歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

多賀城市・山王遺跡 平安時代の漆器工房跡か

2009年05月31日 | Weblog
 市埋蔵文化財調査センターが28日、国府・多賀城跡南西約1・2kmにある集落跡とみられる山王遺跡から、平安時代の漆紙文書7点と漆が付着した土器が見つかり、遺跡一帯からは国府の館跡や区割りされた街並みを示す遺構が確認されていることなどから、出土した区画には漆器を作る工房があったと推測されると発表した。
 出土した漆紙文書と漆付着土器は北側の土壙から見つかった。土器は漆を塗る際にパレットとして使われたようで、この区画に漆器工房があった可能性が高いとみている。
 漆紙文書は、役所の公文書が漆おけのふた紙として再利用され、捨てられたのちに漆で保護されて地中に残ったもので、10世紀の前半から中ごろのものとみられる。国内では73年に多賀城跡で初めて発見された。山王遺跡でもこれまでに8点が確認されている。
 今回見つかった文書の一部からは「○部○主」「戸頭」の文字が確認でき、当時この地方にいた「丈部田主(はせつかべのたぬし)」という人物に関する文書と推測。戸頭はこの人物の素性を示し、戸籍の筆頭者にあたる「戸主」と同義と考えられている。
 調査個所からは奈良・平安時代の道路跡や建物跡、井戸跡なども見つかったほか、須恵器や砥石、円面硯(けん)などが出土し、当時の生活の跡がうかがえる。下の地層からは古墳時代の河川跡や、水田の畦とみられる土手状の高まりも確認された。
 山王遺跡は1979年に発掘を開始。これまでに国司の住居跡「国守館(くにのかみのち)」などが確認されている。
 30日午前10時半からは同市山王の山王地区公民館で一般向けの現地説明会がある。
[参考:2009.5.28朝日新聞、5.29河北新報]

漆紙文書に墨で「戸頭」 多賀城・山王遺跡から出土 (河北新報) - goo ニュース
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熊本県植木町・向原遺跡 9世紀後半の金銅製の錠前と鍵が一緒に出土

2009年05月30日 | Weblog
 町教委は29日、平安時代の集落遺跡「向原(むかえばる)遺跡」(同町今藤)から9世紀後半のものとみられる金銅製の錠前と鍵が出土したと発表した。
 同遺跡は両側が谷の台地上にあり、約2km南には古代の山本郡の郡衙の推定地がある。
 古代の鍵類の出土例は全国で約130あるが、ほとんどが鉄製。金銅製の鍵は、平城京、平安京、長岡京や、相模(神奈川県)、薩摩(鹿児島県)の国府の遺跡などで過去9例見つかっているが、ほぼ完全な形で鍵が一緒に出土するのは全国で初めてという。過去に彫金の跡が確認された錠前は長岡京の1例だけという。
 3月末に見つかり、九州国立博物館(太宰府市)でCT撮影をしたところ、錠前(長さ約12cm)2個、鍵(長さ約9cm)1本、蝶番の役目を果たす金具など12点が確認された。大きさや形状から箱に鍵をかけるためのものと推測される。
 錠前は一部が大きく湾曲したU字形の「海老(えび)錠」と呼ばれる種類。六角形の筒部には鮮やかな金の装飾が施され、魚卵のような粒状の文様「魚々子(ななこ)紋」も確認された。
 向原遺跡では、約600㎡の調査区で直径1mを超す大型のものを含む400近い柱の跡が見つかっており、中国産の黄釉褐彩(おうゆうかっさい)陶(注1)や青磁なども出土した。規模から寺社仏閣か行政府、軍部があった可能性があり、山本郡衙などの関連施設があった可能性も考えられるという。
 同遺跡の現地説明会は31日午後1時半から行われる。
[参考:毎日新聞、読売新聞、熊本日日新聞、共同通信]

(注1)黄釉褐彩陶
 黄釉褐彩陶の出土の記事を載せているのは、熊本日日新聞だけである。写真、図ほか詳細も全く記されていないのが残念であるが、9世紀のものであれば出土例は大宰府ほか数例しかなく、非常に貴重なものと思われる。
 唐代に開窯された中国湖南省長沙市望城県銅官鎮にある長沙窯で多くが作られている。

平安期の錠前と鍵出土 植木町の向原遺跡 31日現地で説明会(西日本新聞) - goo ニュース


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桜井市・箸墓古墳 土器に付着した炭化物の放射性炭素年代測定の結果、西暦240~260年

2009年05月29日 | Weblog
 国立歴史民俗博物館(佐倉市)の研究チームが29日、箸墓古墳(前方後円墳、全長280m)の周囲から出土した土器の放射性炭素年代測定の結果、西暦240~260年に築造されたとの研究成果をまとめたことがわかった。
 中国の歴史書「魏志倭人伝」によると、248年頃とされる卑弥呼の死去した年代と合致し、邪馬台国の所在地論争に一石を投じそうだ。
 歴博は全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代を測定。その結果、箸墓の堀や堤からも出土し、測定した炭化物は、食べ物の煮炊きの際に土器に付着したとみられる。発掘状況から「布留0式」とぃわれる土器は、箸墓古墳の完成間もない時期に廃棄されたとみられ、築造時期に近いとしている。
 箸墓古墳はこれまで、土器の形式によって年代を絞り込む考古学的手法によって、270年前後の築造とされ、中国の史書「魏志倭人伝」に記された卑弥呼の次の女王、壱与の墓との説もあった。
 放射性炭素を利用した年代分析は、炭化物に不純物が混じると年代がずれ、誤差が大きいとして、批判的な見方も根強い。
 研究チームは、箸墓古墳出土の土器だけでなく、周辺の古墳で見つかった土器でも測定を試みており、ここでも、同様の年代が出たことから、「分析結果の精度は高い」としている。
 31日にハワイで始まる放射性炭素国際会議と、同日に早稲田大学で開かれる日本考古学協会で発表される。
[参考:産経新聞、東京新聞、朝日新聞、読売新聞、共同通信]
邪馬台国ナゾ解き続く 箸墓古墳 科学分析、畿内説に“軍配”精度疑問の声も(産経新聞) - goo ニュース
奈良・桜井の箸墓古墳、卑弥呼の墓か…死亡時期と一致(読売新聞) - goo ニュース

過去のニュース・情報
2008.8.27
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臼杵藩領の砲台建設に利用か 伊能忠敬の地図発見

2009年05月29日 | Weblog
 伊能忠敬(1745‐1818)が作成した全国地図「伊能中図」のうち、臼杵藩領だけを書き写した地図が、臼杵市の臼杵図書館書庫から見つかった。史料を整理していた学芸員が2004年、地図と臼杵市洲崎にあった大砲や砲台の設計図7点が入った和紙の袋を見つけ、今年2月に伊能忠敬記念館(千葉県香取市)に鑑定を依頼。伊能忠敬が作成した地図と完全に一致した。伊能忠敬は特定の藩だけの地図は作成しておらず、臼杵藩が伊能の地図を書き写したものとみている。
 臼杵藩が海岸に近い台場に設置していた大砲や砲台の設計図とともに和紙の袋に保存されていたことから、臼杵藩が砲台を配置する場所や方角を定める際、伊能忠敬の地図を活用したのではとみている。
 地図は和紙製で縦40cm、横28cm、厚さ約1mm。臼杵藩領だった大分市の大野川から津久見市港町付近までの海岸線が赤色、熊本藩や佐伯藩との領界が灰色の線で書かれ、臼杵藩領内に35の地名が書かれている。
 臼杵藩は、最後の藩主稲葉久通が藩主だった幕末の1860年ごろ、外国船の来襲に備えて砲台10基を設置した。現在は臼杵市立東中学校グラウンドになっている。
[参考:西日本新聞]

<関連年表>
 18世紀末より、諸外国の艦船が日本の沿岸に接近しはじめた。
 文化7年(1810) 伊能忠敬が、二豊にやって来て測量をした。
 文政8年(1825)、「無二念打払令」を出し理由のいかんを問わず、日本海岸に近付く外国船を追い払う命令を布告した。
 天保13年(1842)、諸情勢に因み外国船に対して、燃料や水、食料のみを給与する「薪炭給与令」を公布し、一方、海岸防備を強化した。臼杵藩 では、「軍事 調練(ちょうれん)図」 「異国船渡来之節手配図」 「海岸絵図」などを作成し、幕府に提出した。
 天保14年(1843)、軍牒(ぐんちょう)役所を設け、領内 川登(かわのぼり)組に「川登 鉄炮卒」を組織した。
 嘉永2年(1849)、領内の海岸の水深を調査して、その結果を「海岸深浅図」として幕府に提出した。
 嘉永3年(1850)、領内の楠屋鼻(津久見市)に台場 ( 砲台 )を築造した。
 嘉永6年(1853)、アメリカ使節ペリーが浦賀に来航し、開国を迫った。
 文久3年(1863)、殿ヶ礁(ばえ、下ノ江)、城内 本丸、臼杵洲崎 、琵琶ヶ鼻(板知屋・下り松)、竹ヶ鼻(天神ヶ鼻)、的場山(津留地区)の6か所に台場を築き、海防に備えた。
[参考:大分放送・大分歴史事典「長い二豊の海岸を防備」(後藤 重巳氏)

臼杵藩領の地図発見 伊能忠敬地図活用 砲台建設に利用か 臼杵市教委(西日本新聞) - goo ニュース
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佐賀市・三重津海軍所の痕跡証明に地下探査

2009年05月29日 | Weblog
 佐賀大地域学歴史文化研究センターは28日、幕末佐賀藩の遺跡「三重津海軍所跡」(佐賀市川副町、諸富町)で、電磁波や電波を使った地下探査を行い、ドックがあったとされる一帯の地下に、ドックの痕跡ともみられる地質の違いがあることを確認した。データを分析するとともに、6月から発掘調査を予定している市教委に伝える。
[参考: 読売新聞]
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 2009.5.23
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長谷川等伯作と判明 個人蔵の花鳥図屏風 

2009年05月26日 | Weblog
 京都の個人蔵で、滋賀県立琵琶湖文化館(大津市)に寄託されている花鳥図屏風(縦153.7cm、横349.8cm、六曲一隻)が、安土桃山時代の絵師、長谷川等伯(1539~1610)の真筆であることが分かった。
 全面に金箔を張った「金碧(きんぺき)画」で、画面左に藤の絡んだ松と滝、右に海棠(かいどう)を描き、花々や7羽の小鳥を配している。
 本名「信春(のぶはる)」で活躍していた40歳前後の作とみられるという。
 等伯の金碧画ではこれまで、代表作の旧祥雲寺の障壁画(現・智積院障壁画、国宝)(注1)が最古例とされており、今回の屏風は、智積院へのステップとしての作品としている。
 屏風は来年2月23日~3月22日に東京国立博物館、同4月10日~5月9日に京都国立博物館で開かれる特別展「長谷川等伯」で公開される。
[参考:毎日新聞]

(注1) 祥雲寺は、豊臣秀吉が早世した愛児鶴松の菩提を弔うため文禄2年(1593)に創建した禅宗寺院であるため、この作品も同時期(等伯54歳)に作製したもとのと見られる。
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太田市・楽前遺跡 郡名「山田」が墨書された土器が出土

2009年05月26日 | Weblog
 群馬県埋蔵文化財調査事業団の調査で、楽前(がくまえ)遺跡(太田市東今泉町)で、「山田」の郡名が墨書された平安時代の土器が出土していたことが分かった。
 昨年から始まった整理作業の結果、出土した約千二百年前の須恵器の碗の底に、当時の郡名を示す「山田」の二文字が墨で書かれていることが分かった。
 同遺跡から約600m離れた東今泉鹿島遺跡からは、郡役人が書いた借金証文の遺物が出土するなど、楽前遺跡周辺では郡役所とのつながりを物語る遺物が多く出土している。
[参考:2009.5.24上毛新聞、(財)群馬県埋蔵文化材調査事業団HP]

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2006年10月07日 
 東今泉鹿島遺跡(太田市東今泉町)で、平安時代に地方役人が上司に給料前借りを申し込んだとみられる漆紙文書が見つかった。米1斗の前借りを申し込む内容で、正倉院に現存する以外の前借り文書の出土は初めて。 表には「解申」「米壹斗」「右件物依本」「器所以旬」とある。「解申」は当時の借用の定型文で、「つつしんで、げしもうす、…」となる。[参考:毎日新聞]


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韓国・国立慶州博物館特別展「四天王寺」

2009年05月25日 | Weblog
 新羅時代慶州地域の著名な寺刹の四天王寺跡で出土した「緑釉四天王像塼(녹유 사천왕상전)」は国立慶州博物館、国立慶州文化財研究所、国立中央博物館、東国大ソウルキャンパス博物館、同慶州キャンパス博物館の5ヶ所に破片状態で、収集・所蔵されていたが、国立慶州博物館と国立慶州文化財研究所は「四天王寺特別展」共同開催に際して、これらを全部一ヶ所に集めて、復元作業に努めた。その結果、4点ほどになる緑釉塼を完全な形に近く復元するのに成功したという。
その正体が四天王なのかあるいは他の神像なのかは学界の論争が現在も進行中である。
 他にもその間一般に公開されなかった瓦とレンガ、土器、金属製品などの他の四天王寺址の出土品が展示される。
 展示期間:2009年5月26日(火)~8月23日(日) 展示場所:国立慶州博物館特別展示館
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 2008.12.16
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福島県国見町・阿津賀志山防塁 東山道跡が見つかる

2009年05月24日 | Weblog
 国見町教委は22日、同町森山の「阿津賀志(あつかし)山防塁」発掘調査で、東山道とみられる古道跡が見つかったと発表した。
 東山道を埋めて遮るように防塁が築かれていたことが分かった。源平合戦期の戦術が、遺構から具体的に判明した例は全国でもほとんどなく、奥州藤原氏の滅亡にかかわる重要な遺構と評価されるという。
 調査では、防塁の下から幅約6mの切り通しの古道跡のほか、道を埋めて作られた土塁と深さ約2mの堀が見つかった。道幅は古代の官道の規格に合う約6mで、正確な年代特定はできないが、平安時代以前とみられ、東山道の可能性が高いという。
[参考:読売新聞、毎日新聞]
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 前出
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岩手県平泉町・達谷窟

2009年05月22日 | Weblog
 昨年六月の岩手宮城内陸大地震による、達谷西光寺の被害は思いのほか大変だったようです。
  達谷西光寺・お知らせ
 写真は、1昨年4月に撮影したものです。毘沙門堂と岩面大佛が1枚に収まっています。どこを探しても、このような形で写っている写真は滅多にありません。2枚の写真を合成しています。

達谷窟
 「たっこくのいわや」と読む。岩手県一関駅からは約10km、奇岩、怪岩のある美しい渓谷で有名な厳美渓には3km、毛越寺には5kmの距離にある。延暦20年(801)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が毘沙門堂を建立したと伝えられる。吾妻鏡には、文治5年(1189)9月、源頼朝が奥州合戦の帰路に、坂上田村麻呂が建立したこの毘沙門堂を参詣したことが記される。巌毘沙門堂の左(西)に描かれる岩(面)大佛は、前九年後三年の役で亡くなった武者の諸霊を供養するために、陸奥守源義家(頼朝の高祖父(曾々祖父))が馬上より弓張(ゆはず)を以って彫り付けたと伝えられている。大日如来との伝えが残るが、岩面大佛の下に立つ「文保の古碑」(1317)には、阿弥陀種子(キリーク)が刻まれるし、姿からも阿弥陀如来とするのが正しいと思われる。
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豊島区 瑞鳳山祥雲寺 (曹洞宗)

2009年05月21日 | Weblog


 毎週月曜日に通っている池袋の歴史講座の帰り道、遠回りして5ヶ所ほど神社・寺院を見て回った。
 そのうちの一ヶ所、池袋駅から800mのところにある曹洞宗の寺院・祥雲寺。
 山門の入口に説明板があり、
 「祥雲寺は後北条氏の重臣江戸城主遠山隼人正景久によって、永禄七年(1564)に江戸城和田倉門内に駒込吉祥寺の末寺として創建されたのが始りで、開山は吉祥寺安充和尚である。当初は景久の室(北条上総介綱成の娘)の菩提所として法号にちなみ浄光院と称し、永禄七年に戦死した景久の法号から瑞鳳山浄光院と号した。
 天正十八年(1590)後北条氏滅亡にともない遠山氏も退転したため、しばらく吉祥寺の隠居所となり、神田(駿河台)、小日向金杉、小石川戸崎台と移転した。寛永六年(1629)に信州松本藩主戸田氏が檀越となり、数度の火災の復興に際しても多大な尽力をした。宝永六年(1709)、五代将軍徳川綱吉の死により御台所が落飾して浄光院殿と称したのち憚り、戸田氏最初の檀越康長の法号により瑞鳳山祥雲寺と改号した。
 当地への移転は明治三十九年であり、重宝類は昭和九年の火災に焼失した。現在の本尊の薬師如来は胎内銘によれば、天正十七年(1589)の造立になるという。墓地には戸田家代々の墓、酒豪として知られた三浦樽明、首斬り浅右衛門の七代山田浅右衛門などの墓がある。
           昭和五十六年三月   東京都豊島区教育委員会」
と記されている。

注: 遠山隼人正景久
 遠山氏は、利仁流加藤氏一門美濃遠山氏の一派で、もとは、文治元年(1185)加藤次景廉が源頼朝より遠山庄の地頭に補任されたことに始まる。景廉の嫡男景朝はここに住み、遠山を名乗り、岩村城を築いてその本拠とした。明知遠山氏の影保の子・直景より武蔵遠山氏と云われる。直景、綱景と続き、綱景の嫡子に系図では実名の現れない隼人佐がいるが、それが、遠山隼人正景久のことか。
 小田原衆所領役帳(永禄2年)には、「買得 拾五貫文 江戸下平川 遠山隼人佑」と記載が見える。
 他に、遠山丹波守、左衛門、藤六、彦四郎、弥九郎の名前が記されている。
 丹波守はたくさんの所領を持ち、綱景のようである。左衛門は相模遠山氏の康光に当てられる。その他は不明である。

 祥雲寺のHPより、内容を年表に直してみた。
■天文元年(1532) 遠山隼人正景久が、吉祥寺の2代目であった大州安充大和尚を招いて和田倉門内に開山した。
■永禄3年(1560)  景久の妻(北条綱成(1517-1587)の娘)永眠し、浄光院殿花蔭宗順大禅定尼として当寺に葬られた。
■永禄7年(1564) 寺院の堂や塔、伽藍が全て完成し、文殊菩薩・普賢菩薩を脇士に、釈迦如来を本尊とした。
   同 年     景久は正月8日、北総鴻台における北条里見の合戦で、父丹波守直景(注)と共に戦死し、瑞鳳院殿月渓正円大居士として当寺に葬られた。浄光院と瑞鳳院の二人の号を取り、当寺を瑞鳳山浄光院と名付けた。
注: 北条里見の合戦(第二次国府台合戦)で、遠山綱景(1513?-1564)と子の隼人佐が戦死したとされる。直景は、隼人佐からすると祖父にあたり、ここでは綱景が妥当かと思われる。
■天正18年(1590) 徳川家康が江戸に入城し城郭を拡張修繕するにあたり、当寺は神田台に移動を命ぜられた。
■慶長3年(1598) 神田台が駿河衆の御用屋敷となったため、小日向郷金杉村への移動を命ぜられた。この時、当寺を開いた遠山氏は没落したが、信州松本城主戸田丹波守康長・遠州堀江城主大澤左衛門佐基胤、両者の後援を受けて運営された。
■寛永13年(1636) 金杉の土地もまた、武家用地となったしまったため、戸崎台(文京区白山)へ移転することになった。
■寶永6年(1709) 5代将軍綱吉公が亡くなり、御台所である鷹司氏は出家して、浄光院殿と呼ばれるようになった。それにより、当時第13世笑翁宜悦和尚は、当寺の名前が鷹司氏の法号と同じであることに遠慮し、同年お伺いをたてた上、新しく当寺の大檀越となった戸田康長の法号、祥雲院殿一運宗智大居士に因んで、この時から浄光院を改めて祥雲寺と称するようになった。
■明治36年(1903) 第29世善翁篤友和尚は、祥雲寺を池袋原に移すことを決意し、移転を開始。
■大正4年(1915) 移転が完成。
■昭和9年(1934) 不慮の災難に遭い、堂塔は全て無に帰した。
■昭和10年(1935) 第30世篤仙頼應和尚は、伽藍の復興に努め、旧伏見宮家御別邸を譲り受けて東御殿を書院に、西御殿を方丈に移築した。

 現存している名墓としては、戸田家歴代の墓をはじめ、大澤基胤(遠州堀江城主)、木寺宮定姫(基胤の妻)、野々山庸義、友成貞吉、近藤友周(以上松本藩家老)、太田資同朝比奈弥太郎(水戸藩士)、三浦樽明(酒徳院殿酔翁樽枕居士)、山田和水(首斬浅右衛門)、また最近では、石ノ森章太郎(漫画家)の墓がある。 [祥雲寺HPより]

石ノ森章太郎氏の墓(写真)
 墓石には小野寺家と家紋「丸に蔦」が刻まれていて、同氏が描いた数々のキャラクターたちに見守られている。 
 新鮮な供花がいつも飾られている様子がうかがえる。
過去の関連ニュース・情報
 石森館跡(いしのもりたてあと)
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大田広域市儒城区・龍渓洞遺跡 2千年前の村全体の遺跡を確認

2009年05月20日 | Weblog
 埋蔵文化財専門調査機関の中央文化財研究院は20日、大田西南部地区宅地開発事業敷地の龍渓洞(용계동)山 一帯(115,920㎡)を発掘調査した結果、原三国時代」(西暦紀元前後-300年頃)に作った住居址約350基を含む、各種遺構396基を確認したと話した。
 これら住居地は、色々な時期にかけて形成されていったものとみられる。
 この村を覆って溝を作った跡が確認され、今回の集落遺跡は村全体を発掘したと見ることができると調査団は評価した。
発掘した遺構
 青銅器時代住居址 10基
 青銅器時代~初期鉄器時代石棺墓3基
 原三国時代住居址約350基、炭窯1基、土器窯2基
 三国~高麗時代に該当する石槨墓約30基など    総396基
発掘調査現場説明会が5月20日(水)2時から開催される。
[参考:聯合ニュース、韓国文化財庁HP]
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国・文化審議会 文部科学相に国史跡10ヶ所を答申

2009年05月20日 | Weblog
 文化審議会は15日、豊臣秀吉が16世紀末に築いた「宇治川太閤堤跡」(京都府宇治市)など10件を史跡に、四つの温泉源から成る「別府の地獄」(大分県別府市)など4件を名勝に新規指定するよう、塩谷立文部科学相に答申した。また、国立西洋美術館園地(東京都台東区)など2件については、新たに登録記念物に登録するよう答申した。
 新規指定や登録を答申された史跡は次の通り。
 「宇治川太閤堤跡」(京都府宇治市)
 会津新宮城跡=福島県喜多方市
 高山社跡=群馬県藤岡市
 武蔵国府跡=東京都府中市
 増山城跡=富山県砺波市
 伊賀国庁跡=三重県伊賀市
 二子塚古墳=広島県福山市
 隈部氏館跡=熊本県山鹿市
 棚底城跡=熊本県天草市
 宇江城(うえぐすく)城跡=沖縄県久米島町
[参考:毎日新聞]
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韓国・扶余博物館で「木簡特別展」が開催 5月19日~6月28日

2009年05月19日 | Weblog
 文化財庁国立伽耶文化財研究所は国立扶余博物館と共に今日19日から来月28日まで国立扶余博物館第3展示室で「木の中の暗号、木簡(나무 속 암호, 목간)」特別展を開催する。
 今回の展示会は韓国博物館開館100周年および国立文化財研究所開所40周年記念特別展で、韓国国内で木簡を主題にした展示会が行われるのは初めてという。
 公開されるのは、木簡280点余り。
■新羅木簡 200点余り
 咸安城山山城出土木簡(함안 성산산성목간)
 慶州月城垓子出土木簡(경주 월성해자 목간)
 慶州雁鴨池出土木簡(경주 안압지 목간)
■百済木簡 50点余り
 扶余官北里木簡(부여 관북리 목간)
 扶余陵山里寺址男根木簡(부여 능산리 사지 남근목간)
■高麗木簡 30点余り
 泰安と新安沖から引き上げた高麗木簡(태안과 신안 앞바다에서 건져 올린 고려목간)
■論語木簡 3点
 金海鳳凰台遺跡(김해 봉황대유적)と仁川桂陽山城(인천 계양산성)出土した論語木簡(논어 목간)
■その他複製品などの展示
 扶余雙北里出土佐官貸食記木簡(쌍북리 좌관대식기 목간)
 羅州伏岩里出土百済木簡(나주 복암리 백제목간)
 平壌貞柏洞出土楽浪木簡(평양 정백동 낙랑목간)
[参考:聯合ニュース、国立扶余博物館HP、国立伽耶文化財研究所HP]
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福岡県久山町・首羅山遺跡 山岳寺院の遺構確認

2009年05月17日 | Weblog
 久山町教育委員会は15日、同町久原の白山(標高288m)中腹にある首羅山遺跡本谷地区の発掘調査で、中世の山岳寺院跡を物語る建物の基壇(基礎)と柱の礎石が出土したと発表した。基壇の造成時期は山岳寺院の最盛期だった鎌倉時代(13世紀)と推定される。
 町教委は遺跡の現地説明会を30日に実施する。
[参考:西日本新聞]
久山町の首羅山遺跡 山岳寺院の遺構確認 来年度から本格調査へ(西日本新聞) - goo ニュース

過去の関連記事・ニュース
2008.12.5 共同通信
 首羅山遺跡は、中世に国際貿易港として栄えた博多に多く滞在していた中国商人と関係の深い寺院だったことが、4年間の発掘調査で明らかになってきた。
 裕福な中国商人が信仰し、財政的な支援をしていた寺院とみられ、中世の宗教や交易を考察する上で貴重な遺跡。
 遺跡がある白山)の山頂から、中国人名が墨書された国内最古の銅製四段積上式経筒が出土。 「宋風獅子」一対や、四天王像が彫られた「薩摩塔」2基など、国内であまり例がない中国風の石造物も見つかった。
 また山中から、中国・景徳鎮産などの高級陶磁器も多数出土し、中国商人との深いかかわりが裏付けられたという。
 山岳寺院は博多湾から東へ約7キロ。平安時代後期から鎌倉時代に最盛期を迎え、中世末に火災で閉山したとされる。


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