歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良市・興福寺 南大門金剛力士像 1180年平氏による南都焼打ち後に台座の基礎を設置

2010年07月31日 | Weblog
 昨年9月に、「興福寺 創建当初の南大門の基壇跡出土」と発表された。
 基壇は東西31m、南北16・7m、高さ最大1・4mで、南大門は東西23・4m、南北9m、高さは20m前後とみられ、また、東西両端では火災で失われたとされる2体の「金剛力士像」が安置された台座の基礎(2・8m四方)が見つかった。1辺1m弱の大きな凝灰岩の切り石が十数個並べられていた。その下からは焼け土が見つかり、最初に焼失した1046年以降に再建されたらしいとされた。
[参考:2090.9.25読売新聞、共同通信、毎日新聞、2009.6.21奈良新聞]

 今回の奈良文化財研究所の調査で、基礎の切石の底にも焼けた痕跡があり、西側の切石の間から検出された木炭を、放射性炭素年代測定法で分析した結果、木の伐採は12世紀後半~13世紀初めと判明した。平安末期の平氏による南都焼き打ち(1180年)後、1187年の4度目の再建時期と合致し、この木が1277年の5度目の火災で焼け落ちた際、切石の間に入ったと考えられるとしている。
 南大門は奈良時代前半の創建で、7度の大火で焼失。6度は復興されたが、江戸時代中期の1717年の火災後は再建されなかった。
[参考:読売新聞]

過去のニュース・情報
2009.9.25 興福寺 創建当初の南大門の基壇跡出土
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伊勢市・万所遺跡 鎌倉時代の墓地跡から南宋時代の青磁が出土

2010年07月31日 | Weblog
 三重県埋蔵文化財センターが6月から進めてきた、伊勢市辻久留3の宮川右岸沿いにある万所遺跡(まんじょいせき)の第3次発掘調査で、平安時代(約1,000年前)の建物跡や鎌倉時代(約800年前)の墓地跡などが見つかった。特に鎌倉時代の墓跡から副葬品の中国・南宋時代浙江省杭州・龍泉窯系の青磁碗(12c後半~13c前半)がほぼ完形で見つかり、地域の有力者の墓と考えられるという。
 別の場所では建物跡を確認し、明和町の斎宮跡の出土品と同じ、平安時代中期の明るい橙々色の土師器の坏や皿が出土。
 現地説明会は、8月7日(土)午後1時半から開かれる。
[参考:中日新聞、毎日新聞、三重県HP]

過去の関連ニュース・情報
 2010.7.12 三重県 「斎宮跡」柳原地区 10棟の建物跡が出土
 2009.2.8 三重県 斎宮跡」柳原地区 「中院」の可能性より高まる 



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富山市・百塚古墳群 新たに6基の古墳と鉄製の轡も見つかる

2010年07月30日 | Weblog
 富山市埋蔵文化財センターは29日、同市百塚の百塚古墳群から弥生時代後期~古墳時代後期(約20000~1400年前)の墳墓が新たに6基見つかったと発表した。これまでの調査結果を含めると、同古墳群の墳墓は計31基。墳丘を持つ古墳群では、同市の呉羽山丘陵古墳群の41基に次いで県内2番目の規模。
 6基の墳墓は、約40mの間に南北方向に並び、方形周溝墓や円形周溝墓などが混在して見つかった。このうち古墳時代後期(六世紀後半)とみられる円墳の周りの溝に2つの人の埋葬跡があり、うち1か所から鉄製の轡の一部が見つかった。装飾がなく実用品で、農耕や儀礼に使われた馬がいたとみられる。全国的には多く出土しているが、県内では高岡市内の2カ所の遺跡に次いで3例目。
 31日(土)午前10時~12時、一般公開される。
[参考:富山新聞、北日本新聞、中日新聞、朝日新聞]



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長岡京市・恵解山古墳 造り出しの範囲や構造を確認するとともに水鳥形埴輪が出土

2010年07月29日 | Weblog
 市埋蔵文化財センターは28日、国史跡 恵解山古墳(いげのやまこふん、全長128mの前方後円墳、古墳中期)の第11次調査を6月より実施してきたが、古墳東西の祭祀の場とされる「造り出し」の範囲や構造をほぼ確認し、東側の造り出しと周濠との境界部分から水鳥形埴輪が出土したと発表した。
 水鳥形埴輪は、頭部や羽、足などの破片が出土し、頭頂から首までは17cm、後頭部から嘴(くちばし)までは12cmあり、全体を復元すると高さ55cm前後になるという。出土個所は石が敷かれ、州浜に見立てられたとみられる。
 現地説明会が7月31日(土)午前10時から開かれる。
[参考:京都新聞、共同通信、財団法人 長岡京市埋蔵文化財センターHP]

過去のニュース・情報
 恵解山古墳



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慶南陜川郡将台里陶窯跡 朝鮮時代粉青沙器窯を発見

2010年07月28日 | Weblog
 (財)東西文物研究院は28日、昨年12月から発掘調査を行っている陜川郡(합천군)佳会面将台里(가회면 장대리)で、朝鮮時代初期に粉青沙器(분청사기)を作った窯跡1基と廃棄場2基、工房跡5基を発掘したと発表した。
 廃棄場と工房跡などから、文字が記された「銘文粉青沙器」 約20点なども見つかった。
今回発見された窯は、全長25m、幅2.4m~0.6mの大きさで、天井の部分が一部崩壊されているが、全体としては保存状態が良好。
 特に、世宗実録地理志(세종실록지리지)に記述されている「三加長興庫」という文字が、今回発掘された粉青沙器にも残っていることが確認され、ここが朝鮮時代の沙器中「中品」を製作した窯であることが明確になったとする。
 他に確認された銘文文字は「仁壽」、「善司」など。
[参考:聨合ニュース、慶尚조은ニュース]

備考: 慶尚조은ニュースに添付されている写真の銘文粉粧沙碗は安宅コレクションの「粉青沙器印花 菊花文 三耳壺(「長興庫」銘)」(15世紀前半)と似ている部分が多い。茶色の生地を用い、胴を埋め尽くす印花、裾には形が違うが蓮華文があり、長興庫の銘がある。「興」の文字が簡略化されているのが特徴。いわば、「粉青沙器印花 菊花文 碗 あるいは平鉢(「長興庫」銘)」というような器である。
 三加は三嘉の略字。高麗の時に、三岐県と嘉樹県に分けられていたが、朝鮮太宗14年(1414年)に最初の文字を取って三嘉と呼んだといいい、三嘉県が出来た。1914年陜川郡に併合されて今日に至っている。

過去のニュース・情報
 2009.11.16釜山長安邑 朝鮮時代の粉青沙器窯跡を発見、蔚山長興庫銘を確認


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坂本竜馬が運用・乗船した蒸気船「いろは丸」の初めての絵が発見される

2010年07月27日 | Weblog
 長崎市歴史民俗資料館は27日、坂本竜馬が海援隊で運用した西洋式蒸気船「いろは丸」を描いたとみられる絵画(注1)を確認したと発表した。同船と推定される絵が見つかったのは初めて。 
 同資料館が現在展示している「白帆注進外国船出入注進(しらほちゅうしんがいこくせんでいりちゅうしん)」((財)鍋島報效会蔵)は江戸末期に長崎港における外国船の出入湊を記録しており、その中で確認した。長崎港にいた時の様子を見ながら描いた可能性が高いという。絵図には、「十月二十四日 深堀亀ヶ崎出船」という添え書きがあり、絵の前ページには「四国船」との記述があり、冊子内の記述から1866年の記録と判断した。
 いろは丸は現在の愛媛県大洲市を中心とする伊予大洲藩が当時所有(注2)しており、同時期に長崎に寄港したとする記述が他の文献にあることなどから、いろは丸の可能性が高いとしている。
 資料では「いろは丸」と明記されていないが、赤地に白の蛇の目の家紋が所有者だった大洲藩(現愛媛県大洲市)(注3)のものであることや、資料に残された3本マストや、スクリュー船といった特徴などがほぼ一致しているという。
 いろは丸は1867年に海援隊が大洲藩から借り受け、長崎から大阪に向けて航海中に紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突し、広島県・鞆の浦沖で沈没した。(注3)
 絵画は8月31日まで同資料館で展示される。
[参考:共同通信、時事通信、西日本新聞、産経新聞、読売新聞]

いろは丸(goo Wikipediaより)
(注1)1862年にイギリス・バーミンガムで建造、全長 30間、全幅 3間、深さ 2間、トン数 160トン、機関 45馬力、外輪船(蒸気機関)、マスト3本あり、帆走可能。外輪船であるが、絵からは外輪が見え難い。
(注2)1866年6月、大洲藩郡中奉行であった国島六左衛門が長崎においてポルトガル領事から購入し、いろは丸と改名する。
(注3)利仁流加藤氏の末裔と見られる加藤光泰の子・貞泰が大洲藩初代となり泰秋まで13代続く。家紋は蛇の目。ちなみに武将加藤清正も蛇の目の家紋を使用した。
(注4)1867年4月、大洲藩はいろは丸を坂本龍馬の海援隊に貸与、19日(5月22日)に龍馬は大坂に物資を運ぶために長崎を出航。23日(5月26日)、紀州藩船明光丸と衝突し積荷もろとも沈没した。

竜馬の「いろは丸」か=初の絵画発見―長崎資料館(時事通信) - goo ニュース
龍馬率いる海援隊乗船した「いろは丸」の絵図か(読売新聞) - goo ニュース
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慶南金海市・大甘里 青銅器時代の松菊里型住居跡が金海東部地域で初出土

2010年07月26日 | Weblog
 ハンギョレ(한겨레)文化財研究院は26日、今年5月末から金海市大東面大甘里(대감리)で実施されている文化財発掘調査で、青銅器時代住居跡11基、墳墓12基などを確認したと発表した。金海東部地域では、初めての青銅器時代の遺構の発見という。
 特に、内部作業空間と2個の柱穴を整えた円形住居跡である松菊里型住居跡(송국리형 주거지)1基と、この住居跡に隣接した方形の住居跡内で炉(かまど)跡を確認した。もし、この二つの住居跡が一組を構成するものであれば、大きな成果と期待されている。
 墳墓は2~3基が群れになっていることが特徴で、墳墓もまた、金海東部地域一帯で初めて確認された青銅器時代埋葬遺構である。
[参考:聨合ニュース]

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韓国・金海博物館で企画特別展「比斯伐」が7月27日より開催 クスノキ製舟形木棺が復元(複精)展示

2010年07月26日 | Weblog
 韓国文化財庁・国立伽揶文化財研究所と国立金海博物館、昌寧郡、高霊郡は明日7月27日から9月30日まで国立金海博物館にて企画特別展「比斯伐(비사벌)(注1)」を共同開催する。
 「比斯伐」は『三国史記』に伝わる昌寧地域の古代の名前で、今回の展示は2004年から2008年まで国立伽揶文化財研究所が発掘調査した昌寧松峴洞古墳群(송현동 고분군、史跡 第81号)を中心に昌寧地域の古墳文化を紹介するために企画された。
 5~6世紀比斯伐の歴史と文化を、第1部「比斯伐」、第2部「比斯伐の支配者」、第3部「比斯伐の人々」の3つのテーマに分けて展示される。
 舟形のクスノキ棺(녹나무 관)の復元品や皇南大塚や天馬塚など新羅の大型古墳に匹敵する各種威勢品、彼らだけの独特のスタイルを創造した土器文化、生活の中に芸術性のみられる多様な漆器と木器など、松峴洞6、7、15号墳出土品をはじめとして桂城と校洞古墳群出土品、徐羅伐勢力との関係を見せる黄南大塚、金冠塚出土品など200点余りが展示される。
 2007年12月に松峴洞15号墳から殉葬された人骨が見つかり、それを復元した「松峴人(송현이)」や古代鞍装復元プロジェクトの産物の鞍装(안장)復元品も公開される。
 「比斯伐」展は国立金海博物館を始めとし、10月には昌寧博物館、来年4月には大伽耶博物館で巡回展示を開催する予定。
[参考:2010.7.21&2010.7.22聨合ニュース]

(注1) ちょうどタイミングよくDVDでドラマ「善徳女王」を見ていたら、第32話で「比斯伐」について触れていた。このドラマでは「比斯伐」を「鉄の平原」のことだと言い、感恩浦(カムンポ)の砂鉄、達川(タルチョン)の鋳鉄と2大拠点を挙げていた。

過去のニュース・情報
 2009.11.25 慶南昌寧郡松硯洞15号墳に殉葬された伽耶女性人骨から人体を復元



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新潟県村上市・山元遺跡 県内最古の「筒形銅製品」が出土

2010年07月25日 | Weblog
 市教育委員会は24日、同市下助渕の山元遺跡で、弥生時代後期(2世紀)のものとみられる青銅製品の破片2点が出土したと発表した。1点は長さ約1・9cm、直径約2cmの筒状、もう1点は長さ約3・6cmの曲がった板状で、槍の棒の後ろ部分に付けて使ったとされる筒形銅製品と推定されている。弥生時代に作られた青銅器では国内最北となる。
 山元遺跡は、旧岩船潟北縁の標高約40mの丘陵上にあり、越後平野を一望できる高所に立地する、弥生時代後期後半を主体とする高地性環壕集落。土器の多くは東北南部系土器(縄文が施された土器)である。
 25日から、村上歴史文化館(村上市)などで一般公開される。
[参考:新潟日報、読売新聞、新潟県埋蔵文化財調査事業団]

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岩手県金ケ崎町・鳥海柵遺跡 律令制下の末端行政組織「五保」を記した墨書土器が出土

2010年07月24日 | Weblog
 金ケ崎町教委は23日、鳥海柵(とのみのさく)遺跡(同町西根)から「五保(ごほ)」と書かれた墨書土器が出土したと発表した。
 墨書土器は6月上旬、豪族・安倍氏の軍事拠点だった鳥海柵遺跡の南東側にある竪穴住居跡で発見された。直径13.7cm、底径5.6cm、高さ4.3cmの土師器の杯で、外側に「五保」と墨で書かれていた。鳥海柵遺跡の年代は11世紀の初頭から半ばまでだが、土器は様式などから9世紀後半に作られたとみられる。
 五保は国―郡―里―保という、律令制下の末端の行政組織で、近隣の5家(戸)で組織され保長1人を置く。相互監視や徴税などの責任が負わされ、江戸時代に組織された五人組の起源ともいわれる。土器が作られた9世紀後半、東北地方に律令制が根付いていたことがあらためて確認された。
 鳥海柵遺跡は胆沢城(8世紀初め~10世紀半ば)の北西約1.5kmに位置することから、土器が見つかった竪穴住居跡には鳥海柵遺跡が築かれる前の胆沢城で働く役人が住んでいたのではないかとみている。
 これまで美濃国戸籍など8世紀前半の木簡6例が報告されているが、墨書土器に書かれたのが見つかったのは国内で初めてではないかとしている。ほかに、大仙市の払田柵(ほったのさく)跡から漆紙文書(9世紀)に五保を示す「保長」と書かれた遺物が出土している。
 現地説明会が8月1日(日)午前10時から開かれる。
[参考:共同通信、河北新報、岩手日報、毎日新聞]

墨書土器に「五保」の文字 岩手、安倍氏の鳥海柵遺跡(共同通信) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2009.11.27 鳥海柵遺跡は安倍氏が前九年合戦で築いた柵
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藤岡市・矢場三ツ橋Ⅱ遺跡 元代の白磁碗が出土

2010年07月23日 | Weblog
 群馬県埋蔵文化財調査事業団が発掘を進める「矢場三ツ橋Ⅱ遺跡」(藤岡市矢場)で、6月に元代(1271-1368)の白磁の碗がほぼ完全な状態(直径約15cm、高さ約6cm)で出土した。群馬県埋蔵文化財調査事業団HPには、口縁の釉が剥がされて焼かれた碗としている。(注1)
 室町時代に関東管領(注2)だった上杉氏が城主の平井城跡が遺跡の西約1.5kmのところにあり、関係する有力な領主が所有した可能性がある。
 遺跡からは「V字形」で、上部の最大幅が約8m、最深部が約2mの溝跡が六本出土し、井戸跡や柱穴も多数出ており、鎌倉から戦国時代にかけての堀を巡らせた館跡の可能性が高い。(注3)
 東京新聞では、「矢場三ツ橋Ⅱ遺跡の一帯は、源平合戦や南北朝の動乱などで活躍した武士団、高山氏(注4)の拠点。館跡は高山氏との関連が想起される。白磁の碗は高山氏が入手したか、同氏に上杉氏が褒美に与えた可能性がある」としている。
[参考:東京新聞、群馬県埋蔵文化財調査事業団HP]

(注1) HPで見ると、口縁は外側に広がりを見せている。その部分が、丸々釉薬が剥がされている感じだ。
(注2) 応安元年(1368年)武蔵平一揆の際に、高山重康らは河越直重に加わるが、乱は関東管領上杉憲顕により鎮圧される。以降は上杉氏の家臣として仕える。
(注3) 中世の館跡と思われる方形に巡る堀とみられている。
(注4) 秩父重綱の3男・重遠が武蔵国高麗郡高山邑(現在の埼玉県飯能市高山)に住んで高山氏を名乗る。ほかに、長男・重弘は畠山氏(3代目が重忠)、2男・重隆は河越氏(2代目が重頼)、4男重継は江戸氏を興す。

過去の関連ニュース・情報
 2009.5.21 豊島区 瑞鳳山祥雲寺(曹洞宗)


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和泉市・和泉寺跡 鎌倉~室町時代の600個以上の柱穴が見つかる

2010年07月23日 | Weblog
 府教委の調査により、和泉寺跡(同市府中町)で鎌倉~室町時代(13世紀~15世紀)の庶民の住居跡とみられる多数の建物跡が見つかった。建物に関連する柱穴は600個以上もあり、柱が密集して立てられたのは、建物が同じ場所で何度も立て替えられたためという。
 現地公開が23、24両日の午後1時から行われる。
[参考:産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.3.25 和泉寺跡 8世紀前半に泉南を統治した地元豪族名「珎縣主」の瓦が出土
 2009.11.27 和泉寺跡 寺院を裏付ける人名瓦「坂合部連前」が出土


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小田原市・石橋石丁場群玉川支群遺跡 江戸城修築時の石材割り出し作業場遺構

2010年07月23日 | Weblog
 かながわ考古学財団は今年4月から発掘調査を進める石橋石丁場群玉川支群遺跡(小田原市早川ほか)で、江戸時代初めに行われた江戸城修築時の石材を割り出した作業場と推定される遺構を見つけた。
 石丁場とともに出土した安山岩の石材は幅1m以上の大きさで、「矢穴」や、石丁場の運営者を示す刻印が残されている。
 見学会が24日(土)午前10時から計7回開かれる。1回約40分間。JR早川駅から見学者用の無料送迎バスが出る。
 見学会ではパネルなどを展示し、この石丁場や石材について解説する。
[参考:神奈川新聞、(財)かながわ考古学財団HP、小田原市HP]



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奈良市・平城宮跡 東方官衙地区で「豊嶋郡大領大伴直宮足」名木簡が出土

2010年07月22日 | Weblog
 奈良文化財研究所が21日、同市佐紀町の平城宮跡東方官衙地区で、続日本紀に登場する「大伴直宮足」名の木簡が見つかったと発表した。
 木簡(長さ96mm、幅18mm、厚さ6mm)は、礎石建物の下の整地土から見つかった。「豊嶋郡大領大伴直宮足書」と記され、武蔵国豊嶋郡の大領(郡司)だったことが明らかになった。木簡の上端両側に切り込みがあった。
 続日本紀、神亀元年(724)2月《廿二》には「天皇臨軒。(略)外從八位上大伴直宮足等。獻私穀於陸奧國鎭所。並授外從五位下。」と記され、外従八位上だった大伴直宮足が、陸奥国鎮所(多賀城)に「私穀」を献上した功績で外従五位下に昇進したことがわかる。
 この他にも、続日本紀に登場する名の木簡が2例見つかっている。
 ひとつは、天武天皇の皇子で、日本書紀編纂に携わったとされる舎人親王(676~735)で、勤務評定とみられる木簡に書かれていた。本人ではなく従者の勤務評定の可能性が高いという。舎人親王の名の上に「一品」という位を表す文字があり、続日本紀養老二年(718)正月《丙申朔五》には「詔授二品舍人親王一品」と記され、718年に一品(ほん)になっているため、同年以降735年に亡くなるまでに書かれた木簡とみられる。
 もうひとつは、安倍他田朝臣麻呂(あべのおさだのあそんまろ)で、上記と同様に勤務評定とみられる木簡に書かれており、続日本紀養老元年(717)八月《戊辰朔三》には「正三位安倍朝臣宿奈麻呂言。正七位上他田臣萬呂。本系同族。實非異姓。追尋親道。理須改正。請賜安倍他田朝臣姓許之。」と記され、717年に「安倍他田朝臣」の姓を与えられたとされているため、それ以降に書かれた木簡とみられる。
[参考:奈良新聞、毎日新聞、NHK大阪、読売新聞、朝日新聞]
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北九州市・城野(じょうの)遺跡 弥生時代の石棺に人物像

2010年07月22日 | Weblog
 城野遺跡(同市小倉南区)では昨年、同市芸術文化振興財団埋蔵文化財調査室が発掘調査を行い、弥生時代終末期(3世紀前半ごろ)の方形周溝墓から子供用の石棺が見つかった。
 その後、石棺の調査を進めたところ、石棺の内側には赤い顔料が塗られ、頭側の板に、大きさ約20cmの人物の上半身が薄く彫り込まれていた。右手に武器(戈?)、左手に盾のようなものを持っている。胴体には格子模様、顔には複数の目のような表現があるという。
 古代中国の呪術師「方相氏(ほうそうし)」ではないかとの指摘も出ている。
 近く、石棺の一部を現場から屋内に移し、調査を続ける予定という。
[参考:朝日新聞]

過去のニュース・情報
 2009.11.17城野遺跡 九州最大級の「方形周溝墓」が発掘
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