歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

韓国扶余・王興寺 講堂跡南側基壇を確認 講堂跡規模は益山弥勒寺に次ぐ百済2番目の大きさ

2009年09月30日 | Weblog
 一昨年2007年、王興寺(왕흥사)木塔跡調査過程で、木塔心礎から舎利壮厳具が発見され、その中の銘文には577年に百済王・昌が亡くなった王子のために寺を建てたと刻まれていた。
 国立扶余文化財研究所は29日、忠南扶余郡王興寺跡における今年度の発掘調査で6世紀百済時代寺院の中では規模が最も大きい講堂跡が確認されたと発表した。
① 金堂跡北側基壇から16m離れた地点で、東西46.8m、南北19.2mの講堂跡南側基壇を確認。
  百済寺院の講堂規模
    扶余・軍守里寺跡 45.5×15.2m  6世紀
    扶余・金剛寺跡  45.1×19.1m  6世紀
    扶余・陵山里寺跡 37.4×18.0m  6世紀
    益山・弥勒寺跡  62.9×22.0m  7世紀
 参考・慶州・皇龍寺跡  54.7×15.9m  6世紀(草創期・新羅)
 したがって、王興寺跡講堂は百済2番目の規模、6世紀代では最大規模である。
② 講堂跡は東・西・北側基壇は30㎝前後の割石を積んで作ったが、金堂と向き合う南側基壇は整えた石材を利用した架構式(가구식)基壇であった。
③ 南側基壇の外側では10㎝前後ある石と瓦をびっしりと敷き詰めた「雨落溝」(낙수받이시설、注1)があらわれた。 このような施設は金堂跡西側建物跡でも一部確認されたことがある。
 (注1) 訳すと、雨水を受ける施設あるいは雨樋であるが、雨落溝のことか。
④ 講堂跡西側基壇から1m離れた地点で、東側基壇は石、南側基壇は平瓦を積んで作った建物跡1棟が確認された。
⑤ 東西回廊と北側に続く東西建物跡の規模と範囲を確認した。
  西側建物跡は東西幅13.2m、南北長48.0mであり、東側建物跡は東西幅14.0m、南北長(推定) 48.0mであった。
  この二つの建物の北側基壇は講堂跡の南側基壇と一直線上に配置された。
⑥ 西側建物跡から西方に6m離れた地点で基壇石列が露われ、この一帯に他の建物跡があるということが確認された。
[参考:聨合ニュース]
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韓国・高敞鳳徳里古墳群1号墳 5世紀の百済金銅製履物出土

2009年09月28日 | Weblog
 全北高敞郡雅山面鳳徳里の丘陵の先端部に位置する鳳徳里古墳(고창 봉덕리 고분)は、1998年に発見され、昨年度に円光大・馬韓百済文化研究所により大型墳丘墓4基のうち1号墳に対する発掘調査がなされた。
 その成果としては、次のとおりであった。
① 1-2号墳は、隣り合わせに並び、自然丘陵を切断して墓として利用した特異な事例として国内で初めて確認された。
② 1号墳は、規模は長軸72m、短軸50m、高さ7m前後である。そして、横穴式石室墳をはじめとする埋葬主体施設が5ヶ所確認された。この時点での調査では、典型的な百済式墓様式に選ばれる横穴式石室墳が2ヶ所、破壊された石室墳が1ヶ所、そして小型石槨墓2基の合計5ヶ所の埋葬施設が確認され、一つの墳丘墓にいろいろな墓を作るいわゆる「アパート型墓」の一種であることが明らかになった。
③ 墳丘墓の中央に位置した3号石室墳は、身分や地位が最も高かった人が埋められたと推定され、その他の墓には彼の家族や子孫らが埋められたと推測される。
墓の大部分が盗掘されたが、3号石室墳(石室基準長さ3.1m、幅2.7m)の内部では無数の土器のかけらとともに、中央部で中国南朝時代青磁片が出土した。この青磁片は、最近風納土城未来村地区で発見されたものと同じ種類で、蓮華模様を入れた中国南朝時代劉宋(420-479)の典型的な青磁とみられる。これまでの百済領域での青磁は頻繁に出土するが、今回の高敞出土品はその中で最も南側に位置するという点が注目を引く。
④ 出土品から、この墓が5世紀中葉に築造されたと推定した。
[参考:2009.1.2聨合ニュース]

 今年度の調査は、円光大・馬韓百済文化研究所により6月から4ヶ月間、1号墳の発掘調査を行い、多くの成果が得られた。
① ひとつの墳丘墓に石室墳5基、甕棺墓2基を設けた5世紀頃のいわゆる「蜂の巣型古墳」として現れた。
 石室墳は4号墳が竪穴式石室であるが、他はすべて横穴式石室である。
② このうち、4号石室墳では、金銅製履物と中国製青磁などをはじめとする各種遺物が多量に出土した。
 ②-1. 金銅製履物は、足首部と側板2枚、底で構成されていて、これらは各々小さい釘を打ち込んで結合しており、側板と底は透彫で装飾されている。底にはスパイク形の鋲18個(注)を付けている。鋲の付着箇所には六葉形(육엽형)花模様が飾られた。底中央には龍1匹がおり、踵の部分には高句麗長川1号墳古墳壁画に見える力士像が透彫で装飾されている。余白の空間には鳳凰や他の吉祥鳥が彫られている。
 履物は足元側でやや斜めに横たわり発見された。右側履物内部には骨が残っており、左側履物では織物類跡が発見された。
 これまでに、百済履物は14点ほど出土しているが、もっとも保存状態がよいという。
(注) 金銅製履物には歩揺がないと思われる。鋲は踵からつま先にかけて、1,2,1,2,1,2,2,1,2,1,2,1個の配列で、1個の場合は真ん中に、2個の場合は左右に合計18個取り付けられている。首部が高さ2cm弱ほどあり、珍しい形状。
 ②-2 南壁中央で発見された小壺装飾有孔広口壺(소호장식유공광구호)は、小さい壺型土器を飾り、胴には小さい穴を貫通しており、口が外側に向かってラッパのように広がっている。韓国初出土という。日本の古墳時代を代表する須恵器系統土器に分類され、装飾壺(子持壺)と呼ばれる器種。器台(그릇받침器)とともに発見された。器台の下部には土製玉を入れた形で製作され、鈴と同じ効果があるため、祭儀儀式に使われた土器だったようだ。その下には銀製托盞があった。
 ②-3 中国製青磁と壺が、東南側隅に並んで置かれていた。5世紀中国南朝から輸入したと考えられる。胴体肩周囲4ヶ所に各々2個ずつ耳を飾った磁盤口壺(청자반구호)で、似たようなものあ武寧王陵で出土しているる。
 ②-4 北壁には盛矢具と鐙(子)をはじめとする馬具類と鉄製武器類が置かれ、足先側西側の短壁では蓋杯18点が発見された。
 ②-5 腕付近で、漆器で作った矢筒(화살통)と大刀2点、刀子が出土した。
   保存状態の良好な大刀の柄部装飾は圭頭(규두)と推測される。
 ②-6 中央頭位からは青銅製竹葉形頭装飾が発見された。片端は蕾形の装飾を付着するのに対して、もう一端は非常に細くなっており、頭や冠に挿したものとみられる。
 ②-7 頭と胸付近ではイヤリング2組と曲玉2点を始めとする多量の玉類が出土。夫婦と考えられる二人を合葬したらしい。
 ②-8 百済古墳中では最初に天井に瓦を載せた墓であるとわかった。
③ 3基の横穴式石室では、多量の瓦片が出土して、京畿以南の地域では初めて墓の上に瓦葺(와즙)建物が設置されていたと推定される。
④ 古墳の構造や4号墳で出土した南朝代の青磁年代から古墳の築造は5世紀初葉と修正した。
⑤ 出土品が、韓国国内だけでなく、中国そして日本(倭)の物が混じっており、海外との交易の広さがうかがえる。
[参考:2009.9.28 聨合ニュースほか]
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高松市・船岡山古墳 全長45mの前方後円墳ともう一基からなる古墳群と判明

2009年09月26日 | Weblog
 高松市教委は、香川町の浅野―大野地区にまたがる船岡山古墳が、全長45mの前方後円墳と、形や規模が不明のもう1基の計2基からなる古墳群であることが分かったと発表した。08年からの市と徳島文理大の共同発掘調査による成果。これまで船岡山古墳は、県の77年の測量調査に基づき、円形の墳丘の両側に方形の墳丘がつく「双方中円墳」で、4世紀後半(古墳時代前期後半)に造られたと推測されていた。
 香川と徳島西部でよくみられる積石塚だが、粗く積んだ石に土をかぶせて墳丘を作っており、県内では類例のない築造方法という。
 形態や出土品から、時期は古墳時代前期前半(3世紀中頃~4世紀前半)と推定。出土した埴輪の破片は、ほぼ同時期の石清尾山古墳群(高松市峰山町など)から出土したものとは異なっており、市教委は「高松平野の北部と南部で異なる文化や政治的背景を持つ集団が存在していたと推測できる」としている。
 前方後円墳は南側に方墳、北側に円墳を配置。粗く積み上げた人頭大(直径約30~50cm)の石に土をかぶせる形で墳丘が作られている。北側には別の墳丘も確認した。古墳時代前期の石清尾山古墳群も同じ積石塚だが、土の覆いは見られない。
 出土品は埴輪の破片を中心に約100点。壺型と円筒の2種類で、円筒埴輪の胴体部には巴型の透かし穴が開けられ、周囲には複雑な文様が刻まれていた。畿内や吉備(岡山県)の影響を受けながら、独自にアレンジしたと推測されるという。
 現地説明会が26日午後1時半から香川町浅野―大野地区にまたがる船岡山の山頂で開かれる。
[参考;四国新聞、毎日新聞、朝日新聞、RNC日本]
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韓国光州月田洞 三国時代104m長の墳丘墓を発掘

2009年09月26日 | Weblog
 (財)湖南文化財研究院は25日、昨年12月以後、光州平洞2次産業団地造成事業部地に含まれる一帯を発掘調査し、三国時代に当たる西暦3~5世紀に造成された住居跡、墓、木造井戸、車輪跡、溝などの多様な生活跡が残る複合遺跡を確認したと発表した。
 合計33基が確認された墳丘墓中で5号墓と命名された墓は、開発過程で墳丘の大部分が削平されたりしたが、墳丘周辺を台形に囲った溝または墓境界表示の周溝を確認し、長さが104mに達する超大型であることが分かった。
 また湖南地域では初めての上から見た平面形状が「ㅍ」字の三国時代木造井戸が確認された。この井戸は深さが約140cmであり,他の建築物に使った板材や角材を再利用し、5~6段に積み上げる方式で築造したことが明らかになった。
 これに似た三国時代、特に百済木造井戸はソウル風納土城郊外周辺地帯でも確認したことがあるという。
[参考:聨合ニュース]
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奈良市・興福寺 創建当初の南大門の基壇跡出土

2009年09月25日 | Weblog
 奈良文化財研究所と興福寺が25日、興福寺(奈良市登大路町)で、創建された8世紀前半の奈良時代のものとみられる「南大門」の基壇跡や、柱を支える礎石、階段などが出土したと発表した。
 南大門は平城京遷都(710年)から間もない時期に建立され、罹災のたびに再建。享保2(1717)年の焼失後は再建されず、釘貫門(くぎぬきもん)と呼ばれる簡略な形式だったとみられていた。
 「興福寺流記」(平安末―鎌倉初め)によると、正面幅は5間(柱6本)で、室町時代の資料にも二重の南大門が描かれている。今回の調査で、文献や絵図の記載通り、基壇は東西31m、南北16・7m、高さ最大1・4mで、「版築」の工法で造られていた。柱穴は東西3列、南北5列の計15か所出土し、直径2~2・5m程度。一部の穴では礎石も残っていた。基壇の上面が近代以降に削られた東側と合わせて計18本の柱があったとみられ、南大門は東西23・4m、南北9m、高さは20m前後と推定される。同時期では東大寺(東西28・8m、南北10・8m)や薬師寺(東西25・8m、南北9・6m)などに次ぐ規模だったことがわかった。興福寺は「調査結果をもとに基壇を復元したい」としている。
 一方、東西両端では火災で失われたとされる2体の「金剛力士像」が安置された台座の基礎(2・8m四方)も見つかった。1辺1m弱の大きな凝灰岩の切り石を十数個並べ、上面を平らに整えた。その下からは焼けた土が見つかり、最初に焼失した1046年(平安時代)以降に再建されたらしい。穴の大きさなどから、像の高さは6~7mだったとみられる。南大門は、現在の三条通りに当たる三条大路に面するがけの上に立っていた。現在の三条通りの路面から門の基壇上までの高低差は約5・2mもある。
 現地見学会は27日午前10時30分から。
[参考:読売新聞、共同通信、毎日新聞、2009.6.21奈良新聞]



興福寺、南大門の基壇跡出土…壮大な規模実証(読売新聞) - goo ニュース
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香川県観音寺市・椀貸塚古墳 横穴式石室の羨道の一部を確認

2009年09月25日 | Weblog
 観音寺市教委が墳丘規模確認を目的に発掘調査を進めてきた椀貸塚(わんかしづか)古墳(同市大野原町)で、これまで不明だった横穴式石室の羨道の一部を確認した。
 古墳時代後期~終末期(6世紀後葉~7世紀中頃)、大野原に巨石を用いた巨大な横穴式石室や大規模な墳丘のある椀貸塚古墳、角塚古墳及び平塚古墳が連続して築造された。
 椀貸塚古墳は、6世紀後半から7世紀前半にかけて築造された大型円墳(直径35m、高さ7m)で、玄室は香川県内最大規模。周濠があり、周囲110m。横穴式石室は全長10.1m、玄室長さ6.7m、巾3.25m、高さ3.8m、羨道長さ3.4m。
 現地説明会が26日午後1時半から行われる。(小雨決行)
[参考:四国新聞、観音寺HP]



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岡山市・犬島貝塚 同貝塚を覆う古墳は前方後円墳の可能性が想定

2009年09月20日 | Weblog
 瀬戸内最古級の縄文貝塚遺跡、犬島貝塚(岡山市東区犬島)で調査保護プロジェクトチームが進める第3次発掘調査で、貝塚を覆うように築かれている古墳が、古墳時代中期(5世紀)の前方後円墳である可能性が高いことが、19日までに分かった。
 今春行った第2次調査で、貝塚を覆う土層は古墳の盛り土で、埋葬施設として箱式石棺(長さ1・6m、幅0・5m)を持つことが確認されていた。
 今回の調査では、南北の両方で、貝層上に墳丘の盛り土が延びていることが判明。円墳にしては南北方向に長く広がっており、予想されていた円墳ではなく、前方後円墳になる可能性が高いという。その場合、全長約25m、後円部径約14mの大きさが想定されるという。
[参考:中国新聞]

過去のニュース・情報
 犬島貝塚
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福井県美浜町・興道寺廃寺 南門や講堂跡を確認

2009年09月19日 | Weblog
 美浜町教委は17日、興道寺廃寺で、「南門」の跡や、「講堂」とみられる建物跡を新たに確認したと発表した。
 これまでの調査で、金堂、中門、塔の三つの建物の基壇跡を確認しており、寺域内に多くの建物を備えた本格的な寺院だった可能性が高まったとする。
 南門などの跡は、6月から9月末までの予定で進められている今年度の調査で確認。同町教委によると、南門跡は石積みが残った状態で見つかり、南北約5m×東西約6mの規模とみられる。
 また、南門跡の北約60mでは、東西約16mにわたって建物の基壇となる土の盛り上がりを確認。金堂や塔との位置関係から講堂跡と推定した。南門、講堂ともに地質などから再建期のものとみている。
 現地説明会は19日午前10時から行われる。

過去のニュース・情報
2008.10.17興道寺廃寺遺跡 如来仏の塑像の一部出土

2008.10福井県美浜町・興道寺廃寺
 金堂基壇の位置・規模を確認: 2時期の金堂基壇が南北に重複して所在することを確認。寺院の伽藍配置は法起寺式と推定。
  創建期基壇 南北16.2m×東西17.8m
  再建期基壇 南北17.8m×東西12.6m
 中心伽藍東限施設を確認: 回廊、築地塀跡は見られず。8世紀前半の工房跡と見られる竪穴建物(南北6m×東西4m)を発掘。
 中心伽藍北方の諸施設を確認: 複数の時期の掘立柱建物群が重複して所在することを確認。6世紀前半の大型掘立柱建物跡があり、寺院建立前の古墳時代後期の豪族居館跡と想定される。
[参考:福井県教育庁埋蔵文化財調査センターHP]

2007.11.9 福井県美浜町・興道寺廃寺・中門 創建時の瓦や再建時の基壇とみられる石列が見つかる
 美浜町教委は8日、興道寺廃寺遺跡(同町興道寺)の中門付近から創建時(7世紀頃)のものと思われる瓦や、再建時(8世紀後半)の中門基壇とみられる石列などが見つかったと発表した。
 中門に瓦を使っていたことから、興道寺がかなりの勢力を持っていたことが分かるという。基壇の大きさが確認できたことと合わせ、貴重な発見。当時の同地域にしては珍しい本格的な寺院で、大きな勢力を持つ豪族が建設にかかわったとみられる。
 出土した瓦は平瓦や丸瓦で約100点。同遺跡では以前も瓦が見つかっているが、中門に使われたものは初めて。また、基壇とみられる石列は、縦1・8m、横0・8mで、以前にも見つかっている基壇跡と合わせると、基壇全体の大きさは縦8・2m、横8・0mと確認された。
 また、中門の北70m地点からは僧坊とみられる竪穴式住居の柱跡4点なども見つかった。周辺からは6~13世紀の住居跡や須恵器なども出土しており、同地域が古代から中世にかけて大きく栄えていたことが分かる。
 遺跡公開は10日午前10時から午後3時行われる。
[参考:産経新聞]
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京都市東山区・法観寺 国内最古級? 白鳳期のせん仏が出土

2009年09月19日 | Weblog
 市埋蔵文化財研究所が18日、東山区の法観寺(通称・八坂の塔)境内の発掘調査で、塔南側の整地層から白鳳時代(7世紀後半)の塼仏が見つかったと発表した。
 塼仏は破片状態で、縦9cm、横5cm。型で仏を造形し、焼き固めたもの。弥勒如来を中心に配した三尊の左脇侍とみられる。目鼻や光背が鮮明に残り、国内では最古級の出土例とみられる。表面には金箔も一部残っている。
 今回と同型の塼仏は9例出土しており、遣唐使に随行した僧道昭(629~700)が持ち帰ったものを元にしたとみられる。今回の塼仏は、最も良好に残る阿弥陀谷廃寺跡(奈良市)のものに匹敵するという。
 19日~10月4日に京都市考古資料館(上京区)で展示される。
[参考:京都新聞]
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和歌山市・秋月遺跡 5~6世紀の古墳4基をあらたに発掘、埋葬方式は「木棺直葬」

2009年09月19日 | Weblog
 県文化財センターは、県立向陽中・高校の敷地内にある秋月遺跡(和歌山市太田)から、古墳時代中期から後期(5~6世紀)につくられたとみられる古墳4基を新たに発掘したと発表した。
 今回見つかったのは、5世紀前半に建造されたとみられる12m四方の方墳1基と、6世紀前半のものという円墳3基(それぞれ直径約14m、約12m、約10m)。死者を埋葬する石室がなく、状況から木製の棺を直接埋葬(「木棺直葬」)されていた可能性があるという。
 古墳はいずれも全体が残っているわけではなく、周囲の溝から形が判明した。後の時代に削り取られ、奈良時代には建物が建てられていたとみられる。
 方墳の周囲から、勾玉や、青色の管玉、ガラスの小玉などの装飾品も計13点が出土した。また、円墳の囲りからは、鮮やかなオレンジ色が残る素焼き甕(高さ約50cm)や、群青色の須恵器の碗など約50個が見つかったという。
 明月遺跡から約2km東に岩橋千塚古墳群があるが、規模・埋葬方法などから、同古墳群とは別の系譜の一族が築いた可能性がある。
 秋月遺跡では、これまでに同校の校舎の下の発掘調査で、古墳時代前期の古墳計6基が見つかっている。
 19日午前10時30分から、現地説明会と見学会が行われる。
[参考:読売新聞、朝日新聞]
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霧島市・大隅国府跡・気色の杜遺跡 草仮名文字の書かれた平安時代前期の土器が出土

2009年09月19日 | Weblog
 霧島市教委は18日、同市国分府中町の大隅国府跡・気色(けしき)の杜遺跡から、仮名文字の書かれた平安時代の土器が見つかったと発表した。
 出土した土器は、2007年1月、同市国分府中町の宅地造成に伴う発掘調査で見つかった。直径約15cm、高さ約3cmの土師器の椀状の土器で儀礼用の器とみられ、漢字から平仮名が作られる移行期に使われた「草仮名(そうがな)文字」9文字が墨で書かれていた。9世紀後半~10世紀初めに作られたものとみられ、文字数、配列から、「ちとせは□とも」「さ□□□あれ□」としたためられた和歌の下の句とみられる。「ちとせ」(千歳)という文字があることから、大隅国府で働いていた役人が宴で祝いの歌を詠んだものとも想像できるという。
 平安京から遠く離れた大隅国に豊かな文化があったことを示す貴重な史料」としている。
 草仮名文字が書かれた土器は富山県の赤田1遺跡、茨城県の小作遺跡などでも見つかっており、九州では初。
 土器は鹿児島市の県歴史資料センター黎明館の企画展「古代のロマン北南」で19日から11月3日まで展示される。
[参考:共同通信、読売新聞]
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甲賀市・春日北遺跡 平安時代中期の緑釉陶器窯が出土

2009年09月19日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会は18日、県道の拡幅工事に伴い4月から行っていた調査で、春日北遺跡(同市水口町春日)で、平安時代中期(10世紀後半)の緑釉陶器を焼いた窯跡が出土したと発表した。
 製品を窯詰めして焼き上げる焼成室が焚口より約1m高い特徴があり、緑釉陶器窯の構造史や平安京と生産地の関係などを知るうえで重要な発見としている。
 窯跡は高さ1m、幅1m、奥行き約2・7mで、丘陵地裾の南西斜面で出土した。内部は上下2層構造で、下部で薪をくべて火を燃やし、上部の台の上に陶器を積み重ね、一度に約300個を焼くことができたとみられる。
 焼成室(奥行き約1・5m、最大幅約0・9m)は底がほぼ平坦で、火の通る溝(幅約0・2m)が3本あった。また、椀や皿などを載せる粘土塊の焼台が横に4個並び、そのひとつに一部が欠けた碗(直径約15cm、深さ約6cm)1個が焼いたままの状態で置かれていた。窯の大きさから焼台は5個ずつが6列ほど並んでいた可能性がある。碗などを重ねる際に使う三ツ又状の「三叉(さんさ)トチン」と呼ばれる窯道具も出土した。
 窯は、壁の焼け具合から釉薬をかけた後の二度焼き用で、素焼きは別の窯で行われたと見られる。窯跡の後には作業場や不良品の廃棄場と推測できる跡もあった。
 近江は愛知・岐阜、京都、山口と並ぶ緑釉陶器の四大生産地の一つで、県内では作谷(つくりや)遺跡(日野町中山、県指定史跡)に次いで2例目の発見。平安京などに供給していたのだろうとしている。
 22日午後1時から現地説明会が行われる。
[参考:京都新聞、共同通信、びわ湖放送]



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橿原市・植山古墳 墓域の周囲に高さ2mの柵が100m続く柱列を確認

2009年09月18日 | Weblog
 橿原市教委が18日、推古天皇と息子の竹田皇子が一時的に埋葬された合葬墓とされ「植山古墳」(東西約40m、南北約30mの方墳、6世紀末~7世紀前半)で、墓域の周囲に設けた塀跡とみられる柱列の延長が約100mに達することが分かったと発表した。
 史跡公園整備に伴い調査したところ、平成13年に続いて、新旧2時期の柱列を新たに発見した。古い柱列は、前回見つかった「へ」の字形の列からさらに南東に約30m延び、総延長は約100mになった。新しい柱列は、前回とは別の場所で南北約4.3m、東西約10mのL字形で見つかった。
 柱列には新旧2つの時期があり、新しい柱列は見つかった土器片などから藤原京期(7世紀末)とほぼ特定した。藤原京の開発域が古墳のすぐ北側に迫っていることから、市教委は「藤原京整備に伴い、墓域を守る塀をリニューアルしたのでは」としている。 柱穴はいずれも直径約30cmで、深さは最大約80cm。間を板などでふさいで高さ2mほどの板塀にしたとみられる。
 植山古墳は、東西約40m、南北約30mの長方形墳。竹田皇子が死亡した6世紀末ごろに造営され、628年に死亡した推古天皇を合葬。7世紀中ごろ、大阪府太子町の山田高塚古墳に改葬されたと想定され、市教委は「改葬で空になった後も塀を造り直して立ち入りを制限するなど、重要な空間と認識され続けたことが分かる」としている。現地説明会は行われない。
[参考:共同通信、産経新聞]
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京都府南丹市・大谷口遺跡 5世紀前半のかまど跡2基が見つかる

2009年09月18日 | Weblog
 府埋蔵文化財調査研究センターが17日、同市八木町諸畑の大谷口遺跡で、古墳時代中期(5世紀前半)のかまど跡2基が見つかったと発表した。同遺跡の東約500mの諸畑遺跡と、西約800mの室橋遺跡でも、同時代のかまど跡が見つかっており、当時の近畿地方で最先端の調理技術を持つ集団が、亀岡盆地に住んでいたことを改めて確認できたとする。
 かまど跡は、幅約1.5m、奥行き約1.8mと、幅約60cm、奥行き約80cmの2基で、いずれも5世紀前半の竪穴住居跡で見つかった。大きいかまど跡は、中央には火にかけた土器を支える石が設置され、周りから土師器の一種「布留式土器」の甕や高坏が見つかった。
 朝鮮半島から伝来したかまどの技術は、近畿地方には5世紀前半に伝わったとされ、当時としては河内や大和地方と並ぶ最先端の設備。畿内との密接な交流や、有力者の存在がうかがえる。
 大谷口遺跡ではこのほか、縄文時代の土坑、弥生時代後期の土坑と竪穴式住居跡1基、古墳時代中期の竪穴式住居跡4基と掘立柱建物跡1棟、奈良時代の竪穴式住居跡1基、平安時代から鎌倉時代にかけての掘立柱建物跡4棟以上を検出した。
 19日(土)午後2時から現地説明会が行われる。
[参考:京都新聞、京都府埋蔵文化財調査研究センターHP]



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愛媛県新居浜市 本郷遺跡 平安時代の役所の関連施設掘立柱建物跡と火葬墓が出土

2009年09月18日 | Weblog
 県埋蔵文化財調査センターが17日、同市本郷の本郷遺跡から出土した、平安時代(9~10世紀)に建てられたとみられる掘立柱建物跡と「火葬墓」を公開した。
 県道建設工事に伴い、同センターが8月から調査。掘立柱建物の柱跡は約100か所あり、方形や円形で縦、横0.7~1mと大型で、新旧の大型の建物が同じ場所で建て替えられた跡があり、役所の関連施設だった可能性が高いとする。新居浜市内の遺跡で役所の関連施設跡が見つかるのは初めて。
 このほか、僧や貴族ら身分の高い者を火葬した際に骨のかけらなどを埋めたとみられる「火葬墓」も見つかったことから、新居浜、西条市の一帯に存在していた神野郡か、同郡新居郷の役所の関連施設とみている。
 現地説明会は19日午後1時から行われる。
[参考:読売新聞]
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