歴歩

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奈良県田原本町・唐古・鍵遺跡 弥生時代最大級の柱を公開

2014年10月25日 | Weblog

 田原本町の唐古・鍵遺跡で出土した弥生時代最大級の柱(直径約83cm、長さ約2・5m)が24日、報道陣に公開された。
 25日から田原本青垣生涯学習センターで初めて一般公開される。
 柱は樹齢約110年のケヤキ製、現存部分は長さ2・5m、直径83cm。町教育委員会が平成15年(2003)に弥生時代中期(紀元前2世紀)の大型建物跡(注1)から18本の柱が見つかった。翌年から保存処理を実施していたが、このほど終了した。
 建物の復元模型も展示される。

(注1) 大型建物跡は、第93次調査(2003年)で見つかった。 北東から南西方向に軸を持つ梁間2間(6m)×桁行6間(13.7m)の建物。 柱列は、東西両側と建物中央との3列に並び、東西両側の柱列が7本に対して中央柱列は6本である。柱はすべてケヤキの可能性が大か。
 第74次調査(1999年)で見つかった大型建物跡には独立棟持柱があるが、前述の大型建物にはない。棟持柱はヤマグワ製であるが、ほかはケヤキ製とみられる。
[参考:共同通信、京都大学、産経新聞、「唐古・鍵遺跡第74次調査発掘調査概要」(2000.7田原本町教育委員会)]

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 唐古・鍵遺跡
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羅州市・丁村古墳 完全に近い状態の百済金銅履物が出土

2014年10月24日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立羅州文化財研究所は23日、全南羅州伏岩里古墳群と隣接した丁村古墳(정촌고분、羅州市郷土文化遺産第13号)で、これまで発見された百済金銅履物のうちで最も完全に近い状態の遺物を発掘したと発表した。
 同古墳は蜂の巣型古墳で、石室、石槨、甕棺など計9基の埋葬施設が発見されていた。今年は石室墓3基に対する内部調査を実施した。
出土品は、金銅靴ほか、金製耳飾り、と金製装飾、馬具、矢筒の装飾具、・矢じり・玉・石枕などが多量に出土した。
 1号石室墓の規模は、最大長さ485cm、幅360cm、高310cmで、これまでに知られている馬韓・百済圏の大型石室墓の中では最も大きいという。金銅靴は1号石室墓から出土し、長さ32cm、高さ9cm、幅9.5cm。足の甲先端に龍の飾りがあり、足首の部分には金銅板の覆いを付着した。 履物の底には蓮華と鬼の模様を透彫と線刻で整えて派手に飾られていた。
 主人公は百済だけでなく伽耶、新羅とも交流があったとみられる。
[参考:聨合ニュース]

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 金銅履物
 丁村古墳


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向日市・五塚原古墳 卑弥呼の墓説「箸墓」と同じ構造を確認

2014年10月21日 | Weblog
 京都府向日市埋蔵文化財センターは16日、同市寺戸町芝山の五塚原(いつかはら)古墳(3世紀後半、全長約91mの前方後円墳)の前方部の構造が、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓説がある箸墓古墳(奈良県桜井市)と一致したと発表した。
 2段で構成される古墳の前方部は、三味線の「ばち」型になっており、前方部を縁取る平たん面が先端に向かってせり上がっていることを確認した。前方部と後円部をつなぐくびれ部では途切れていた。
同センターは、全国約5200基の前方後円墳と前方後方墳の中で、この構造を持つのは箸墓と五塚原だけとしている。
 北に約1kmの場所にある日本最古の3世紀前半の祭殿遺構があった中海道遺跡(同市物集女町)との関連も指摘される。
 現地説明会が18日(土)に行われた。

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 五塚原古墳
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高松市・稲荷山北端1号墳 国内最古級の前方後円墳の可能性

2014年10月21日 | Weblog

 高松市は20日、石清尾山(いわせやま)古墳群(同市宮脇町など)の一つで栗林公園西側にある稲荷山北端1号墳について、当初想定していた円墳でなく前方後円墳(全長45m)の可能性が高いことが分かったと発表した。
 石を積み上げて造る「積石塚」と呼ばれる古墳で、3世紀中頃の築造とみられ、同時期としては四国最大規模の古墳となる。 もし前方後円墳だった場合、国指定の史跡である鶴尾神社4号墳(同市西春日町、全長約40m)や石清尾山9号墳(全長27m)と並び、国内最古級になるという。
 高松平野を見下ろす石清尾山(標高232m、峰山、稲荷山、浄願寺山一帯の総称)には3~7世紀の古墳が約200基が点在する。(石清尾山古墳群) 石を階段状に積み上げた積石塚が多いのが特徴で、円墳、前方後円墳、双方中円墳など形は様々である。 峰山エリアの12基は国の史跡指定を受けており、市は追加指定に向け昨年度から稲荷山エリアの本格調査を始めている。
 稲荷山北端1号墳は1931年に京都帝国大(現京都大)が調査し、楕円形の円丘部を確認したが墳形の特定には至らなかった。市の今夏の測量調査で、円丘部の南側に方丘部を構成する石列があることが分かり、前方後円墳の可能性が強まった。

 前方後円墳の場合、立体的な円丘部に対し方丘部の高さが低く、円丘部前端に大ぶりな石を配置し、古墳が丘陵の先端部に立地するなどの特徴が、最古級の積石塚前方後円墳の鶴尾神社4号墳(全長約40m)や石清尾山9号墳(全長27m)と類似する。
 形状に関しては、「双方中円墳」の可能性もあり、引き続き調査を進める予定。
 一方、市は発掘調査中の積石塚前方後円墳の稲荷山姫塚古墳について、全長が約54mと推定されると発表。出土品から当初想定した4世紀後半より古い3世紀後半の古墳であることも分かった。(注1)平らな石を精巧に積み上げ、古墳を装飾していたことなどが詳細に確認できたとしている。
 市は稲荷山北端1号、同姫塚の両古墳を25日(土)に一般向けに現地公開する。

(注1)稲荷山姫塚古墳は、高松市のホームページを見ると、全長は約46~47m、高さは約4mの前方後円墳とし、3世紀後半~4世紀前半の築造としていた。 後円部には竪穴式石室があったといわれていると記している。
[参考:四国新聞、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、高松市HP]

<稲荷山姫塚古墳>全長54メートル 「北端1号」積石塚前方後円墳で最古級 高松市調査で判明 /香川(毎日新聞) - goo ニュース

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 石清尾山古墳群

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小川の地蔵様 /小泉八雲「漂流」より

2014年10月07日 | 小泉八雲
10月4日、四谷区民センターで『小泉八雲没後110年記念公演「漂流」』を聴きに行く。
会場でいただいた資料の中で 『八雲の「漂流」について』 に興味を抱いた。文章に(注)がなく、それだけではわからない部分が多かったが、それを調べるうちによけいに興味がわいてきた。

「小川の地蔵様」って何なのだろう。
室町時代のこと、城之腰村(現、焼津市城之腰)の沖の海で毎晩光るものがあり、村の人たちは不思議がっていた。ある日、猟師が鰯をとるために網を仕掛けて引き上げたところ、1mほどもある木のお地蔵さんがかかっていたという。しばらくして、そのお地蔵さんをこの浦の西の安養寺(今は海蔵寺、現・焼津市小川)(注1)に祀り、本尊とした。延命地蔵大菩薩あるいは川除地蔵尊とも呼ばれ、大井川の水神様でもあったようである。同寺の寺号も「海蔵寺」に改めた。
(注1)創建時期は不明だが、もとは、天台宗宝城山安養寺といい後白河院の勅願所であったが、嘉元三年(1305)一遍上人の弟子の遊行二祖他阿真教上人が同寺を訪れた時、住職・勧海律師が同上人に帰依して、寺を時宗に改めたという。

小川は「こがわ」と読む。中世は遠江国志太郡小川村にあった。長谷川平蔵の先祖である長谷川政宣こと小川法永(注2)を「おがわ ほうえい」と読んでいたのだが、「こがわ ほうえい」となる。
(注2)小川法栄(1430?-1516?): 法永、豊栄、宝永とも書かれることがある。

「漂流」で、万延元年(1860)のこと、主人公の天野甚助が紀州沖で暴風に会い、乗っていた舟が転覆してしまった。小川のお地蔵様に、一晩中お助けを乞うたという。二日二晩漂流した後、播州の舟に助けられ九鬼の港(現、尾鷲市九鬼町)に着いた。九鬼湾は熊野水軍の拠点のひとつで、九鬼水軍発祥の地である。
この九鬼の港には一度行ったことがある。海のそばにある九木神社(祭神菅原道真)にも訪れた。

関連情報
海老名市・浄久寺 長谷川正成建立の菩提寺
 長谷川長重-政宣(小川法永)-元長-正長 と続く
 政宣は正宣と書くものがあるが、寛政重修諸家譜に倣って政宣とした。
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