歴歩

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明日香村・檜隈寺 瓦を焼いた平窯跡が見つかる

2014年07月30日 | Weblog
 奈良文化財研究所が29日、明日香村の檜隈(ひのくま)寺(注1)跡の講堂があった場所から北西に約50m離れた斜面で、奈良時代後半~平安時代(8~12世紀)に同寺の瓦を焼いた平窯(ひらがま)跡が見つかったと発表した。
 檜隈寺は飛鳥時代の創建だが、見つかった窯跡は伽藍が整備されて以降、建物の補修用の瓦を焼くために利用された施設とみられている。檜隈寺に関連する窯跡が見つかったのは初めてという。
(注1)渡来系氏族、東漢(やまとのあや)氏の氏寺とされる
 窯は、内部に畦(あぜ)を持つ「有畦式(ゆうけいしき)平窯」。瓦を焼く焼成室と、隣接する燃焼室から成り、推定全長3m(現存長さ約2・3m)、最大幅約1・8m、高さ90cm以上。 床面が平らで瓦を焼く焼成室には、炎を全体に行き渡らせる幅約0・2m、高さ最大約0・4mの畝4本が作られていた。焚口(たきぐち)から火をつけ、燃焼室で生じた炎が焼成室の畦(うね)と畦の間を通り抜け、その上に積み上げられた大量の瓦を焼いたとされる。
斜面を掘ってつくられており、窯が使われていた当時の瓦も見つかった。
 燃焼室の床で炭化材も見つかり、放射性炭素年代測定の結果、平安時代中ごろ(10世紀ごろ)とみられることが分かった。
 檜隈寺は7世紀の創建。南北に並んだ金堂と講堂を回廊で結び、西側に門を設けた例のない伽藍配置で知られる。平安~鎌倉時代の瓦も見つかっていることから、その頃まで存続したあと、廃絶したらしい。
 「日本書紀」では、朱鳥(あかみとり)元(686)年の条に檜隈寺の名前が現れる。
 『日本書紀』朱鳥元年(686)八月己丑《廿一》。桧隈寺。輕寺。大窪寺。各封百戸。限卅年。

 窯跡の遺構はすでに埋め戻されており、現地説明会は行わない。
[参考:共同通信、読売新聞、朝日新聞、産経新聞、NHK、奈良テレビ放送]

過去の関連ニュース・情報
 檜隈寺


キーワード: 檜隈寺、桧隈寺、有畦式平窯、
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福岡県粕屋町・糟屋官衙遺跡群阿恵遺跡 糟屋政庁跡と倉庫跡が見つかる

2014年07月16日 | Weblog
 福岡県粕屋町教委は14日、粕屋町で、飛鳥~奈良時代(700年前後)の「糟屋評(かすやのこおり)」と呼ばれる地方政庁の跡とみられる遺跡が見つかったと発表した。 律令制では地方の行政区画として「郡」が用いられたが、701年の大宝律令以前は「評」と呼ばれていた。
 同町阿恵の九大農学部付属農場の移転確認調査で町教委が昨年7月から調査を始めていた。東西300m、南北100mの範囲で、政庁跡と倉庫跡がセットで見つかり、「糟屋官衙(かんが)遺跡群阿恵(あえ)遺跡」と名付けられた。
 今年3月に政庁跡を発見した。長方形の建物(幅4・2m)4棟が1辺55mほどの「コ」の字型に配置され、その内側に建物1棟があった。
 倉庫は昨年8月に政庁跡約130m東側から、1辺4~8.5mほどの高床式の方形建物が6棟見つかり、正倉(しょうそう:税として集めていた稲穀等を収納する倉)とみられるという。
 正殿や正門は見つかっておらず、町教委は引き続き調査を行う。
 糟屋評については、698年に鋳造されて京都・妙心寺に残る鐘(国宝)に「糟屋評造舂米連広國(かすやこおりのみやつこつきしねのむらじひろくに)」の銘があることで知られている。「評造」は、当時の地方政庁の長官。「糟屋評」の文字が確認されていたが、その実在を示す発掘史料はこれまでなかった。
 『日本書紀』巻十七継体天皇二二年(戊申528)十二月の条に「筑紫君葛子恐坐父誅。獻糟屋屯倉。求贖死罪。」と、筑紫国造磐井の子・筑紫君葛子が、父の罪に連座して殺されないように糟屋の屯倉を朝廷に献上した内容であるが、「糟屋の屯倉」があったことを記している。
 現地説明会が19日午前10時から開かれる。
[参考:西日本新聞、朝日新聞、読売新聞、産経新聞]



キーワード:糟屋官衙遺跡群阿恵遺跡
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京都市南区・平安京跡 「施薬院」「悲田院」が書かれた木簡が出土

2014年07月03日 | Weblog
 京都市埋蔵文化財研究所が2日、南区東九条上殿田町の発掘調査で、平安京に置かれ、貧しい人々を救済した施設「施薬院(せやくいん)」と「悲田院(ひでんいん)」の名を記した平安前期(9世紀前半)の木簡17点が、文献上で施設があったとされる付近の平安京跡で出土したと発表した。
 「弘仁六(815)年三月十日」の日付が入った木簡には、表面に死亡した男女2人の氏名と性別のほか「左京人」と書かれていた。裏面に施薬院の田畑を耕すために雇っていた「客作児(きゃくさくじ)」4人が死亡したことが記してあった。木簡の上部には穴が開けられており、とじて保管する収容者の死亡報告とみられる。
 「武蔵國施薬院蜀椒壹斗(しょくしょういっと)」と記された木簡は、朝倉山椒(さんしょう)の別名「蜀椒(しょくしょう=サンショウ)」の荷札とみられ、武蔵国から施薬院に送られたことを示す。他にも「猪脂」(イノシシの脂)や「干薑(かんきょう=干しショウガ)」、「六物」など薬の材料となる物品や白米の荷札が含まれていた。
 また、「悲田院解 申請」と書かれた木簡は悲田院から施薬院へ上申した文書とみられる。 施薬院が悲田院を統括していたことがわかる資料としている。
 木簡が見つかったのはJR京都駅の約2~300m南で、平安京のほぼ東南隅に当たる地点(左京九条三坊十町)で、鎌倉時代の「九条家文書」によれば、周辺には施薬院の御倉や高級貴族の別宅があったとされている。 庭園の池の一部とみられる遺構が確認され、池の堆積物から木簡が土器とともに見つかった。
 すでに発掘調査は3月に終了している。木簡は3~21日に市考古資料館(上京区)で展示される。
[参考:時事通信、京都新聞、産経新聞、毎日新聞、日本経済新聞]

平安京の救済施設 活動実態示す木簡初出土 死亡者リストも?(産経新聞) - goo ニュース
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