歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

長谷川等伯作「枯木猿猴図」の所有者の変遷と消失

2010年02月28日 | Weblog
 長谷川等伯の作品の中でも、この「枯木猿猴図屏風」が大好きだという人が多いようである。京都・臨済宗龍寶山大徳寺蔵の牧谿作「観音猿鶴図」の構図がもとになったことが明らかだというが、手足の長さ・太さはボストン美術館蔵の伝雪舟等楊作「猿猴・鷹図」をも参考にしているに違いないとまで思ってしまう。
 現在、東京国立博物館で開催されている『長谷川等伯』展で買い求めた図録に、「枯木猿猴図屏風」の説明が記されている。等伯60歳近い(1598年)頃の作品とみられている。もとは6曲1双であったらしい。 現在残っているのは、右隻の右側四扇分とみられるという。作品の表具背面に、妙心寺雑華院(ざっけいん)第十一世の暘山楚軾(ようざんそしょく)による墨書銘があり、
 もとは前田利長(1562-1614)遺愛の屏風だったが、没後に江戸の蔭涼山済松寺(いんりょうざんさいしょうじ)祖心尼(そしんに)公に寄進され、うち一隻は妙心寺雑華院に移された。もう一隻は済松寺にとどめられたが、その後焼失。雑華院に移された方は、暘山楚軾により天保6年(1835)に掛幅に改装されたという。
という内容である。
 この中で、特に注目するのは利長の没後に江戸の済松寺に寄進したということ。また、臨済宗妙心寺派の蔭凉山濟松寺の開基が祖心尼であることである。済松寺は江戸名所図会にも現れる大きな寺院である。
 ところで、利長はどこに所蔵していたか。作品が完成した時期と利長が亡くなるまでの居城場所を追うと、以下のようになる。
 1597 富山城に移り大修復をする。
 1598 利家から家督を譲り受け金沢城に移る。(翌年金沢城を修復する。)
 1605 利常に家督を譲り、富山城に隠居する。
 1609 富山城が焼失したため、一時的に魚津城に移り、高山右近に命じて高岡城を築き移る。
 1614 5月20日に高岡城で病死。
 1615 高岡城は廃城となる。
 となると、1598年に金沢城に移ったあたりに、作品を入手して飾ったのであろうか。そして、富山城、高岡城と作品も転々とし、利長が亡くなり、高岡城が廃城となったときに、養女であった祖心尼に形見分けとして授けたものなのか。
 ところが、「利長の没後に江戸の済松寺に寄進した」ことについては、済松寺の完成が1654年ということ(後述)を考えると、その間の40年のことが問題になる。表具背面の墨書銘をそのまま受け入れて解釈をすると、作品は約40年もの間、金沢城あるいは小松城など前田家の関係建物にあり、済松寺建立後に寄進したことになる。
 この後のことは、蔭凉山濟松寺発行(平成18年)の「資料 祖心尼」(前田恒治氏による論文『祖心尼公』(昭和12年)に加筆、修正を加えたもの)を主に参照してまとめることにする。

 祖心尼の父は、織田信長の死後、豊臣秀吉に仕えた牧村兵部大輔利貞である。利貞は天正18年、伊勢国岩手城主(度会郡)に封ぜられ、2万石を食んだ。稲葉一鉄の孫に当たり、利休七哲の一人としても名高い。簡単な略歴は、
 1546 稲葉一鉄(良通)の子で稲葉重通の子として生まれる。外祖父牧村牛之助政倫の跡を継ぐ。
 1584 高山右近の勧めを受けてキリシタンとなる。
 1587 10月1日に開かれた豊臣秀吉が催した北野大茶会では、牧村利貞と前田利家が同席している。
 1590 秀吉より伊勢国岩手城主(度会郡)2万650石に封ぜられる。
 1583 実弟の妙心寺第79世一宙東黙(1552-1621)を開山として、臨済宗妙心寺雑華院(京都)を創建する。
 1592 文禄の役で朝鮮に出征する。前田利家に祖心尼の養育を依頼する。
 1593 朝鮮において病死。妙心寺雑華院に墓がある。

 ここでは、前田家、雑華院、祖心尼との関係に注力したい。
 なお、雑華院は臨済宗妙心寺の塔頭であり、祖心尼の父・牧村利貞(文禄2(1593)年7月10日死去)と母(慶長7(1602)年9月8日死去)の墓、他に利貞の弟・道通(1570-1608)と子の紀通(1603-1648)の墓もある。
 次に、祖心尼(1588-1675)についてである。牧村利貞の娘で、江戸時代の幕府3代将軍・徳川家光に仕えた。名はおなあ。幼い時(6才)から前田家に養われ、成長の後、利長の養女となり、小松城代・前田長種の長子・直知(1586-1630)に嫁つぐ。2人の男子を産んだようである。直知は病で45歳に亡くなる。これより先に直知とは離縁し京都に住んだ。おそらく、雑華院に身を寄せたと思われる。京都にいる間に元・蒲生氏郷に仕えた町野幸和(1574-1647)に再嫁した。そして、1627年頃江戸に移る。同時期に江戸城大奥で権勢を振るった春日局の義理の姪にあたり、局に請われてその補佐役を務めた。
 祖心尼の娘・たあの娘・振の局(自証院(注1)、祖心尼の養女となる)は家光との間に千代姫を生む。牛込榎木町の大友義延(1577-1612)、大橋龍慶(1582-1645)と続いた旧跡を家光から賜り、龍慶が亡くなった翌年(1646)に蔭涼山済松寺の建立を始めたようだ。
祖心尼を中心に関連の略歴をまとめてみる。
 1588 牧村利貞の娘として生まれる。
 1590 牧村利貞、秀吉より岩手城主(度会郡)2万650石に封ぜられる。
 1592 牧村利貞、文禄の役に出征。前田利家に祖心尼の養育を依頼する。
 1593 牧村利貞、朝鮮において病死。妙心寺雑華院に葬られる。
 1593 祖心尼6才の時、前田利家に預けられ養育される。
  ? 前田利長(1562-1614)の養女となり、小松城代・前田長種の長子・直知(1586-1630)に嫁する。
 1598 この頃、「枯木猿猴図屏風」が描かれる。
 1605 祖心尼と前田直知との間に直正(1605-1631)が生まれる。
  ? 祖心尼と前田直知との間に直成(?-?)が生まれる。
  ? 祖心尼、直知と離縁。京都、おそらく妙心寺雑華院に身を寄せる。
 1608 祖心尼、町村幸和に嫁ぐ。
 1614 養父・前田利長、高岡城にて死去。(このとき、枯木猿猴図屏風は高岡城内か?翌年に高岡城は廃城となる。)
 1627 町村幸和、江戸に至る。(この時祖心尼も同行か)
 1637 祖心尼の娘・たあの娘・振の局(自証院、祖心尼の養女とする)は家光との間に千代姫を生む。
 1639 千代姫、尾張義直の長子光友との間に婚儀が調い、尾張邸へ入輿する。
 1640 振の局(自証院、注1)死去。現在、江戸東京たてもの園内に「旧自証院霊屋」が移築保存されている。
 1642 祖心尼、初めて家光に召し出される。
 1643 春日局死去
 1646 大友義延、大橋龍慶の旧跡を家光から賜り、蔭涼山済松寺の建立を始める。
 1647 町村幸和死去
 1651 家光死去。済松寺内に堂宇が建立される。
 1652 済松寺内に家光の新廟が造営される。
 1654 済松寺の建築が成就する。
 1655 山鹿素行の「年譜」に祖心尼が江戸を出発して京都に遊ぶことが記されている。(作者はおそらく雑華院に滞在したと推測)
 1663済松寺はこれまで尼寺であったが、京都妙心寺雑華院第3代住職水南和尚を迎え開山として、これより以降男子の僧が継承することになった。
 1675 延宝3年、祖心尼死去
 1725 済松寺、火災にあう。
 1763 済松寺、火災にあう。
 1885雑華院に移された「枯木猿猴図屏風」右1隻は、暘山楚軾により天保6年(1835)に掛幅に改装された。
  ? 現在、この「枯木猿猴図屏風」は同じ妙心寺の別の塔頭・龍泉庵に飾られる。

 済松寺は享保十年(1725)と宝暦十三年(1763)の2度の大きな火災にあっている。どちらかの火災で、「枯木猿猴図屏風」左1隻は焼失したのかもしれない。

[参考]
 「資料 祖心尼」(前田恒治氏による論文『祖心尼公』(昭和12年)に加筆、修正を加えたもの)/蔭凉山濟松寺発行(平成18年)
 没後四00年「長谷川等伯」図録 2010年2月23日発行/毎日新聞社、NHK、NHKプロモーション
 江戸名所図会
  2010.2.26 没後400年 特別展 「長谷川等伯」

(注1)自証院(1619?-1640)
 徳川家光の側室、千代姫(尾張藩主徳川光友正室)の生母。振の局。22歳で亡くなった。天台宗鎮護山自證院圓融寺(市谷富久町)に葬った。この寺はもともと牛込榎木町にあったものを、振り局を葬るために新廟を作り移した。その後、明治40年尾張徳川家において、名古屋に改葬された。現在、先の霊廟数奇な運命を経て江戸東京たてもの園内(小金井市)に移築保存されている。
 また、小泉八雲が明治29年に東京大学で教鞭をとるため、西大久保に移るまで5年余り、 当圓融寺の門前に邸を持ち住んでいた。明治37年、八雲の葬儀が当院において営まれ、遺骨は雑司ケ谷墓地に葬られている。
[参考:同上および「文学アルバム 小泉八雲」小泉時、凡(恒文社、2000年4月発行)]
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岸和田市・衣ヶ谷古墳 石室の一部を移築し復元、3/7に現地説明会

2010年02月27日 | Weblog
 平成20年5月、岸和田市三ヶ山町の道路工事現場で、7世紀初めに築かれた古墳の横穴式石室が偶然見つかり、「衣ヶ谷古墳(ころもがたにこふん)」と命名された。
 その後の府教委の発掘調査で、古墳は丘陵の斜面を造成して築かれた1辺約10mの小さな方墳と判明した。石室は全長約6m、奥壁近くの床幅1・1m、高さ1・2mで、天井石6枚が残っていた。石室には近くで採れる花崗岩が主に使われていた。また、須恵器や金銅製耳飾り(金環)、木棺に使われた釘など副葬品約20点も出土した。
 この時期の古墳が泉州地域で確認されるのは珍しく、石室の状態もよいことから、その一部が南東約2kmの府営蜻蛉(とんぼ)池公園に移築、復元された。
 現地説明会が3月7日(午後1~3時に、移築先の府営蜻蛉池公園内の長池の横で開かれる。
[参考:読売新聞、岸和田市HP、大阪府HP→教育委員会文化財保護課]


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向日市・元稲荷古墳 葺石の構築方法に違い、複数の集団が関与か

2010年02月27日 | Weblog
 向日市埋蔵文化財センターは26日、3世紀後半の前方後方墳(全長約92m、後方部は3段構造で約50m四方)の元稲荷古墳(同市向日町北山)の発掘調査で、後方部隅角の葺石の構築状況を確認したと発表した。二辺の構築方法の違いなどから、複数の施工集団が関与したことがはっきり分かる珍しい事例という。また、後方部の隅角の検出は国内最古の出土例になるという。
 元稲荷古墳の後方部の調査を2006年度から実施し、09年度は先月から南西隅角を調べてきた。
その結果、第2段斜面の上がり口で直径15~25cm程度の葺石が、南北方向と、東西方向に並べられ、直角を形作る辺になっていたことが確認された。西側と南側では葺石の構築方法が異なっていた。西側には川原石が基底石として縦向きに配置されていたが、一方、南側の基底石は横向きに置かれていた。また昨年度の調査では、北側第1段斜面に基底石はなく、ほぼ同じ大きさの石が積み上げられていた。4世紀代になると葺石の施工法は確立し、どの面も同じような状況になるという。
 国内で前方後円墳は約5000基が確認されているのに対し、前方後方墳は約500基。うち3世紀後半のものは約10基だけ。
 現地説明会は28日午後1時から開かれる。
[参考:京都新聞、読売新聞]


過去の関連ニュース・情報
 2009.2.19 元稲荷古墳 後方部でも敷石が見つかり墳丘表面全体を石で覆う
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橿原市・観音寺本馬遺跡 縄文人がクリ林を植林

2010年02月27日 | Weblog
 市教育委員会が26日、観音寺本馬遺跡で、縄文時代晩期中ごろ(約2800年前)のクリの木の根株が25株まとまって確認されたと発表した。約80m四方の範囲に集中しており、狩猟採集で生活していたとされる縄文人が、食料確保のために植林していたことを示す重要な発見になるという。切り株は大半が直径50cm前後で、樹高は20~30mだったとみられる。クリは腐りにくく丈夫なため、食用のほか建築部材としても多く利用された。
 市教委が、この遺跡から出土した根株68株を顕微鏡で分析した結果、20種の樹木が確認され、約半数が食用可能な種だった。クリは最多の25株を占め、水路に囲まれた80m四方のエリアに集中していた。クリ林の周辺には、オニグルミやムクノキの切り株も確認された。
 クリ林は集落の住居跡から約300mと近く、クリだけの林が自然に存在するとは考えにくいことから、クリを中心に利用価値の高い植物を局地的に栽培していたのではないかと推測している。
 縄文時代の人工林の存在は、三内丸山遺跡(青森県)の花粉のDNA分析などで指摘されているが、実物の根株の分布によって明らかにされるのは極めて異例という。
 現場は既に埋め戻されており、発掘成果は27日からから5月9日まで、橿原市千塚資料館で紹介される。
[参考:共同通信、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.10.2 御所市玉手地区 県内最古級の水田跡
 2009.7.31 橿原市・観音寺本馬遺跡 縄文時代の土壙墓の四隅に杭
 2009.3.17 橿原市・観音寺地区遺跡 土器棺墓から縄文時代の4歳前後の幼児の骨発見
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没後400年 特別展 「長谷川等伯」

2010年02月26日 | Weblog
 昨日、幸運なことに、あるメディアによる招待状が抽選で当り、午後6~8時にかけて東京国立博物館平成館で「長谷川等伯」展を観て来ました。比較的ゆっくりと落ち着いて観ることが出来ました。
 昨年5月に、等伯作と認定された金碧(きんぺき)画の「花鳥図屏風」も出展されていました。等伯と名乗る以前に本名信春で活躍していた40歳前後の作品という資料的にも価値もある作品です。また、描表装を含めると高さ10mにも及ぶ「仏涅槃図」(京都・本法寺)は展示室にも垂直に飾り切れないくらい、観る者を圧倒するものでした。見所満載といった感じです。また、厚さ30mmにもなる図録は見事で、今回展示されなかった、大絵馬「弁慶昌俊(しょうしゅん)相騎図(そうきず)絵馬」(京都・北野天満宮)も載っていてうれしい限りです。 
 ところで、等伯(1539-1610)は能登七尾(現在の石川県七尾市)の能登畠山氏の家臣奥村文丞宗道の子として生まれ、長谷川宗清(1508-1571)の元へ養子に迎えられたといいます。奥村宗道は等伯が生まれた当時、能登畠山氏第7代当主・義総(1491-1545)に仕えていました。

過去の関連ニュース・情報
2010.2.25奥村家菩提寺・本延寺(七尾市)で等伯の四百一回忌法要
 七尾出身の画聖長谷川等伯の命日にあたる24日、四百一回忌法要が、生家奥村家の菩提寺である七尾市小島町の日蓮宗本延寺で営まれた。[参考:富山新聞]
 2009.12.17 五反田散策・美術館めぐり 畠山記念館ほか
 2009.5.26 長谷川等伯作と判明 個人蔵の花鳥図屏風
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熊本市・二本木遺跡群 12世紀前半に副葬した初期高麗青磁碗が県内初出土

2010年02月26日 | Weblog
 県教委は24日、熊本市春日3丁目の「二本木遺跡群」(8~14世紀)で見つかった平安時代後期(12世紀前半)の土壙墓の中から、朝鮮半島で作られたとみられる初期高麗青磁碗(直径約15・5cm、高さ約5・7cm)が副葬品として出土したと発表した。初期高麗青磁が副葬品として完全な形で見つかったのは、県内で初めてという。同青磁が墓から出土したのは、九州では福岡県の博多遺跡群の1例のみ。青磁は祭事で供物をささげるために使う供献土器と見られる。貿易陶磁器を墓に供献する風習が広がるのは12世紀後半からで、この風習を半世紀ほど早く採用していた可能性が高いという。
 発掘調査は、九州新幹線の全線開通に備えた熊本駅周辺の整備事業に伴い実施され、墓は昨年12月に見つかった。男性とみられる人骨の一部があり、頭部の近くに初期高麗青磁碗や土師器の皿など4点の副葬品が置かれていた。
 初期高麗青磁は当時、入手困難でかなり高価であったとされる。このため、二本木遺跡群に青磁を所有できる富裕者がいたことを裏付ける証拠となるほか、博多や大宰府など当時の先進地域と同遺跡の係わりが深く、中九州では最も繁栄した都市だったことも示しているという。
 27日(土)午前10時、午後1時、午後3時の3回。現地説明会が開かれる。
[参考:熊本日日新聞、西日本新聞、共同通信]

二本木遺跡群 「平安後期・中九州で最も繁栄の証し」 初期高麗青磁の椀出土(西日本新聞) - goo ニュース

過去のニュース、情報
2007.12.20 二本木遺跡群 南宋時代の磁器大量出土
 熊本市教委文化財課は19日、肥後国府があったとされる同市春日の二本木遺跡群から、南宋時代(十二世紀半ば~後半)の中国産磁器が完全な形で43点(注1) 出土したと発表した。この時期の中国産磁器がまとまって見つかるのは珍しく県内では例がないという。
 (注1) 青磁の碗9点と皿23点、白磁の皿11点で、直径は碗が13~15・5cm、皿9・5cm。青磁は文様や形状から、中国南部の龍泉窯(りゅうせんよう)や同安窯(どうあんよう)で焼かれた磁器とみられる。
 井戸を廃棄する際の祭祀に使った後で埋められたらしい。
 中国産磁器が見つかったのは、JR熊本駅と春日小学校に挟まれた調査区域。平安時代末から鎌倉時代にかけての集落跡とみられ、近くでは八世紀に中国で作られた唐三彩の陶枕(とうちん)の破片が県内で初めて出土している。
[参考:熊本日日新聞、西日本新聞、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞]
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別府市・鷹塚古墳 古墳時代後期末の方墳と断定、同時期県内初

2010年02月26日 | Weblog
 別府大学文化財研究所の発掘調査で、鷹塚(たかのつか)古墳(同市春木5-2)が、古墳時代後期末(6世紀後半)のものとしては県内初の方墳であることが分かった。県内の方墳は、次の飛鳥時代の古宮古墳(南北12.5m、東西12m、大分市)しか確認されていなかった。
 鷹塚古墳の大きさは、調査中の周溝部分から想定すると、一辺が30mを超えるとみられ、九州最大の方墳とされる甲塚古墳(東西約46.5m、南北36.4m)、橘塚古墳(一辺約40m)(ともに古墳時代後期末、福岡県)に匹敵し、九州でも有数の大型方墳となるという。
 6世紀末に造られたとみられる鷹塚古墳は、近くにある太郎塚・次郎塚両古墳とともに、実相寺古墳群の一つ。規模の確認を目的に、2008年度から調査を実施。当初は円墳と考えられていたが、古墳の形の基礎となる列石が円形ではなく直線だったため方墳の可能性が現れた。24日の調査で北西側の角を発見し、さらにそこから北と西にほぼ直角に伸びる二つの列石を確認でき、方墳と断定した。
 大和で当時流行した家型石棺も近隣で出土したと江戸時代の記録にあり、大和政権とのつながりを想起させるという。
 現地説明会が、27日(土)午前10時から開かれる。
[参考:大分合同新聞]




キーワード: 鷹塚古墳
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筑紫野市・峠山遺跡 官道「豊後道」の一部が見つかる

2010年02月26日 | Weblog
 筑紫野市教委は25日、同市針摺東5の峠山遺跡(とうげやまいせき)で、奈良時代に大宰府政庁と大分の豊後国府を結んでいた官道「豊後道」の一部とみられる遺構が見つかったと発表した。一帯の豊後道は南路と北路が並行して走っていたことがわかっているが、新たに見つかった官道は、これまでの研究で想定していなかった場所にある。南路と北路を斜めにつなぐ形になっており、バイパスの役目を担っていた可能性もあるとしている。
 同遺跡は大宰府政庁の南東約4・3kmに位置している。
 新たに見つかった遺構は延長約16m。幅9mと大規模なもので、両脇に幅1.5~2m、深さ0.8mの側溝を備えていた。人や馬などが通った跡とみられる凹凸もある。出土した土器などから8世紀後半から11世紀(平安時代末)に使われていたとみられる。
 同遺構の東側には古代の官衙跡が出土した岡田地区遺跡などもあり、この付近が交通の要衝であったことがうかがえるとする。
 大宰府政庁からは京へつながる大宰府道、豊後国府(大分市)を結ぶ豊後道など放射線状に6本が出ていたとされる。
 現地説明会が27日午前10時と午後1時から開かれる。
[参考:読売新聞、毎日新聞、朝日新聞]

過去のニュース・情報
 2008.8.7 大宰府から3km南の地点 立明寺地区遺跡 古代官道を発掘



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長岡京市・恵解山古墳 造り出し遺構を古墳東側にも確認

2010年02月25日 | Weblog
 長岡京市埋蔵文化財センターは25日、同市勝竜寺の国指定史跡・恵解山(いげのやま)古墳(古墳中期)を発掘調査している祭祀の場となる「造り出し」の遺構を古墳東側にも確認し、造り出しが東西非対称であることが分かったと発表した。
 非対称の造り出しは全国的に例が少なく、古墳全体の規模や構造が分かり、復元に向けて大きな成果としている。
 恵解山古墳は全長128mの前方後円墳。東側の造り出しは、前方部から後円部へのくびれ部付近で、古墳本体から17・5m張り出し、幅15m以上にわたり、方形舞台を形成。西側で5年前に確認した造り出しと比べ、規模が大きく、位置も微妙に異なる非対称の形状だった。
 また、東側くびれ部分では、第一段のテラス部に約5mにわたって並んだ、直径20cm前後の円筒埴輪列が大小23個分出土した。後円部からは家や鎧をかたどった埴輪の破片も見つかっている。
 市埋文センターなどによると、仁徳陵など有名な前方後円墳の造り出しは多くが左右対称だが、測量などでの確認が中心で実際に発掘するケースが少ない上、非対称が判明している例も兵庫県の池田古墳など数少ないという。
 現地説明会は28日午前10時から開かれる。
[参考:京都新聞、毎日新聞]

過去のニュース・情報
 2009.3.12恵解山古墳 東側造り出しを確認


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木津川市・鹿背山城跡 「薬医門」跡が見つかる、興福寺時代から存在か

2010年02月25日 | Weblog
 同市教委は24日、戦国武将・松永久秀(1510~77)が16世紀後半に山城とした鹿背山(かせやま)城跡(同市鹿背山)の発掘調査で、「枡形虎口」と考えられていた通路奥から、寺院山門などに見られる「薬医門」跡が見つかったと発表した。
 鹿背山城は南山城地域最大の山城で、木津川に面した標高約136mの山頂に築かれ、3つの主郭を持つ。「多聞院日記」などの文献で、15世紀後半に興福寺(奈良市)の出城であったことも知られ、16世紀後期に大和を支配した戦国武将、松永久秀が再整備した。
 調査は三つある主郭のうち、北の主郭と西側の竪・横堀群で実施した。北の主郭への通路は、これまで「枡形虎口」と考えられてきたが、今回の調査で通路が途中から広がることなどが分かり、奥から礎石(長辺約50cm、短辺約40cm)1個と2カ所の据え付け跡が見つかった。この門(柱間南北約2.1m、東西約1.5m)は、城の性格や据え付け痕跡、周辺土塁の位置関係から四脚門、唐門ではなく、寺門にも多い薬医門だと推定した。薬医門は山城には珍しく、周囲に遮蔽物も見られないことなどから、興福寺時代から存在し、松永久秀は大規模な整備を行う一方、主郭部分は興福寺時代の格式を重んじ継承したと考えられるとしている。
 また、松永久秀時代に整備された虎口脇の土塁から、瓦2点や土器が出土し、特徴が15世紀のものと一致したことから、土塁を構築する以前、持仏堂のような瓦葺きの建物があり、『儀礼の場』になっていたのではと推測する。
 現地説明会は27日の午前11時と午後1時に開かれる。
[参考:京都新聞、奈良新聞]

過去のニュース・情報
 木津川市・鹿背山城跡 多聞櫓の遺構
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松江市・西川津遺跡 J字形をした1800年前のガラス製勾玉が初出土

2010年02月24日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センターが24日、松江市の西川津遺跡で「J」字形をした約1800年前(弥生時代後期)のガラス製勾玉と国内最古となる約2300年前(弥生時代前期)の木製壺形容器が見つかったと発表した。
 J字形の勾玉は、石製のものは熊本、鹿児島両県の縄文時代の遺跡で出土例があるが、ガラス製は初めて。弥生時代のガラス製勾玉としても、島根県内で西谷3号墓(出雲市)、山持遺跡(同)に次ぎ3例目だが、J字形の発見は全国で初めて。
勾玉は縦1.7cm、横1.1cm、厚さ0.4cm、重さ0.9gで鮮やかな青色。集落を囲む環濠とみられる溝(幅約2.5m)から出土した。勾玉の上部には、ひもなどを通す小穴があった。
 Jの字形は朝鮮半島などでは見られず、日本独特のもの。中国大陸から伝わったガラスを再加工したとみられ、勾玉の起源や変遷を知る上で貴重な史料となる。
 また、近くの溝から見つかった約2300年前のものとみられる木製壺形容器は高さ約17cm、幅約19cm。近くに生えていたケヤキや、ヤマグワなど堅い木を使った可能性が高い。石器のような工具で木をくりぬいた跡があり、取っ手が付くのが特徴。文様などはなく、内側が半分程度くりぬかれ、底は楕円形で樹皮が残ることから、木の瘤(こぶ)から幹の丸い部分を生かそうとした製作途中の未完成品とみられる。木の特性を生かし、湿度を一定に保つために、貯蔵用として活用したとみられる。
 当時は工具が石のため、木製容器は作り難かった。同遺跡の技術レベルは高く、山陰ではずばぬけて大きな集落だったとみられる。
 他に、土器や石器などの破片計約1万点も見つかった。
 今回発見されたJ字形勾玉などの出土品は、28日午前10時~午後2時、松江市西川津町の川津公民館で公開される。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞、山陰中央新報、中国新聞]

全国初、弥生期の容器と勾玉(中国新聞) - goo ニュース




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坂戸市・大河原遺跡 1号墳より舟形木棺の跡?を確認

2010年02月23日 | Weblog
 坂戸市教育委員会は大河原遺跡(同市北峰)の発掘調査で、古墳時代後期(6世紀前半)に築造されたとみられる直径20mの円墳(1号墳)から、舟の形をした棺「舟形木棺」ではないかとみられる跡を確認したと発表した。
 発掘調査は試掘段階で確認されていた古墳5基、住居跡5軒などを対象に、昨年12月2日から今年1月28日まで、約2600㎡の範囲で実施された。
 その結果、1号墳から、長さ3・1m、幅1・65mの長方形をした墓坑の中央に、舟形木棺を埋葬したと見られる長さ2・5m、幅0・5m、深さ30cmで、舳の部分が尖がった舟形のような跡が粘土状の土に残っていた。棺自体は木製?のためか腐食により認められず、副葬品も出土しなかったという。現在は、すでに埋め戻されている。
[参考:2/23朝日新聞、2/24東京新聞]
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八幡市・石清水八幡宮境内遺跡 国史跡を目指し調査を開始

2010年02月23日 | Weblog
 
 八幡市は22日に開かれた石清水八幡宮境内遺跡調査専門委で、本年度初めて実施した同境内の測量調査で、江戸時代中期の絵図に描かれた坊などの跡地が良好な状態で残っていることが分かったと報告された。絵図にない遺構も見つかり、同八幡宮のかつての隆盛の跡がうかがえるという。
 江戸時代中期の絵図「八幡山上山下惣絵図」には、同八幡宮のある男山一帯に約40カ所の坊や堂舎が描かれているが、明治初期の廃仏棄釈でほとんど取り壊された。市は測量調査を境内9・4haで実施、遺構の分布状況を調べた。
 その結果、斜面を崩して造成した各坊の敷地跡がそれぞれ確認できた。特に東側は保存状態が良く、現在使われていない古道3カ所や井戸跡が見つかった。南側では、絵図にない室町時代と思われる坊跡を2カ所確認した。中世には建物群がより広範囲に点在していたとみられる。西側は地表から遺構は見つからなかった。
 同専門委は境内の遺跡を調査し、2012年の国史跡指定を目指している。
[参考:京都新聞]

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 石清水八幡宮
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天理市佐保庄町・ノムギ古墳 発掘調査を開始

2010年02月23日 | Weblog
 天理市教育委員会は、初期ヤマト王権の中心とされる大和(おおやまと)古墳群にある同市佐保庄町のノムギ古墳(全長63m、古墳時代前期)の発掘調査を開始した。
 築造時期が3世紀後半までさかのぼる可能性もある最古級の前方後方墳で、纒向遺跡(桜井市)が最有力候補地とされる女王・卑弥呼の邪馬台国とも時代が近く、実態解明が期待される。
 平成8年に古墳の北側で実施された発掘調査で、ほぼ直角に曲がる周濠コーナーが検出され前方後方墳である可能性が高まった。さらに平成15年の調査で、後方部に平行して掘られた周濠が確認され前方後方墳であることが確定された。
 また、平成8年の調査では円筒埴輪や鰭付円筒埴輪がまとまって出土したことから、古墳時代前期後半の築造とみられたが、平成15年の調査で周濠の埋土から出土した土器は概ね布留0式のものに限定されるため古墳の築造時期は古墳時代前期前半に遡ったが確定はされていない。
 ノムギ古墳は県道建設などに伴って県立橿原考古学研究所が数回調査を実施している。
 今回の調査は古墳の範囲確認を目的に実施。墳丘の後方部南側で周濠の残存状況などを調査する。事前に行った土中のレーダー探査では周濠の縁らしきものが確認されたという。調査は3月26日まで実施予定。
[参考:2/21奈良新聞、「ノムギ古墳 現地説明会資料」奈良県立橿原考古学研究所(2003)]
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浜松市・楠木遺跡 市内で2番目の廃寺跡 多量の瓦片が出土

2010年02月21日 | Weblog
 浜松市北区三ケ日町の楠木(くすき)遺跡から、古代寺院に使われていたとみられる瓦片が、これまで400kg以上にも達していることがわかった。瓦の文様などから、約1300年前の白鳳期から奈良時代にかけての寺院に使われた瓦の模様という。出土した瓦片の量の多さから、廃寺がかなりの規模だったことを裏付けるとみている。
 古代廃寺は県内で19カ所確認されているが、同市内では木船廃寺(東区和田町字木舟)に次いで2番目。
 同遺跡は国道301号沿いで「遠州織物発祥の地」ともいわれる初生衣(うぶぎぬ)神社(三ケ日町岡本)や浜名惣社神明宮(三ケ日町三ケ日大輪山)のそばに位置し、今はミカン畑。10年ほど前に瓦片の一部や土器片などが出土していた。
 瓦片は約150㎡の遺跡範囲から続々と出土。12~16弁の菊の模様が描かれた「細弁蓮華文軒丸瓦」「蓮状文軒平瓦」などが含まれている。
 市は4月にも楠木遺跡の速報展、現地説明会を開く予定。
[参考:中日新聞]



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