歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

堺市・ニサンザイ古墳 蓋形木製埴輪が初出土

2015年01月30日 | Weblog
 堺市は同市北区にある5世紀後半の前方後円墳「ニサンザイ古墳」(東百舌鳥陵墓参考地)の前方部側の濠から木製の蓋形埴輪の一部(最長約79cmの木製品3点)が見つかったと発表した。 
 切り込みや透かし、紋様が刻まれており、傘の先につく「立ち飾り」を模した一部とみられるという。
 木製の蓋形埴輪の出土は初めてで、素焼きの円筒形埴輪と一緒に墳丘に多数並べられていた可能性があるという。
 前方部側の濠の底では築造当時の墳丘の端も確認。墳丘長は約300mと確認された。墳丘は中段斜面に葺石を敷いているのに対し、最下段には殆どなかった。
[参考:産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
ニサンザイ古墳
 2014-02-06 後円部直径が、これまでの測量結果(1926年、156m)より10m以上大きく、約170mと推定される。古墳の葺石が簡素化され、まばらにしか敷かれていないことも判明。
 2013-02-21 周濠から木造の橋脚跡が見つかった。
 2012-11-28 墳丘の全長がこれまでの見方より約10m長い300m以上あることが分かった。5世紀後半の築造で、仁徳天皇陵(堺市堺区、全長486m)の次に築造されたとみられる。
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今治・新谷森ノ前遺跡 弥生後期の丸太列が県内初出土

2015年01月30日 | Weblog
 愛媛県埋蔵文化財センターは29日、今治市新谷(にや)の新谷森ノ前遺跡で、約1800年前の丸太列が県内で初めて出土したと発表した。
 木材を引き上げる際のスロープとして使ったとみられる。 南北方向へ長さ約2.1m、角度約14度のスロープ状に9本(長さ約1.2m、幅約0.2m)のヒノキ材が並び、丸太列のそばには幅約6.5m、深さ約1.2mの貯木場とみられる空間があった。 さらにスロープを下ると、建築部材を再利用して作られた堰とみられる遺構も残っていた。
 ほかに、武器形木製品(県内初)や新たに複数の竜を描いた絵画土器も見つかった。
 弥生時代中期から後期にかけて今治平野の拠点的集落の一つだったと考えられるとしている。
 現地説明会は31日(土)午後1時から開かれる。
[参考:愛媛新聞、愛媛県埋蔵文化財センターHP]

過去の関連ニュース・情報
2014.3.8 新谷森ノ前遺跡 前回より50年新しい竜を描いた絵画土器が出土
 2013年に続いて、竜を描いた弥生時代後期(約1900年前)の絵画土器が見つかる。昨年より約50年新しい時期のものであり、竜の土器を使った祭祀が長期間続けられていたことが分かったとしている。
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桜井市・纒向遺跡 古墳時代前期の「卜骨」が初出土

2015年01月29日 | Weblog
 桜井市教委が29日、纒向遺跡の人工的に掘られた穴(注1)の底部から、3世紀後半(古墳時代前期)に占いに使ったとみられる動物の骨「卜骨(ぼっこつ)」が見つかったと発表した。(纒向遺跡第183次調査)
 卜骨はイノシシの成獣の右肩甲骨で、長さ16.7cm、幅6.7cm。直径1cmほど丸く削った部分が3カ所あり、それぞれ点状に焦げた跡があった。棒状のもので焼き付けた痕跡とみられる。
 「魏志倭人伝」に、3世紀の日本では人々が骨を焼き、割れ方を見て吉凶を占ったとの記述がある。
   『其俗擧事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火坼占兆』
 纒向遺跡で卜骨が出土したのは初めて。
 調査を担当した市纒向学研究センターは「当時の祭祀のあり方を考える上で意義深い発見」としている。
 現地説明会は2月1日(日)午前10時〜午後3時から開かれる。

 NHKニュースでは、新たに3世紀後半の建物跡(4m四方)(注2)が見つかったとして、大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎館長が「3世紀前半の邪馬台国の時代から、3世紀後半のヤマト王権の時代にかけて建物の建築継続を示す貴重な発見」と話していた。

 (注1) 2009年に確認された3世紀前半としては国内最大規模の大型建物跡の東側の穴。
 (注2)2間×2間で、柱跡の数は8本で、中心に柱跡は見られていない様子である。 

[参考:共同通信、:毎日新聞、読売新聞、産経新聞、朝日新聞、NNNニュース、NHKニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2009.11.2 纒向遺跡 3世紀前半の国内最大の建物跡が見つかる
  纒向遺跡の中心部で3世紀前半の高床式の大型建物跡が見つかった。
 纒向遺跡
 卜骨



纒向遺跡から占いの骨が初出土 弥生文化も継承か(朝日新聞) - goo ニュース
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福岡市・元岡古墳群G6号墳 象嵌(庚寅)大刀の金19文字全ての露出に成功

2015年01月23日 | Weblog
 福岡市は22日、元岡古墳群G6号墳(同市西区)で出土した象嵌大刀(長さ75cm)に彫られた19文字(注1)の全ての露出に成功したと発表した。 楷書体の毛筆で書いた美意識の高い鮮やかな金の文字列が浮かび上がった。
 (注1) 大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果■ (■は練の他に、錬、湅の説がある。)
 文字は4~6ミリ四方で、全ての文字に95%前後の高純度の金が使われていたことが判明した。
 大刀は1月23日から3月31日まで、市埋蔵文化財センター(同市博多区井相田)で展示される。
[参考:西日本新聞、毎日新聞、読売新聞]


過去の関連ニュース・情報
 元岡古墳群G6号墳


1400年ぶりに輝く金文字…すべて表出に成功(読売新聞) - goo ニュース
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えびの市・島内地下式横穴墓群第139号墓 5~6世紀頃の未盗掘横穴墓から大量の副葬品が出土

2015年01月20日 | Weblog
 宮崎県えびの市教委は19日、同市島内の島内地下式横穴墓群第139号墓(5〜6世紀頃、未盗掘)で、銀で装飾された朝鮮半島製の「銀装円頭大刀」など武器、武具を中心とした大量の副葬品を納めた有力者の墓が見つかったと発表した。 墓は道路工事に伴う調査で昨年10月に見つかった。
 「玄室」は奥行き約2.25m、幅約3.1m、高さ94cm。墓群約160基の中で最大級。
 男女と見られる被葬者2体の人骨が見つかった。
 副葬品は甲冑一式のほか、剣1点、刀3点、矢200点以上、弓5点、金銅製馬具、銅鏡など。
 刀のうち1本は朝鮮半島製の銀装円頭大刀で、長さ約80cm、刃部幅約3cm。
 矢羽根に黒漆装飾などがある矢200点以上、金銅製の装飾付き馬具2組、銅鏡(直径15.5cm)なども見つかった。
 大和政権からの甲冑が含まれ、朝鮮半島とも直接交流のあった有力首長墓と見られている。
 同墓群からはこれまで計約1500点の副葬品が見つかり、うち1000点以上が2012年に国重要文化財に指定されている。
 現地説明会が25日に開かれる。
[参考:宮崎日日新聞、毎日新聞、えびの市HP]

過去の関連ニュース・情報
 2010.4.21 島内地下式横穴墓群 銀で細工された龍が刀身に描かれた「龍文銀象嵌大刀」が出土
 島内地下式横穴墓
 


キーワード: 島内139号地下式横穴墓、島内地下式横穴墓群139号墓
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栃木県壬生町・車塚古墳 葺石の下に砂利層と墳丘内石積み 排水効果の工夫か

2015年01月17日 | Weblog
 壬生町教委などの調査で、7世紀頃に築造された車塚古墳(壬生町壬生甲)で、葺石の下に新たな砂利層と墳丘内石積みがあることが分かった。 古墳の形を維持するほか、効果的な排水で石室内部を守る役割があったと考えられるという。
 似たような構造は、高槻市の今城塚古墳で墳丘内石積みと排水溝遺構が確認されている。
[参考:下野新聞]

過去の関連ニュース・情報
 壬生町・車塚古墳


排水促す古墳の工夫か 砂利層と石積み、栃木県内で初確認 壬生の車塚古墳(下野新聞) - goo ニュース
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明日香村・小山田遺跡 石張りの巨大な掘割を発掘 7世紀中頃の未知の古墳か

2015年01月16日 | Weblog
奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が15日、明日香村川原(かわはら)の県立明日香養護学校の校舎建て替えに伴う小山田(こやまだ)遺跡の発掘で、飛鳥時代中頃(7世紀中頃)の約50mにわたって石材を張り付けた巨大な掘割が見つかったと発表した。
同遺跡は、甘樫丘の南端で、伝飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)跡(飛鳥宮跡)の西約1kmに位置する。 西にある菖蒲池古墳(7世紀中頃)とは200mも離れていない。
遺構は東西方向に幅7~3・9m、長さ約48mの掘割で、北側斜面は40cm大の石英閃緑岩(せんりょくがん)を張り、底面は15~30cmの石材を敷き詰めていた。南側斜面は2段目まで緑色の緑泥片岩の板石を積み、その上に奈良県東部産の「榛原石(はいばらいし)」の板石を階段状に積み上げ、最高10段の板石積みが残っていた。 橿考研は、未知の古墳の掘割(濠)とみて、墳丘裾部は蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(一辺約50m)を上回る一辺50~80m程度の方形だったと推定している。 墳丘はすでに失われているが、板石が裾部の表面を飾った可能性が高いとみている。
『日本書紀』巻二四皇極天皇元年(642)十二月の条に、
○壬寅(21日)。葬息長足日廣額(舒明)天皇于滑谷崗。
○十二月是歳。((蘇我大臣蝦夷)、又盡發舉國之民并百八十部曲。預造雙墓於今來。一曰大陵。爲大臣墓。一曰小陵。爲入鹿臣墓。
と記されており、橿考研は、規模や立地、特異な構造から、大化改新の中大兄皇子(天智天皇)や壬申の乱の大海人皇子(天武天皇)の父である舒明天皇(593~641)が最初に葬られた滑谷岡(なめはざまのおか)陵とみている。その後、日本書紀では、舒明天皇の遺体はその9カ月後に「押坂陵(おしさかのみささぎ)」(宮内庁が段ノ塚古墳(桜井市)を舒明天皇陵に指定)に改葬された。
 一方、一帯は蘇我氏の本拠地のため、蘇我氏の関連とし、特に馬子の子、蘇我蝦夷の墓とみる識者もいる。日本書紀の同じ皇極天皇元年十二月の条に「双墓」を造り、大陵(小山田遺跡に比定)は蝦夷の墓、小陵(菖蒲池古墳に比定)は入鹿墓とみるわけである。 最近、蝦夷の祖父、稲目の墓説もある石を階段状に積み上げた特異な大型方墳・都塚(みやこづか)古墳が見つかったばかり。
 ほかに、皇族の居館や苑池(えんち)の可能性を指摘する識者もいる。
 現地説明会が18日(日)午前10時~午後4時に開かれる。
[参考:時事通信、共同通信、朝日新聞、読売新聞、産経新聞、毎日新聞、東京新聞]

過去の関連ニュース・情報
 段ノ塚古墳
 都塚古墳



明日香に巨大古墳 舒明天皇陵か蝦夷の大陵か 考古学者、割れる学説(産経新聞) - goo ニュース


キーワード: 小山田遺跡、小山田古墳
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和歌山市・鷺ノ森遺跡 戦国時代の堀跡や1000年前後の仏具「鰐口」出土

2015年01月15日 | Weblog
 和歌山市と市文化スポーツ振興財団埋蔵文化財センターが9日、 弥生~江戸時代の集落跡・鷺ノ森遺跡(同市鷺ノ森南ノ丁)で、戦国時代末期の16世紀後半に造られたとみられる堀跡と、国内最古級とみられる小型仏具「鰐口」が発見されたと発表した。
 市教委文化振興課によると、調査地点一帯には16世紀後半、和歌浦から移転した浄土真宗寺院の鷺森御坊(注1)があったとされる。
(注1) 文明8年(1476)、蓮如に深く帰依した紀伊阿間(あま)郡冷水(しみず)浦(海南市冷水)の了賢(注2)が飯盛山に道場を設けたのが始まりとされる。その後、寺地は転々とした。
(注2)了賢(りょうけん)は冷水浦の住人で、俗名は喜六太夫(?~1492)。熊野参詣の途中の本願寺第8代宗主蓮如上人に出会い、上人に帰依し了賢となった。 紀州における「浄土真宗」の起源であると言われている。

 鷺森御坊は、永禄6年(1563)に和歌浦から現在の本願寺鷺森別院の場所に移転し、戦国時代に織田信長の勢力に対抗するために要塞化したと考えられている。 顕如が、石山合戦終結後の1580年に石山本願寺を信長に明け渡して鷺森御坊に移り、約3年間過ごした。
今回発見された堀跡は、東西に延びる幅約16m、長さ約60m、深さ約3mで人為的に埋められており、記録に残る鷺森御坊の外堀に相当する可能性が高く、東西200mほどの大規模な堀だったとみられている。 堀は江戸時代初期に埋められ、詳細は不明だった。
 現場からは鉄砲の玉が見つかったほか、以前の調査では刀の金具やよろいの破片も出土し、守備にあたった信徒や雑賀衆の実情がうかがえる。
鰐口は平安時代(9世紀末~10世紀初頭ごろ)の地層から黒色土器などとともに見つかった。 直径約9cm、重さ約350gの銅製。制作年代を示す銘はなかったが、同じ地層にあった土器などから、時代を特定した。 制作時期が明確な最古の鰐口は、長野県松本市の遺跡から出土した1001年の銘があるもの(東京国立博物館所蔵)とされる。 鰐口は、通常は寺院の軒先につるし音を鳴らす仏具だが、この鰐口は小型で、僧侶が携帯してお経を唱える際に鳴らしていたとみられる。 同時代の地層からは仏教や神道に関する出土品や遺構は発見されていないため、埋もれていた経緯などは不明。
 現地説明会が18日(日)午後1時半からを開き、発掘調査の成果を一般公開する。
[参考:和歌山新報、共同通信、読売新聞、朝日新聞、産経新聞、毎日新聞、 WTBテレビ和歌山、WBS和歌山放送]
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朝鮮半島の前方後円墳 最新情報

2015年01月11日 | 韓国の遺跡・古墳など
2015年1月8日付けの産経新聞の記事 「朝鮮半島に前方後円墳12基 奈良・橿考研博の学芸員が報告 」を読んだ。
日本と韓国が一つの目標(解決)に向かって話し合うことは非常に大事だが、だいぶ遅かったという感じもする。
産経新聞に書かれた古墳は新徳1号墳(咸平郡)、月桂洞1号墳(光州広域市)、長鼓峯(山)古墳(海南郡)の3つだけで、他の9つについてはわからない。坂靖さんが発表された資料を是非拝見したいものである。

このブログで既にリストアップした前方後円墳および新たに発表された前方後円墳を下記のように整理してみた。16古墳ある。

過去の関連ニュース・情報 
2008.11.22 韓国の前方後円墳 海南龍頭里古墳を発掘調査 6世紀中頃築造
2008年11月21日、朝鮮日報(インターネット版)の記事に、今回の海南・龍頭里古墳の記事が出ていた。
 タイトルは、「海南・龍頭里古墳」 任那日本府 亡霊から抜け出した前方後円墳 13ヶ所中7ヶ所発掘「倭色濃厚だが任那日本府説反証」 である。
 現在まで把握された韓半島の前方後円墳13基中7基が姿を表した・・・と始まり、前方後円墳の性格を簡単に触れた上で、韓国で確実に把握された古墳13基を下記のように整理している。 ◎は調査が行われた古墳 ( )内は調査した機関
 全北高敞郡七岩里古墳
 全南霊光郡月山里月桂古墳.
 潭陽郡古城里古墳(月城山古墳)および声月里古墳(月田古墳)
 咸平長年里長鼓山古墳
 咸平馬山里(杓山)古墳群第1号墳
 ◎咸平礼徳里新徳古墳 (国立光州博物館)
 ◎光州明花洞古墳 (国立光州博物館)
 ◎光州月桂洞1および2号墳 (全南大博物館)
 ◎霊岩郡チャラボン(자라봉)古墳 (韓国精神文化研究院)
 ◎海南方山里長鼓山(峯)古墳 (国立光州博物館)
 ◎海南龍頭里古墳 (国立光州博物館)

2013.2.20 康津・永波里古墳 韓国で14番目の前方後円墳が見つかる
古墳の規模は残存全長が67mで、円形部直径38m、円形部高さ7mである。 6世紀初めに築造か。

2013.10.8 韓国・全南羅州佳興里新興古墳 5世紀半ばの前方後円墳を確認
5世紀半ばの前方後円墳(墳丘長 30m)としている。

④ 大韓民国全南大学人類学科講師 崔榮柱氏の「韓半島の栄山江流域における古墳展開と前方後円形古墳の出現過程」(立命館文學 632, 163-152, 2013-07立命館大学)には、①の13基の古墳以外に光州堯基洞古墳?(全長50m)(注1)が加えられている。
崔氏は、韓国にある前方後円墳を「前方後円形古墳」と呼んでいる。その理由は、前方後円墳がヤマト政権を頂点とした政治体系で、ヤマト政権と地方首長の政治的な支配・従属関係を示したと考えられるのに対して、朝鮮半島の前方後円墳が直ちに日本古墳時代の体制内に編入されることを意味しかねないため、それを配慮して「前方後円形古墳」と呼ぶことにしているとしている。
(注1)光州堯基洞古墳をハングルで表した言葉を探しているが、광주 산정동 지실 고분군が見当たるのみである。日本語訳にすると「光州堯基洞造山古墳」?となる。


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宮崎市・生目古墳群1号墳 後円部で、斜面と平坦面を区画する石列を全国で初めて確認

2015年01月09日 | Weblog
 宮崎市教委は宮崎市跡江の国史跡・生目古墳群1号墳(4~5世紀)の3段構造の後円部で、斜面と平坦面を区画する石列が全国で初めて確認されたと発表した。
[参考:宮崎日日新聞]

過去の関連ニュース・情報"
 生目古墳群1号墳後円部に階段状の葺石を発見
 生目古墳群1号墳(全長120mの前方後円墳、4世紀初頭)の後円部で、約20度の斜面を1mほどの間隔で平らな部分を作り積み上げ、葺石が階段状に積み上げられているのが見つかった。
 葺石は斜面を覆うように置かれるのが一般的で階段状のものは全国でも珍しい。

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香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 弥生期の絵画土器

2015年01月09日 | Weblog
 香川県埋蔵文化財センターは8日、旧練兵場遺跡(善通寺市仙遊町)の出土品を整理していた中で、弥生時代中期後半(約2千年前)の建物が描かれた土器の破片が見つかったと発表した。
 土器の破片は2011年に5片見つかり、うち4つに絵が描かれており、組合せると縦約10㎝、横約11㎝(厚さ約1㎝)となる。大型の壺の一部とみられ、描かれた高床建物は物見櫓などとして使われた楼閣の可能性があるという。建物の壁には格子状の斜線があり、屋根に円状の飾りを四つ備えている。
 弥生時代の建物を描いた絵画土器は、奈良県を中心に全国で約70点出土しているが、県内では久米池南遺跡(高松市新田町、東山崎町)に次いで2点目となる。
 絵画土器は9日~3月31日まで、香川県埋蔵文化財センター(坂出市府中町)で公開する。
[参考:四国新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 旧練兵場遺跡
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