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羽咋市・寺家遺跡 気多大社の前身証拠 9世紀地層から墨書土器などが出土

2008年12月12日 | Weblog
 羽咋市教委が11日、寺家(じけ)遺跡(同市寺家町)の平安時代(9世紀)の地層から、掘っ立て柱建物の柱穴や墨で文字のようなものが書かれた土器などが見つかったことを明らかにした。
 今年見つかった柱穴は直径80cmで、計3カ所あった。建物は平安前期に建てられたと推測され、祭祀関係者の住居だった可能性があるという。土器の底には漢字の「三」のような3本の線が書かれていた。また祭具を焼く際の道具や、焼いた跡とみられる焼土が確認された。
 市教委はこれまでの調査で、遺跡が20万㎡の広大な敷地に広がっていたとみており、北東800mの気多大社の前身だった可能性が強く、今回の調査結果が裏付けになるとみている。
 寺家遺跡の調査は、能登有料道路の造成工事に伴い、78年から始めた。これまで宮司の社務所とみられる大型建物群や、銅鏡などの祭具が大量に見つかっている。今後は国史跡の指定を目指して、調査を続けるという。
 14日午前10時半から現地説明会が行われる。問合せは同市教委文化財室。
[参考:毎日新聞]

[主な発掘経緯]
 奈良時代に大規模な火祭りが行われていたことを示す焼土や、平安時代(9世紀)の地層から石を長方形(縦5m、横6m以上)に並べ、内側の地表を火で清め、武具や土器などを供えた祭りの遺構が発見された。[参考:2003.12.10読売新聞]

 平安時代の地層から、大型建物の柱穴直径1・1m1基が発見された。以前の調査で明らかになった大型建物群の一部の可能性が高いとみている。また、柱穴付近から大型建物を表す「館」と書かれた墨書土器が発見された。
 また、奈良時代の地層から、神社へ奉納するものなどを作っていた「神戸」と呼ばれる人の住居の柱穴6基以上も発見された。
 1978年には、役人の館や台所とみられる建物を含む、平安時代の大型建物群が発掘されている。[参考:2002.8.30読売新聞]

参考:
万葉集巻174025 
守大伴宿彌家持の春の出挙に諸郡を巡行し、時に当たりて属れる所の歌 (天平二十年(748))
気太の神宮に赴き参り、海辺を行きし時に作れる歌一首
 之乎路から直越え来れば羽咋の海朝凪ぎしたり船楫もがも
[意] 之乎路をまっすぐに越えてくると、羽咋の海は朝凪している。船と梶があったらなあ。
[参考:万葉集・中西進(講談社文庫)]

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