歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

胎内市・城の山古墳 前方後円墳の可能性

2014年11月12日 | Weblog
 胎内市教委会は12日、同市大塚にある古墳時代前期前半(4世紀前半)の「城の山(じょうのやま)古墳」について前方後円墳の可能性が高いと発表した。
 以前の調査では41m×35mの楕円墳と考えられていたが、10月の調査で方形の一部とみられる遺構を見つけた。
 前方後円墳としては新潟市西蒲区の「菖蒲塚(あやめづか)古墳」(全長53m、古墳時代前期後半)を越えて約50km北上し、日本海側最北となる。
 また、全長は約62mで、新潟市秋葉区にある「古津八幡山(ふるつはちまんやま)古墳」(直径60mの円墳)を抜いて県内最大となる。
 方形部の周囲には「周濠」の可能性が高い痕跡が見つかった。

 県内ではこれまでに約600基の古墳が見つかっているが、ほとんどが円墳で、城の山古墳(胎内市)を除くと、前方後円墳は7基しか確認されていない。
 ・観音平1号墳(妙高市、全長約27mの帆立貝形、3世紀後半)
 ・観音平4号墳(妙高市、全長約32m、3世紀後半)
 ・稲場塚古墳(弥彦村、全長26.3m、古墳時代前期)
 ・菖蒲塚古墳(新潟市西蒲区、全長53m、古墳時代前期)
 ・吉井行塚1号墳(柏崎市、全長53m、古墳時代前期)
 ・保内三王山1号墳(三条市、全長37.5m、古墳時代前期)
 ・菅原古墳(上越市、全長30m、古墳時代後期)

 城の山古墳の築造時期は稲場塚と菖蒲塚の間とみられる。
 市教委は12月7日にシンポジウムを開き、調査結果を発表する。
[参考:共同通信、毎日新聞、日経新聞、産経新聞、NNN新潟放送]

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 城の山古墳
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守山市・下之郷遺跡 環濠内縁辺部から掘立柱建物跡

2014年11月08日 | Weblog
 滋賀県守山市教委は5日、弥生時代中期(紀元前2~1世紀)の多重環濠集落跡・下之郷遺跡(同市下之郷2丁目)で、集落の北西部から掘っ立て柱建物とみられる柱穴や溝、井戸跡などが多数見つかったと発表した。
 国史跡の指定範囲外で、環濠集落の北西端に当たる約200㎡を調査した。掘立柱建物跡は、約5m四方の掘立柱建物と、直径約5mの円形壁立式建物が重複して見つかり、建て替えられたともられる多数の柱穴が出土した。これらの密集度が集落中央部と同じくらい高く、環濠のすぐそばまで建物が密集していたと考えられる。
 環濠集落の縁辺部で掘立柱建物跡が確認されたのは全国でも例がないとしている。
 現地説明会が8日(土)午後1時半から開かれる。
[参考:京都新聞、読売新聞]

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 下之郷遺跡
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天理市・西乗鞍古墳 南北の周濠と外堤を確認、墳丘全体を取り囲んでいたか?

2014年11月07日 | Weblog

 天理市教委は6日、同市杣之内(そまのうち)町の西乗鞍古墳(全長約118mの前方後円墳)の墳丘周辺で、南北の周濠と外堤が見つかったと発表した。
 同古墳は、杣之内古墳群(4~7世紀前半)で最大の古墳で、これまで、西側で深さ約1・3mの周濠と高さ約5mの外堤が確認されいたが、周濠と外堤が墳丘全体を取り囲んでいた可能性が強まった。
 築造時期については出土した須恵器や円筒埴輪などから、古墳時代中期末の5世紀末頃とえいる。
 市教委の担当者は、「高い外堤に囲まれ周濠も有した墳丘とわかり、より有力な被葬者である可能性が高まった」としている。
 現地説明会は、8日午後1時半から開かれる。
[参考:産経新聞]
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太平寺 & 龍門の滝 那須烏山市

2014年11月07日 | Weblog
天台宗 滝尾山正眼院太平寺 那須烏山市滝395

境内に立つ那須烏山市教育委員会の案内板には、
 「延暦22年(803)、坂上田村麻呂が、蝦夷討伐の大願成就を祈願してこの地に堂宇を建立し、千手観音菩薩を安置したことに始まり、嘉祥元年(848)、慈覚大師円仁により再興されたと伝わっています。
 中世以降、この地を領有していた那須氏により崇敬され手厚い庇護を受けました。(中略)
 天正18年(1590)、那須氏(注1)が小田原戦役への遅参を理由に豊臣秀吉より改易されます。その後、領主が短期間に交代する状況が江戸時代の中頃まで続きますが、本寺は歴代の烏山藩主の信仰を受け繁栄しました。特に享保10年(1725)、大久保常春が江州三雲より入封の後は、大久保家の菩提所となり高五石の黒印(注2)を領しています。(略)」
(注1)那須資晴(1557-1610)の時。                
(注2)将軍の発行する朱印に対して藩主の発行する黒印。

 
写真は左から 参道、 山門(仁王門)

 山門(仁王門)の扁額は「観音」と思ったら「観普」の文字であった。「観普」とは、大乗仏教の経典『法華三部経』の『無量義経』、『妙法蓮華経』、『仏説観普賢菩薩行法経』からとったものか。

写真は左から 観音堂、 観音堂扁額「観世音」、 観音堂棟に飾る大久保藤紋

 山門の奥には本堂(観音堂)がある。扁額には「観音」、右には「天正13年甲子7月吉日」と書かれているが、天正13年(1585)の干支は甲子でなく乙酉であり、明らかにいたずらにより大正13年(1924)年甲子の「大」を「天」に書き換えたものである。本堂の屋根の棟には、左右には右上の写真「上がり藤に大紋」(注3)、真ん中には「卍紋」が飾られている。 一方、山門はどうだったかと調べてみると、左右の紋は同じく「上がり藤に大紋」であるが、真ん中には「九曜紋」が飾られている。 「九曜紋」は下野大久保家の副紋でもあるらしい。
(注3)同様な紋に「大久保藤」「那須大久保藤」などがあり、花弁の模様、数に違いがあり、見極めが難しい。 また、飾っている紋自身の間違いがある場合もある。

写真は左から 蛇姫墓、 蛇姫墓石

 太平寺には烏山藩2代藩主大久保忠胤(ただたね)の四女・於志賀姫(おしかひめ)の墓がある。法名は志徳院殿雅山妙耀大姉。寛政4壬子年(1792)7月8日49歳で亡くなった。
 この於志賀姫が川口松太郎の小説「蛇姫様」のモデルとなった人物の一人といわれている。



 太平寺のそばには、龍門の滝がある。


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