歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

各務原市・坊の塚古墳 後円部が3段の階段状

2017年01月29日 | Weblog
 各務原市は、昨年度から始まった「坊の塚古墳」(同市鵜沼羽場町5丁目)の発掘調査の結果を発表した。
 今年度は後円部の斜面に沿って約35mのトレンチを掘った。
 その結果、後円部は3段の階段状であることが判明。昨年に続いて墳丘頂上に並べられていた埴輪の破片や斜面を覆っていた葺石が見つかったが、段差の境目には葺石を支える大型の「基底石」が確認された。
 坊の塚古墳は古墳時代5世紀前半に造られた前方後円墳で、全長約120m、後円部の高さ約10mと県内で大垣市の「昼飯大塚古墳」の全長150mについで2番目の規模。
 同古墳からは、以前、滑石製琴柱形石製品(恵解山型)1個が出土している。
[参考:朝日新聞、各務原市埋蔵文化財調査センターHP]

過去の関連ニュース・情報
 琴柱形石製品
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淡路市・舟木遺跡 弥生時代の鉄器工房跡が4棟出土

2017年01月25日 | 竹姫(浄岸院)
 兵庫県と淡路市の教育委員会が25日、淡路市舟木にある弥生時代後期の山間地集落遺跡「舟木遺跡」の発掘調査で、新たに鉄器生産工房跡と、手工業品を生産した可能性のある工房跡、鉄器などが見つかったと発表した。
 見つかった4棟の大型の竪穴建物跡のうち3棟は敷地が円形で直径が10mを超える大型で、うち1棟から4基の炉の跡が確認された。柱が外側に寄り中央部が広いことから、作業をする空間だったと想定される。また4棟全てから鉄器製作に使ったとみられる石器を多数発見。鉄器は計57点見つかり、鍛冶関連のほかに針状鉄器など小型工具が出土した。針状鉄器は小さいものでは長さ4mm、幅1mmで、何らかの手工業品を生産する大規模な工房群が存在した可能性があると指摘している。鉄の加工に使った台石や砥石など石製工具42点や、祭事用と考えられる弥生時代終末期(3世紀初頭)の土器も出土した。
 過去に同市で見つかった近畿最大の鉄器生産遺跡「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」(同市黒谷)を上回る規模とみられる。工房があった時期は同時に出土した土器の年代から、2世紀後半とみられる。 
 五斗長垣内遺跡では、鉄鏃などの武器類が多く出土した一方、舟木では明確に武器と認められるものはなかった。二つの集落はわずか約6kmの距離でほぼ同時期に存在していたが、生産物に違いがあることが判明。五斗長垣内が消滅した後も舟木で鉄器生産が続けられていたことも分かった。
 2月5日午後1時半から、北淡震災記念公園セミナーハウス(同市小倉)で発掘調査成果報告会が開かれる。
[参考:神戸新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 淡路市・垣内遺跡(五斗長垣内遺跡)


近畿最大?淡路に鉄器工房跡 弥生時代の舟木遺跡
淡路・舟木遺跡、弥生鉄器の大産地か 工房が集中
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亀岡市・千代川遺跡 国府の建物跡?が出土

2017年01月25日 | Weblog
 京都府教委と亀岡市教委が24日、丹波国の国府跡と想定する亀岡市千代川町の千代川遺跡の2カ所で、平安時代の掘っ立て柱の建物跡2棟分や奈良時代後期から平安時代前期にかけての溝跡などが見つかったと発表した。ほかに墨書の入った土器片などが出土した。 南北、東西に長い建物跡が2棟分出土。柱穴は約70cm四方で、直径20~25cmの柱を使っていたとみられる。ともに方位をほぼ北にそろえて建てられていた。平安時代前期9世紀代に建てられた可能性があるという。同遺跡では同時代の建物跡が数十棟分出土しているが、今回の調査地は家老ケ岳の南側にあたり、当時の建物群の北端に推定される。
 建物跡から南東約250mの調査地からは、同遺跡では最大規模となる幅3m以上の溝跡(区画溝)が出土。また溝の中から800年前後に書かれたとみられる器の底に「大中」と墨書された土器も出土した。
 現地説明会は26日開かれる。午後1時半から建物跡(府教委)、3時から溝跡(市教委)。
[参考:京都新聞、産経新聞、朝日新聞]

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 亀岡市


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蔚州・霊鷲寺址 3次学術発掘調査完了 さらなる僧坊跡を確認

2017年01月17日 | 韓国の遺跡・古墳など
蔚山博物館は13日、2012~2015年にかけて行った霊鷲寺址(蔚山市記念物24号)3次学術発掘調査を完了し、霊鷲寺が講堂-金堂-東・西塔-中門-回廊からなる寺院であったことが明らかになったと、13日明らかにした。今回は、さらなる僧坊跡を確認した。
霊鷲寺(영축사)は蔚山広域市蔚州郡青良面粟里(울산광역시 울주군 청량면 율리)に位置し、「三国遺事」に創建記録が記されている寺院であり、新羅第31代神文王3年(683)に宰相忠元公が建議して建てた統一新羅時代の双塔一金堂式伽藍である。
<規模>
中心寺域は東西69.6m×南北56.5m。
中門跡は正面3間×側面2間(8.6m×5.1m)と回廊跡。 
金堂跡は5間×5間 (16.4m×16.4m)の正方形形状。
講堂跡は正面7間×側面4間(24.5m、15m)。
回廊は東西南北全てにおいて側面1間である単廊構造。
東西両塔は、塔の領域を表示する地台石のある塔区が確認され、慶州・感恩寺址(감은사지)三層石塔と千軍里(천군리)三層石塔の様相と似ているという。
僧房は中心寺域を囲んで講堂左右と北側で確認された。
[参考:2017.1.13聯合ニュース、過去の関連情報・ニュース]
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さいたま市 調神社

2017年01月16日 | Weblog
 
               調神社                                   新旧狛兎

今年の初詣は、さいたま市の調(つき)神社でした。 (埼玉県さいたま市浦和区岸町3丁目17-25)
鳥居のない、狛犬の代わりに狛兎がいます。
古来より、社名の「調(ツキ)」を「月」にかけた月待信仰と結びつき、兎を神使とみなす兎信仰が行われるようになったといいます。
古代の当地は武蔵国足立郡に属しており、『延喜式神名帳』に記載される「足立郡四座/大一座/小三座、足立神社 氷川神社 調神社 多気比売神社」の調神社に比定されています。
境内の由緒説明板には、
「当社は天照大御神、豊宇気姫命、素盞嗚尊の三柱を祭神とする。
延喜式内の古社にして古くより朝廷及び武門の崇敬篤く調宮縁起によれば、第九代開花天皇乙酉三月所祭奉幣の社として創建され第十代崇神天皇の勅命により神宮斎主倭姫命が参向此の清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御倉を建てられ、武総野の初穂米調集納蒼運搬所と定めらる。倭姫命の御伝により御倉より調物斉清の為め当社に搬入する妨げとなるため鳥居、門を取拂はれたる事が起因となり現今に到る。」
と書かれています。
ところが、祭神については、『江戸名所図会』には「月読命一座」とし、『新編武蔵風土記稿』では後人の擬書に「稚日本根子彦大日天皇(開花天皇)と瀬織津比咩」としているものがあったり、土地の人は、「日の神、倉稲荷玉命」の二座を祭ると記しています。
調神社の所在地(町名)は岸町ですが、以前も岸村でした。『新編武蔵風土記稿』に、「岸村は(略)、上古此の辺大なる川ありて其岸にのそみし村なる故かく名つくと云」と記されています。この辺一帯は台地となっており、当神社鎮座地は標高(海抜)16mです。大宮区の氷川神社が標高12mであることからみても高台にあることがわかります。西南方向約1kmのところにある白幡沼の標高が9mであり船着場が近くにあっても地形的に不思議ではないです。
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