歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

臼杵市・木所遺跡 1200年前後の掘立柱建物跡などが出土

2009年02月28日 | Weblog
 臼杵市教委は3月1日午後1時半から、同市野津町烏嶽で発掘調査した木所遺跡の現地説明会を開く。同遺跡からは旧石器時代、縄文、鎌倉、室町時代などの遺構・遺物が確認されている。
 臼杵市教委は26日、同市野津町烏嶽にある木所遺跡の発掘調査結果を公表した。国宝臼杵石仏(同市深田)周辺の遺跡が機能していた時期と同じ、12世紀末―13世紀初めごろ、同所には河川の通行を管理するような施設となる掘立柱建物4棟の跡が見つかった。石仏が造られた時代の野津地域と臼杵地域の動きを探る上で重要な手掛かりとする。
 このほか、同所に旧石器時代まで川があったが、鎌倉時代までの間に埋められてしまったことも分かった。
 3月1日午後1時半から、現地説明会が行われる。雨天決行。


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宮城県・宮沢遺跡、鶴ノ丸遺跡 平安時代の「のろし」跡発見

2009年02月28日 | Weblog
 宮城県の宮沢遺跡(大崎市)と鶴ノ丸遺跡(栗原市)で出土した平安時代前半の遺構が、当時、通信手段とされたのろし「烽(とぶひ)」を上げた跡とみられることが分かった。
 「烽」は日本書紀に記されるなど、存在はわかっているが、実際に使われた遺構は確認されていないという。
 遺構は、直径約3~5m、深さ約1~2mのすり鉢状のくぼみで、宮沢遺跡で2基、鶴ノ丸遺跡で3基あった。いずれも見晴らしのよい丘の上にあり、8世紀末~9世紀後半ごろのものと見られている。両遺跡は、蝦夷(えみし)に対する朝廷側の拠点「城柵」やその近くにある。
[参考:読売新聞]
平安時代の「のろし」跡発見、宮城県の2遺跡から(読売新聞) - goo ニュース

 『日本書紀』 継体八年三月、伴跛、城を子呑・帯沙に築き、烽候・邸閣を置きて日本に備う。
 『日本書紀』 天智三年(664年) 是歳、對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等に、防(さきもり)と烽(すすみ)とを置く。又筑紫に、大堤(おほつつみ)を築(つ)きて水を貯へしむ。名けて水城と日ふ。
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京都市・清水寺 坂上田村麻呂の坐像を99年ぶりに公開

2009年02月28日 | Weblog
 清水寺で28日、平安時代の征夷大将軍として知られ、寺の創建者とされる坂上田村麻呂(758~811)を祀る重要文化財「開山堂(田村堂)」の開帳法要があった。
 現在の開山堂は江戸時代初頭に再建されたもので、田村麻呂千百年遠忌の1910年以降、非公開としてきた。
 来年が田村麻呂の1200年忌にあたることから、今年の西国三十三所観音霊場の「本尊開帳」に合わせて、寺の本尊「十一面千手千眼観世音菩薩」が公開されるのに合わせ1年前倒しで公開された。
 堂内の漆塗りの厨子(重文)には、秘仏とされる衣冠束帯姿の田村麻呂公坐像(高さ78cm)と、高子夫人坐像(同80cm)を安置。像がいつ作られたかは不明。
 この日は午前11時から法要が営まれ、導師を務める森清範貫主や僧侶8人が参列し、僧侶が堂内に置かれた漆塗りの厨子(重文)の扉を開けた。秘仏の田村麻呂と高子夫人の座像を前に、森貫主は「田村麻呂ゆかりの田村堂を開帳して、広く大衆が結願(けちがん)してほしい」との趣旨の表白を読み上げた。
 一般公開は3月1日~5月31日で、拝観時間は午前9時~午後4時。
[参考:京都新聞、毎日新聞、読売新聞、共同通信]
99年ぶり坂上田村麻呂の坐像…京都清水寺開山堂で開帳(読売新聞) - goo ニュース

備考:
三善高子(みよしのたかこ、生没年不明)
 坂上田村麻呂室、父は三善清継とする。三善高子の名は、『清水寺縁起』に出て来るのみである。
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国分寺市・武蔵国分寺跡 「講堂」の基壇に瓦積の外装

2009年02月28日 | Weblog
 武蔵国分寺跡の調査で、「講堂」の基壇に瓦積みと呼ばれる外装が施されていたことが分かった。
 「講堂」は創建時には、長さ約28.8m、奥行き約16.8mの建物が建てられた。その後、本尊をまつる「金堂」と同規模に再建されたことも改めて確認されたという。
 28日午前10時と午後2時からの2回、現地で説明会が開かれる。
[参考:朝日新聞]

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石岡市・瓦塚窯跡遺跡 5基の窯跡と創建期の瓦片が出土

2009年02月28日 | Weblog
 石岡市部原の「瓦塚窯跡遺跡」(県指定文化財)で、谷を挟んだ南北地域から計5基の窯跡が確認された。特に、南側の窯跡の灰原からは天平13年(741)に建立された国分寺の創建期まで、約50年ほど遡る軒平瓦と軒丸瓦片が出土。窯跡は八世紀後半から九世紀中ごろにかけて、国分寺の補修用の瓦が焼成されていたとする従来の定説を覆し、創建期から本格的に操業が行われていたことが判明した。
 窯跡の範囲は谷の北側にあると考えられていたが、今年度調査で南側から窯跡2基が確認され、遺跡の範囲が広がった。
 国分寺の瓦は、瓦塚のほか風返瓦窯(旧石岡市)、松山瓦窯(旧千代田町)、柏崎瓦窯(旧出島村)の4カ所で生産されていた。瓦塚遺跡はこれまでの調査で、北側で窯跡23基が確認されており、全体像が確認されれば、県内最大とみられていた「松山瓦窯跡」(旧千代田町)をしのぐ瓦窯遺跡となる可能性が高いとする。
 現地説明会は28日と3月1日。両日とも1日6回に行われる。
[参考:茨城新聞、毎日新聞]

瓦塚遺跡
 常陸国府(現在の石岡市内)に常陸国分寺と常陸国分尼寺が建てられたが、その屋根瓦を作り供給するための瓦工場だったとされる。1968年に山林を開墾中に7基の窯跡が発見された。「地下式有段登窯」で、灰原からは布目瓦など多くの遺物が出土した。
 これまでに23基の窯跡が確認されていたが、今回あらたに5基の窯跡が出土したので、28基の窯跡が出土したことになる。

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橿原市・観音寺地区遺跡 縄文時代の樹海が出土

2009年02月27日 | Weblog
 市教委が27日、観音寺地区遺跡で縄文時代晩期(約2800年前)の樹木の根株30本分がまとまって見つかったと発表した。
 幹は直径1m近いものもあった。木は、洪水で一気に埋まり、地中でタイムカプセル状態で残った。
 また、川跡からは、直径1・8mのサークル状に杭(高さ20~80cm)を34本並べた遺構を確認。杭の間につるをからませて、「定置式漁法」の仕掛けと判明した。
[参考:産経新聞]
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韓国・江華・高麗宮城 初めて痕跡が現われる

2009年02月27日 | Weblog
 高麗正史に高麗が蒙古抗争期、江華島に開城宮城に次ぐ規模で作ったとされる「江華・高麗宮城(강화 고려 궁성)」が初めてその痕跡を表わした。
 財団法人民族文化遺産研究院は江華郡が計画する高麗宮跡復元計画の一環として、昨年12月26日から朝鮮後期外圭章閣址が位置する江華郡江華邑743-1,302-2番地一円の2千㎡に対する発掘調査を行い、高麗宮城の跡を捜し出したことを27日明らかにした。
 この一帯では高麗時代大規模建物があったことを推定させる大型石築壇と石列、塀墻が現れて、高麗時代中・後期青磁類と瓦類をはじめとする多くの高麗時代遺物が発見された。
 今まで、江華・高麗宮城は各種記録にその派手な記録を伝えるが、これという考古学的跡は発見されなかったという。
[参考:聯合ニュース]

●江華島(こうかとう)
 ソウル特別市の北西、南北休戦ライン近くにある島。仁川広域市に属する。
 1232年、江華島への遷都が行われ、このとき造営されたのが江華山城。1270年、高麗は江華島を放棄。開城に遷都した。

●年表 (蒙古による高麗侵略と元寇)
1227年のチンギス・ハーンの死去
1231年:モンゴルによる第一次高麗侵略が起こる。
1232年:高麗の武臣の崔瑀が、開京(開城)から江華島に遷都させる。
1233年:金の首都開封、モンゴルによって陥落。(翌年、金朝滅亡)
1270年:高麗・元宗は、蒙古から戻り旧都・開城に着いたが、三別抄が公私の財貨を持ち出し、百官の妻子を人質として連行し珍島に移ったが、その後に蒙古が進軍し焦土となり、結局江華島に戻ることができず、そのまま遷都せざらるを得なかった。
1271年:モンゴル、国号を「元」と改める。
1273年:元・高麗軍、三別抄を平定。元が耽羅(済州島)を領有する。
1274年:元・高麗軍による第一次日本「征討」(文永の役)
1281年:元・高麗軍による第二次日本「征討」(弘安の役)

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滋賀県西浅井町・塩津港遺跡 平安末期の精巧な船形木製品が出土

2009年02月27日 | Weblog
 塩津港遺跡で、平安末期の精巧な船形木製品が26日までに見つかった。
 船形木製品は長さ17・3cm、幅4cmで、一部に着色がある。平底で、船尾が切り落ちた特徴を持ち、船体には梁2本が前後に渡る。側壁部には木片で埋めた穴が等間隔に計10カ所ある。船首に削り跡と釘穴、前部梁に凹みがあり、旗や帆があった跡とみられる。
 神像5体が見つかった神社遺構の堀跡付近で発見した。同遺跡からはほかにも運送業者の大型起請文木簡が見つかっており、船形木製品も航行の安全祈願のため物資の運搬を担った人が奉納したとみられる。
県文化財保護協会によると、同時期の船形木製品は全国的にも珍しく、梁(はり)や帆などの構造が分かる作りも極めて異例という。
 室町期ごろに登場する構造船の形態を示しているが、200年ほど遡ってその姿を現している。
 平安末期以降の船や船形木製品の出土例は全国でも非常に少なく、船の進化過程は明確ではない。今回出土した船形木製品は写実性が高く、実船をモデルにしたとみられ、歴史を埋める1級の資料になりそうだとする。
[参考:京都新聞]

<過去の記事>
2008.11.11
平安時代の神像 5体出土

2007.10.5
塩津港遺跡で、平安時代末期「起請文」が書かれた木簡が大量に出土
 県文化財保護協会が5日、平安時代末期の神社遺構に関連する堀跡から、神への誓詞「起請文(きしょうもん)」が書かれた木簡が大量に出土したと発表した。木簡に記された起請文が確認されたのは初めて。うち1本は保延3(1137)年の年号があり国内最古の起請文で、他に長さが2.2mある国内最長の木簡も見つかった。12世紀半ば前後のもので、港で物資の運搬を担った人々が「荷物をなくさない」「盗人ではない」といった内容を神々に誓願。神社に奉納、掲示して村人にも周知したとみられる。
 ■塩津港遺跡とは
 琵琶湖の最北端にあり、古代から北陸と畿内を結ぶ湖上水運の重要港だった。平安中期の律令(りつりょう)の施行細則「延喜式」には「北陸からの物資は敦賀で陸揚げして塩津に運んだ後に湖上を渡り、平安京に献上する」と定められていた。
[参考:京都新聞]
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山口市(旧・小郡町) 奈良時代中期の河川の改修用?石板に「秦氏」「飾磨」が刻まれていた

2009年02月27日 | Weblog
 山口県内で1963年に出土した奈良時代中期(8世紀中頃)の小型石板に、古代の渡来系氏族名「秦」や「飾磨(しかま)」(現在の兵庫県姫路市)の地名などが、刻まれていたことがわかり、神戸大大学院・坂江渉講師(日本古代史)らの研究チームが26日、発表した。
 用途は不明だが、河川改修現場で使われた可能性があり、秦氏の活動を裏付ける貴重な遺物としている。
 石板は将棋の駒に似た五角形で、縦約23cm、横約15.9cm、厚さ約3cm、重さ約2・7kg。
表には「餝磨郡因達郷秦益人石(しかまぐん・いだてごう・はたのますひと・いし)」、裏には「此石者人□磨?石在」と線刻され、飾磨郡の秦益人という人物が持っていた石とみられる。
 集落の最小単位が「郷」になったのは740年(天平12年)以降で、字体も書風から同時期に書かれた文字と一致していた。
 上部に直径約1cmの穴があり、ひもなどを通して携行していたとみられる。側面には線状に削られた跡があり、砥石としても使用されたと考えられる。
 1963年に山口県吉敷郡小郡町(現山口市)の民家の敷地内で出土、現在は山口市の小郡文化資料館(山口市小郡下郷)が所蔵し展示している。
 出土地付近は聖武天皇が752年(天平勝宝4年)に建立した奈良・東大寺大仏に使われた銅の積み出し港とされる川があり、飾磨とともに同寺領の荘園だった。坂江講師は「朝廷の命を受けた飾磨郡の秦氏が、河川改修に派遣されたのでは」としている。
 朝鮮半島から渡来した秦氏は聖徳太子ら有力者を補佐して勢力を伸ばした。本拠の山背国(現在の京都市)で治水を手がけ、後の平安京遷都(794年)に大きな役割を果たしたとされる。
[参考:読売新聞、中国新聞、共同通信]

備考:
①続日本紀・天平2年(730)3月13日 「周防国熊毛郡にある牛嶋の西の汀と、同国吉敷郡の達理山から産出する銅を、治金精錬してみたところ、いずれも実用に堪えることがわかった。そこで周防国に命じて採鉱・冶金させ、隣りの長門の行なう鋳銭に充てさせた。」
②東大寺文書に「吉敷郡椹野(ふしの)庄」の名が見え、椹野川は銅を運ぶのに利用されている。椹野庄は小郡以南の地域という。
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京都府・温江遺跡 弥生時代の人面付き土器が出土

2009年02月27日 | Weblog
 府埋蔵文化財調査研究センターが26日、環濠集落跡の温江(あつえ)遺跡(京都府与謝野町)で、弥生時代前期(紀元前4世紀ごろ)の素焼きの人面付き土器が出土したと発表した。頭髪を後頭部で結ったような独特な形状をしており、穏やかでのっぺりとした当時の日本人の表情をしており、一見「ウルトラマン」のよう。
 土器は集落南側の溝(幅約2m、深さ約1・2m)から、壺や甕の破片とともに出土した。首から下の部分は欠落しており、中空で、長さ、幅は各7・6cm、奥行き7・1cm。頭部に櫛で結った髷があり、その上に簪(かんざし)のようなものを刺していたと見られる穴もあった。えらが張り、切れ長の目で鼻筋が通っており、両耳に貫通した小さな穴があけられており、後頭部右側には赤色顔料が残されている。農耕祭祀などに使われた可能性があるという。縄文人とは異なる当時の日本人の表情がうかがえる。
 土器は3月15日まで町立古墳公園はにわ資料館で展示される。
[参考:産経新聞、共同通信、京都新聞]
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大和郡山市・筒井城跡 14世紀末から15世紀前半頃の『畝堀』が出土

2009年02月26日 | Weblog
 市教育委員会が25日、筒井城跡(同市筒井町)で、敵の侵入を防ぐために造った14世紀末-15世紀前半の土塁と堀が見つかったと発表した。
 筒井城は豪族、筒井氏の居城。土塁は砂と粘土を交互に突き固めた堅固な造りで、中世の城郭としては例がないといい、築城様式の変遷を研究する上で貴重な史料。
 土塁は、本丸に当たる主郭を取り囲む堀(幅約8・5m)に沿って出土した。地面を約50cm掘り下げ、砂と粘土の層(厚さ6~20cm)を交互に重ねて埋め、さらに約80cmの高さまで積み上げていた。上面に削られた形跡があり、当初はもっと高かったらしい。寺社の築地塀の技術を応用したとも考えられるという。
 堀跡は幅8・5m、深さ1・5mが東西7mにわたって見つかり、堀の底には、両岸を結ぶように高さ最大約30cm、幅約40cmの土手のような障害物が築かれていた。西側の平面から約10cm盛り上がり、東側とは約30cmの段差があった。「畝堀」の可能性が高いという。畝堀は、後北条氏が小田原の山中城(16世紀後半)に設けたことなどで知られている。
 堀内からは土器のほか、15世紀前半の頃と見られる茶釜の銅製の蓋(直径14cm、高さ3・5cm)なども出土した。筒井氏が茶の湯に親しんだことを示すという。
 現地説明会は28日午前10時から。(小雨決行) 問合せは市教委生涯学習課。
[参考:共同通信、読売新聞、毎日新聞]
備考:
●筒井城
 筒井城の創築時期は不明だが、僧侶・満済(まんさい、1378~1435)が残した「満済准后日記」』(まんさいじゅごうにっき)に永享元(1429)年の条に、筒井館と記載されるのが初見である。当時の主は筒井順覚(?~1434)。
 今回出土した遺構が14世紀末-15世紀前半とすると、筒井順覚の頃(あるいは下って筒井順永の頃)が濃厚か。
●筒井氏
 筒井氏の出自について藤原氏の一族、近衛氏の分かれとする説、あるいは大神神社の神官・大神氏とする説など諸説あるらしい。
筒井氏は筒井庄(大和国添下郡筒井)を本拠とし、興福寺に属する僧兵から身を興した武士であるといわれる。
 今は、生駒市にある圓證寺(えんしょうじ、真言律宗)は筒井氏のゆかりの寺院だとされ、もとは筒井庄のあったといわれる。ここには順覚の4代後となる、順昭(1523-1550)を供養する五輪塔(重文)があり、天文19年(1550年)の銘がある。
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奈良県高取町・薩摩遺跡 「紀路」の道路遺構が出土

2009年02月26日 | Weblog
<現地説明会に700人。大壁建物5棟が出土>
 2月22日、薩摩遺跡の現地説明会が実施された、奈良新聞では考古学ファンら約700人が訪れたと報道されている。また、町教委の担当者のコメントとして「紀路かどうかは判断できない」としている点が気にかかる。
 一方、読売新聞の19日の記事では「紀路」より「大壁建物跡5棟」が出土したことをより強調して取上げていた。1棟は約15m四方あり、全国最大規模とのこと。
[参考:奈良新聞、読売新聞]
備考:
 大壁建物跡は朝鮮半島から伝わったとされ、全国30遺跡以上から出土しているようだが、高取町の遺跡からの出土が多い。清水谷遺跡、森カシ谷遺跡、観覚寺遺跡、羽内遺跡、薩摩遺跡など。

<2009.2.19掲載分>
 昨年末に、奈良時代末-平安時代前半(8世紀末-9世紀前半)ごろの灌漑用ため池跡や、檜前村寸の名を記した木簡などが見つかった薩摩遺跡で、奈良時代(8世紀)の道路跡が見つかったことを、町教委が18日発表した。
 飛鳥地域(明日香村)から紀州の和歌山市に向かう古代の官道「紀路(きじ)」の可能性があるという。
 町教委によると、出土した道路遺構は南北方向に長さ約20m。幅は約9mで、当時の長さの単位では3丈(1丈は約3m)に相当し、規格に基づいて造られたことが分かった。両側にそれぞれ幅約60cm、深さ約40cmの側溝が平行に走っていた。側溝の東側には、道路に沿って塀が設けられ、道路周辺も整備されていたことが判明。
 5世紀中ごろに整備された紀路は、発掘現場付近では北東から南西へ延びると想定されていたが、奈良時代に土地を南北方向に区画する条里制の施行に伴って、道路が南北方向に再整備された可能性もあるという。
 道路沿い東側からは一辺5m以上で、柱を建てるための穴が一辺1mと、しっかりした造りの大型建物跡も出土。庇が設けられ、通常の建物より格が上の施設で、地方役所の倉庫だった可能性がある。溝からは8世紀後半の須恵器の破片が見つかった。
 紀路は大和政権中心地の磐余(同県桜井市)や、飛鳥時代の飛鳥(同県明日香村)周辺と、紀の川河口の港「紀伊水門(きのみなと)」(和歌山市)を結び、交易品や海外の文化を伝えたとされる。
 万葉集には紀路を詠んだ歌が登場し、日本書紀や続日本紀にも歴代天皇が紀伊へ行幸した記述がある。中世には「高野街道」と呼ばれた。薩摩遺跡近くを経由し、紀の川沿いを通る道と推定されてきたが、出土例はなかった。
 現地説明会は22日午前10時と午後1時。小雨決行。
[参考:産経新聞、朝日新聞]

万葉集巻第一35 阿閉皇女(後の元明天皇)御作歌
 これやこの 大和にしては わが恋いふる 紀路にありとふ 名に負ふ背の山 
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木津川市・高麗寺 講堂基壇の外装は極めて珍しい三重構造 

2009年02月24日 | Weblog
木津川市が、国史跡・高麗寺跡を史跡公園化へ新年度から整備
 史跡指定地(5200㎡)に、伽藍配置が分かるよう植栽したり、基壇や門、築地塀を復元する計画。新年度当初予算案に設計・工事費など800万円を盛り込んだ。
2012年度に完成の予定。
[参考:京都新聞]

2009.2.7現地説明会
 7日、現地説明会が3回開かれ、約700人の歴史ファンが詰めかけたとのことです。
 [参考:読売新聞、京都新聞]
 現地説明会の様子(映像)がMBS(毎日放送)のホームページで公開されています。

2009.2.4掲載分
 市教委は3日、飛鳥時代前半(7世紀初頭)に創建された国内最古級の寺院とされる京都府木津川市の高麗寺跡(国史跡)について、伽藍の回廊北側に位置する講堂の基壇の外装が、極めて珍しい三重構造だったと発表した。
 高麗寺は、朝鮮半島から渡来した狛(こま)氏の氏寺。伽藍は7世紀中期に完成したとされ、西側の金堂と東側の塔を回廊で囲み、金堂の正面に中門や南門が並ぶ。
 講堂は東西約23.7m、南北約19.5mで、今回、北西側を調査し、幅2mにわたって基壇が出土した。高さ約60cmの瓦積み基壇の底部を確認し、その周囲で、外縁を石で囲った幅約75cmの土壇が巡っており、さらにその外側には約15cm低く石が敷かれた構造だったことが判明した。
 1段目は直径約20cmの石が敷き詰められ、その15cm高い位置に土壇を縁取るために囲む2段目の石列があった。さらに3段目には基壇を支える直径約50cmの「地覆(じふく)石」が置かれ、その上に装飾のために積み上げられたとみられる瓦が見つかった。基壇全体の高さは計75cmあったらしい。
 高麗寺の伽藍が整備されたのは660年代で、東に塔、西に金堂、北に講堂を配置する法起寺式の初めての例。
 全国へ寺院を普及させるため、国営の川原寺(奈良県明日香村)の伽藍配置を簡略化し、中金堂に当たる部分に講堂を造っていた。高麗寺では川原寺と同型の瓦を使っている。
 また、南の築地塀の西端では、飛鳥時代の創建当初に、排水用に掘ったとみられるV字形の溝(最大幅3m、深さ1・7m)も出土した。
 現地説明会は7日午前10時半、午後1時、同2時半の3回。少雨決行。問合せは教委へ。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞、京都新聞、読売新聞]
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北本市・デーノタメ遺跡 色鮮やかな漆塗り土器が出土

2009年02月23日 | Weblog
 北本市教委は17日、同市下石戸下のデーノタメ遺跡第四次発掘調査で、縄文中期(約4800年前)の漆塗り土器の破片約300点や集落と接した水場遺構が出土したと発表した。

 黒地に赤の文様が入った色鮮やかな土器で、これだけまとまって出土するのは全国的に珍しいという。市教委は全国の研究機関と協力し、保存方法の開発や遺跡の分析を進める。
 同遺跡は約4ヘクタールの範囲で広がっているとみられる縄文中期・後期の遺跡。
 出土した土器片は微細なかけらから十数cmのものまであり、食料保存に使用した浅鉢とみられる。保存状態がよく、黒の漆で地を塗り、その上から赤の漆で模様が描き入れられている。土器の表面と内側の両方が塗られ、丹念に加工された状態がよくわかる。黒はすす、赤はベンガラで色を出したと考えられるという。復元すれば直径約30cmとなる破片もあった。
 ほかに、関東では二例目となる漆塗りの糸の断片やクルミ形土製品(長径6・5cm、短径5・4cm)なども出土。台地上には竪穴式住居跡が25軒ほど見つかり、周囲からは、水場へ向かう道や溝とみられる水場遺構、大量のクルミの殻、栗、ヒシなども出土した。
 3月15日午前10時から同11時半まで市文化センターで報告会を開く。問合せは、市生涯学習課文化財保護担当
[参考:東京新聞、読売新聞]
<コメント>
 昨年(平成20年)7月27日(日)、第41回遺跡発掘調査報告会(於:埼玉県立さきたま史跡の博物館講堂)に出席し、デーノタメ遺跡の報告も聴いてきました。
 本遺跡の第四次発掘調査は昨年1~6月までの期間で実施されたもので、今回掲載されていた写真類も、報告会でいただいた資料にほぼ掲載されている。その資料には、「遺跡名のデーノタメとは、かつてこの地にあった1000㎡ほどの湧水池の名称で、おそらく縄文時代から人々の生活に欠かせない水源であったろうと思われる」と記されている。
 本遺跡は、現表面から1.5m下の泥炭層から出土品が多数現れた。出土品は、土器(漆を塗った浅鉢形土器など)、木製品(棒状木製品など)、石器類、クルミ形土製品、ヒスイ(翡翠)製大珠、ベンガラ塊、植物遺体(クルミ、トチ、クリ、ナラガシワ)など。

過去の関連ニュース・情報
 デーノタメ遺跡
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前橋市・富田大泉坊A遺跡 全国初の「草の茎製」の結歯式竪櫛が初出土

2009年02月21日 | Weblog
 群馬県県埋蔵文化財調査事業団は19日、富田大泉坊A遺跡(同市富田町)から四世紀(古墳時代前期)とみられる草の茎製の結歯式竪櫛(けっししきたてぐし)の一部が出土したことを明らかにした。
 古墳時代ごろの結歯式竪櫛は全国で千点以上出土しているが、大半が竹製で、茎製は全国で初めて。県内出土の結歯式竪櫛四十数点では最古ともなる。
 結歯式竪櫛とは主に竹を細長く切り、糸などで束ねた「結歯式」の縦長の櫛。
 茎製の竪櫛は約三年前、県道の工事に伴う発掘調査で、集落に近い水田跡の水路から出土。昨年、埼玉県の分析会社に分析を依頼しところ、イグサ類などの茎を使ったことが判明した。
 出土したのは、竪櫛からすべての歯が取れた「頭」の部分で縦3.1cm、横3.5cm、厚さ0.3cm。 直径約0.8mmの茎を20本並べて中央を束ね、逆U字形に曲げた後、頭と歯の境を糸で24回巻くなどして留め、黒漆を塗って固めた。茎を20本束ねて曲げたため、歯は40本あったとみられ、歯の長さは約10cmと推測される。
[参考:東京新聞]
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