歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

山口市・大内氏関連町並遺跡 16世紀後半の土師器片に金や銀の加工跡

2010年09月30日 | Weblog
 山口市は29日、中世守護大名大内氏が拠点を置いたとされ大内氏関連町並遺跡(山口市大殿地区など)から、出土した土師器(皿)片から金や銀の付着を確認したことを発表した。
 このうち2000年に発掘調査が行われた16世紀後半のゴミ捨て場の跡から金属の精錬に使われたとみられる土師器(いずれも直径約10cmほど)が見つかっていた。土師器は大内氏が滅亡した直後のものと見られている。山梨県立博物館でその土師器についてX線撮影や電子顕微鏡で詳細に分析して、付着物を特定した。
 当時、山口の中心地で貴金属の精錬や製品の製作が行われていたことを示す貴重な資料だという。銀が付着した皿片からは鉛も検出し、鉛を触媒にした「灰吹法(はいふきほう)」の精錬技術との関連もうかがえる。
 今回の土器は山口市歴史民俗資料館で10月5日から11月28日まで一般に展示される。
[参考:産経新聞、NNN山口放送]
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慶州・鶏林路14号墳、玉虫装飾矢筒初公開

2010年09月29日 | Weblog
 国立中央博物館は27日、先史古代館新羅室でテーマ展「鶏林路14号墓-黄金宝剣を解剖する」を9月28日から11月21日まで開催すると発表した。
 新羅時代典型的な積石木槨墳の慶州鶏林路(계림로)14号墳から出土した新羅時代の玉虫(비단(緋緞)벌레(虫))装飾(장식)矢筒(화살통)(初公開)をはじめとして、黄金宝剣(황금보검)と金銀で龍文を入絲した馬鞍橋装飾(말안장꾸미개)、ガラスで装飾した金銅杏葉(말띠드리개)など120点余りを展示する。
■「黄金宝剣」は保存処理過程で内部構造が明らかになり、装飾品の中で瑪瑙とされた宝石は、石榴石(ざくろいし)で、剣は鉄剣であることが確認された。製作地は正確に分からないが、黒海沿岸から中央アジアにかけるある地域と推定される。
■三国時代の遺物に、主に装飾された玉虫は色々な美しい翼光で数多くの昆虫中、昆虫の王と呼ばれる。 玉虫は1921年慶州金冠塚出土の馬鞍橋装飾(말안장꾸미개)と鐙(발걸이、등자)に初めて装飾品として使われたことが分かった。
[参考:聨合ニュース]
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唐津市・唐津城 本丸西側から築城期の石垣を発見

2010年09月29日 | Weblog
 唐津市教委は28日、同市東城内の唐津城跡本丸の西側で約400年前の築城期のものと見られる石垣が見つかったと発表した。唐津城は初代唐津藩主の寺沢志摩守が慶長7年(1602)~13年(1608)に築城したと古文書に記載されているが、当時の石垣が見つかったのは初めて。
 築城期のものと見られる石垣は、現在の石垣(高さ4m、幅約40m)の約3m内側に沿って、地下約50cmのところに高さ50cm延長約3mにわたって7個並んでいるのが見つかった。花崗岩の自然石を使っており、周辺から江戸初期に朝鮮半島から伝わった陶磁器や瓦の破片など数十点の遺物が出土したことから時代を特定した。周辺の石垣は割り石を使っているほか、土層が違っており、築城後、数回にわたって石垣を積み直す補修や改修が行われていたことがわかったという。
 本丸南側では、高さ約3mの天守台石垣の土に埋もれていた部分には自然石が混じっているのに対して、地上部分は割り石になっており、ここも改修された可能性があるとみている。
 これまでの調査で存在がわかっていた本丸西側の櫓台の石垣13個も新たに見つかった。江戸中期から後期にかけてのもので、石垣で囲まれた櫓台の立っていた敷地は南北9・5m、東西7・5mの長方形とわかった。瓦などの出土品などから江戸中期から幕末にかけ、平屋建てのやぐらが建っていたとみられる。
天守台東側の地中からは通常の割り石とは色や形状が異なる石が見つかり、天守閣の石垣も積み直した可能性も出てきた。
 説明会が10月3日(日)午前11時と午後2時の2回、唐津城の中段広場で開かれる。
[参考:佐賀新聞、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.6.24 唐津市・唐津城 名護屋城と同じ文様の瓦が大量に出土
 2008.11.7 唐津市・浜玉で石切り場確認 大坂城再建時に搬出か
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鳥取県大山町・大山寺 寂静山地区僧坊跡から天目茶碗、茶臼、茶壺などの茶器が多数出土.2010

2010年09月29日 | Weblog
 大山町教委は28日、現在の大山寺から1kmほど北、大山中腹(標高900m)の大山町寂静山地区にある室町時代(14~15世紀中頃)の僧坊跡から、大型の鉄鍋や鎧の破片、青磁(香炉、人形の姿をした蝋燭台、花瓶など)、天目茶碗や茶臼、茶壺などの茶器が多数出土したと発表した。 豊かな暮らしぶりがうがえるとしている。
 小石大の炭化した米の塊が約10個見つかり、建物が火災に遭ったことも判明した。
 この僧坊は寂静山地区に残る40の僧坊跡で約1100㎡あったとみられる。昨年度から始まった調査では、室町時代(15世紀)の中国・明銭や李朝時代の青磁、備前焼のすり鉢などが出土していた。
 現地説明会が10月2日(土)に開かれる。午後2時までに大山寺近くの旅館「山楽荘」の駐車場に集合。
[参考:読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.10.14 大山寺 15世紀の僧坊跡を初確認、東アジア交易の一角を示す遺物が出土

追記
2010.10.2
 出土した小石大の炭化した米の塊は国立歴史民俗博物館に分析を依頼中。
 押しずしの可能性もあるとの途中経過。
[参考:毎日新聞] 
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大阪市・難波宮跡 5世紀前半の須恵器の窯跡2基が見つかる

2010年09月29日 | Weblog
 大阪市教委と市博物館協会大阪文化財研究所が28日、難波宮跡(同市中央区上町台地)で古墳時代中期(5世紀前半)とみられる最古級の須恵器の窯跡2基や初期須恵器の破片105点が見つかったと発表した。
 窯跡は地下にトンネルを掘る構造で谷の斜面に東西に並んでおり、西側の窯は幅約1.3m、長さ3.7m、東側は幅約1.5、長さ3.8mが残っていた(ともに推定全長は5m)。 出土した須恵器の破片は、5世紀前半の特徴を備えている。
 畿内では大阪府南部の陶邑古窯址群(すえむらこようしぐん)が初期段階から須恵器の一大生産地だったとされており、今回見つかった窯が使われたころには陶邑で既に生産が始まっている。須恵器を使うような重要な施設が付近にあり、近くに窯を作ったのではないかと推定している。
 上町台地では大和王権直轄とみられる「法円坂倉庫群」(5世紀後半)が見つかっているが、その際出土した須恵器は今回のものより新しく、それ以前に別の王権施設があったのではないかとみている。
 発掘現場はすでに埋め戻されている。29日から大阪歴史博物館(同市中央区)で窯跡の写真や出土遺物を展示する。
[参考:共同通信、産経新聞、読売新聞、毎日新聞]

古墳期最古級の須恵器窯 難波宮跡、近くに王権施設か(共同通信) - goo ニュース
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韓-モンゴル共同発掘調査 ドルリクナルス匈奴墓群発掘成果発表

2010年09月28日 | Weblog
 国立中央博物館は去る6月12日から8月8日までモンゴル科学アカデミー考古学研究所、モンゴル国立博物館と共同でモンゴル東部Hentii aimag Bayan-Adarga のドルリクナルス(注)匈奴(흉노、BC209~AD93)墓群中最大規模の1号墓とその周辺にある墓を調査し成果を得たと27日発表した。
① 1号墓周辺に作られた小型墓のうち「W-3号」古墳から、まるまる一頭の完全な馬の骨が発見された。 殉葬された馬は、鉄製の轡が口に付けた状態で出土した。
② W-4号墳では木棺が確認された。 壁体は広い板材を利用して蓋は6枚の木をかけて、その上を革で覆って仕上げていた。 墓主人の頭側に附葬空間が用意され、ここから土器と動物骨が出土した。
③ 1号墓に附属するほかの墓から、青銅鏡、木櫛、装飾具などの遺物が収集された。
④ 1号墳は、長軸は南北方向で、北側の墓室(21×22m)は方形、その南側壁面には墓道(32m)を別に用意した典型的な匈奴の古墳様式である平面「凸」字形で現れた。全長54mを越える大型墓だ。 墓道では15回以上の石積層と木材層を、墓では計6回の石積と5段の階段状屈抗を確認した。木槨の規模は5.1×3.5m程度と推定される。
⑤ 1号墓周辺では東側3基、西側4基、南側2基の小型墓が確認されている。 今年調査した5基の墓の大きさは長さ2~3m、深さ1.5~3m前後で、平面形状は楕円形または方形であった。
[参考:聨合ニュース、国立中央博物館HP]

(注)Дуурлиг нарсны; Dorlic Nars;Duurlignars; 도르릭나르스 ;ドルリクナルス ;丸い松林の意

過去の関連ニュース・情報
 2009.8.29 ドルリクナルス匈奴墓群 2千年前の匈奴の人骨を発掘


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埼玉古墳群・鉄砲山古墳 発掘調査現地説明会 2010.9.25

2010年09月26日 | Weblog
 県立さきたま史跡の博物館(行田市埼玉)は25日、埼玉古墳群内の鉄砲山古墳(全長109mの前方後円墳、6世紀後半)で7月から新たに行った発掘調査の現地説明会を開いた。
 今回の調査は、前方部の東南部と後円部の北東部を調べた。その結果、古墳群の他の古墳と同じく、古墳を取り巻く周堀が二重で四角い形であること、外堀と内堀の間にある中堤に埴輪列(円筒埴輪など)があったことが分かった。また、後円部の周堀の幅が古墳側面より狭くなることがわかり、すぐ南に位置する奥の山古墳の存在を意識して造られたと考えられるという。
 説明会は午前10時半と午後1時半の2回行われた。
[参考:読売新聞、毎日新聞、埼玉県HP、埼玉県立さきたま史跡の博物館HP]

過去の関連ニュース
 鉄砲山古墳
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山梨市・三ケ所遺跡 平安時代の柱跡を発見、清白寺の前身建物か?

2010年09月25日 | Weblog
 山梨市教委が進める、三ケ所遺跡(同市三ケ所)の発掘調査で、平安時代の掘立柱建物群跡や竪穴住居跡が見つかった。
 発掘現場から5棟分の掘立柱跡と竪穴住居跡が確認された。最大の建物跡で柱が南北に5本、東西4本と等間隔に並び、南北約6m、東西約4・5mの大きさの建物跡を確認した。柱跡は直径約1m、深さ約1mほど。また、建物に付属する庇部分の柱跡も発見され、寺院のお堂のような建物の可能性もあるという。
 遺跡の近くには国宝清白寺があることから、清白寺(注1)の前身的な建物跡の可能性があるしている。
 現地説明会が26日午前10~11時から開かれる。
[参考:山梨日日新聞]

(注1) 臨済宗妙心寺派、海涌山(かいゆうざん)清白禅寺
正慶2年(1333)足利尊氏の開基と伝わり、仏殿は応永22年(1415年)建立と推定されている。また、応永14年(1407)建立と推定される正福寺(東村山市)と同じく、方三間一重裳階(もこし)付建物である。
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福井県美浜町・興道寺廃寺 講堂の規模が判明、「耳」と墨書された須恵器の蓋が見つかる

2010年09月23日 | Weblog
 美浜町教委は22日、「興道寺廃寺」(美浜町興道寺)の第12次調査で、講堂の位置や規模が明らかになったことや、前回出土した須恵器の蓋に「耳」と墨書されているのが見つかったと発表した。
 講堂は土台の南端と北端の位置が確認でき、東西16・5m、南北11・9mの範囲に建立されていたことがわかった。
 前回の調査で出土した9世紀後半から10世紀前半の須恵器の蓋(直径13.2cm、高さ1.2cm)に「耳」と墨書されていた。平城京から出土した木簡に、この地域を示す「若狭国三方郡弥美(みみ)郷」という地名があり、古事記(注1)には、この地域を治めていた「耳別(みみわけ)氏」という豪族が登場する。町内には、現在でも弥美神社や耳川といった「耳」の名が残る地名がある。
また、古代には『耳寺』と呼ばれていた可能性もあるとしている。
 興道寺は豪族の氏寺として7世紀後半に建立されたが、建物の方位を改めるため8世紀初頭に再建されたとみられている。同町教委は「墨書土器はきちんと置かれており、廃寺の際に儀式で使われた可能性がある。」と推定する。
 発掘調査は平成14年から始まり、「金堂」や講堂の基壇、南門、中門、塔などの分布状況や規模がおおよそ判明している。
 現地説明会は25日午前9時半から興道寺廃寺第12次調査地(美浜消防署から南西に約200m)で開かれる。午後1時からは町中央公民館ホールで、歴史フォーラム「『ここまで分かった! 興道寺廃寺』耳別氏、耳川流域に起つ~興道寺廃寺をとりまく地域、仏教、そして人々の実像~」も開かれる。
[参考:毎日新聞、読売新聞、朝日新聞、美浜町HP]

(注1) 古事記「開花天皇」 (略) 室毘古王者若狹之耳別之祖 (略) 
   
過去のニュース・情報
 2009.9.19 興道寺廃寺 南門や講堂跡を確認
 2008.10.17 興道寺廃寺遺跡 如来仏の塑像の一部出土
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ヒッタイト帝国の遺跡ビュクリュカレ ヒッタイト文字が刻まれた粘土板を発見

2010年09月23日 | Weblog
 中近東文化センター(三鷹市)付属アナトリア考古学研究所(トルコ・カマン)は22日、鉄製武器で栄えた古代トルコのヒッタイト帝国(紀元前1400~同1200年頃)の遺跡ビュクリュカレ(トルコ中部)の帝国時代の城壁付近から、ヒッタイト文字(くさび形文字)で書かれた外交文書とみられる粘土板片(縦8.1cm、横5.4cm、厚さ2.2cm)1枚を発見したと明らかにした。21行刻まれていた。
[参考:共同通信、産経新聞]

日本隊、ヒッタイトの粘土板発見 トルコの遺跡で(共同通信) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2009.3.26 トルコ・カマン・カレホユック遺跡 世界最古の鉄器を発見


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鈴鹿市考古博物館で企画展「須恵器―自然釉の妙」開催

2010年09月23日 | Weblog
 鈴鹿市考古博物館(同市国分町)で企画展「須恵器―自然釉の妙」が平成22年9月11日から10月31日まで開催されている。
 古墳時代から平安時代初期に作られた古代の焼き物で自然釉のかかった須恵器など108点が展示されている。
 三重県、愛知県、岐阜県を中心に、西は兵庫県たつの市西宮山古墳、東は静岡県袋井市大門大塚古墳、北は石川県加賀市法皇山3号横穴からの出土品などなど。
 7世紀のものでよいものがあるが、やはり気になるのは6世紀の出土品、いや、作品である。
 止山古墳(とめやまこふん)出土(桑名市)堤瓶が形、色とも美しいし、二又1号墳出土(大垣市、直径15m円墳)台付3連甕も同じように見事だ。近ければ是非観に行くのに、残念。
[参考:読売新聞、鈴鹿市考古博物館HP]
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向日市・元稲荷古墳 くびれ部で葺石が多数出土し、造り方の技法が大和の大王級古墳と相似

2010年09月23日 | Weblog
 向日市埋蔵文化財センターは22日、3世紀後半の前方後方墳(全長約92m、後方部は3段構造で約50m四方)の元稲荷古墳(同市向日町北山)の発掘調査で、西側のくびれ部から出土した多数の葺石や盛土の状況から中山大塚古墳(天理市)や黒塚古墳(同市)などにみられる大和の大王級古墳と造り方が相似していることが分かったと発表した。
 現地説明会は25日午前11時から開かれる。
[参考:京都新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.2.19 向日市・元稲荷古墳 後方部でも敷石が見つかり墳丘表面全体を石で覆う
 2010.2.27 向日市・元稲荷古墳 葺石の構築方法に違い、複数の集団が関与か
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甲府市・不老園塚古墳 無袖横穴式石室のある円墳を確認

2010年09月20日 | Weblog
 山梨学院大考古学研究会が進めている発掘調査で、酒折御室山(通称・月見山)の中腹に位置する不老園塚古墳(甲府市酒折町)が古墳時代後期(6世紀後半から7世紀)に造られた、無袖横穴式石室(縦約5m、横約1・5m、深さ約1.3m)を持つ円墳(直径約10m、高さ2m)であることが分かった。
 石室から副葬品として、時代後期の土師器と鉄製品の破片が出土した。
 同古墳の東に隣接する横根・桜井積石塚古墳群(6世紀半ば~7世紀)には、馬の骨が副葬品に納められるなど、酒折周辺は当時、馬飼いの集団が多く居住していたとされる。
[参考:山梨日日新聞、NHKニュース]
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庄原市・佐田峠墳墓群 昨年度方形の墳丘墓は四隅突出型からの造り替え

2010年09月19日 | Weblog
 広島大と市教委は17日、昨年度の庄原市宮内町の佐田峠(さただお)墳墓群を発掘調査で方形の墳丘墓としていた墓が、弥生時代中期終わり頃の四隅突出型墳丘墓だったと発表した。
 調査している墓は縦4・5m、横6・4m。後に溝を整備し、方形に造り替えた跡がある。
 26日には西本町の市ふれあいセンターでシンポジウムがあり、調査報告をする。
[参考:中国新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.9.3 佐田峠墳墓群 方形貼石墓と方形周溝墓を確認
 2008.8.29 佐田峠3号墓 弥生時代・約2000年前に築造の四隅突出型墳丘墓を確認

メモ:
 昨年9月に、弥生時代中期末葉の方形貼石墓(4.5m四方、高さ0.5m)と方形周溝墓(8m四方)を確認したと発表している。
今回の記事で対象にしている方形の墳丘墓(縦4.5m、横6.4m)はどちらなのか、ちょっと不明である。
 1昨年9月には、四隅突出型墳丘墓(15.3m×7.95m、高さ1.2m、2000年前) を確認している。



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東京・文京区・椿山荘 登録有形文化財・三重塔 改修へ

2010年09月18日 | Weblog
(写真は21010年3月31日17時58分撮影)

 「椿山荘」の庭園にあり、登録有形文化財の三重塔が、来月から耐震改修工事に入る。
 山県有朋が築いた椿山荘の庭園の中にある三重塔は、高さ約17mで、室町時代に造られたとされる。
 三重塔はもともと(云われでは)、平安時代の歌人、小野篁(おののたかむら)に縁のある東広島市の篁山竹林寺(たかむらさんちくりんじ)に建てられていたが、大正14年間に強風で大破し、長年修理されないままだったのを藤田組(現・藤田観光)2代目の藤田平太郎(男爵)が1925年に椿山荘の庭園に移築し、修復した。2003年に有形文化財に登録された。建築様式から少なくとも600年の経過をしていると言われている
 10月から始まる工事では、傷みが激しい三重塔の屋根の銅板の葺き替えなどの修復を行い、来年7月に完成予定。塔の大規模な修復は、移築以来初めてとなる。
 17日の起工式では、京都の相国寺などから高僧を10人招き、建設関係者や椿山荘の顧客ら計100人が参加し、工事の安全を祈願した。
[参考:読売新聞、東京新聞、藤田観光HP]
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