歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良県広陵町・巣山古墳 新たに葺石が120m出土、湧き水対策か

2010年01月30日 | Weblog
 町教委の調査で30日、巣山古墳(4世紀末-5世紀初め、前方後円墳、全長約220m)の周濠を取り巻く外堤から、築造当初の葺き石が約120mにわたって新たに出土したことが分かった。これまでの調査と合わせると葺石が確認された外堤は計約300mに及ぶ。
 外堤の調査は、平成19年度から古墳前方部で実施。葺石は、外堤の斜面で確認され、西約8kmにある二上山(葛城市)から運ばれたこぶし大の安山岩などが幅2mにわたって敷き詰められている。
 今年度は古墳の東と西側で調査を実施。丘陵を切り崩して築造された西側では、捨て石(底石)を埋めて基礎工事を施した上に葺石を積んでいたことが新たに分かった。この場所は豊富な湧き水があり、地盤が弛みやすいために石で地盤を固めたと考えられるという。
[参考:産経新聞]

過去のニュース・情報
 2009.3.19 巣山古墳 周濠近くから直弧文のある船形埴輪片が出土
 2009.1.8 巣山古墳 周濠外堤から長さ100mにわたる葺石が出土 17日に現地説明会
 2008.7.28 巣山古墳 喪船の部材を公開
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河内長野市・烏帽子形城城跡 高さ2.3mの掘内障壁を確認

2010年01月30日 | Weblog
 市教育委員会は29日、16世紀後半の烏帽子形城(えぼしがたじょう)跡(同市喜多町)で、昨年度見つかった空堀の中から敵の移動を妨げるため「掘内障壁」の土の高まりが2.3mもあったことが分かったと発表した。昨年度は高さ1.2mが観測されていた。
 このほか、城の東側にある幅約3mの土塁の切れ間は崩れた跡がないことも分かり、「大手」と呼ばれる城の入り口と考えられるという。
 堀内障壁は、関東で勢力を持った後北条氏の城に特徴的な施設で、関東、東海地域の約30の城で確認されているが、近畿では、豊臣秀吉が築いた大坂城など数例しかないという。
 烏帽子形城は天正12年(1584)に秀吉の命令で改修され、宣教師ルイス・フロイスも布教史「日本史」に城の名を記している。
 現地説明会が31日午後1時から開催される。
[参考:共同通信、河内長野市HP]

過去のニュース・情報
  2008.12.13 烏帽子形城跡 空堀から「堀内障壁」が見つかる



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京都府精華町・下馬遺跡 平安後期の集落跡を確認、現地説明会1/31

2010年01月30日 | Weblog
 府埋蔵文化財調査研究センターは29日、下馬(げば)遺跡(相楽郡精華町下狛)で、平安時代後期(12世紀後半)の集落跡や仏教施設内にあったとみられる室町時代(14~15世紀)の炉跡が見つかったと発表した。集落が地域の信仰の場へと移り変わった姿がうかがえるとしている。
 集落内から平安後期の住居や倉庫とみられる、掘立柱式建物跡計5棟を確認した。
 北西部の山裾から炉跡(長さ約2m、幅約1.1m)が発見され、鉄製品を造っていたとみられる。火鉢として使用していたらしい火舎(かしゃ)や瓦なども周囲で見つかっている。
 下馬遺跡の北東約800mでは、下狛廃寺跡(平安後期~室町期)が確認されており、周辺部の寺院に関連するお堂のような施設が建っていた可能性もあるとしている。
 現地説明会が31日午後2時から行われる。
[参考:京都新聞、(財)京都府埋蔵文化財調査研究センターHP]



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長岡京市・下海印寺遺跡 堀により方形に区画された領主層の屋敷跡?(最古級)が見つかる

2010年01月29日 | Weblog
 京都府府埋蔵文化財調査研究センターは28日、縄文時代から中世の集落跡の下海印寺遺跡(同市下海印寺西条)で、堀によって方形に区画された11世紀末~12世紀初頭の施設の一部が新たに見つかったと発表した。この地域に住んでいた領主層の屋敷地だったとみられる。
 下海印寺遺跡の南端1260㎡から、南北(幅6・5m、深さ1.7~1.5m)から東西(幅6・5~5・2m、深さ1.7~1.5m)にL字状に屈曲する堀跡を発見した。両側を石で固め、その間に土を埋めたとみられる。
 長さは調査範囲内だけで東西35m、南北32m。南北の堀からは堀を渡るための幅約4mの土 橋跡を発見した。土橋の下部には、石組みの排水施設もあった。
 同時期の方形区画遺構は久御山町の佐山遺跡しかなく、方形区画の遺構としては、この2例が府内最古ではないかとみる。
 築造年代は、堀の底や土橋の土の中から出た瓦器や土師器などから、12世紀前半までと想定している。
 また、古墳時代後期(6世紀後半)の竪穴式住居跡も6基見つかった。
 現地説明会が30日午前10時半から行われる。
[参考:毎日新聞、京都新聞]

過去のニュース・情報
  2009.8.29 長岡京市・下海印寺遺跡 8世紀末の土馬を含む小型土器が出土
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天理市・小路遺跡 6世紀末から7世紀前半の木製井戸枠に廃材再利用の跡

2010年01月29日 | Weblog
 天理市教育委員会の調査により、古墳時代中~後期の集落跡の小路遺跡(同市小路町)から、6世紀末から7世紀前半の木製井戸枠が見つかった。側板の一部に扉とみられる木材を使用しており、建築廃材の再利用とみられる。
 また、井戸底からは完形をとどめた土器の壺などが出土。井戸祭祀が行われた可能性があるという。
 小路遺跡には多くの陶質土器が検出されており、,渡来人集団の遺跡と考えられている。
 現場はすでに埋め戻され、現地説明会の予定はない。
[参考:奈良新聞]


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成田市・台方宮代遺跡 石枕が出土、現地説明会1/30

2010年01月28日 | Weblog
 平成20年11月に、石枕、立花、直刀、鉄製斧などが出土し現地説明会が開催された船形手黒遺跡(成田市台方字鶴巻)。その僅か500m足らず西の台方宮代(だいかたみやしろ)遺跡(同市台方字上宮代1415)から石枕などが出土し、現地説明会が開催される。
 昨年11月より台方宮代遺跡の発掘調査を実施。遺跡内から3基の円墳や竪穴式住居跡を発見した。
 1号墳(直径約30m、高さ6m)は、古墳時代中期5世紀と考えられ、埋葬施設から滑石製の紡錘車や勾玉、鏡などの模造品、鉄剣、石枕(滑石製、縦26cm、横26cm、厚さ5cm、重さ8kg)(注1)などが出土。
 2号墳は古墳時代前期から中期初頭にあたり、滑石製の臼玉、管玉の他、ヒスイの勾玉、ガラス製の臼玉が出土。
 現地説明会が1月30日(土)午後1時~3時(小雨決行)に開かれる。 (雨天の場合、翌31日に順延)
[参考:印旛郡市文化財センターHP、毎日新聞]

(注1) 2010.2.4追記
 公津原古墳群からの石枕出土は、大塚古墳(瓢塚32号墳)Ed3、船手黒1号墳(仮)Cb3、に続いて3例目となる。
 今回出土した石枕を、東京工業大学亀井宏行研究室が行なっているサービス「ARCADIA」の『石枕』の形を表す記号で示すと「Bb3」となるかと推測される。すなわち、円形に近く(B)、頸受け部がハの字状に外反して開き(b)、平坦面数が3(高縁の段数が2)。

過去の関連ニュース・情報
  船形手黒遺跡 現地説明会 2008年11月15日



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岡山市・湊茶臼山古墳 墳丘外で葺石遺構出土

2010年01月28日 | Weblog
 2008年度の調査で、全長120m、築造時期5世紀初頭頃とわかった湊茶臼山古墳(同市中区湊)で、岡山市教委により昨年9月1日より発掘調査が行われている。26日までに、墳丘外で葺石遺構が出土するなどしている。
 これまでに前方部の周囲十数m幅で、岩盤を掘削してまで地形を改変した跡を確認。その一部では、約1mからこぶし大の石材を組んだ葺石遺構も見つかり、墳丘外の整備にも力を注いでいることが分かった。市教委では周溝を意識した構造ではとみている。
 現地説明会が、1月30日(土)午後1時30分から開かれる。 
[参考:山陽新聞、(財)岡山市埋蔵文化財センターHP]
過去のニュース
 2008.11.5 湊茶臼山古墳 現地説明会



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淡路市・垣内遺跡 08年度に出土した鉄製品(板状鉄斧)は朝鮮半島南部製か

2010年01月28日 | Weblog
 淡路市教委は26日、弥生時代後期の鍛冶工房跡とみられる「垣内(かいと)遺跡」(同市黒谷)から出土した大型鉄製品が、「板状鉄斧(てっぷ)」と呼ばれる鉄製の斧と確認したと発表した。形状から朝鮮半島南部で製作し、国内にもたらされた舶載品の可能性が高い。
 鉄斧は08年10月に発掘した南北約50m、東西約500mと推定される遺跡のほぼ中央部の鍛冶工房跡とみられる直径9・7mの縦穴建物から出土した。当初、朝鮮半島か中国から輸入されたとみられる大型鉄製品と考えられていたが、愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの協力で錆などを取り除くクリーニング作業などを行い、板状鉄斧と判明した。
 鉄斧は長さ17・9cm、厚さ1・3cm、刃部幅が4・9cm、基部幅が3cm、重さ約263g。基部が狭く刃部にかけて広がるバチ型をしている形状と、両側面から丁寧な鍛打が施されている製作技法などの特徴から、国内で製作されたものではなく朝鮮半島南部で製作された可能性が高い。
 弥生時代中期末から後期(BC1世紀~AD2世紀)にかけての舶載品とみられる板状鉄斧はこれまで、九州北部を中心に出土例があるという。
 31日午後1時半から北淡震災記念公園セミナーハウス(淡路市小倉)で「弥生時代鍛冶工房 垣内遺跡の謎」をテーマにした垣内遺跡調査報告会と講演会が開かれ、鉄斧も公開される。
[参考:毎日新聞、朝日新聞]

過去のニュース
 2009.6.26 垣内遺跡 保存のため埋め戻し始まる
 2009.4.4 垣内遺跡 国内最大の弥生後期の鉄器工房


キーワード: 五斗長垣内遺跡
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八幡市・女谷・荒坂横穴群 新たに8基の横穴を発掘、合計58基に

2010年01月28日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは27日、八幡市美濃山荒坂の女谷・荒坂横穴群で、6世紀後半-7世紀前半の横穴8基を新たに発掘したと発表した。同横穴群は2002年までに50基の横穴を発掘しており、今回の調査で計58基となった。
 新たに発掘した横穴(全長10-15m)は南北50mの範囲にあり、有力者の血縁集団が、1基につき3人以上埋葬されたと考えられる。
 ひとつの横穴の最深部の玄室(幅1・3m、奥行き2・7m)から、副葬品として青銅鏡「瑞雲双鸞鏡(ずいうんそうらんきょう)」が出土したことから、平安時代前期に横穴が再利用されたとみている。
 青銅鏡は、直径11・5cm、厚さ3mmで、雲の文様や想像上の鸞鳥(らんちょう)が刻まれている。大きさや材質から、中国の唐式鏡を模して奈良時代末に多く生産された国内産とみられる。
 横穴群の700m南東には、古代寺院の美濃山廃寺跡がある。青銅鏡が出土した横穴から同寺と同じ種類の瓦が見つかっており、墓の造営集団の子孫が美濃山廃寺の建設にもかかわり、先祖の墓である横穴に追葬されたのではないかとみている。
 現地説明会は30日午後2時から開かれる。
[参考:京都新聞、(財)京都府埋蔵文化財調査研究センター]

過去の関連ニュース・情報
 2009.6.6 八幡市・宝寿院 阿弥陀如来立像の胎内から「定慶」作の墨書名発見
 2008.12.3 八幡市・王塚古墳 前方後円墳
 2008.7.6 八幡市・女郎花遺跡 現地説明会
 2008.7.4 八幡市 女郎花遺跡 奈良-平安期の建物遺構出土 地元豪族の居館か



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伊賀市・吉田谷古墳群 3基の古墳を発掘調査 1/30に現地説明会 

2010年01月27日 | Weblog
 三重県埋蔵文化財センターは26日、昨年11月から発掘調査を実施している同市才良(ざいりょう)にある古墳時代後期(今から1400年ほど前)の吉田谷古墳群で、横穴式石室を持つ古墳3基や馬具、金環、鉄刀などの副葬品が出土したと発表した。見つかった土器などの配置から死者を弔う「儀礼」の様子がうかがえるという。
 同古墳群は伊賀鉄道丸山駅の北東約800mの山中で、他にも10基以上の古墳があると推察されており、なかでも調査前から存在が確認されていた1号墳は、この地域の有力者が葬られていたと考えられているという。
 1号墳は直径12mの円墳。長さ3.2m、幅1.8mの横穴式石室があり、石室付近からは馬具の破片や金箔を張った耳飾(直径3.3cm)、須恵器片などを確認。
 2号墳は直径10mの円墳。長さ2・8m、幅1・6mの横穴式石室から、須恵器、土師器や刀子3点がまとまって見つかった。
 3号墳は墳丘がなく、横穴式石室からから、2号墳と似た須恵器などの他、長さ約75cmの鉄刀が発見された。
 近くに伊賀有数の古代寺院の才良廃寺が数十年後には建っていることから、関連がうかがえるとしている。
 現地説明会は30日午後1時30分から開かれる。
[参考:1.26伊賀タウン情報、1.27三重県HPお知らせ情報、中日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.9.10 伊賀市・浅子谷古墳群 2号墳から大型の横穴式石室と、新たに古墳5基を確認
 2009.1.20 伊賀市・浅子谷古墳群 3号墳と新たに4,5号墳を確認



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中国河南省安陽市・曹操高陵 真偽判定のためDNA鑑定に着手

2010年01月25日 | Weblog
 上海復旦大学・現代人類学実験室李教授は最近、曹操(155-220)の子孫と曹操父親の本来姓の夏候氏の子孫男性のY染色体検査を通じて、墓の中で発見された遺骨が曹操であるか真偽を判別することが可能と話したと、人民日報インターネット版の人民王が25日報道した。早ければ2ヶ月中、恐らく6ヶ月中結果が出るという。
[参考:聨合ニュース、niftyニュース]

<曹操の墓>真偽のほどは?名門大学がDNA鑑定に乗り出す―上海市 - 速報:@niftyニュース.

過去のニュース・情報
 2009.12.28 中国河南省安陽市・曹操高陵 三国志の曹操の墓と認定
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佐賀市伊勢町・多布施反射炉 84年ぶりに大規模な基礎工事跡を確認

2010年01月23日 | Weblog
 佐賀市教委は22日、幕末期に佐賀藩が鉄製大砲を鋳造するために築いた「多布施反射炉」の跡地とみられる場所で、大規模な基礎工事跡が見つかったと発表した。
 反射炉本体が傾かないように整地した構造になっており、当時に基礎工事が必要だったのは反射炉以外に考えられず、本体があったことはほぼ特定できるとしている。
 多布施反射炉は、幕府から大砲の大量注文を受けた佐賀藩が1853年に完成した。日本初の実用反射炉「築地反射炉」(同市長瀬町、1850年完成)に次ぐ施設で、現在は事務所や民家になっているが跡地と見られる場所の会社駐車場を縦5m、横2mにわたり発掘。基礎とみられる遺構は、深さ1・4mの試掘溝で発見された。基礎工事部分は、3m×2m、深さ90cmで、さらに広がっているとみられる。拳大からその倍の石や土台木が敷き詰められ、その上は粘土、砂を交互に積み重ねた層が50cm以上あり、強固な構造で重い建物の沈下を防いだらしい。大正15年(1926)に行われた調査報告にある格子状に組まれた土木材(松材)が、調査記録の通り1m間隔で並んで見つかり、以前の調査と同一地であることが裏付けられた。構造物を支える基礎工事の跡と考えられることから、反射炉の基礎だったとみられる。
 現在の調査部分は、東西に2基4炉あった本体の西側にあたるという。また、基礎工事の上の部分から、石積みや精錬時の鉄のかたまり、反射炉の壁に使われたとみられる耐火れんがのほか炉内の曲線部に使われる特殊なレンガの一部なども発見された。
 一緒に出土した陶磁器片の染め付けからも江戸時代後期の遺構とみられる。
佐賀藩の近代化の産業技術史に新たな証拠を加えることができるとしており、世界遺産登録を目指す「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産に加えるか否か、2月10日まで調査した後、結果を遺産群の価値を検討している専門家委員会に報告するという。
[参考:佐賀新聞、読売新聞、毎日新聞]

過去のニュース・情報
 2010.1.9佐賀市・築地反射炉 遺構推定地側から築造時期の耐火れんがや鉄くずが大量に出土
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大阪府島本町・広瀬遺跡 水無瀬離宮の遺構か、大規模な礎石建物跡が出土

2010年01月22日 | Weblog
 町教委は22日、同町広瀬の広瀬遺跡で鎌倉時代前期(13世紀ごろ)の大規模な礎石建物跡や石敷き遺構が見つかったと発表した。後鳥羽上皇(1180~1239年)の「水無瀬(みなせ)離宮」の一部だった可能性が高いという。
 水無瀬離宮に関連するとみられる遺構の発見は初めて。調査地は水無瀬川と淀川の合流地点近くで、承久の乱(1221年)で鎌倉幕府軍に敗れ、隠岐に流された上皇をまつる水無瀬神宮の西約600m。藤原定家(1162~1241年)の日記「明月記」などによると、上皇が正治元(1199)年に造営した「下御所」と後に作った「上御所」がある。承久の乱(1221年)で敗れた上皇が隠岐に流された後、下御所跡には水無瀬神宮が建てられたが、上御所は所在が分からなくなったという。
 遺構などが見つかったのは上御所の推定所在地から南東約200m。柱跡とみられる、礎石を安定させるために置かれた根石を4カ所で確認した。柱跡は四角形を描くような形で見つかった。その間隔は約4.2mで、巨大な礎石建物の一部とみられる。建物跡に沿って、石敷き(幅約3m、長さ約6m)も確認された。雨落ち溝の可能性があるという。溝の内部や周辺から軒丸瓦や軒平瓦片が見つかった。瓦は鎌倉時代の様式で、剣頭文様や巴文様が刻まれた瓦約30枚が含まれている。瓦の量が少ないことから、檜皮で屋根を葺き頂上部にのみ瓦を置いた造りとみている。当時、瓦は、役所や貴族の邸宅などでしか使われておらず、この点からも離宮の可能性が高いという。
 遺構の西側では同じ文様の瓦と16カ所の柱穴や白磁2点が見つかっている。
 現地説明会は24日午前10時~正午に開かれる。
[参考:毎日新聞、産経新聞、共同通信、京都新聞]

後鳥羽上皇の水無瀬離宮か 大阪の広瀬遺跡(共同通信) - goo ニュース

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佐久市・西近津遺跡群 「美濃国」刻印の須恵器が出土

2010年01月21日 | Weblog
 長野県埋蔵文化財センターは19日、佐久市長土呂の西近津遺跡群の出土物のうち、奈良時代8世紀前葉(1300年前)の須恵器から「美濃国」と刻印されていたとみられる破片が見つかったと発表した。
 「美濃国」の刻印土器の出土例は6府県の計55地点(今回を含む、県内8例目)だが、今回の須恵器の生産窯とされる佐久市から約170km離れた老洞(おいぼら)古窯跡(こようせき)(岐阜市)から最も北東に位置する。県内では松本や飯田、岡谷の各市から出土しているが、古代の道「東山道」を通じて流通したとみられる。
 今回の刻印片は、中部横断道の建設工事予定地(畑)から2006年6月に見つかった土器片(縦5・6cm、横7cm、厚さ1cm)。上部に「濃」の文字と「美」の下端、その左上に「国」が読み取れる。口径14~15cmの茶碗のような食器の底の一部とみられる。
 美濃国と刻印された須恵器は8世紀初めに作られ、大和朝廷に貢いだり、美濃国が管轄する機関や寺院に配ったりしたことが、これまでの研究で分かっている。
 西近津遺跡群からは、佐久郡衙が近くにあった可能性を示す「郡」と刻書された須恵器もみつかっている。
 この須恵器は23日~2月7日、北佐久郡御代田町の浅間縄文ミュージアムで展示される。
[参考:信濃毎日新聞、朝日新聞]

2010.2.20
 3月13日~5月9日に開催される「長野県の遺跡発掘2010」(県立歴史館:千曲市屋代)で、で展示される。[長野県考古学会HP]

過去のニュース・情報
 佐久市 西近津遺跡群 現地見学会 2008.9.7
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御所市・秋津遺跡 4世紀前半の巨大祭祀施設の塀跡が出土

2010年01月20日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が20日、御所市池之内の秋津遺跡から4世紀前半の前例のない方形に巡らされていたとみられる板塀跡が見つかったと発表した。
 塀跡は南北に3基分が出土した。北側から
(1)東西30m、南北14m
(2)東西40m以上、南北18m以上
(3)東西23・5m、南北3m以上
 いずれも幅約20cmの溝の両脇に、一対の柱穴が1・8~2・6m間隔で見つかった。溝の部分に厚さ約15cmの板材をすき間なく並べ、両側から柱と横木で挟んで固定し塀にしたと推定される。柱を埋めた深さから、塀の高さは2m前後とみられる。3基は数十年間で建て替えていたらしい。
 形状から心合寺山(しおんじやま)古墳(八尾市、5世紀前半)などで出土した祭祀場をかたどった「囲形(かこいがた)埴輪」のモデルになったとみられ、豪族の巨大な祭祀空間を方形に囲んでいたと推定する。
 遺跡は5世紀以降に古代豪族・葛城氏が支配した本拠地にあり、初期大和政権(3世紀後半~4世紀中ごろ)期に、葛城地域にも一大勢力が存在したことを裏付ける初めての資料としている。
 2基の塀跡の内側からは、塀とほぼ同時期の掘立柱建物が2棟ずつ見つかった。出土遺物は馬の歯など祭祀用の品が全体の6割を占めているという。
 また、遺構近くの川跡では、祭祀の道具とされる小型の壺などが多く捨てられていた。
 秋津遺跡は、葛城山と金剛山の東麓に広がる扇状地帯の平地。宮山古墳(5世紀初め頃、前方後円墳 全長238m)から北東約1kmにある。
 現地見学会が24日午前10~午後3時に開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、MBS毎日放送]

 写真は、旧高田街道の名柄から宮山古墳(写真中央)を撮ったもの。したがって、宮山古墳のすぐ左に見えるのが秋津小学校あたりで、秋津遺跡はそのすぐ裏手にある。


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