歴歩

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甲府城 本丸付近に高層建造物 天守閣か

2008年12月23日 | Weblog
 山梨県教委の甲府城跡保存活用等調査検討委員会(委員長=萩原三雄・帝京大山梨文化財研究所長)が22日、甲府城に天守閣などの高層建造物があった可能性を示す報告書を発表した。
 出土した鯱瓦(しゃちがわら)の一部から実際の大きさを132cmと推計して復元すると、五層の天守閣がある松本城(長野県松本市)の鯱瓦は約130cmのため、甲府城は松本城に匹敵する25m級の建造物があったと推測できるという。松本城は、現存する12の城では姫路城に続き2番目の高さ。
 調査委は、京都大学工学部建築系図書室で見つかった絵図などから、内堀を含めた甲府城の敷地面積を約18ヘクタールと認定。小田原城(小田原市)の約17ヘクタールを上回る規模で、江戸城や駿府城など国家事業として建てられた城を除くと、東日本で五指に入る可能性があるという。
また発掘調査や京都大絵図によって「銅(あかがね)門と鉄(くろがね)門の存在や形が確認できた」と明記した。
 甲府城は安土桃山時代、甲斐領主の浅野長政・幸長親子によって建てられた。城跡は6ヘクタールしか残っていない。江戸時代の大火などで建造物の多くが失われ、文献も少ないことから、「天守閣があったかどうか」が謎の一つとなっている。
[参考:読売新聞、山梨日日新聞]

関連年表
1582(天正10) 織田信長(1534-1582)が支配し、川尻秀隆(1527-1582)が甲斐領22万石を受領する。
1582(天正10) 本能寺の変により信長死去し、徳川家康(1543-1616)が入国、平岩親吉(1542-1612)が城代となる
1583(天正11) 家康による築城説(1)
1589(天正17) 家康による築城説(2) 家康から平岩親吉に築城に着手の命令が出されるものの小田原城出兵、そして翌年の関東への転封のため実現せず。
1590(天正18) 豊臣秀吉が天下統一し、家康は関東へ転封、羽柴秀勝(1568-1586)(秀吉の甥、秀吉の養子)が入国。
1591(天正19) 秀勝が岐阜へ転封し、代わって加藤光泰(1537-1593)が城主(24万石)となる。築城を本格的に開始。築城説(3)
1592(文禄元) 文禄の役、光泰朝鮮へ出兵。翌年、光泰釜山の陣中にて病没。
1593(文禄2) 浅野長政(1547~1611)・幸長(1576-1613)が城主(22万5千石)となる。
1597(慶長2) 慶長の役、幸長朝鮮へ出兵.
1598(慶長3) 豊臣秀吉(1537-1598)死去
1600(慶長5) 関ヶ原の戦い。長政・幸長東軍として戦う.
1601(慶長6) 長政・幸長が和歌山へ転封。徳川家康の命により平岩親吉が再度城代(6万3千石)となる
1603(慶長8) 徳川義直(1601-1650)(家康九男)が城主(25万石)となる.
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深谷市・皿沼西遺跡 遺跡見学会12/24

2008年12月23日 | Weblog
 皿沼西(さらぬまにし)遺跡(深谷市上敷免)は古墳時代中期(約1550年前)と奈良・平安時代(約1300~1100年前)の大きなムラ跡で、数多くの住居跡や土器などが出土している。
 市内には榛澤(はんざわ)郡の役所跡とされる中宿(なかじゅく)遺跡と幡羅(はら)郡の役所跡とされる幡羅遺跡がある。皿沼西遺跡はちょうどその中間に位置し、どちらの郡に属したのか興味のあるところ。
 日 時:平成21年1月24日(土) 小雨決行。 
 午前の部 10:30~12:00、午後の部 13:30~15:00 
 場 所:深谷市大字上敷免字皿沼  皿沼西遺跡発掘現場
[参考:(財)埼玉県埋蔵文化財調査事業団]

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 幡羅遺跡
 皿沼西遺跡
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