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唐津市・浜玉で石切り場確認 大坂城再建時に搬出か

2008年11月07日 | Weblog
 佐賀県唐津市教委は6日、同市浜玉町谷口の黒田山山頂(約190m)で、江戸時代初期(17世紀前半)に城の石垣用の石材を切り出したとみられる石切り場跡(「谷口石切丁場(いしきりちょうば)跡」と命名)を確認したと発表した。
 発見された石材の重さは唐津城(1608年完成)の石垣の約10倍の最大で20トン超と推定され、当時築城された城郭規模などから、徳川幕府による大坂城再建(1620―29年)の際、唐津藩初代藩主の寺沢広高が切り出した可能性が大きい。搬出道の跡も見つかり、石を切り出し、加工、搬出するまでの作業過程を一貫して確認できる全国初の遺構で、江戸初期の土木技術研究に大きな影響を与える資料になりそうだ。
 巨石の存在が地元から寄せられ市教委が4月から調査に入った。石切り場の広さは約1000㎡で、花崗岩を切り出した直方体の石材(約4m×約1・5m×約1・4m)4個を確認した。辺の長さが異なり独特の反りをつけて加工してあるため城の石垣の角に使う「角石(すみいし)」とみられる。
 現場に露出する自然石や残された石片に「矢」と呼ばれる大型くさびを打ち込んだ跡があり、石切り場と判断。南西約800m離れた玉島川に向かう斜面の谷筋には、長さ約50mにわたる窪みも確認。石材搬出用の「石曳き道」とみられる。
現場に残る「矢」の跡は、最大で長さ約15cm、幅約6cmと大型で、このサイズから江戸時代初期の石切り場と推測。時代的に寺沢家が所有していたとみられるが、石材は唐津城の石垣の約10倍もあり、市教委は「藩内で使われたものではない」と見る。
 石切り場は各地にあるが、切り出しから搬出までを示す遺構が1カ所で確認できるのは全国初。市教委は「現場で石を細部まで仕上げている点でも前例がない」と重要性を強調する。
 一方、この時期は大坂夏の陣後、徳川幕府は1620年から大坂城の再築工事「公儀普請(こうぎふしん)」を西国大名に命じ唐津藩主寺沢氏も参加することで幕府への忠誠心を示しており、大坂城天守閣の跡部信主任学芸員は「そのような巨石を使うのは大坂城以外では考えにくい」と指摘する。さらに大分県竹田市に伝わる古文書にも、大坂城工事のために唐津で石を割った記述があることから、市教委は「寺沢家が唐津で角石を切り出し大坂城普請に使った可能性は大きい」と話している。
 大坂城再築では、多くの大名が石を調達した瀬戸内海沿岸に丁場遺構が多い。九州では福岡県行橋市沓尾(くつお)で確認されていたが、谷口石切丁場跡が最西端となった。
 地元では、以前から存在は知られ、豊臣秀吉の居城である名護屋城(唐津市鎮西町)に使われたとの伝承から「太閤(たいこう)石」と呼ばれていたが、市教委が4月から調査を進め、大坂城用と判断した。
[参考:佐賀新聞、西日本新聞、毎日新聞、共同通信、唐津市]
大坂城向け?唐津に石材 大規模な石切り場も(共同通信) - goo ニュース
大坂城石垣の採石場跡? 唐津市の山頂 市教委が確認 生産工程分かる史跡 全国初(西日本新聞) - goo ニュース

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