歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

蒲郡市・上ノ郷城跡 虎口付近から金銅製飾り金具が出土

2009年06月30日 | Weblog
虎口付近から金銅製飾り金具が出土
 蒲郡市教育委員会が5月末から発掘調査中の上ノ郷城跡(同市神ノ郷町)で、虎口と呼ばれる城郭の出入り口付近から、金銅製の飾り金具が出土した。
 供物を入れる土師器の端に乗せられた状態で見つかり、築城の無事を祈る地鎮祭のような儀式で使用したものとみられる。
 飾り金具は、家具か武具などを固定するための留め具とみられ、大きさは縦6cm、横2・5cm。左右2カ所に直径1・5cmの穴があり、厚さ5mmほどの鋲の下にコイル状のものが通っていた。4次にわたる調査で、金銅製遺物の発見は初めて。
 発掘調査は、平安末期から同市中心地を治めていた鵜殿氏の居城の全体像を明らかにするため06年から行われている。今回の調査では、残された絵図に記載されている井戸や、当時の土木技術の高さを示す「雨落とし溝」などが出土した。
[参考:2009.6.29東日新聞]

■2009.6.10掲載分
諸国古城図に記された井戸が記載通りの位置から出土
 蒲郡市教委が進めている第4次上ノ郷城跡発掘調査で、「諸国古城図」(広島市立中央図書館浅野文庫所蔵)に記された井戸(平面が楕円形の直径1.2m、深さ1.3m)が、記載通りの本丸東側の位置から出土した。井戸の中からは、廃城の際に投げ込んだとみられる土器片が大量に見つかった。
 周囲を直径30―40cmの石で囲ったとみられる石組みの一部も見つかった。
 諸国古城図は、江戸中期に広島藩の浅野家が軍学研修の教材として作製したもので、東北から九州にかけ、当時すでに廃城となっていた177カ所を絵図で紹介している。
[参考:2009.6.7東日新聞]
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沖縄本島中部沖・海底遺跡? 城郭の可能性もある壁や階段状構造物を発見

2009年06月27日 | Weblog
 与那国島の「海底遺跡」調査をしている木村政昭・琉球大名誉教授(海洋地質学)の調査チームは27日までに、沖縄県北谷町の沖合約300m付近を水中ロボットなどで探査し、水深約20mの海底でも、壁などの人工的な構造物とみられるものを発見した。
 数段になっている階段ピラミッド状の岩(幅約60m、高さ約15m)や、カメの形をした巨石があり、巨石の下には石棺のように内部が空洞の石が見つかった。
 階段ピラミッド状の岩の成分となっているサンゴ石灰岩は約2400年前、「石棺」の内部に敷いてあったサンゴ片は約1800年前のものと推定されるという。
 付近には高さ約10mの壁のような岩が見つかっており、祭殿や王墓と、それを囲む城郭ではないかとみて調査を進めている。
 学会誌で既に発表している。
 与那国島には非常に大規模な巨石文明が栄えていたようだ。その謎に満ちた古代文明は、与那国島だけに限らず南西諸島広域に存在していた可能性が高まっている。奄美大島・沖縄本島・慶良間諸島などでも、近年になって海底遺跡らしきものを目撃したというダイバーたちの報告が相次いでいるという。
[参考:時事通信、沖縄観光コンベンションビューローHP]
沖縄本島沖に海底遺跡?=「壁」や「階段状構造物」-琉球大名誉教授が調査(時事通信) - goo ニュース


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鳥取県大山町・小竹上鷹ノ尾遺跡 弥生時代後期の集落跡、28日現地説明会

2009年06月27日 | Weblog
 県埋蔵文化財センターが26日、西伯郡大山町小竹の小竹上鷹ノ尾遺跡で竪穴住居などがある弥生時代後期(2~3世紀)の集落跡が見つかったと発表した。大山山麓に造られた集落の様子や地域の土地利用の変化を知るうえで興味深いとする。
 5月末から同遺跡の北西部分約1300㎡を調査。直径4mと4・8mの竪穴住居跡2棟、倉庫とみられる建物跡2棟、食料を貯蔵したとみられる深さ1・9mと2・4mの穴2か所を確認した。
 竪穴住居跡では、住居を拡張したことがうかがえる柱の移設跡が見つかったほか、貝殻を押し当てて模様を描いた弥生土器などの破片約60点、鉄製の鏃などが見つかった。縄文時代のものとみられる狩猟用の落とし穴もあった。
 現地説明会は28日午後1時30分から行われる。
[参考;読売新聞、鳥取県県埋蔵文化財センターHP]



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藤田嗣治 渡仏前、22歳の絵(婦人像)を発見

2009年06月26日 | Weblog
 フランスや日本で活躍した画家藤田嗣治(1886~1968)が学生時代に描いたとみられる油絵が見つかったことが25日、分かった。
 作品は、東京都内の個人が昨年、東京芸術大学に寄贈した、椅子に座った和服の女性の後ろ姿を描く油絵(縦約60cm、横約45cm)。
 キャンバスの右上にフランス語風の「T.Foujita」の署名と1909年5月の日付があり、藤田が東京美術学校(現東京芸術大)の学生だった22歳のときに描いたとみられる。
 鑑定した古田亮東京芸術大准教授によると、フランスに渡った後に確立した独特の乳白色の画風はまだ見られず、指導を受けていた黒田清輝(1866-1924)の影響がはっきりと表れているという。藤田は黒田に反発していたとされるが、当初は黒田の影響を受け、その後画風を大きく変えていった過程が明らかになったと話している。
 これまでに確認されている作品の中で最も古いとされ、藤田がパリに渡る前の作品については不明なことが多く、画家の出発点を示す貴重な発見として注目される。
 作品は7月4日から8月16日まで東京芸術大学大学美術館の「コレクションの誕生、成長、変容-芸大美術館所蔵品選」で一般公開される。
[参考:共同通信、産経新聞]

■藤田嗣治の渡仏までの略歴
1886年 東京市牛込区新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まる。
1905年 東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学
1910年 東京美術学校を卒業。
1912年 結婚(1年余りで破綻)
1913年 渡仏


2018.9.15追記
 東京都美術館で開催されている、「没後50年 藤田嗣治展」で、本作品が展示されている。 本作品のモデルは、最初の妻となる鴇田とみ(ときたとみ)に面立ちが似ている。 作品の年記1909年5月は、藤田が22才の夏、房総への写生旅行の際、とみと出会った数か月前であり、とみであるとは断定できない。

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大津市・近江国府跡 国庁北側から建物跡が出土、役所跡か

2009年06月26日 | Weblog
 市教委は25日、近江国府跡(同市大江3丁目)の発掘現場から、奈良時代後期から平安時代初期の掘立柱建物跡が見つかったと発表した。約100年間で3回建て替えられており、古代の役所関連の建物とみられる。
 市教委は、近江国庁跡の北側からの発掘成果は少ないため、国府の全容を知るうえで貴重な資料としている。
 調査地は、国庁跡(同市大江6丁目)の中心から北約370mの宅地造成地で、100㎡の調査範囲から、直径10~20cmほどの約150個の柱穴が見つかった。
 柱穴の大きさや形状、配置などから、柱と柱の間隔がそれぞれ3mから2・2mの4棟の建物跡が確認され、同じ場所に重なっているため、8世紀後半から9世紀後半にかけ繰り返し建て替えられたとみられる。
 同時に瓦が出土していることや柱穴の間隔から、近江国庁関連の役所跡とみている。ただ、いずれも調査地の外側にまたがっており、建物全体の規模は確定できていない。
 調査地内からは大量の土器(灯明皿?)や硯、瓦も見つかっており、北東端の井戸からは、墨で「曽麻呂」と人名とみられる文字が書かれた須恵器もみつかった。
 現地説明会は27日午前10時半から行われる。(雨天決行)
[参考:京都新聞、中日新聞]

過去のニュース・情報
■2008.12.11 中路遺跡/近江国府跡、勢多(瀬田)唐橋につながる東西一直線の道路跡を確認

■2007.3.17 政庁の「中門」発見 築地塀も確認 大津・史跡近江国庁跡
 滋賀県教委は14日、史跡近江国庁跡から、政庁の正面玄関にあたる「中門」や門を囲う築地塀とみられる遺構が見つかったと発表した。
 近江国庁は奈良時代(8世紀)から平安中期(10世紀)まで政治、経済の中心的な機能を果たした。
 遺構が発見されたのは、政庁前殿から南へ約40mの地点。門の基礎部分にあたる基壇(東西約13・5m、南北約8・4m)の一部と門前方の礎石の据え付け柱跡4カ所があった。基礎部分は雨水で崩れないように瓦を敷き詰め、強度を高めた「瓦積み基壇」。柱跡は東西に並び、中心の2本の間隔は約3・9m、左右両側の間隔は約3mあった。
門の東側で確認された築地塀の幅は約3mあった。2度改修されており、当初の幅は約1・8mで、60cmずつ拡張した跡が確認された。
中門の南約100mのところには当時の主要街道「東山道」があったとされる。
[参考:京都新聞]


キーワード:近江国府跡・国庁跡
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佐賀市・三重津海軍所跡 世界遺産暫定リスト入り実現を目指し追加調査

2009年06月26日 | Weblog
2009.6.26
■工場跡などの産業的な痕跡を見つけるため、追加の発掘調査を開始
 佐賀市教委と県教委は、「三重津海軍所跡」(同市川副町、諸富町)で25日、工場跡などの「産業的な痕跡」を見つけるため、追加の発掘調査を始めた。
 調査場所は、現在は佐野記念公園の一角になっている早津江川河川敷の一角約600㎡。
 1920年頃に作製されたとみられる絵図には、「製罐所」と記載され、エンジンの一部を作った「製罐所」や、ドックにあたる「船渠」などがこの場所にあったと記されている。旧川副町が2001~03年度、同公園の整備工事などに伴って調査した際には、幕末に鉄や銅の加工などを行っていたとみられる炉の跡が見つかった。
 初日の調査では、旧川副町の調査で確認された鍛冶場の炉の跡が姿を現した。一枚岩3枚をコの字形に組んでおり、さらに発掘を進める。
 ほかに、柱の跡や加工された石を確認した。23日までの事前作業では、海軍所用に焼かれたと推測される「船」と書いた磁器片も見つかっている。
 調査は7月末まで。その後は、大工小屋やドック跡の調査に入る予定。
 文化庁は佐賀藩の近代化史跡を「自力で西洋技術の導入を進めたことを示すため必要不可欠」としており、佐賀藩史跡を含めて世界遺産登録を目指す「九州・山口の近代化産業遺産群」としても注目される調査になる。
[参考:佐賀新聞、読売新聞]

過去のニュース・情報
2009.5.29掲載分
 地下探査

2009.5.23掲載分
 市教育委員会は、三重津海軍所跡について、追加の発掘調査をする方針を固めた。
 ボイラー工場の遺構など軍船建造の証拠を集め、世界遺産暫定リスト入りを目指し、土地を所有する国土交通省の了承を得て6月上旬から着手する。
 古絵図でボイラー工場、船大工小屋、ドックがあったと記された場所の計約1200㎡で、01~03年発掘調査した際、鍛冶遺構やドックの痕跡が出土した。今回は建物遺構の発見を目指す。
[参考:2009.5.22 毎日新聞]

2009.4.21
 幕末佐賀藩の近代化史跡の世界遺産登録を目指し、佐賀市は20日、県と合同で日本初の近代海軍基地「三重津海軍所」跡(佐賀市川副町、諸富町)で本格的な発掘調査を始めた。
 三重津海軍所は1858(安政5)年、長崎警備を担当した佐賀藩が軍港として開設。西洋式のドックを備え、国内初の本格的蒸気船「凌風丸」を建造したほか、藩士の学習施設だった海軍寮もあったとされる。[西日本新聞]

2009.5.1
 佐賀藩三重津海軍所跡で、掘っ立て柱跡7本や礎石が確認された。[参考:佐賀新聞]

2009.5.13
 市教委は12日、「三重津海軍所」跡で、海軍所の遺構とみられる2棟の建物跡(柱跡8本と礎石痕跡4個)を確認したと発表した。柱の跡や広範囲な造成形跡があり、周辺から1820-60年代の磁器の染付皿などがあったことで時期を特定した。 [参考:佐賀新聞、西日本新聞、読売新聞]
「兵学校の可能性」 三重津海軍所跡 2棟の建物跡確認 佐賀市諸富町(西日本新聞) - goo ニュース

[参考]
佐賀藩 三重津海軍所
■安政4年(1857) 佐賀藩から幕府の長崎海軍伝習所に送られていた佐野常民は「佐賀藩海軍創設建白書」を藩主直正に提出。
■安政5年(1858) 三重津に「御船手稽古所」が設けられた。航海や造船の教育を行った。(明治初期に閉鎖されたとみられる。)
■安政6年(1859) 海軍寮が設置された。この年、長崎海軍伝習所が閉鎖されたので、佐賀藩では、幕府の長崎海軍伝習所一期伝習生を教官として、ここで伝習をした。(佐野常民が監督となり、同じく長崎海軍伝習所に通っていた石井忠亮や中牟田倉之助らを教官として海軍伝習が続けられた。)
■文久元年(1861) 三重津海軍所と改称。この年に製鑵所を設置する。
■文久3年(1863) 日本最初の国産蒸気船凌風丸(りょうふうまる、全長18.2m 船幅3.3m、10馬力)の建造を開始する。(1865年完成) 幕府注文の蒸気鑵を製作する。
[参考:佐野常民記念館HP]


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淡路市・垣内遺跡 保存のため埋め戻し始まる

2009年06月26日 | Weblog
 弥生時代後期(1世紀中頃~3世紀初め)の国内最大の鍛冶工房跡が出土した淡路市黒谷・垣内(かいと)遺跡で、遺構を埋め戻し保存する作業が始まった。
 市教委は早ければ2年後の国史跡申請を目指している。
 現地には25日、見学に訪れる人らのため遺跡の概要を記した看板(縦0・9m、横1・8m)が主要地点を見下ろす高台に設置された。播磨灘を見下ろす丘陵地で23棟の竪穴建物跡、うち11棟の鍛冶工房跡が見つかったことなどを紹介し、出土した鉄製品や工具の写真もつけている。
[参考: 読売新聞]

過去のニュース・情報
 2009.4.4垣内遺跡/淡路市 国内最大の弥生後期の鉄器工房


キーワード: 五斗長垣内遺跡
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沖縄県糸満市・摩文仁ハンタ原遺跡 縄文後期の人骨27体、貝製品など232点が出土

2009年06月25日 | Weblog
 糸満市教育委員会と土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム(山口県下関市)の共同調査により24日までに、糸満市摩文仁の埋葬遺構「摩文仁ハンタ原遺跡」の石灰岩の岩陰(調査面積約5㎡)から、縄文時代後期(約4000~3000年前)の縄文人骨27体分や貝製などの人工遺物が多数このほど見つかったことがわかった。人骨は最終的に50体分近くになるとみられる。人工遺物も232点出土し、その8割の186点は貝製品。
 装飾品の一種とみられる「線刻有孔製品」は類例がなく、縄文人の精神活動の一端を知る貴重な手掛かりという。
 この時期の人骨と貝製品がまとまって出土したのは本島南部では初めて。
 調査はヒトの形質と埋葬形態の変遷を調査する目的で2007年から3年計画で実施されている。調査報告書によると、県内では山下洞人(約3万2000年前)や港川人(約1万8000)などの旧石器時代人骨が出土しているが、それに続く縄文人骨や弥生人骨の出土例は具志川島(伊是名村)など数カ所あるだけで、多くないという。そのため琉球列島で旧石器時代人がどのように変化したか不明な点も多い。
 今回発見された人骨は2種類の方法で埋葬されていた。地表面近い場所で見つかった人骨は頭骨を石灰岩で取り囲む「石囲墓」と呼ばれる方法で、さらにその下層から発見された人骨は1カ所に集める「集骨」と呼ばれる方法でそれぞれ埋葬されていた。時期的な差が考えられ、変遷を知る上でも県内有数の埋葬跡としている。
 7月11日午前に現場説明会を開き、発掘した人骨や人工遺物を公開する予定。
[参考:琉球新報、沖縄タイムス]
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高島市・弘部野遺跡 古代北陸道の駅家跡か、建物群跡など出土

2009年06月25日 | Weblog
 市教育委員会は24日、都と北陸地方をつなぐ古代「北陸道」の要所である弘部野(ひろべの)遺跡で、7世紀前半~9世紀後半(飛鳥-平安時代前期)の掘っ立て柱建物群の跡などが見つかったと発表した。
 市教委は、駅家(うまや)の可能性があり、確認されれば北陸道では初めてである。
 出土したのは、母屋と離れとみられる2棟の掘っ立て柱建物や柵の跡。母屋は柱の間隔が3mあり、古代の役所と同規模という。約250年間に2回建て替えた跡があった。倉庫もあった。
 掘っ立て柱建物は、柱の穴が直径40cmを超えるものもあり、柵で区画され、整然と並んでいた。長期にわたり、集落として機能していたらしく、駅家のほか、有力者の屋敷とも考えられる。
 古代の北陸道は、琵琶湖西岸沿いを北上するルートが知られているが、近年の研究では、8世紀後半までは同遺跡を西進して福井県内の若狭湾沿いを北上するルートの存在も解明されつつある。
 現地説明会は7月4日午後1時半から。
[参考:産経新聞、共同通信]

2009.6.25コメント
 25日朝、読売新聞のニュース記事を見て、ちょっと内容違っているのであげてみた。
 集落跡のうち、奈良時代の6棟は柱の間隔が最大3m、柱穴の1辺が1mを超える大型で、計3回の建て替えが行われていることが判明。
 柱の間隔などが平城京などの役所とほぼ同じことから、国、郡の下部にあたる「郷(ごう)」に関係する施設だったとみている。また遺跡周辺には、古代の官道・北陸道が通っていたと推定。駅家など公的施設の可能性があるともしている。[参考:読売新聞]

 「延喜式」では、今回の遺跡を通る北陸道の近江西ルートとしての駅家は、「穴多五疋。和爾。三尾各七疋。鞆結九疋。」4箇所があげられている。その4箇所は穴太(大津市穴太)、和邇(大津市和邇中)、三尾(高島市安曇川町三尾里)、鞆結(マキノ町)に比定されている。したがって、遺跡はルート近くにあるが、駅家としては「延喜式」には該当していない。

 また、高島から越前に直行するルートの前に、若狭を経る周行ルートがあったという学説があり、同遺跡は「北陸道」ルートから外れ、高島市から若狭に抜ける国道303号沿いに位置し、駅家だとすれば、周行ルートの存在を裏付ける証拠となるとする。[参考:京都新聞]



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京都市南区・東寺 平安時代の緑釉瓦片が出土 27日に現地説明会

2009年06月24日 | Weblog
 京都市埋蔵文化財研究所は23日、教王護国寺(東寺)北側の東寺保育園建て替えにともなう発掘調査で、江戸時代後期に建てられたとみられる同寺の子院(しいん)「金剛珠院」や、平安時代後期ごろの「政所院」「賤(せん)院」跡と見られる遺構や、平安時代の緑釉瓦片が出土したと発表した。
 緑釉の瓦は、天皇の宮殿や仁和寺など天皇ゆかりの建物で使用されていたという。これまでの調査から付近に瓦を焼く窯があったとみられ、今回見つかった瓦片の量が少ないことから、試験的に窯で焼かれた可能性があるしている。
 また、東寺の有力な僧の自坊とされる子院「金剛珠院」の下の層からは、室町時代の堀状遺構も見つかった。
 現地説明会が、27日午前10時から行われる。
[参考:毎日新聞、京都市埋蔵文化財研究所HP]



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唐津市・唐津城 名護屋城と同じ文様の瓦が大量に出土

2009年06月24日 | Weblog
 佐賀県唐津市教委は23日、唐津城跡(同市東城内)の石垣修復に伴う発掘調査で、天守閣がある公園東側の石垣(幅12~28m、高さ12m)の裏側全域から、名護屋城跡(同市鎮西町)で出土した瓦片と同一の文様が入った瓦片約40点(①)や、金箔を施した瓦片1点(②)を含む約1000点の瓦片が出土したと発表した。
 ①は大きさが15~39cmほどで、豊臣家の桐文様や唐草文様などの意匠が入った軒瓦。名護屋城のものとみられる瓦片は1995年に3個が見つかっていたが、大量に確認されたことで、「唐津城は名護屋城の解体資材を使って建てられた」とされる通説を裏付ける史料になる。
 ②は金箔瓦片1個で、飾り瓦の「しゃちほこ」の鰭の一部らしい。大きさが10・5cm×8・5cmで、大きな溝が横1列に3本あり、その溝に沿って約1cmの細い溝が植物の葉脈のように刻まれている。金箔は溝の部分に残り、金箔と溝の間には接着剤として塗られた赤漆の跡も見つかった。金箔瓦は、豊臣秀吉の権力を示すもので、全国約40カ所の城郭で確認されているが、県内では名護屋城に続き2例目。ただ同型の金箔瓦は名護屋城の出土物にはない。
 唐津城築城については幕末に書かれた複数の庄屋文書の記述から「寺沢広高が名護屋城の廃材を使い1602年から1608年にかけて築城した」と伝えられてきた。
 市は28日午前9時半と午前11時から現地説明会を開く。
[参考:佐賀新聞、西日本新聞、読売新聞、共同通信]

唐津藩
 文禄4年(1595) 豊臣秀吉の家臣・寺沢広高(1563-1633)がこの地に封ぜられた。広高は関ヶ原の戦いでは東軍方につき、戦後、肥後・天草郡4万石を加増された。
 慶長7年(1602) 唐津城の本格的な築城を行い、慶長13年(1608)に完成。
 寛永15年(1638) 広高の子の堅高(1609-1647)は、島原の乱による失政の責任を取らされ天草領4万石を没収された。
 正保4年(1647) 堅高は江戸藩邸で自殺。嗣子がなかったために寺沢家は断絶となった。

歴代城主
 寺沢家(1593年~1647年)
 大久保家(1649年~1678年)
 松平大給(おぎゅう)家(1678年~1691年)
 土井家(1691年~1762年)
 水野家(1762年~1817年)
 小笠原家 (1817年~1871年)



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奈良市・新薬師寺旧境内 焼けた瓦が入った溝が見つかる

2009年06月24日 | Weblog
 奈良教育大学は22日、新薬師寺旧境内(同市高取町、同大学構内)で、奈良時代中ごろの瓦が入った溝跡などが見つかったと発表した。
 調査地は昨年見つかった金堂とみられる基壇の南側約50m。地形などから中門が想定されていたが、中門や回廊の遺構はなく、伽藍がさらに広いか、金堂だけだった可能性が浮上した。
 溝(幅約2m、深さ0・4m)は建物跡の南約20mの場所から南に伸び、さらに南にあって東西に流れていた水路か川の跡(幅約5m)につながっていた。
 溝の中には、興福寺で造営当初(710年)に使われたのと同じ型の軒丸瓦(8世紀)や焼けた瓦などが大量にあった。「東大寺要録」などによると、新薬師寺は光明皇后が夫の聖武天皇の病気平癒を祈って天平19年(747)に建立。壮大な寺院だったが、応和2年(962)の大風で主要建造物が倒壊した。今回見つかった瓦は、この時に起きた火災で焼けて、溝に落ち込んだらしい。
 以前の調査で見つかった金堂付近の瓦は焼けておらず、金堂も同じ大風で倒壊したが、火災には遭わなかったらしい。焼けた瓦は、金堂とは別の建物のものとみられる。
 奈良時代に鋳造された神功開宝(765年発行)と隆平永宝(796年発行)も各1点出土、漆の付着した土器片もあった。
 中門や左右に接続する回廊が見つからないことについて、担当した金原正明准教授(古文化財科学)は
(1) さらに南に存在した
(2) 金堂南側のスペースがせまく、調査地の北側で閉じていた
(3) 回廊がなく、金堂だけが建っていた
 の3つを挙げる。
 調査地が金堂の中軸線上にあたることから、溝は参道側溝の可能性もあるという。東大寺山堺四至図(756年)には「新薬師寺堂」として仏殿1棟だけが描かれている。
 金原准教授は「金堂跡の瓦は焼けておらず、別の建物が近くにあったと考えられる。伽藍の特異性を検討する必要が出てきた」と話している。
 現地説明会はない。7月にも隣接地を発掘し、さらに調査する方針という。
[参考:奈良新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞]

過去のニュース・情報
 2008.12.31 出土の壺は薬壺?
 2008.11.24 金堂跡がさらに大型と推定
 2008.8.2 塼が出土
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韓国・国立中央博物館「浄瓶と観音信仰」展、23日に開幕

2009年06月24日 | Weblog
 前年度、慶北 軍威麟角寺(인각사)で金銅柄香炉と青銅浄瓶、青銅香盒、青銅二重盒、青銅飯子などが揃った仏教供養具が出土し、韓国美術史学界を震撼させた。これら遺物の製作された年代が統一新羅末期の9世紀頃であることは、さらに驚きであった。
 これらの驚きの理由については、国立中央博物館が23日に開幕する「浄瓶と観音信仰」(정병과 관음신앙)展て確認することができる。(10月11日まで同博物館美術館Ⅱ白磁室で開催される。)
 今回の展示には仏教儀式具であり日常生活用品でもある浄瓶の中でも、いわゆる名品とされる10点余りが一堂に集まる。
 「青銅製水辺風景文淨」(国宝92号、注1)と「青磁水辺風景文淨」(宝物344号、注2)等が姿を表わす。
(注1)銅製 銀入絲 蒲柳水禽文 淨 (ほりゅうすいきんもんじょうへい、청동은입사포유수금문정병)
(注2) 磁 陽刻 葦芦水禽文 淨(いろすいきんもんじょうへい、청자양각위려수금문정병)

 この展示は、浄瓶を観音信仰と連結しようとする。その理由は、仏と、菩薩の中でも大衆的人気が最も高い観音菩薩(관음보살)がいつも手に握る物がまさに浄瓶であるためだ。
 展示品は、ほかに三国時代観音菩薩(国宝127号)と金で製作した高さ2.6㎝の高麗時代小観音菩薩像も登場する。
 中国北宋の使節で1123年高麗を訪問した徐兢は、『宣和奉使高麗図経』という高麗見聞録で、今回展示される仏教供養具を高麗の人々が「浄瓶」と呼ぶと書いた。
 古代インド社会で浄瓶は修行生活をする僧侶が飲む水を入れた修行道具であった。そうするうちに観音菩薩が柳の枝と清い水を衆生に与えた後、彼らの病気を治療したという内容が載せられた「請観世音経」という仏教経典が5世紀始め中国に知らされて、浄瓶は僧侶の生活容器から仏教儀式具として機能を拡張する一方、以後には浄瓶と柳の枝が入った「楊柳観音菩薩像」(양류관음보살상)という仏教彫刻も現れた。したがって浄瓶があれば、まず観音信仰(관음신앙)と関連があるかもしれない。
 観音信仰は、仏教が色々な信仰に分かれた中でも、すでに三国時代には韓半島に上陸したとみられる。
 それでも、これまでに浄瓶は「高麗時代」という年代が当てはめられた。例えば、水辺風景を描写した蒲柳水禽文(포류수금문)という紋がそれを示す主要な根拠となっていた。蒲柳水禽文は、柳の枝が伸びた水辺で泳ぐ鳥と船に乗った人などを描写した叙情的な模様で、この模様は高麗時代青磁浄瓶と大楪にもよく見られ、同じ模様が現れる浄瓶もまた高麗時代遺物とみられてきた。
 このような状況下で、統一新羅時代作品だと主張する青銅製浄瓶が麟角寺址で出現したわけだ。これら仏教供養具が統一新羅時代に製作したことが明白な瓦箱中で発見されたためだ。
[参考:聯合ニュース、韓国国立博物館HP]
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京畿漣川郡・瓠蘆古壘 「相皷」の字が書かれた高句麗・太鼓を発見

2009年06月22日 | Weblog
 韓国・土地博物館は22日、京畿漣川郡臨津江の川辺北沿岸玄武岩地帯に所在する古代城郭遺跡の瓠蘆古壘(호로고루、史跡 第467号)に対する第3次発掘調査結果として、「相皷」(상고)という銘文がある太鼓をはじめとして蓮華文瓦当、着固瓦などの高句麗時代遺物を多量に確認したと発表した。
主な出土品と発掘成果
① 楽器の一種の太鼓であることを明らかにする「相皷」という字が書かれた土製品は他の12片と共に発見された。「相皷」とは、高句麗・安岳3号墳の壁画に描かれている騎手の持つ太鼓(북)と同じようなもの。厚さは1.7cm程度で灰黒色を帯びて表面は普通の高句麗土器のように表面は磨研されている。太鼓を復元すると直径は55cm程度とみられる。口縁の部分には一定間隔で3列の穴があけられて、革をかぶせてひもを縛って固定できるようにしてある。
 この遺物は、朝鮮時代編纂された音楽専門書籍の『楽学軌範』(악학궤범)で、「相皷」という名前の楽器が絵と共に大きさ(49㎝)として出てくるため、今回の出土品と比較すると、大きさも似ているという。
 高麗史には相皷という楽器は、高麗時代に宋の国から入ったというけれど、今回の発掘を通じて、すでに高句麗時代に存在したことが明らかになったとする。
 今回の出土品は、土製品の「土鼓」のため、古墳壁画に見える太鼓はだいぶ発達した楽器という点と比べて、実際に使ったというよりは各種儀式に使った儀器だった可能性があるという見解もある。
② 2次発掘調査時に、井戸の中から周緣部が壊れた状態で1点だけ発見された蓮華文瓦当(注1)が今回は5点も発見された。ソウルの紅蓮峰第1堡壘に続き二番目となる出土。
 (注1)2006年度の第2次調査で出土した蓮華文軒丸瓦は六弁であった。
③ 建物屋根の棟両側にのせる大型装飾瓦の鴟尾(치미)が多数発見された。南韓地域の高句麗遺跡で鴟尾は初めてであり、瓠蘆古壘の中には派手さと威容を誇る建築物があった可能性がある。
④ 瓦を製作した数量とそれを使って残った個数を各々記録した文字資料のいわゆる「算板」(산판)瓦も発見された。
⑤東側城壁内側で2列の木柱穴が確認され、石垣城壁が立てられる前に木柵があったことが分かった。
[参考:聯合ニュース]
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多治見市七ツ塚遺跡 鎌倉時代末の灌漑用水路跡が見つかる 20日に現地説明会

2009年06月21日 | Weblog
<20日に現地説明会が行われ約80名が参加>
 七ツ塚遺跡で見つかった灌漑用水路跡で20日、現地説明会があり、約80人が訪れた。
 溝の中に細かい砂粒が並び、水流があったことが分かったことが、灌漑施設と判断した根拠。水路脇の土手を固めるために、3000本の木製杭を打ち込んであった。用水路跡は、南北50mにわたって延びている。
 次回の調査は7月に始まる。
[参考:中日新聞]

<2009.6.19掲載分>
 多治見市音羽町の七ツ塚遺跡(600㎡)で、中世の大規模な灌漑用水路跡が発掘された。市教委文化財保護センターによると、13世紀末から14世紀初めにかけて構築されたもので、明治時代に構築された虎渓用水より約600年も前に本格的な水路が完成していたことを証明する貴重な発見という。
 灌漑用水路跡は30m以上にわたって発掘。鎌倉末期~室町期の築造とみられ、大量の木杭や横木などで基礎を固めた幅2~3mの土手状遺構があった。土手を築いて水位を上げて水田に導水したらしい。
 同様の構造の中世の土手状遺構は全国的にも珍しく、県内では2例目の発見という。水路などから13~15世紀を中心にした山茶碗(注1)や古瀬戸、中国陶磁器など1万5000点以上が出土した。
 20日午後1時から現地説明会が開かれる。出土品も公開する。雨天時は翌日に延期。
[参考:毎日新聞]

過去のニュース・情報
 (注1)山茶碗

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 誰が、この大規模な灌漑用水路が作ったのか、興味があるところ。土岐川を越えて東南1.4kmに「太平記」で有名な多治見国長(注2)邸跡があり、候補として挙げられる。
 昨年度の発掘調査では、縄文時代の土器や石器、弥生式土器、平安時代の灰釉陶器、中世の山茶碗など約1万2000点が出土した。

 (注2) 多治見国長(1289 -1324)
 鎌倉時代末期の武将。清和源氏の流れを汲む土岐氏一門の国純の子。
 美濃国多治見を本拠として活動していたが、後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒計画に参加。 「正中の変」で六波羅探題に攻められ自刃した。多治見新町2丁目の場所に国長の表門があったと伝えられ、ここに「多治見国長公遺址」と刻まれた石柱が建てられている。



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