歴歩

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成田市・船形手黒遺跡 現地説明会 11/15

2008年12月12日 | Weblog
 印旛郡市文化財センターは、11月15日に現地説明会を行った。その結果を含めて11月11日の掲載分を、修正および補足した。
 8月より船形手黒遺跡(成田市台方)の発掘調査を実施しており、遺跡内の古墳(円墳・木棺直葬・5世紀後半)から、石枕(1個)、立花(滑石製4個)、直刀(3本)、銅鏡(直径7cm、1個)、鉄製斧などが出土した。
 同遺跡は、印旛国造・伊都許利命(いつこりのみこと)の墓とされる公津原39号墳(方墳・横穴式石室、7世紀)の約100m南に位置する。
 公津原39号墳を軸として、南面には扇状に細長い台地がいくつか並んでおり、船形手黒遺跡の200mほど東に台方下平(だいかたげべ)Ⅰ遺跡が、さらに300m東に台方下平Ⅱ遺跡が連なる。両遺跡は、ともに標高35mの台地上に位置し縄文時代から奈良・平安時代にかけての住居跡が見られる。中心となる遺構の始まりの時期は、Ⅰ遺跡は古墳時代中期後半から、Ⅱ遺跡は古墳時代後期からで、ともに奈良・平安時代まで継続してみられる。船形手黒遺跡は標高約34mの台地上に位置する。台方下平遺跡と比較するとどのような違いがあるのであろうか。少なくとも古墳があるなしの違いがある。
 出土した石枕は、立花との伴出であるので、いわゆる常総型と呼ばれるものである。石枕の出土例は約120例といわれ、そのうち常総地域からの出土例は68例である。(2003年時点) しかしながら、約120基の古墳があるといる公津原(こうづがはら)古墳群からの出土例は、今までに大塚古墳の1例のみであったのか。今回で2例目が出土したわけである。
 大塚古墳: 円墳 直径27m 木棺直葬 副葬品 石枕、鉄鏃、円筒埴輪ほか、築造時期は、船形手黒1号墳(仮)よりやや古いとみられる。石枕自身も、頸部の受け部がくびれており、船形手黒1号墳の開く形と比較しても古そうである。こには、あるべきはずの立花が書かれていないので、出土しているかどうかは不明である。石枕の材質は、殆んどが群馬県産の滑石であるが、これもわからない。
 現地説明会開催案内および現地説明会資料には、出土した石枕の写真があるので、その様子が窺える。馬蹄形で縦29.2cm、横34.9cm、高さ8cmの大きさである。2段の高縁があり、第2平坦面に立花を挿す孔が10個、副孔が1個ある。時代とともに、段数と立花を挿す孔が増えるという。
 一般的には、石枕の副葬時期は4世紀の後半から6世紀代で、畿内ほかで石棺が多用された始めた時代に、入手することが難しかった常総地域は石棺の代わりに、木棺直葬と単独の石枕の形態を取り入れる。もともと石枕は石棺に彫刻されたのが由来らしい。形としては、馬蹄形もしくは箕のような形である。群馬県で出土された、立花がなく1段高縁の石枕が初源ともいわれる。
 立花は、遺体を安置している時には石枕の孔に立てて、埋葬する時には外したようである。 

船手黒1号墳(仮称)
 円墳、径25m、高さ2.2m、古墳の周りには最大で幅5m、深さ80cmの周溝が巡る。
 墳頂部からは、木棺直葬主体部が検出された。埋葬された人物が複数存在した可能性がある。
 出土した遺物から、古墳時代中期後半(5世紀後半)築造とみられる。
 
遺跡現地説明会
 日 時: 平成20年11月15日(土) 午後1時から3時
 場 所: 成田市台方字鶴巻・現地
 内 容: 古墳の見学および出土遺物の展示・説明
 問合せ: 早稲財団法人 印旛郡市文化財センター Tel.043-484-0133

[参考:成田市印旛郡市文化財センター、現地説明会資料]
[参考文献:関東における古墳形成の特性/白井久美子(考古学研究54-3,2007Winter)]

備考
 石枕についての詳細な解説が、インターネットでも公開されていた。
 東京工業大学亀井宏行研究室がおこなっているサービス「ARCADIA」である。  「石枕」については白井久美子さんが、まとめられたのであろう。是非参考にしていただきたい。(感謝 !!)
 それによると、石枕の外形の形状、頸受け部の形、平坦面の数の3つを記号で区別して表わすことができる。
 公津原古墳群からの出土2例を記号で表わすと下記のようになる。
  船手黒1号墳(仮)Cb3、 大塚古墳(瓢塚32号墳)Ed3
[参考:ARCADIA「(9)石枕」]


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羽咋市・寺家遺跡 気多大社の前身証拠 9世紀地層から墨書土器などが出土

2008年12月12日 | Weblog
 羽咋市教委が11日、寺家(じけ)遺跡(同市寺家町)の平安時代(9世紀)の地層から、掘っ立て柱建物の柱穴や墨で文字のようなものが書かれた土器などが見つかったことを明らかにした。
 今年見つかった柱穴は直径80cmで、計3カ所あった。建物は平安前期に建てられたと推測され、祭祀関係者の住居だった可能性があるという。土器の底には漢字の「三」のような3本の線が書かれていた。また祭具を焼く際の道具や、焼いた跡とみられる焼土が確認された。
 市教委はこれまでの調査で、遺跡が20万㎡の広大な敷地に広がっていたとみており、北東800mの気多大社の前身だった可能性が強く、今回の調査結果が裏付けになるとみている。
 寺家遺跡の調査は、能登有料道路の造成工事に伴い、78年から始めた。これまで宮司の社務所とみられる大型建物群や、銅鏡などの祭具が大量に見つかっている。今後は国史跡の指定を目指して、調査を続けるという。
 14日午前10時半から現地説明会が行われる。問合せは同市教委文化財室。
[参考:毎日新聞]

[主な発掘経緯]
 奈良時代に大規模な火祭りが行われていたことを示す焼土や、平安時代(9世紀)の地層から石を長方形(縦5m、横6m以上)に並べ、内側の地表を火で清め、武具や土器などを供えた祭りの遺構が発見された。[参考:2003.12.10読売新聞]

 平安時代の地層から、大型建物の柱穴直径1・1m1基が発見された。以前の調査で明らかになった大型建物群の一部の可能性が高いとみている。また、柱穴付近から大型建物を表す「館」と書かれた墨書土器が発見された。
 また、奈良時代の地層から、神社へ奉納するものなどを作っていた「神戸」と呼ばれる人の住居の柱穴6基以上も発見された。
 1978年には、役人の館や台所とみられる建物を含む、平安時代の大型建物群が発掘されている。[参考:2002.8.30読売新聞]

参考:
万葉集巻174025 
守大伴宿彌家持の春の出挙に諸郡を巡行し、時に当たりて属れる所の歌 (天平二十年(748))
気太の神宮に赴き参り、海辺を行きし時に作れる歌一首
 之乎路から直越え来れば羽咋の海朝凪ぎしたり船楫もがも
[意] 之乎路をまっすぐに越えてくると、羽咋の海は朝凪している。船と梶があったらなあ。
[参考:万葉集・中西進(講談社文庫)]
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枚方市・禁野車塚古墳 箸墓古墳と相似墳 築造時期3世紀末~4世紀初め

2008年12月12日 | Weblog
 枚方市文化財研究調査会などが11日、大阪府枚方市宮之阪の国史跡の前方後円墳、禁野車塚(きんやくるまづか)古墳(3世紀末~4世紀初め、全長約120m)が、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説がある奈良県桜井市の箸墓古墳(3世紀中ごろ~後半、同約280m)と同じ規格で造られた相似墳であることがわかったと発表した。全長はこれまでより約10m長い約120m、築造年代も出土した埴輪から4世紀代とされてきたが3世紀末~4世紀初めと遡った。同じような形状の古墳が府内で確認されるのは初めてで、府内最古級の古墳となる。
 同調査会が関西、京都橘、京都府立の3大学と調査団をつくり8月に測量調査した。▽前方部が、三味線のばち形をしている▽後円部からくびれ部にかけてスロープがある▽幅が最も狭い部分が前方部にある――などの特徴が箸墓古墳と共通し、縮尺を調整して測量図を重ねると等高線がほぼ一致したことから、相似墳と判断したという。
 箸墓古墳の相似墳は、3世紀中ごろから4世紀前半までに造られたとみられる約20基が西日本で確認されている。奈良県内には西殿塚古墳(全長約230m)など3基がある。他府県では、京都府木津川市の椿井大塚山古墳(同約175m)などがある。
 禁野車塚は、▽丘陵を利用せずに平地に盛り土で造られた▽大阪府柏原市の芝山産の石材が共に使われた点が、箸墓古墳と共通している。この2点の共通要素を含む相似墳は、他には神戸市の西求女塚(にしもとめづか)古墳(同約100m)しか確認されておらず、禁野車塚の埋葬者は箸墓の密接な同盟者だったとみられる。
 箸墓古墳を造ったのと同じ技術者集団が、淀川上流域を支配し大和王権と従属関係にあった人物を埋葬するために造ったと推定している。
 禁野車塚は、淀川支流の天野川東岸に面して造られている。1972年に国史跡に指定されたが、墳丘の発掘調査が実施されておらず、被葬者は分かっていない。
[参考:読売新聞、朝日新聞]

禁野車塚古墳
 全長110mの前方後円墳で、牧野車塚古墳とともに枚方市内では屈指の大型古墳です。
 後円部の直径は57m、同高さは9.9m、前方部の幅40mを測り、前方部を西に向けています。
 前方部はかなり削られていますが、後円部は2段に築成された様子が観察でき、葺石と埴輪の存在も認められます。
 内部構造や副葬品については明らかではありませんが、後円部上に板石が存在することから、主体部は竪穴式石室である可能性があります。
 したがってこの古墳が築造された時期は、予想される主体部と墳丘の状態から4世紀末~5世紀初頭頃と推定できます。
 この地が淀川と天野川の合流地点を臨むという良好な立地条件から、この地域の交通権を掌握した首長の墓と考えられます。
 2002年2月 文化庁 大阪府教育委員会 枚方市教育委員会               (現地案内板より)

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