(大正十年十一月 陸軍中将・押上森蔵著)によれば、金森頼錦が亡くなった盛岡の地での墓臺石には、「『樹覚院殿兵部侍郎茅山清藍大居士宝暦十三年六月六日』と彫し」と記しています。樹と覚が反対になっていますが、「茅山清藍」としています。

追記2011.1017 前述の記載内容は、文面の流れから盛岡の地での墓石のものかと判断したが、実際に盛岡の地・法泉寺に赴いてみるとまったく違った内容であった。それについては、改めて記すことにする。

本ブログ内の過去の関連情報
 瑞泉山祥雲寺
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京都市中京区・平安京右京三条一坊六町跡 「百花亭」建物跡?が出土

2011年05月27日 | Weblog
 京都市埋蔵文化財研究所が26日、平安京右京三条一坊六町に当たる場所(中京区西ノ京星池町17番地59他)で平安時代前期とみられる建物跡が見つかったと発表した。 藤原良相(よしみ)(813-867)の邸宅「百花亭」があったとされる場所で、百花亭を構成した建物跡の可能性があるとしている。
 掘立柱穴跡が複数出土、建物は南北6・3m、東西4・2m以上で、庇を支えた柱跡もあった。出土した土器から9世紀の建物跡と判断した。
 藤原良相は、藤原良房の弟で右大臣などを務めた。 邸宅は桜が多く植えられていたことから「百花亭」と呼ばれ、清和天皇が行幸した記録『三代実録』が残る。
 『三代実録』巻十二貞観八年(866)三月廿三日己亥
 鸞輿幸右大臣藤原朝臣良相西京第。觀櫻花。喚文人賦百花亭詩。預席者册人。四位四人。五位八人。六位廿八人。天皇御射庭。賜親王以下侍從以上射。左右近衛中少將預焉。中鵠者賜布。伶官奏樂。玄髻稚齒十二人遞出而舞。晩奏女樂。歡宴竟日。賜扈從百官祿各有差。夜分之後。乘輿還宮。

 なお、「百花亭」の候補地は一坊六町のほかに一坊四町、十三町などもある。
 現地説明会が28日午前10時から開かれる。
[参考:読売新聞、京都市埋蔵文化財研究所HP]

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福井県若狭湾 400年前の地震と津波による大きな被害を文献で確認

2011年05月27日 | Weblog
 福井県の若狭湾で、約400年前、地震と津波により大きな被害で出たことを示す記述の残る文献が複数あることが分かった。
 敦賀市の依頼を受けて、敦賀短期大学(敦賀市)の外岡慎一郎教授(日本中世史)が調べたところ、京都の神社の神主が戦国~江戸時代につづった日記「兼見卿記(かねみきょうき)」で、天正13年(1586)に起きた「天正大地震」で「丹後、若狭、越前の海岸沿いで、家々が波に押し流されて人が死亡した」といった内容の記述があった。前日に「夜に地震があった」と記されていることから、地震による津波を記録したものと推定できるという。
 またポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが書いた「日本史」にも同じ天正大地震の記述として、「山と思われるほど大きな波に覆われ、引き際に家屋も男女もさらっていってしまった」といった記述が見つかった。
[参考:時事通信、共同通信、NHK、日経新聞]

 また、2006年11月1日付共同通信の記事で、「福井県沖断層群で大地震が起きた場合、若狭湾沿岸で津波が3mを超す恐れがあるとのコンピューターシミュレーション結果を、神戸大の石橋克彦教授らがまとめ、名古屋市で開催した日本地震学会で発表した。」内容の記事があったので付け加えておく。
 要旨: 日本海側の津波被害を伴う地震は新潟地震(1964年)をはじめ新潟以北に多く、それより西側では具体的に想定されてこなかったと。 若狭湾沖約100kmにある問題の断層群は、断層3本からなり全体の長さは約80km。付近には西北西側と東南東側から圧縮する力がかかっており、2000年には断層群東端でマグニチュードM6・2の地震も発生した。
 もし、長さ80kmの断層が4mずれるM7・6の地震を想定すると、島根半島や隠岐諸島から能登半島までの広範囲で、津波は1m以上に。このうち若狭湾内の多くの地点で3m以上となるという。
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岡山県・鹿田遺跡 4年前に出土した木製品が平安時代後期の猫の操り人形と判明

2011年05月27日 | Weblog
 岡山大埋蔵文化財調査研究センターは26日、同大鹿田キャンパス(岡山市北区鹿田町)にある鹿田遺跡(岡山市北区鹿田町)で、ネコの頭部をかたどった木製の操り人形が出土していたと発表した。平安時代後期の11世紀中頃のものとみられ、これまでに確認された動物の操り人形では、やはり同遺跡で見つかった14世紀のサルを約300年遡る最古のものという。
 鹿田遺跡は、古代から中世の権力者藤原摂関家が領有した荘園「鹿田荘」の跡で、木製品は2007年度の発掘調査で井戸跡から出土した。
 ネコの頭部は長さ、幅とも約6cmで、ウツギ属の木のこぶを利用して作られ、加工された目や鼻の跡が残っていた。2カ所に径約5mmの穴が開いてあり、木串を差し込んで操作したとみられる。
 傀儡子(くぐつし)と呼ばれた芸能集団が使っていた可能性が高いという。
[参考:共同通信、山陰中央新報]
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宇治市・平等院 本尊・阿弥陀如来坐像の台座から金文字の写経を発見

2011年05月26日 | Weblog
 平等院(宇治市宇治)は24日、鳳凰堂内にある本尊・阿弥陀如来坐像(国宝)の台座から、平安時代に貴族が極楽往生を願って供養した写経「紺紙金泥経(こんしきんでいきょう)」一部断片が見つかったと発表した。
 断片は縦2・5cm、横3・5cmの紙など30~50点。劣化が激しく、5、6点のみ金色の文字で「浄土」「誌」や銀の罫線が判読できる。2004年に平等院の本尊などを修理した際、本尊の台座内部からガラス玉や螺鈿(らでん)などとともに発見された。
 鑑定したセンチュリーミュージアム(東京都新宿区)は、平安時代中期の書風と一致したといい、創建期の装飾品なども発見されていることから、平安時代の創建時に由来する可能性もあるという。
 平等院ミュージアム鳳翔館で28日から、パネル展示するほか、今回の分析結果などをまとめた今年度の研究紀要「鳳翔学叢(ほうしょうがくそう)」を院内のミュージアムショップで販売する。
[参考:京都新聞、朝日新聞]

過去の関連ニュース・情報
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 2010.12.26 平等院鳳凰堂 本尊の台座から見つかったガラス玉3個が正倉院宝物と同じ成分組成
 2010.10.6 平等院 幻の本堂の本尊「大日如来像」の一部か
 2010.5.25 平等院鳳凰堂 平安時代中期頃の地層からサルスベリの花粉を発見 通説を遡る時代に植栽?
 2010.3.25 平等院鳳凰堂 国宝壁画「仏後壁」に描かれた舞楽は延喜楽と判明
 2009.1.24 平等院鳳凰堂・仏後壁(国宝) 極楽浄土図の全容が明らかに 藤原頼通も描かれる?
 2008.12.29 平等院 浄土院地蔵菩薩半跏像 南北朝期の作と判明
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御所市・秋津遺跡 縄文時代のノコギリクワガタがほぼ完全な形で出土

2011年05月24日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が24日、御所市の秋津遺跡で、縄文時代晩期後半(2800~2500年前)のノコギリクワガタがほぼ完全な形で出土したと発表した。 昆虫は腐食しやすく、クワガタの全身が発見されるのは縄文時代に限らず初めて。
 橿考研によると、縄文時代のクワガタは東京都東村山市の下宅部遺跡(しもやけべいせき)などで一部(大あご)が見つかっているが、全身の出土例は確認されていないという。
 全長6・3cmのオスで、小川の南岸に生えていたアカガシの根っこに付着した泥の中から見つかった。大雨などの影響で死後すぐに泥で真空に近い状態でパックされたため良好に残ったとみられる。
 アカガシのほかにもクヌギやコナラなど食用の実が成る樹木の雑木林が小川の南側で見つかり、北側では約1千点もの縄文土器の破片も出土した。
 出土したクワガタは橿考研付属博物館(橿原市畝傍町)の特別展で25日~6月12日に展示される。
[参考:産経新聞、共同通信、読売新聞、NHKニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2010.11.27秋津遺跡 塀の部材? 先端が尖った杭が出土
 2010.11.24秋津遺跡 4世紀前半最大級の施設群が見つかる
 2010.1.20秋津遺跡 4世紀前半の巨大祭祀施設の塀跡が出土
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慶南昌寧郡・霊山古墳群 新羅の影響が濃厚な伽耶古墳を発掘

2011年05月24日 | Weblog
 国立伽揶文化財研究所は24日、慶南昌寧霊山古墳群(창녕 영산고분군)の発掘調査の結果、新羅の影響が濃厚な5世紀初期頃の横口式石室墳(앞트기식굴방무덤、횡구식석실분)1基と各種土器類や馬具類など遺物が多数発見されたと発表した。
 墓は直径15m、高さ2.9mで、内部から長軸4.5m×短軸1.2m×高さ1.6mの細長方形の石室が現れた。
 石室は木棺に納めた主被葬者の死体を安置する空間と、副葬品を別に置く副葬空間に区分されている。
 埋葬空間では遺物の大部分が盗掘されていたが、副葬空間では各種土器類と馬具類、そして殉葬人骨片等古代埋葬文化の様相を知ることができる資料が多数収集された。
 この石室墳周辺では、中小型の木槨墓(덧널무덤)と石室墓(돌방무덤)など各種墓11基が確認された。
 今回霊山で初めて発掘された中大型墳規模の横口式石室墓は、築造方法と出土遺物などからみて、昌寧地域では最も早い5世紀前半代の石室墓とみられ、昌寧地方には新羅の影響力が遅くとも5世紀初期までに及ぼしたという事実が確認された。
[参考:聨合ニュース]

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近江八幡市・荘厳寺 空也上人像(重文)の胎内に納入品

2011年05月24日 | Weblog
 滋賀県立琵琶湖文化館は23日、近江八幡市安養寺町の荘厳寺(しょうごんじ)が所蔵する「空也上人像」(国指定の重要文化財、高さ約84cm)をX線CTスキャン(断層撮影)で調査したところ、像の胎内にこれまで存在が知られていなかった丸められた冊子のようなもの(長さ約20cm、直径約5cm)があることが分かったと発表した。
 像は一木割矧造りで、短い衣を着て草鞋(わらじ)を履き、胸には念仏時に打ち鳴らす鉦(かね)を下げ、右手には鉦を叩くために用いる撞木(しゅもく)、左手には鹿角杖(わさづえ)を持つ。 平安時代に念仏を唱えて全国を回った姿を伝える数少ない鎌倉時代の制作の彫刻像とされる。
 空也上人(903-972)の代表的な肖像彫刻としては、京都の六波羅蜜寺に「空也上人立像」(高さ117cm、木像、鎌倉時代、康勝作)が伝わっている。
 昨年、九州国立博物館で開かれた「湖の国の名宝展-最澄がつないだ近江と太宰府-」に出展された際に調査したところ、腹部から紐でくくられた冊子のようなものが画像で確認された。
 納入品は、腐食などがほとんどみられないことから比較的新しく、大正12年(1923)に像が京都国立博物館で解体修理された際の修理の経緯を記した修理願文か寄付者の名前などを書いた結縁交名(けちえんきょうみょう)ではないかと推測される。 具体的な中身は次の解体修理が行われる100~200年後までお預けという。
[参考:京都新聞、産経新聞、滋賀県立琵琶湖文化会館HP]

備考:
浄土宗 別意山荘厳寺 (べついざん しょうごんじ) (滋賀県近江八幡市上野町)
 元亀2年(1571)に織田信長の天台宗寺院の焼き討ちに遭った。それまでは、安養寺という天台宗の寺院であった。
 慶長9年(1604)に浄土宗の朝誉(ちょうよ)が堂を建て、荘厳寺と改称した。 近くにある、国の重要文化財である石造五重塔は、鎌倉時代のものであるが、安養寺の遺物とされている。

安養寺廃寺
 荘厳寺の東南700mに安養寺廃寺がある。 白鳳期から中世末期までの寺院で、「輿地志略(よちしりゃく)」は「相伝、往古安養浄土寺と号する大伽藍地にて、当村悉く其境内なりといふ。今石仏石塔等散在す其の遺跡なり」と記している。
 白鳳期の蓮華紋重弁軒丸瓦片や瓦堆石層が見つかっており、地名に荘巌坊(しょうごんぼう)が残っているという。 また、近くの安養寺遺跡からは単弁八葉蓮華文軒丸瓦も出土している。
 荘巌寺所蔵の空也上人立像以外の、本尊・木造釈迦如来立像(重文) 木造聖観音像(重文)も当寺の遺品と伝えられている。

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臼杵市・下藤地区共有墓地遺跡 16世紀後半から17世紀初めのキリシタン墓地が完全な形で発掘

2011年05月21日 | Weblog
 大分県臼杵市教委は20日、同市野津町にある広原西遺跡「下藤地区共有墓地」(360㎡)で、江戸時代にキリスト教が禁止されるまでに造られたキリスト教徒の墓が、日本で初めて墓石と地下の部分が一緒に完全な形で発掘されたと発表した。
 遺跡は、去年の12月から発掘調査が進められ、これまでに30cm四方の石を長方形に並べたりした墓石37基と、遺体を埋葬した墓の地下の部分が同時に完全な形で見つかった。石組み遺構は4~5列に整然と並び、キリシタン墓の墓穴が見つかっている東京・八重洲北口遺跡などと共通しているという。
 敷地の一角に礼拝堂と見られる建物の跡が見つかったことや、石が加工された年代を調べた結果などから、16世紀後半から17世紀はじめにかけてのキリスト教徒の墓とみられている。
 野津町は、キリシタン大名の大友宗麟の居城のあった臼杵荘の隣りにある。
[参考:毎日新聞、NHK大分放送]

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海老名市・河原口坊中遺跡 円盤に穴を開けた形の弥生時代の石器が柄のついたまま出土 ハンマー説裏付け?

2011年05月20日 | Weblog
 かながわ考古学財団が調査を行っている海老名市河原口の河原口坊中(かわらぐちぼうじゅう)遺跡で、円盤に穴を開けた形の弥生時代の石器(直径約9cm、厚さ最大約3cmが、木製の柄のついたまま出土した。
 この形の石器は各地で出土しているが、周囲を刃物状に加工した「環状石斧」の一種とみて物をたたく道具と考える説と、魚網に結びつけた錘と考えて「石錘(せきすい)」と呼ぶ説に見解が分かれていた。
 木は腐りやすく石器だけが残るが、今回木製の柄がついたまま見つかったことにより、ハンマーのように物をたたく目的で使われていた可能性が高まったとしている。
 河原口坊中遺跡は、厚木駅の北西約1㎞に位置し、標高約21~22mの相模川中流域左岸の自然堤防に立地している。
[参考:読売新聞、かながわ考古学財団HP]

柄がついたままの石器出土、ハンマー説裏付け(読売新聞) - goo ニュース

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甲州市・大善寺 山梨県指定文化財の役行者倚像を解体調査し修復へ

2011年05月19日 | Weblog
真言宗智山派 柏尾山大善寺(だいぜんじ) (山梨県甲州市勝沼町勝沼3559)
 寺伝では養老2年(718)の創建、 開基は行基 とする。
 柏尾山出土の康和5年(1103年)在銘経筒には、それを埋めるまでの経緯が刻まれており、在庁官人として甲府盆地東部の東郡地域で勢力を持った古代豪族である三枝氏の氏寺であったなどが書かれている。

 大善寺は、所蔵する県指定文化財の役行者倚像(えんのぎょうしゃきぞう)を修復する。 大善寺の藤切り祭りは役行者(役小角=えんのおづぬ)が大蛇を退治して地域の人々を救ったという故事が起源と言われている。
 役行者倚像は高さ約120cmで、ヒノキ材を使った寄せ木造り。作者は不明だが、鎌倉時代に作られたとされ、元禄13年(1700)に建立した行者堂に安置されている。 今回、解体して内部を調べるほか、繫ぎ目の鎹(かすがい)を交換。左手に持っている巻物や両手足の欠損部などを修復する。 修理期間は来年3月までとなっている。
 本堂(薬師堂)が国宝のほか、3点が国指定重要文化財になっている。 役行者倚像は県指定文化財であるが、新たな発見を期待する。
[参考:山梨日日新聞]
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