歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

橿原市・菖蒲池古墳 墳丘本体を初めて発掘調査、墳丘裾で石列が出土

2010年03月30日 | Weblog
 橿原市教委が30日、同市菖蒲町の国史跡、菖蒲池古墳(7世紀中頃)で墳丘北側と東側の裾から石列が見つかったと発表した。これまでは地形から方噴か円墳と考えられていたが、石列が直線的に延びていることから、2段構造の方墳ないし八角形墳の可能性が高くなったとしている。
 石列は、墳丘北、東側の上段の裾から幅40cm、高さ30cmの石が長さ2mにわたって直線状に並べられていた。斜面は赤褐色の土で覆われ、土嚢を用いるなどしていた。上段と下段の間の平面部分には5cm程度の石を敷いていた。こうした墳丘面の仕上げは、7~8世紀の他の終末期古墳には見られない工法であることが明らかになったとしている。
 南側では一段低い礫敷を確認した。天井石までの高さは5.5m。墳丘裾のテラスで、南面に前庭部が存在した可能性が高いという。
 明治時代の「大和國古墳墓取調書」などの記録によると、菖蒲池古墳の墳丘は大きく削られ、石室の天井石がむき出しの状態になっていた。これまで、二つの家形石棺がある石室内の測量などが行われただけで、古墳全体の規模や形などは明らかになっていなかった。墳丘の規模は東西約30.8m、南北約30.4mとみられる。これまでは、一辺が20m前後と想定されていた。
 現場は埋め戻されており、現地説明会は行わないが、4月5日から16日まで、発掘成果の写真パネルを市役所(同市八木町1丁目)1階ロビーで展示する。
[参考:産経新聞、読売新聞、奈良新聞、橿原市HP]
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浜松市・楠木遺跡 現地見学会開催 4/4

2010年03月29日 | Weblog
 楠木(くすき)遺跡(同市北区三ケ日町)では以前から古代の瓦片が採集されていたが、どのような遺跡なのかはっきりしたことはわかっていなかった。そこで、遺跡の年代や実態をあきらかにするために本年2月に発掘調査が行われた。
 発掘調査では、奈良・平安時代の瓦が大量に出土し、この周辺に古代の寺院があったことがほぼ確実となったほか、文様の施された軒平瓦、軒丸瓦からは三ヶ日地域と東三河地域との交流がうかがえる等、多大な成果が得られという。
 現地見学会が4月4日(日)午前10時と午後1時30分から2回開催される。(集合場所は浜名惣社神明宮境内)
 併せて、近隣の浜名惣社神明宮と初生衣神社の見学も行う。
[参考:浜松市HP→浜松の文化財]

過去の関連ニュース
 2010.2.21楠木遺跡 市内で2番目の廃寺跡 多量の瓦片が出土

[集合場所]


写真は三ケ日桜(ミッカビザクラ、学名 Cerasus serrulata ‘Mitsukabizakura’)
所在地:浜松市北区三ヶ日町下尾奈
 楠木遺跡からは、南西2.5kmほどの乎那(おな)の峯と呼ばれる小高い山の麓に咲きます。この場所は、万葉集にも詠まれています。
 「花散らふ この向つ嶺(お)の 乎那の嶺の 洲(ひじ)につくまで 君が齢(よ)もがも」 (万葉集巻14-3448)
(訳)花の散りつづくこの向かいの嶺の乎那の嶺が洲となって水に漬かるようになるほど遠い後まで、君は生き長らえてほしい。(万葉集 訳・中西進 講談社文庫 1981より)
 八重咲きの桜ですが、里桜に属し、ソメイヨシノより4~5日遅れて咲くそうです。
 今年は、楠木遺跡で現地見学会が開催される日と同じ日に、乎那の峯「三ヶ日桜まつり」(10:00~14:00)が開催されるようです。先着500人には、手作りさくら餅とお茶をサービスするということなので、こちらを先に楠木遺跡は午後の部に参加なんて、ちょうどよいかも。いずれにしても、天気がよいことを願って。
コメント (1)
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美馬市・郡里廃寺跡 2009年度調査成果を報告する現地説明会 3/27

2010年03月29日 | Weblog
 再発掘調査が行われている国指定史跡・郡里(こおざと)廃寺跡(美馬市美馬町銀杏木)で27日、本年度の調査成果を報告する現地説明会があった。
 約40年ぶりに掘り返された心礎と四天柱の礎石について、心礎は創建時のもの、四天柱の礎石は再建時のものだとみられとし、瓦の特長などから創建は白鳳時代、再建が奈良時代前半だとされているなどと紹介した。
 寺の敷地の北限とされる場所から多数の瓦が出土していて、塀状のものが建っていたとみられる。
[参考:徳島新聞]

過去の関連ニュース
 2009.1.12 郡里廃寺跡で鴟尾の破片出土 

備考
「郡里廃寺跡」
 郡里廃寺跡は、白鳳時代に創建された県内最古の寺院跡(東西94m、南北120m)として昭和51年に国史跡に指定された。これまでの発掘調査で塔と金堂を東西に並べた法起寺式伽藍配置であることが明らかとなっている。塔跡は、心礎が基壇下におかれる地下式塔心礎を採用し、断面8 角形の心柱をもつ珍しい例である
 郡里廃寺跡と段の塚穴の太鼓塚古墳は、約100年の時期差、約2㎞という近接した立地であり、郡衙を示唆する地名「郡里」や駅屋の存在の存在を示唆する「駅」「馬次」も近隣に存在する。これらのことから郡里廃寺跡は、太鼓塚古墳の被葬者の子孫が一族の氏寺として建立し、郡里廃寺跡を建立した一族が美馬郡を統括した郡司であったことが想像される。[参考:美馬市HPより]
 
「太鼓塚古墳」
 美馬市美馬町字坊僧の河岸段丘先端にあり、古墳時代後期(約1400年前)に造られた。昭和17年に徳島県初の国史跡に指定された。
 東西37m、南北33m、高さ約10mの円墳で、中心部に全長13.1m(玄室長4.8m)、高さ4.3m、幅3.4mの横穴式石室が南に開口する。石室は主に結晶片岩を用いた両袖式で、持ち送り式に積み上げた天井をもつ。6世紀後半から7世紀初頭の年代が考えられる。
[参考:美馬市HP、徳島県立埋蔵文化財総合センターより]



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山形市・山形城跡 江戸初期・最上氏の時代の建物跡?が見つかる

2010年03月28日 | Weblog
 山形市の国指定史跡・山形城跡で行われている発掘調査で、本丸御殿跡調査区から建物の礎石16個が確認された。建物跡が見つかったのは初めて。詳しい形状などは不明だが、江戸初期の最上氏の時代に建てられた可能性があるという。現地説明会が27日に開かれた。
 礎石は偏平で直径約25cm~50cm。約8m四方に、礎石16個が約2m間隔で設置されていた。礎石の下からは、礎石を固定する「根石」と呼ばれる直径5~15cmの石も見つかっており、根石のみの跡も8カ所あった。 16世紀末~17世紀初めの遺物が出土した整地層から見つかったことから、最上氏が城主だったころの建物跡の可能性が高いという。
[参考:山形新聞]

備考
山形城: 1356年清和源氏系足利氏一門の斯波兼頼(1315-1379)が羽州探題として山形に入部、1357年には、初期の山形城が築城される。慶長年間に最上義光(1546-1614)が、城郭を拡大、城下町を整備し、関ヶ原の戦いの功で得た出羽57万石の本城となる。
最上氏: 斯波氏の分家。斯波家兼(1308-1356)の次男・兼頼(1315-1379)が山形城を築城し、最上氏を名乗る。その後、最上義守(1521-1590)の子・義光が出羽57万石の初代山形藩主となる。2代藩主・家親(1582-1617)、3代藩主・義俊(1605-1632)と続くが、元和8年(1622)にお家騒動が原因で改易となる。
 注: 家兼と兼頼の親子関係の年代が合わない。
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雲南市・郡垣遺跡堀立柱建物跡3棟確認、官衙跡の可能性が高い

2010年03月27日 | Weblog
 雲南市教委が25日、同市大東町仁和寺の郡垣遺跡(こおりがきいせき)で、L字形に配置された3棟の掘立柱の建物跡が確認されたと発表した。特徴から官衙跡の可能性があるといい、旧大原郡家(おおはらぐうけ)跡との関連が注目されている。
 「出雲国風土記」は、奈良時代に同地域を治めていた大原郡の役所である大原郡家の存在を記している。遺跡がある地域は、その所在地の可能性の一つとされている。
 市教委は2006~07年、市道拡張工事に伴う発掘調査で15の柱穴跡を発見。09年12月から範囲を広げて調査を続け、新たに20の柱穴跡を発見した。柱穴の列から、平行に並んだ2棟に1棟が直角に隣接するL字形建物跡と推定される。中心となる建物は、長さが東西27m以上、南北幅約4・2mの大規模な建物跡と推定され、柱穴は大半が方形で、中には一辺が1mを超えるものもあるなどの特徴から官衙跡の可能性が高いという。
 現地説明会が27日午後2時から開かれる。
[参考:2010.3.25山陰中央新報、2010.3.27中国新聞]
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佐賀市・白石原遺跡 弥生時代後期の甕棺から鏡片が出土

2010年03月27日 | Weblog
 佐賀市教委は26日、「白石原遺跡」(同市久保泉下和泉町)から甕棺の一部が出土し、中から鏡の破片が見つかったと発表した。甕棺は壺型の土器で、形状などから弥生時代後期後半(2世紀後半)のものとみられ、同時期の甕棺の副葬品として鏡片が出土するのは県内初という。
 遺跡は久保泉第2工業団地の建設予定地にあり、市教委の2008年度からの調査で、弥生時代以降に竪穴住居などの集落が形成されていたと考えられている。約80軒の竪穴式住居跡と約150棟の掘っ立て柱建物跡が確認されている。
 地表から40~50cmの深さで、推定長さ約80cmの土器の甕棺墓1基の一部が確認された。甕棺墓は形状から弥生時代後期後半頃のものとみられる。その中から出土した鏡片(長さ10cm、幅3cmの三日月形)は青銅製で、中国の新~後漢時代(1~2世紀)に作られたとみられる。両端にある穴にひもを通し、首からさげて使用していたと考えられるという。
 市教委によると、鏡片の出土は北部九州で約100例あるが、弥生時代後期は竪穴住居跡や石棺墓などで発見されるケースが多く、弥生甕棺の副葬品としては北部九州でも類例は少ないと言う。
 当時、鏡は貴重品だったため、見つかった甕棺は集落内で地位が高かった人の墓と考えられる。
[参考:2010.3.27佐賀新聞、毎日新聞、2010.4.4読売新聞]
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伊豆の国市・北条氏邸跡(円成寺跡) 「本堂」と庭園の池跡を確認

2010年03月27日 | Weblog
 伊豆の国市教育委員会は26日、発掘調査を行っている同市寺家(旧韮山町)の国指定史跡・北条氏邸跡(円成(えんじょう)寺跡)の敷地内に後年建てられた寺の堂舎(本堂)と庭園の池の跡を確認したと発表した。
 北条氏邸跡は狩野川東岸にあり、平安時代末から鎌倉時代初期の北条氏の館跡と、鎌倉幕府滅亡(1333年)後の菩提を弔う室町時代の寺院跡が重層的に存在する場所として国史跡に指定されている。
 同市教委の発掘調査は北条氏邸跡の整備を行うため、平成8年から行われており、36次目の調査。13年度の調査では庭園の池の一部が確認された。
 今回の調査対象は、円成寺の中心地域にあたる面積約400㎡。発掘調査を2月から行い、安山岩の礎石が6m四方に2m間隔で11個配置された堂舎跡と楕円形をした庭園の池跡(東西14m、南北15m、深さ推定1m)を確認した。礎石は最大で90cm×60cmあり、建物は6m四方の正方形と推定されるという。周辺からは燭台(しょくだい)や香炉など寺の道具も見つかっていた。池跡から出土した皿などから、堂舎は14世紀末から15世紀初頭にかけての築造と推定される。
 円成寺は最後の執権となった14代北条高時(1303-1333)の母、覚海円成(?-1345)が開いた尼寺。鎌倉幕府が滅亡すると、北条氏の武士らは戦死や自害し、円成尼は残された子女を保護するとともに、同寺を建立して北条氏の死者を弔ったという。同寺は江戸時代中期に焼失している。
 同市教委によると、市内の寺などに残る室町時代の古文書の写しには、当時の将軍・足利尊氏の弟・直義(ただよし、1306-1352)が、円成寺に周辺一帯の支配を認める旨が記されているといい、古文書などの文献と遺跡が合致する極めて重要な発見としている。
 北条氏が館を構えた伊豆の国市の守山周辺には、願成就院や伝堀越御所跡など中世の遺跡が集中するが、室町初期の象徴的な遺跡はこれまで見つかっていなかった。この地域が鎌倉から南北朝、室町時代へと連続して、政治的に重要な位置を占めていた可能性がある。
 北条氏邸跡が位置する守山は北条氏の本拠地で鎌倉時代に伊豆北條と呼ばれていた。守山の東側には氏寺である願成就院が建てられ、北西側の谷の内部には北条氏の館が建てられた。(伊豆の国市HPより)
[参考:読売新聞、産経新聞、静岡新聞、中日新聞、伊豆の国市HP]

写真:守山八幡宮
 今年の正月は、三島大社から伊豆の国市へ行った。願成就院には行くが、残念ながら北条氏邸跡(円成寺跡)には行かなかった。願成就院を少し北へ行くと守山八幡宮の参道があり、そこから西に長く急な階段を登り終えると守山八幡宮がある。源頼朝の旗挙げの地でもあるし、当地区の鎮守である。この守山を越えて北西に北条氏邸跡(円成寺跡)がある。


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漣川郡旺澄面の臨津江(イムジン河)川辺沖積地帯から2000年前の大規模集略跡と高句麗石室墳9基が出土

2010年03月26日 | Weblog
 高麗文化財研究院25日、韓国水資源公社の依頼で昨年3月以後現在まで、京畿道漣川郡のクンナム洪水調節地(군남홍수조절지)水没予定地にある旺澄面江內里一円の臨津江(임진강、イムジン河)川辺平坦沖積地帯一帯を発掘調査した結果、①青銅器時代住居跡4基、②初期三国時代住居跡74基、③高句麗石室墳9基および④耕作遺構と竪穴遺構131基など計218基に達する各種遺構を確認したと発表した。

 ②では、漢江と臨津江流域を中心に西暦紀元前後頃韓半島中部地方一帯に集中的に登場する平面・呂・凸字形住居跡が65ヶ所確認され、当時に大規模集落があったことが明らかになった。呂・凸字形住居跡の大部分が、他の地域の同じような類型の住居跡と同じように片側壁面に付随して「ㄱ」字形オンドル施設が現れた。
 27号と命名した住居跡は長さ20.6m、幅9.7m、深さ0.99mの大きさで、これまでに発見された呂字形住居地では超大型級に属することが明らかになった。
 遺物ではこの時代を代表する二大土器類の硬質無文土器と打捺文土器をはじめとして鉄刀、鉄斧等が出土している。
 この一帯は初期三国時代臨津江流域勢力の拠点の村と推定される。

 ③では、高句麗伝統が強い三国時代石室墳が丘陵地帯3つの区域に分かれて、各々3基ずつ群集をなす形状で発見された。
 これら石室墳は、外側から墓内部に通じる部分を石室全面右側に偏った地点に設けたいわゆる右偏在横穴式であり、石室は大部分が長方形で、規模は概略長さ約2.5m、幅、1.4cm、高さ1.98cmであった。
 墓室壁面は割り石を利用して、比較的整然と積んであり、墓道に通じる羨道は内側墓室から外部に向かって若干傾斜して上る形に作っていた。
 これら古墳では、棺釘(관정)と棺輪(관고리、取っ手)が収集された。
 8号石室墳では南側壁に近い石室底で表面がつやつやと黒い色を帯びる壷型土器の黒色磨研壷1点と金製玉、ガラス製玉、銀製腕輪1組が出土し、2号石室墳では金製玉、ガラス製玉、銀製腕輪、鉄製品などが収集された。
 出土遺物中、棺輪は百済文化圏では見えないが、高句麗地域だけに現れる物で、円形の輪に花弁形で構成された点とか、古墳が川辺丘陵地に何基ずつか群れをなした点等からみると、高句麗石室墳であり、築造時期は早ければ5世紀後半頃とみられるという見解を表明した。これら石室墳は古墳一つに二人ずつ埋蔵されたことからみて、夫婦を共に埋めた墓と推定され、並んで造成された各3基の古墳は家族または近い血縁関係の墓群と解釈することができるとする。
 調査団は「今回の発掘成果は高句麗長寿王(在位413~491)の持続的な南進政策により臨津江流域が一定期間の間、高句麗の実質的な支配下にあったことを示唆する強力な証拠とする。
 南韓地域で高句麗、あるいは高句麗系石室墳は京畿道の龍仁宝亭里(龍仁市)と板橋新都市(城南市)で最近確認されたことがある。
[参考:聨合ニュース]
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行田市・奥の山古墳 地中レーダー探査結果を発表 箱式石棺とみられる物体の反応

2010年03月26日 | Weblog
 さきたま史跡の博物館(行田市)は25日、埼玉(さきたま)古墳群の「奥の山古墳」を09年3月に地中レーダー調査した結果を発表した。
 調査は古墳の内部構造を解明するため3次元地中レーダシステム(3D GPR:Ground Penetrating Radar)を使い、同館が東北大学東北アジア研究センターと共同で3日間にわたり実施した。墳丘上 5×9m の範囲を3種類の周波数(100、250、500MHz)により計測し、その結果、墳丘の頂上部分から深さ約3mまでの地点で、4つの物体反応があった。
 ①直径約30cmの球体、②直径約50cmの球体、③、④長さ約2m、幅と高さ50cmの箱状の物体2点
 同古墳は国の史跡に指定されているため、埋葬施設は原則掘ることができず、4点の詳細は分からないという。
 ③と④の二つの箱状の物体は、深さ1m以上離れており、異なった時期に埋められたとみられる。木棺か箱式石棺の可能性があり、土壌の性質や古墳の時期から、箱式石棺の可能性が高いとみられる。
 箱式石棺は5世紀後半から6世紀前半に現れるが、同古墳は6世紀半ば築造と考えられているので、箱式石棺が6世紀半ばまで使われていた可能性があることになる。探査結果から石棺は未盗掘の可能性が高いとあらためて確認された。
 県内では大塚古墳(川島町)、大日塚古墳(行田市)などで発見されているが、埼玉古墳群では稲荷山古墳の礫槨と粘土槨、将軍山古墳の横穴式石室とは別の埋葬形態が存在したことになる。
[参考:埼玉新聞、毎日新聞、埼玉県HP、東北大学HP]

過去のニュース
 奥の山古墳
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福井市・石盛遺跡 新旧2つの堀を確認、新田義貞の拠点「石丸城」か

2010年03月26日 | Weblog
 福井市文化財保護センターは25日、室町時代の館跡などが確認されている「石盛遺跡」(同市石盛町)で、14~16世紀に使われたとみられる新旧二つの堀跡が新たに見つかったと発表した。同遺跡は、新田義貞の拠点の一つ「石丸城」の可能性が高いとされ、城の存在が裏付けられたとしている。
 同遺跡の調査は2000年度から実施。これまでに館や井戸などの遺構が見つかり、その下の地層からは弥生時代や古墳時代の集落跡なども見つかっている。09年度は館跡の南西側約1200㎡を調査した。
 発掘現場は古くは「石丸」の地名で、南北朝時代の軍記物語「太平記」では新田義貞の弟が暮らしたと記されている。戦国時代は朝倉氏の家臣の居城だったという。
 古い堀跡は、幅3・7m、深さ1・2mで、県内2例目の烏帽子も見つかった。新しい堀跡は幅8・7m、深さ2・5mで、幅が広いことから合戦に備えたとみられる。いずれも、出土した陶器片の形状などからそれぞれ14世紀南北朝時代の動乱と15世紀応仁の乱などに備えて造られたとみている。
[参考:中日新聞、読売新聞]
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三田市・三輪餅田遺跡 弥生中期の管玉工房跡と判明

2010年03月26日 | Weblog
 三田市生涯学習課は24日、三輪餅田遺跡(同高次(たかすぎ)1丁目)から弥生時代の「管玉」を製造するための砥石や石鋸などの工具が見つかったと発表した。
 先に碧玉管玉の未製品などが見つかっており、同遺跡に管玉を製造する工房があったことが確認できたという。
 見つかったのは、砥石(縦13cm、横7cm、厚み2cm)や石鋸(長さ2・5cm、幅2cm、厚み0・15cm)、原石に穴を開ける石針(せきしん)の未製品(長さ1・7cm、幅0・3cm、厚み0・05cm)、それに管玉の原石となる碧玉(長さ1・5cm、幅0・8cm、厚み0・5cm)など合計約20点。
 原石を割る技術として弥生中期の特徴とされる石に溝を掘る「施溝(せこう)分割」の方法がとられていることや、弥生中期まで使われた石針が出ていることから、工房が存在したのは弥生時代中期(紀元前2世紀~同1世紀)と判断した。
 市はこれまで碧玉の産出地を松江市付近としていたが、その後の調べで石川県小松市周辺で産出した可能性が高いことが分かった。また石鋸は徳島県で産出する紅廉(こうれん)片岩(結晶片岩の一種)で作られているという。
 25日から同市屋敷町の三田ふるさと学習館で展示する。
[参考:朝日新聞]

過去の関連ニュース
 2010.3.3 三輪餅田遺跡 2000年前の作りかけの管玉が出土
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大阪府和泉市・和泉寺跡 8世紀前半に泉南を統治した地元豪族名「珎縣主」の瓦が出土

2010年03月25日 | Weblog
 府教委が25日、和泉市府中町の和泉寺跡で、8世紀前半(飛鳥時代末-奈良時代前半)に泉南地域を治めた有力豪族「珎縣主(ちぬのあがたぬし)」と記された瓦が発掘調査で見つかったと発表した。同寺は文献に記録がなく「幻の寺院」とされてきたが、今回の調査で地元豪族が建立した可能性が高まった。
 出土した瓦は縦37cm、横17cmの破片。表面には「珎縣主廣足(ひろたり)作」の6文字が、釘のような先端の尖がったもので刻まれていた。珎縣主一族の「廣足」という人物が、瓦を寄進したことを示すという。
 珎縣主については、正倉院(奈良市)に保管されている正倉院文書で、奈良時代の天平9(737)年の税に関する記録「和泉監正税帳」に郡司として記されているが、廣足の名は見つかっていない。
 和泉寺跡は現在の地形の状況から、220m四方の規模を持つ古代寺院と推定されているが、建物跡などは見つかっておらず、実態は不明だった。
 瓦は4月10日~5月9日、大阪府河南町の府立近つ飛鳥博物館で公開される。
[参考:毎日新聞、共同通信]

過去の関連ニュース
 2009.11.27和泉寺跡 寺院を裏付ける人名瓦「坂合部連前」が出土
 昨年11月に和泉寺跡から、8世前半紀の「坂合マ連前」(さかいべのむらじまえ)と人名が刻まれた瓦が見つかっていたことが分かった。(略) 「和泉国府」推定地の東にある同寺は7世紀後半の創建で、一帯の中心的な寺院だったとみられる。和泉郡司の茅渟県主(ちぬのあがたぬし)氏が建立したとの説もあるが、文献に登場せず実態はわかっていない。(略)
 としていた、今回「珎縣主」と記された瓦が見つかったことにより、茅渟県主が同寺を建立した可能性が一層高まった。
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京都府宇治市・平等院鳳凰堂 国宝壁画「仏後壁」に描かれた舞楽は延喜楽と判明

2010年03月25日 | Weblog
 平等院(京都府宇治市)は24日、鳳凰堂内本尊阿弥陀如来坐像の背後にある国宝壁画「仏後壁」の調査で、壁画に描かれた舞楽の墨の下絵線が見つかり、この舞楽の演目は平安期に作られた「延喜楽(えんぎらく)」(注1)であることが確認されたと発表した。仏後壁は1053年に藤原頼通(992-1074)が鳳凰堂を建立してから数年後の完成とされ、人が舞楽を踊る様子を描いた絵としては現存最古という。
 調査は独立行政法人「東京文化財研究所」により行われた。仏後壁は平安時代中期(11世紀中ごろ)の作品と推定され、幅約3・7m、高さ約3・4m、計11枚で構成。左から4枚目に、襲装束(かさねしょうぞく)、鳥兜(とりかぶと)などを纏い、舞台で手を広げる舞人や笛と打楽器などの奏者が描かれていた。近赤外線を当てたところ、肉眼では見えなかった墨の下絵線の跡が浮かび上がり、一枚の絵で舞の振り付けが動画のように表現されていた。左右の腕を斜めに大きく広げて舞う姿と原画の緑色の衣装が延喜楽の特徴と一致したという。
 延喜楽は平安期の舞楽家、藤原忠房(?-929)が作曲した舞と伝えられ、慶祝の意味を持つ。現在も宮中行事などで舞われており、約千年にわたり、ほぼ変わらぬ形で受け継がれてきたことが明らかになった。
 平等院では27日午後4時から「極楽浄土の調べ」を開く。鑑賞には拝観料が必要。
[参考:京都新聞、共同通信、産経新聞]

(注1)延喜楽は、朝鮮から日本に伝わった雅楽の一種である高麗楽に属する代表的な作品。
 ㈱OLDSEAから発売されているDVD「生きた正倉院 雅楽」にも延喜楽が収納され、映像で観る事ができる。

過去の関連ニュース
 2009.1.24平等院鳳凰堂・仏後壁 極楽浄土図の全容が明らかに 藤原頼通も描かれる?
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福岡県福津市・上西郷ニホンスギ遺跡 亀山城関連の遺構を初公開3/28

2010年03月24日 | Weblog
 福津市教委は28日、戦国時代(15世紀後半~16世紀)の山城「亀山城」に関連する建物群跡地、上西郷ニホンスギ遺跡(同市上西郷)を一般に初公開する。亀山城関連の遺構が確認されたのは初めてという。
 遺跡は市福間庁舎の南東750m一帯で、福間駅東土地区画整理事業に伴い09年10月から2000㎡を調査した。亀山城は遺跡の北約100mに位置し、周防地域(現山口県)を本拠としていた守護大名、大内氏の家臣、河津隆業(たかなり)が築城したとされる。
 遺跡からは、掘立柱建物19棟や溝12本、井戸1基、土坑30基、柱穴500基などが見つかった。1棟の掘立柱は約10本で直径10~20cm。溝は幅数十cm~1m以内。
 ほかに、瓦質土器足鍋、中国・明の時代の青磁や白磁、青花(せいか:染付白磁)、「朝鮮通宝」、北宋銭「治平元宝」などの渡来銭8枚、川漁で重りに使ったとみられる土錘(どすい)28点などが出土している。
 大内氏は当時博多を支配していたことから、中国との貿易によってもたらされたとみられる。
 説明会は3月28日午前10時~正午に行われる。 現地(国道3号そばの宗像水光会総合病院の西)で。
[参考:読売新聞、毎日新聞、福津市HP]



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山口市・凌雲寺跡(大内義興の墓所) 発掘調査説明会3/22

2010年03月23日 | Weblog
 山口市教委により22日、発掘調査中である室町時代の武将・大内義興(1477-1529)や妻の墓所があるとされる凌雲寺(りょううんじ)跡(同市中尾)の現地説明会があった。約40人が出席した。調査では15世紀末から16世紀中ごろとみられる遺構や瓦・土器などが発見された。
 同寺は、義興の戒名が「凌雲寺殿傑叟義秀(けっそうぎしゅう)」であるなど義興の菩提寺とされているが、宗派や廃絶時期など不明の部分が多い。
 市教委は07年9月に跡地の地下探査を実施し、今年2月上旬から20カ所で発掘調査していた。約1000点出土した遺物の中には、大内氏の家紋「大内菱」が意匠されたとみられる瓦もあり、大内氏ゆかりの寺であることが裏付けられたという。
[参考:毎日新聞]
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