歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

浜松市・梶子遺跡 弥生時代後期の鹿の絵描いた土器が出土

2013年07月31日 | Weblog
 浜松市文化財課は29日、同市中区南伊場町にある弥生時代後期の集落跡「梶子(かじこ)遺跡」の環濠内から、大きな角と胴体の部分が線で刻まれた鹿の絵が描かれた壺とみられる土器片(縦約5・2cm、横約7・8cm)が出土したと発表した。 県内4例目の出土。
 [参考:静岡新聞]
 

キーワード:梶子遺跡、鹿の絵
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堺市・長山古墳 大阪湾側に4世紀後半築造の前方後円墳 葺石の石列が出土

2013年07月31日 | Weblog
 堺市文化財課が30日、百舌鳥古墳群(堺市)の西端にある長山古墳(同市堺区協和町ほか)で、古墳の斜面に敷き詰められた葺石や埴輪の破片などが見つかったと発表した。江戸時代中頃の享保9年(1724)の絵図によると、後円部はすでに破壊され、大正~昭和初めには前方部も含めて開発で失われたという幻の古墳で、全長100m前後(注1)の中規模の前方後円墳と推定。仁徳天皇陵(全長486m)を筆頭とする百舌鳥古墳群で最古級の4世紀後半の築造とみられ、古墳群の成立過程を考える上で貴重な資料になりそうという。
 前方部東側に相当する場所から、葺石が墳丘の裾に積み上げたとみられる石列となって、長さ16m、幅1・4m、高さ0.5mで直線上に並んで残っていた。被葬者の副葬品とみられる車輪石の腕輪(直径約20cm)の一部や、盾や、身分が高い人の傘の形をした埴輪片も多数出土した。見つかった埴輪の特徴などから4世紀後半の築造と判明した。
 百舌鳥古墳群は、堺市北部約4kmの範囲に4世紀後半~6世紀前半の40基以上の古墳が残っている。長山古墳は 古墳群の中では700m南の「乳岡古墳」と並んで築造時期が古く、2古墳とも西側の大阪湾に近い。 古墳は大阪湾側から順次築かれたとされ、最も海側にある長山古墳がいち早く築造された可能性が高まったとしている。
 現地説明会は8月3日午後1時~4時に開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞]

(注1)これまでの資料では全長110mと記されている。
(注2)蓋形埴輪のことか。
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熊本県氷川町 法道寺(跡)?の文字瓦が出土

2013年07月20日 | Weblog
 八代郡氷川町野津の法道寺地区で、7世紀後半の白鳳時代から8世紀初めの奈良時代初頭のものとみられる文字入りの瓦(縦14cm、幅9cm、重さ219g)が出土したことが分かった。 1957年に陳内廃寺遺跡(熊本市城南町)で見つかった文字瓦とほぼ同時期で県内最古のものとみられる。
 瓦は「道」の文字が彫られており、近くに奈良時代初めにあったとされる法道寺のものだった可能性が高いとしている。 以前は出土した布目瓦から平安時代後期と考えられていたが、奈良時代初めに寺院があったことがあらためて裏付けられた。
[参考:熊本日々新聞、熊本県HP]

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高島市・上御殿遺跡 8世紀末~9世紀前半の土師器の甕に人名「守君舩人」が7回墨書

2013年07月18日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会は17日、高島市安曇川町三尾里の上御殿(かみごてん)遺跡で、土器の周囲に同じ人名を7列記した特異な「墨書人名土器」(8世紀末~9世紀前半)が見つかったと発表した。
 土器は、口径約15cm、高さ約13cmの土師器の甕で、周囲に「守君舩人(もりのきみのふなひと)」という人名が縦書きで等間隔に7列、墨書されていた。底部に穴が開けられ、祭祀用だったとみられる。古代の川跡から見つかり、周辺からは厄除けなどに使われた8~11世紀の人形代(ひとかたしろ)51点や馬形代23点も見つかった。
 「守君」は日本書紀や古事記、新撰姓氏録に登場し、景行天皇の子孫(注1)とされ、美濃国(岐阜県)の豪族で、水の祭祀に関わった氏族「牟儀君(むげつのきみ、=牟宜都君身、毛津君)」と同族である。
 墨書人名土器など出土品は21日午前9時~午後5時に県立安土城考古博物館(近江八幡市)で公開される。午前10時と午後1時半には報告会がある。
[参考:共同通信、京都新聞、産経新聞、読売新聞]

(注1)
『日本書紀』巻七景行天皇四十年 秋七月癸未朔戊戌(十六日)。天皇詔群卿曰。今東國不安。暴神多起。亦蝦夷悉叛。屡略人民。遣誰人以平其亂。羣臣皆不知誰遣也。日本武尊奏言。臣則先勞西征。是役必大碓皇子之事矣。時大碓皇子愕然之。逃隱草中。則遣使者召來。爰天皇責曰。汝不欲矣豈強遣耶。何未對賊。以豫懼甚焉。因此遂封美濃。仍如封地。是身毛津君。守君凡二族之始祖也。

『古事記』 大帶日子淤斯呂和氣天皇(第十二代景行天皇)坐 纏向之日代宮 治天下也。
 此天皇 娶吉備臣等之祖 若建吉備津日子之女 名針間之伊那毘能大郎女 生御子 櫛角別王 次大碓命 次小碓命 (略) 
 大碓命者【守君 大田君 嶋田君之祖】。 (略)
 天皇聞看定三野(美濃)國造之祖 大根王之女 名兄比賣 弟比賣二孃子 其容姿麗美而 遣其御子大碓命以喚上 故其所遣大碓命勿召上而 即己自婚其孃子 更求他女人 詐名其孃女而貢上 於是天皇知其他女 恆令經長暇亦勿婚而惚也
 故其大碓命娶兄比賣 生子 押之兄日子王【此者三野宇泥須和氣之祖】亦娶弟比賣 生子 押弟日子王【此者牟宜都君等之祖】



キーワード:上御殿遺跡、墨書人名土器
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竹姫(浄岸院)と勧明山法養寺(妙教山法養寺)

2013年07月09日 | 竹姫(浄岸院)
 今年の5月18日から7月7日まで開催された江戸東京たてもの園(小金井市)での『大奥女中とゆかりの寺院』を見ました。
 300円にしては立派な図録を購入しましたが、その図録には載っていない8代将軍吉宗の息女・竹姫(浄岸院)の勧明山法養寺(現、妙教山法養寺)に関する『竹姫付老女奉文』(1733年2月)が展示されていました。その連名者の一人「つぼね」が祐天寺に埋葬されている本性院と思われ、それらを併せて紹介したいと思います。

参考出典
資料1. 『御府内備考(ごふないびこう)』(文政12年(1829))
資料2. 『大奥女中とゆかりの寺院』(平成25年(2013)5月江戸東京たてもの園)
資料3. 『日蓮宗ホームページ→日蓮宗東京都南部宗務所』
資料4. 『祐天寺ホームページ』

1.妙教山法養寺(旧、勧明山法養寺)
 資料1.および3.によると、天正六戊寅年(1578)、池上本門寺12世日惶上人の代に神田三河町に妙経院日等(慶長十八癸丑年五月十二日遷化)を開山として勧明山法養寺(池上本門寺末)を起立した。
 慶長年間に下谷稲荷町へ移転、江戸時代には江戸城西御丸と大奥の祈祷所となった。
 境内に熊谷稲荷大明神を祀り、江戸市中の信仰を集めた。
行事として、
 正、五、九月に御祈祷、甲子の日(1年に6回)に大黒天御祈祷(1733~開始)
 二月初午、九月廿二日稲荷大明神祭礼御祈祷(1735~開始)
 十月祖師日蓮大士会式法要(寛文年間以降に開始)
があったようだ。
 明治43年(1910)当地にあった妙教庵と合併、翌年池上へ移転、山号を妙教山に改めた。

2. 大奥との信仰的なつながり
 資料2.によると、法養寺と江戸大奥との信仰的なつながりは、法華信者であった4代将軍家綱(1641-1680)の御台所顕子(高厳院、1640-1676)からで、寛文(1661~1673)以降にあたるとしている。 法養寺の祖師像は江戸城本丸に安置されていたものを高巌院が家綱に懇願して寄進したと伝えられる。 資料1.に高巌院建立の「日蓮大士之像」があり、このことと思われる。
 ほかにも、寄進された像などが多数ある。

■熊谷稲荷大明神木像
 元禄15年(1702) 熊谷安左衛門/開眼 法養寺所蔵
 熊谷稲荷の本地仏である白狐に乗った熊谷大明神。厨子に「熊谷安左衛門 開眼之 法名一中日頼 元禄十五年壬午十一月吉日」と墨書がある。 元禄15年(1702)に彫刻された本像は、享保20年(1735)に法養寺に納められた。[資料2.より]

■大黒天木立像および鬼子母神木立像
享保18年(1733)5月 有徳院(吉宗)が納めた、とその由緒が「公用帳簿」に記されている。[資料2.より]

■釈迦涅槃図繍仏(1663)
 寛文三年(1663)天真院様御寄附被遊候。絹地惣縫地像ニ御座候。釈尊之羅髪は則 天真院様御前髪を以、被為縫候由申伝候。[資料1.より]
 紀伊徳川光貞室天真院が釈迦涅槃図繍仏を法養寺に寄進した。 天真院は伏見宮貞清親王女(安宮照子女王、照姫)(1625-1707)。 徳川光貞は吉宗の父。
 寛文3年(1663)縫物師戸塚七兵衛によって制作された。[資料3.より]

■葵御紋附之戸帳水引
 葵御紋附之戸帳水引之儀は、享保十八丑年二月竹姫君様御祈祷被仰付候節、御寄附被 遊候。[資料1.より]

3.竹姫(浄岸院)
 この「葵御紋附之戸帳水引」については、特別展『大奥女中とゆかりの寺院』(平成25年5月~7月、江戸東京たてもの園)で
『竹姫付老女奉文』なるものが展示されていた。 残念ながら資料2.の図録にはまったく触れられていなかったので、展示内容を書き留めておいた。(以下下記に記す。)

 「享保18年(1733)2月、竹姫が祈祷のため葵紋付戸張、水引を寄付することを竹姫付老女(とみ・岡田・藤元・つぼね)が連名で知らせている。将軍の息女は嫁しても将軍家族の立場を有する。 法養寺所蔵。


葵御紋
―御戸張―
葵御紋―
―御水引―
右従
竹姫君様為御祈祷此度御寄附被遊倀永々御祈祷行可被致候 
      以上
享保十八年丑ノ二月
とみ
岡田
藤元
つぼね
       法養寺


 竹姫と法養寺の関係がいつからはわからないが、『竹姫付老女奉文』(1733年2月)作成の時点では、大黒天も稲荷大明神も法養寺にはなかった。
 当時竹姫はご懐妊中で、この年享保18年(1733)5月1日、芝御守殿にて1女菊姫(眞含院 1733-1808)を生んでいる。 安産祈願と生まれてくる子供の武運長久を考えていたのかもしれない。
 同じ年の五月に、吉宗から大黒天木立像および鬼子母神木立像が納めら、2年後に熊谷稲荷大明神木像が納められている。

 奉文にある竹姫(1705-1772)付老女(とみ・岡田・藤元・つぼね)とは誰なのか調べてみた。
 「大名藩邸における御守殿の構造と機能:綱吉養女松姫を中心に」(氷室史子・お茶の水史学第49巻:2005.12) 77-117)(資料4.)に『鹿児島県史料旧記雑録追録三ノ二』より作成とある「竹姫君様附女中充行」(表)に、
 大上臈・とみ、大年寄・岡田がある。 年寄・藤えがあり、藤元としたのは藤えの見誤りのようである。つぼねは局・局としか書いていないが、資料4.に、
竹姫局の本性院、寂
 享保18年(1733)7月25日、竹姫の局であった本性院が逝去し、祐天寺に葬られました。法号は本性院殿覚誉法順大姉です。本性院は享保13年(1728)に逝去した松平兵庫の娘であることがわかっています。
■参考文献 『徳川諸家系譜』4、『本堂過去霊名簿』

 とあり、本性院のことと思われる。
 残念ながら、同年7月25日には竹姫の局であった本性院が死去した。
 本性院の墓は、祐天寺(目黒区)にある。 追葬合葬墓となっている。

                   見珠院殿性誉嘉延大姉    安永五丙申天(1777)七月三日 芝御守殿 芳川
祐天寺二世 香誉(花押)   本性院殿覚誉法順大姉     享保18癸丑天(1733)七月二十五日
                   栴林院殿本誉永昌大姉    寛政三辛亥天(1791)六月三日 松平兵庫 森衛 

香誉とは香誉祐海のこと。
祐天寺には、本性院の舎利を納めた坐像が残る。
                  以上
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奈良市・西大寺旧境内 奈良時代の絹に漆を塗った織物を確認

2013年07月06日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所と市教委の分析で、平城京にあった西大寺旧境内で2009年に出土した奈良時代の繊維製品の断片が、絹に漆を塗った特殊な平織りの織物だったことがわかった。
 仏への大切な供物を載せた敷物などが用途として考えられるという。
[参考:読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.7.3 奈良市・西大寺旧境内 8世紀後半のイスラム陶器の壺片が出土

正倉院にも残っていない8世紀の超高級織物とは(読売新聞) - goo ニュース
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京都府与謝野町・石田谷遺跡 3世紀の竪穴建物跡とヤリガンナが出土

2013年07月06日 | Weblog
京都府埋蔵文化財調査研究センターが5日、与謝野町弓木の石田谷(いしだだに)遺跡から、弥生時代後期~古墳時代初期(3世紀前半)の竪穴建物跡1基(6本柱の直径約8mの円形住居跡)と鉄製ヤリガンナ(長さ約8センチ、幅約1センチ)が見つかったと発表した。
一般人の住居跡とみられ、中国や朝鮮半島から丹後にもたらされていた鉄器が、一般にも普及していた様子がうかがえるとしている。
 現地説明会が6日(土)午後3時から開かれる。
[参考:読売新聞、京都新聞、京都府埋蔵文化財調査研究センター]



キーワード:石田谷遺跡、槍鉋、やりがんな、ヤリガンナ
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土岐市・妻木平遺跡 2種類の刻印がある8世紀の美濃国刻印須恵器が出土

2013年07月06日 | Weblog
 土岐市文化振興事業団は4日、「妻木平(つまぎたいら)遺跡」(同市妻木町)から、底部に2種類の「美濃国」の刻印がある奈良時代(8世紀)の須恵器の破片が見つかったと発表した。 「美濃国」の種類の違う“ダブル刻印”はこれまでに例がなく、貴重な発見という。
 美濃国の刻印がある須恵器は、岐阜市芥見の国史跡で奈良時代の窯跡「老洞(おいぼら)・朝倉須恵器窯跡」で多数出土しているが、東濃地域での出土は今回が初めてであり、同窯で生産された可能性があるとみられる。
 当時、県内で生産され、各地の官衙に流通していたとみられることから、「地方官庁の存在を裏付ける資料」とみている。
 見つかったのは、縦7・5cm、幅6・5cmの須恵器の無台の杯(つき)の底部。底の内部の左に縦5cm幅1・5cmの刻印があり、はっきりと「美濃国」と読める。右には刻印の一部が縦3・5cm、横2・2cm残っており、字体が違う「美濃」と判読できる。
 同事業団は、2010年から同遺跡で試掘調査を実施し、これまでに古代から近世と推定される自然流路、溝跡、竪穴式住居跡などが確認された。今年5月に本格的な第1次発掘調査に着手し、古代の須恵器や灰釉陶器、中世の山茶碗などの遺物が見つかった。
 6日(土)午後1時から発掘現場で現地説明会が開かれる。
[参考:岐阜新聞、中日新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
老洞・朝倉須恵器窯跡



キーワード:妻木平遺跡、老洞・朝倉須恵器窯跡、美濃須衛窯、
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明日香村・甘樫丘東麓遺跡 7世紀前半の炭化したコムギの種子

2013年07月04日 | Weblog
 奈良文化財研究所の調査で、明日香村川原の甘樫丘東麓遺跡で、7世紀前半の炭化したコムギの種子が見つかった。
 保管していた多量のコムギが何らかの理由で燃えたらしい。
 また、ソバ、イネ、ベニバナなどの栽培植物の花粉を検出した。
[参考:奈良新聞]

過去の関連ニュース・情報
甘樫丘東麓遺跡
ベニバナ
[ベニバナ出土一覧 (出土遺跡、時期、出土場所)]
 桜井市・纒向遺跡(3世紀前半) 溝に溜まった土
 斑鳩町・藤ノ木古墳(6世紀後半) 石棺内
 明日香村・酒船石遺跡(7世紀後半) 石組み溝の土
 明日香村・飛鳥寺南方遺跡(7世紀後半) 染色工房跡
 奈良市・正倉院宝物紅布衫(べにのぬののさん)(奈良時代)ベニバナで染めた国内最古の布製品
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慶州・金冠塚で出土した環頭大刀に「爾斯智王」銘文を確認

2013年07月03日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立中央博物館が3日、1921年に朝鮮総督府が発掘した新羅時代の積石木槨墳の慶州・金冠塚(금관총、5世紀中後半に築造)で出土した環頭大刀に「尒斯智王(爾斯智王=이사지왕)」という字が確認されたと発表した。
 環頭大刀を保存処理する過程で、鞘先金具(金銅)に銘文が刻まれていることを確認して、これを判読した結果「尒斯智王」という字を確認した。「尒」は「爾」の俗字で、爾斯智王となるが、三国史記と三国遺事に登場する新羅上古期王の中で誰に該当するかは明らかにすることができなかった。
 鞘先金具の裏面には「十」という数字あるいは記号が確認された。 さらに鞘口金具には「尒(爾)」という字が刻まれていた。
 また、国立慶州博物館が保管する金冠塚出土の他の環頭大刀でも「尒」、「八」、「十」という文字が確認されたと博物館は付け加えた。
[参考:聯合ニュース]

読み:爾斯智王=이사지왕=イサチ王
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