歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

渋川市・金井下新田遺跡 首飾りを着けた人骨が見つかる

2017年05月30日 | Weblog
 群馬県埋蔵文化財調査事業団は29日、渋川市の金井下新田(かないしもしんでん)遺跡で、6世紀初頭の榛名山噴火に伴う火砕流で埋没した場所から、石でできた勾玉や管玉で構成された首飾りを着けた人骨が見つかったと発表した。
 地上に直接建築した「平地式建物」や、鍛冶遺構も出土した。
 人骨の身長や性別は不明だが、歯の減り具合から10代の可能性があるという。
 金井下新田遺跡は、金井東裏遺跡に隣接している。
[参考:共同通信、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 金井下新田遺跡
 金井東裏遺跡


キーワード: 金井下新田遺跡、金井東裏遺跡
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊岡市・祢布ヶ森遺跡 但馬国府の新たな役所跡 「想定より広かった」

2017年05月26日 | Weblog
 豊岡市教委は22日、同市日高町岩中の祢布ヶ森(にょうがもり)遺跡で、平安時代の但馬国府に関連した国衙とみられる複数の建物跡が見つかったと発表した。
 同遺跡の南端とされた位置よりさらに南200mの場所に、建物跡6棟(最大で縦4・8m、横約5・4m)になる掘立柱の柱穴跡が計39個見つかった。 穴の間隔も等間隔で、一定方向に正確に並べられていたため、役所の可能性が高い。
役人が儀式などに使ったらしい同時代の土器など約200点も出土した。 墨書土器も含まれていた。
 但馬国府は「日本後記」や、これまでの調査で出土した木簡から、延暦23年(804)に移転したとされる。
 今回の発見で、規模の大きい国府だったことがわかった。
[参考: 神戸新聞、産経新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 但馬国府
 祢布ヶ森遺跡
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南あわじ市・入田稲荷前遺跡 後漢初頭に造られた貨幣「貨泉」が3枚出土

2017年05月19日 | Weblog

 南淡路市教育委員会が18日、同市八木入田の入田稲荷前遺跡で紀元14~40年にかけて中国古代国家の「新~後漢」で鋳造されたとされる貨幣「貨泉」3枚が見つかったと発表した。
 貨泉は九州や近畿、瀬戸内海沿岸などの遺跡で計179枚が見つかっている。兵庫県内でも7遺跡10枚に上る。
 入田稲荷前遺跡の3枚出土は、岡山県の高塚遺跡の25枚、福岡県の元岡・桑原遺跡群の8枚に次ぐ規模という。
 貨泉は中国・新時代(8~23年)の貨幣で、後漢時代の40年まで鋳造されていた。3枚は、直径2.27~2.32cm、重さは1.45~2.53g。重量約1・5~2・5g。中央に四角い孔(7~8mm)が開いており、片側の面に「貨」と「泉」の文字がある。大きさや重さから、後漢初頭に造られた可能性が高いと判断した。
讃岐・阿波地方から搬入された土器も出土した。
周辺に弥生時代の拠点集落跡もあり、吉備地方や四国を経由した交易などで流入したと推測される。
 南あわじ市では15年4月に祭祀道具「松帆銅鐸」7点が見つかるなど、弥生時代の青銅器が集中出土している。弥生時代最大級の鉄器工房である五斗長垣内遺跡や、中国鏡片が発見された舟木遺跡(いずれも淡路市)とは同時代に当たるため、瀬戸内海を通り畿内への玄関口となる淡路島の重要性を示す遺物としている。
 出土品は20日~7月2日に滝川記念美術館「玉青館」(南あわじ市松帆西路)で有料公開される。
[参考:神戸新聞、共同通信、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 松帆銅鐸
 舟木遺跡
 五斗長垣内遺跡


古代中国の貨幣、淡路島で出土 交通の要衝示す
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野見宿禰神社 墨田区亀沢2-8-10

2017年05月13日 | Weblog
  
鳥居、拝殿、本殿                          拝殿と石板敷き広場                        本堂裏

昨日(5月12日)に第72代横綱稀勢の里が、墨田区の 野見宿禰(のみのすくね)神社で土俵入りを奉納しました。
場所は、拝殿前の石板敷きの広場。

相撲の始祖とされる野見宿禰を祀る神社で、本堂裏にある説明板に下記が記されている。
かつてこの東側に相撲の高砂部屋がありました。明治18年(1885)に親方の高砂浦五郎が、津軽家上屋敷の跡地であったこの地に、相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まりです。
石垣の石柱には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、本場所前には必ず、相撲協会の神事が行われます。
境内には、昭和27年(1952)に相撲協会によって建てられた歴代横綱石碑があり、その一基には、初代の明石志賀之助から四十六代朝潮太郎までの名前が、もう一基には四十七代柏戸剛以降の名前が刻まれています。

鳥居の左奥に「歴代横綱の石碑」があり、そこの説明板には、下記が記されている。
歴代横綱の石碑
所在地 墨田区亀沢二丁目八番十号 
野見宿禰神社内
 歴代横綱の名前を刻んだ二基の石碑は、昭和27年(1952)十一月に日本相撲協会が建立しました。一基は、初代明石志賀之助から四十六代朝汐(潮)太郎までの名前を刻み、もう一基には、四十七代柏戸剛以降の名前が刻まれています。
 野見宿禰神社は、明治十七年(1884)に初代高砂親方(高砂浦五郎)が相撲の始祖とされる「野見宿禰」を祀ったのが始まりです。
 玉垣には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、今でも東京での本場所前には、必ず日本相撲協会の関係者が神事を執り行うなど、相撲界が信仰している神社です
 創建当時は、神社の東側に初代高砂親方の部屋があったそうです。また、この地は、陸奥弘前藩津軽家の上屋敷跡でもあります。
 平成二十八年三月
                            墨田区教育委員会

野見宿禰と相撲については、
『日本書紀』垂仁天皇七年七月の条に、
 左右奏言。當麻邑有勇悍士。曰當麻蹶速。其爲人也。強力以能毀角申鈎。恒語衆中曰。於四方求之。豈有比我力者乎。何遇強力者。而不期死生。頓得爭力焉。天皇聞之。詔羣卿曰。朕聞。當麻蹶速者天下之力士也。若有比此人耶。一臣進言。臣聞。出雲國有勇士。曰野見宿禰。試召是人。欲當于蹶速。即日遣倭直祖長尾市喚野見宿禰。於是。野見宿禰自出雲至。則當麻蹶速與野見宿禰令捔力。二人相對立。各擧足相蹶。則蹶折當麻蹶速之脇骨。亦蹈折其腰而殺之。故奪當麻蹶速之地。悉賜野見宿禰。是以其邑有腰折田之縁也。野見宿禰乃留仕焉。
と記されています。
要約すると、垂仁天皇は、当時天下の力士だった當麻蹶速(たぎまのけはや)に並ぶ強い相手はいないかと問うたところ、出雲国に野見宿禰という勇士がいるとのことで、早速出雲から呼ばれ、二人は捔力(相撲)を取ることになった。その結果、野見宿禰が勝ち、當麻蹶速の地・当麻邑を賜った。野見宿禰は留まり、天皇に仕えた。
ということです。



稀勢の里、相撲の神様まつる神社で奉納土俵入り
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松江市朝酌町・朝酌菖蒲谷遺跡 古墳時代前期の土器、奈良時代の集落跡が見つかる

2017年05月11日 | Weblog
 松江市は10日、同市朝酌町の「朝酌菖蒲谷(あさくみしょうぶだに)遺跡」から、奈良時代(8世紀)の建物跡や古墳時代前期(4世紀頃)の土器などが見つかったと発表した。
 市が昨年12月から山の斜面約1000㎡を調査し、北側から古墳時代の遺構を確認。壺を埋めた穴(幅約20~30cm、深さ約10cm)が3か所で見つかった。古墳の裾に壺などを埋納する事例があり、近くに古墳がある可能性が出てきたとし、また、壺の破片は乳児などを埋葬する小児棺の可能性があるという。
 一方、南側では、奈良時代の掘立柱建物跡が見つかったほか炭を燃やしたとみられる「焼土坑」から鉄片が見つかっており、鉄製品を修理する簡単な鍛冶工房が存在したと考えられるという。
この近くには大橋川を船で渡る「矢田の渡し」が現存。奈良時代に編纂された出雲国風土記には「朝酌促戸渡(あさくみのせとのわたり)」の記述があり、市は渡し場近くにあった庶民の集落の一部とみている。
 また、幅2・5m程度の道路状遺構が見つかっており、片側だけに側溝が設けられていたことなどから、「出雲国風土記」に記述のある古代の官道「枉北道(きたにまがれるみち)」から分かれた枝道だったと推定している。
 柱穴付近では小さな脚を持つ円形の硯の破片も出土した。
 現地説明会は14日午前10時に開かれる。 「矢田の渡し」乗船場に集合。
[参考:読売新聞、産経新聞、毎日新聞、NHK島根ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 松江市朝酌町



キーワード; 朝酌菖蒲谷遺跡
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いわき市・塚前古墳 東北最大の古墳時代後期前方後円墳

2017年05月10日 | Weblog
 福島大の考古学研究室(菊池教授)は10日、いわき市小名浜林城にある「塚前(つかまえ)古墳」を調査した結果、全長が最大95~120mの前方後円墳と推定し、古墳時代後期(6世紀)では東北最大と発表した。
 その他の概要は前方部長さ70~45m、前方部幅45~65m、後円部直径約53mと推定。
 これまで最大とされてきた「下総塚(しもふさづか)古墳」(福島県白河市)の全長72mを上回るという。
[参考:下野新聞、共同通信、産経新聞、読売新聞、福島民報、NNN福島中央テレビ、福島大学行政政策学類考古学研究室Home]

2017.10.11追記
 これまで古墳時代後期(6世紀)で東北最大とされてきた下総塚(しもふさづか)古墳(6世紀後半、前方後円墳、白河市)は全長72m(後円部直径45m)であった。
 今回の塚前古墳(6世紀中頃)は全長が最大95~120mの前方後円墳(後円部直径53m)であり、下総塚古墳を上回る規模である。
 ほかにもと調べてみると、下記古墳が見つかった。
 神谷作101号墳(6世紀前半、いわき市平神谷作)は前方後円墳とみられ、後円部直径42m、前方部10m以上が見つかっている。全長は70m以上ありそうである。


古墳時代後期で東北最大 小名浜の「塚前古墳」福大が調査

福島の塚前古墳、後期古墳で東北最大規模






キーワード: 塚前古墳
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする