歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

渋谷区広尾・瑞泉山祥雲寺 金森家の菩提寺として

2011年05月27日 | 瑞泉山祥雲寺
 再度、渋谷区広尾の祥雲寺に行ってきました。 いつもは、朝早いうちに行くのですが、今回は夕方近くからでした。
 カラスに襲われました。 といっても威嚇ですが、頭上すれすれをめがけて5、6回飛んできて威嚇されました。
 祥雲寺の墓地は、北側3分の1くらいが丘のようになっていて、多少木が生えており、もしかしたらそこに巣を作っているのかもしれません。 夕方に行かれる方は是非気をつけてください。

 さて、祥雲寺および京都・大徳寺と金森家の関係について、少々調べました。

 まず、大徳寺との関係は、資料「大徳寺の歴史」(山田宗敏編 平成5年5月 毎日新聞社発行)によると、
■ 金森兵部卿法印素玄五郎八長近(1524-1608) 飛州(飛騨)高山城、三万八千石、織田信長の冥福を薦るために、大徳寺に金龍院を剏(創)る。(法名:金龍院素玄要仲玄英)
 曾孫長門守頼直(1621-1665) 飛州に大隆寺を建てる。禅海俊公を開祖とする。
 長近の孫・飛騨守重近(1584-1657)は病と称して辞職する。 卜居し、京都にて剃髪し入道となる。 名を宗和といい、茶会を能くし、世に名声あり。
■ 金龍院 慶長年中、金森五郎八長近が松嶽紹長を請じて造立する。 松嶽紹長は故あって山門を擯出したため、傳叟を請じて住持とした。天瑞の西にあり。
■ 妙高山大隆寺 某年、飛州金森長門守頼直は、傳叟を嗣ぐ禅海(宗俊)禾上を開祖として高山城に建立する。 2世は大陰禾上。金龍院に属する。(注2)
のようになります。
(注1) 金龍院は、文禄元年(1592)に建立されましたが、明治22年に廃寺となり、同じ大徳寺の龍源院に統合されました。
(注2) 元禄5年(1692)、6代藩主金森頼時が出羽国上山藩(現山形県上山市)に移封となると衰退し、安永7年(1778)に大而宗龍が曹洞宗の寺院として再興。 境内には金森頼直夫妻とその子の墓碑がある。

 金森家は江戸においては、広尾にある大徳寺派・瑞泉山祥雲寺を菩提寺としました。
 先日、ブログ・「飛騨の歴史再発見!」で金森氏の戒名がたくさん書かれていたので、それを書かれた徳積善太さんにリンクさせていただくことをお許しいただいて、それを元に今回、祥雲寺を再訪問したしだいです。
 金森氏と祥雲寺の関係

 もとは、いくつかのあるいはたくさんの墓が並んでいたと思われますが、どうやら今は少なくとも2つに集約されてしまっているようです。 わかっている2つの墓石(塔)には下記のように刻まれています。
 

左: 源姓金森累世之塔
右:(表)源姓土岐金森累世父母霊
  (裏)延享二乙丑年(1745)八月十二日兵部侍部源頼錦建
  (表下部基礎石)覚樹院殿前兵部侍郎茅山清藍大居士

 金森頼錦(1713-1763)は1736年に家督を継いでいますので、その9年後にこの墓塔を建てました。 藩内の騒動により、1758年改易され盛岡藩の南部利雄に預けられた後、宝暦13年(1763年)6月6日に死去しました。 墓の下部基礎石に小さく刻まれた戒名は、恐らく死去後に刻まれたと思いますが、「茅山清監」の部分は、「茅」は「芳」あるいは「第」、「清」は「青」と書かれているものがあります。 先の「金森氏と祥雲寺の関係」では「第山清藍」としています。 「飛騨遺乗合符」(桐山力所編纂)の「金森家大系図」では「芳山清藍」としています。ちなみにWikipediaでは「芳山青藍」としています。

追記2011.6.17 「金森氏雑考」(大正十年十一月 陸軍中将・押上森蔵著)によれば、金森頼錦が亡くなった盛岡の地での墓臺石には、「『樹覚院殿兵部侍郎茅山清藍大居士宝暦十三年六月六日』と彫し」と記しています。樹と覚が反対になっていますが、「茅山清藍」としています。

追記2011.1017 前述の記載内容は、文面の流れから盛岡の地での墓石のものかと判断したが、実際に盛岡の地・法泉寺に赴いてみるとまったく違った内容であった。それについては、改めて記すことにする。

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渋谷区広尾・瑞泉山祥雲寺 黒田継高室・圭光院、黒田治之室・瑶津院および黒田吉之の墓

2011年05月05日 | 瑞泉山祥雲寺
 筑前福岡藩黒田家の菩提寺(墓所)は、下記6ヶ所にある。 墓といっても、埋葬されたものでなく五輪塔、石塔、墓石だけの場合もある。 また、一人の墓が数ヶ所に建てられていたり、改葬や合葬も行われているため、詳しくは専門家の調査したものを調べて見るのがよい。
 6ヶ所の菩提寺(墓所)を設立順に並べると下記のとおりとなる。
■臨済宗大徳寺塔頭龍光院 (1608建立)
■臨済宗大徳寺派横岳山崇福寺(そうふくじ) (1612-1624にかけて中興再建) 福岡市博多区千代4丁目7−79
■臨済宗大徳寺派瑞泉山祥雲寺(しょううんじ、旧・興雲寺、1623建立)
■真言宗南岳山東長寺(とうちょうじ) (1623忠之藩主時代に帰依) 福岡市博多区御供所町6-1
■臨済宗大徳寺派佛陀山天真寺(てんしんじ) (1661建立) 東京都港区南麻布3丁目1−15
■青山霊園 東京都南青山2丁目32−2

上記6ヶ所に埋葬されている、筑前福岡藩主および世嗣の生存年、父親、埋葬場所、法号を下記に記す。ただし、埋葬場所は前述の通り不確かである。

筑前福岡藩黒田家
開祖 如水(孝高) 1546-1604 父・職隆 大徳寺塔頭龍光院、崇福寺 法号:龍光院如水圓清
初代 長政 1568-1623 父・如水 崇福寺、祥雲寺(旧・興雲寺)、 法号:興雲院古心道卜
二代 忠之 1602-1654 父・長政 東長寺 法号:高樹院傑春宗英
三代 光之 1628-1707 父・忠之 東長寺 法号:江竜院淳山宗真
四代 綱政 1659-1711 父・光之 崇福寺 法号:霊源院回山紹光
 世嗣 吉之 1682-1710 父・綱政 祥雲寺 法号:乾光院範雄道洪
五代 宣政 1685-1744 父・綱政 天真寺 法号:泰林院義山道勇
六代 継高 1703-1775 父・長清 崇福寺 法号:功崇院章山道善
 世嗣 重政 1734-1762 父・継高 崇福寺 法号:瑛光院瑞嶽紹鳳 (注:黒田家譜では1737年生まれ)
七代 治之 1753-1781 父・一橋徳川家宗尹の五男 崇福寺 法号:鳳陽院典山紹靖
八代 治高 1754-1782 父・多度津藩主京極高慶の七男 東長寺 法号:竜雲院徳巌道俊
九代 斉隆 1777-1795 父・一橋徳川家治済の三男 崇福寺 法号:敬徳院周山紹礼
十代 斉清 1795-1851 父・斉隆 天真寺 法号:乾竜院利山道見
十一代 長溥 1811-1887 父 薩摩藩主島津重豪の十三男 青山霊園
十二代 長知 1839-1902 父・伊勢津藩主藤堂高猷の三男 青山霊園
十三代 長成 1867-1939 父・長知 青山霊園
十四代 長禮 1889-1978 父・長成 青山霊園
十五代 長久 1919-2009 父・長禮 青山霊園

 今年の3月17日に記した、黒田重政室・菊姫(眞含院、1733-1808)の左右に並ぶ墓、第6代藩主・継高室圭光院と同7代藩主・治之室・瑶津院、さらに圭光院の実父・黒田吉之の墓があったので紹介してみる。


写真は、南を向いて後ろから、左から瑶津院、眞含院(菊姫)、圭光院(幸・こう)の墓が並んで建っている。 正面はすぐそばに塀があり、幅が狭い。なぜ、3人の室の墓が並んで建っているのか、いつ頃からなのかはまったくわからない。 それぞれに2つの石灯籠が立ち、墓と石灯籠を石の瑞垣で囲んでいる。その正面には手水鉢が置かれている。
 墓石には、それぞれ下記が刻まれている。
 ■安永戊戌七年(1778) 五月十七日    圭光院殿明心宗悟大姉
 ■文化五戊辰年(1808) 三月十七日    眞含院殿實高慈清大襌定尼
 ■文政三庚辰年(1820) 十一月二十四日 瑶津院殿瓊山妙瑩大襌定尼

写真は左が圭光院墓、右が瑶津院墓。
 継高(1703-1775)室: 黒田吉之女(黒田宣政の養女)・幸(圭光院、?-1778)
 重政(1734-1762)室: 薩摩藩主島津継豊女・菊姫(眞含院、1733-1808)
 治之(1753-1781)室: 榊原政永女・幸姫(瑶津院、?-1820)

 眞含院こと菊姫は6代藩主継高の世嗣・重政と結ばれ1男2女を生むが、長女・屋世(治之室)以外は夭折。継高は一橋徳川家・初代当主・徳川宗尹の五男・治之(1753-1781)を養嗣子に迎え屋世と結婚するが、屋世も11歳で死去した。重政自身も1762年に継高よりも早く亡くなってしまった。そのため、後継者問題で苦労した。 同じように治之も嗣子がないまま30歳で亡くなっている。 3人の室(女性)はともに長生きをしたが、後継者問題では苦しんだことであろう。


 さて、境内の墓地の秋月黒田藩の南隣に背の高い墓があり、「寶永七庚寅歳(1710) 七月初三日 乾光院殿中大夫前隅州刺史範雄道洪大居士」とあり、調べると圭光院の父・黒田吉之の墓とわかった。圭光院の墓を向いて(東向きに)建っているが、30mほど離れているだろうか。(上写真右側)
 また、黒田吉之の墓の左隣に五輪塔形の墓があり、かなり風化して見え難くなっているが、「寛永第五(1628)戊辰歳 七月廿六日 梅渓院殿天秀妙貞大禅定尼」と刻まれている。 松平忠良の娘で秀忠公の養女となって二代藩主・黒田忠之(1602-1654)に嫁いだ久姫の墓である。(上写真左側)

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キーワード:浄岸院(竹姫)
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渋谷区広尾・大徳寺派寺院 東江寺、霊泉院ほか

2011年04月30日 | 瑞泉山祥雲寺
 江戸名所図会によると大徳寺派瑞泉山祥雲寺には子院が8宇あったという。
 今は、子院でも塔頭でもなく、別の寺というがそんなものでしょうか。 でも、墓はすべて祥雲寺の境内にあります。

 江戸時代には、祥雲寺の塔頭または子院として、資料別に下記があげられています。
①「大徳寺の歴史」山田宗敏編、②「続江戸砂子」(1735)、③「改正新編江戸志」、④文政の「地誌御調書上帳」(1828) によると、それぞれあげている塔頭は、
① 景徳院、東江寺、龍興院(旧名霊泉)、天桂院、真常院、香林庵、栖玄庵 の7院
② 景徳院、東江寺、隆興院、天桂院、興常庵、香林庵、栖玄庵、春霄院 の8院
③ 景徳院、東江寺、隆興院、天桂院、真當院、香林庵、棲玄庵、春霄院 の8院
④ 景徳院(東江寺を合寺)、霊泉院、天桂院(元春霄庵)、真常庵、香林庵、棲玄庵 の6院

各塔頭の縁起を調べてみました。(寺院の前の、□:今も現存、■:なし)

■鳳翔山 景徳院
開山 愚渓宗智(祥雲寺2世黙翁宗淵の嗣法、?-1677)
檀家に武蔵国岡部藩主安部(あんべ)氏。
慶安2年(1649) 麻布日下窪に建立。
寛文8年(1668) 類焼のため本寺を移し再建。
寛文12年(1672) 東江寺と合寺。

岡部藩第五代藩主・安部信賢(1685-1723)の墓。
戒名は芳徳院殿春嶺宗融。墓石には「丸に三つ引両紋」と「丸に梶の葉紋」が刻まれている。
年代的には初代安部信盛(1584-1674)の墓があってもよさそうなのだが。
安倍氏の菩提寺は、埼玉県深谷市の曹洞宗源勝院にもある。

□妙高山 東江寺

 寺の建物の瓦には、信濃飯田藩主堀氏の梅鉢紋が使用されている。

開基 堀美作守親昌(法名:太玄院殿前作州太守寂然宗外大居士、1606-1673)、父・親良(法名・東江寺殿梅也宗月大居士、1580-1637)の菩提を弔うために建立。
開山 僊渓和尚(龍嶽宗劉の嗣法、?-1684)、①より中興開山・愚渓宗智とすべきか。
寛文元年(1661) 以前に、下野州那須郡烏山に建立(注1)。
寛文12年(1672) 信州飯田に転封により、寺を廃して、後に景徳院境内に再建する。①では愚渓宗智により当地に移すと。
景徳院と合寺。 当地には先に景徳院があり、そこに東江寺が移り、その後、東江寺の名前に改めたと思われる。
(注1)東江寺境内に入るとすぐ左に、「東江菴」と刻まれた古い石標が立っている。年号も刻まれているのだが、読み難くなっている。「寛永十四丁丑 五月十三日」と読んでみたのだが、二月二十三日、二月十三日、あるいは五月二十三日かもしれない。堀親良の号「梅也宗月東江菴」と命日を刻んだものと推定。 右写真は堀家墓。


堀家墓の墓誌には親良系(信濃飯田藩堀家)の戒名が刻まれている。
 (堀秀重) 東浄寺殿松林道伯大居士
 (堀秀政) 東樹院殿拾遺補闕高嶽道哲大居士
 (同室、喜多島良滋女?) 養珠院殿薫譽高嶽大姉
 (堀秀治) 賞泉寺殿節安存忠大居士
 (堀忠俊) 昌林院殿天叟實参大居士
 (堀親良(秀家)) 東江寺殿梅也宗月大居士
 (堀親昌) 太玄院殿寂然宗外大居士
 (堀親貞) 隆松院殿眞叟紹立大居士
 (堀親常) 芳林院殿性室道覺大居士
 (堀親賢) 東明院殿規俊宗頴大居士
 (堀親庸) 寛祐院殿龍眞義定大居士
など。(読みにくい字があり、間違いがあるかもしれないし、旧字は一部現代の文字になっているものがあるのでご容赦ください。) 堀秀政(東樹院)の部分を中心に一部拡大して表示します。

堀氏と大徳寺との関係では、まず、堀秀政(1553-1590)が、織田信長の供養のために、天正11年(1583)、大徳寺総見院(京都)に古渓宗陳銘の梵鐘(重文)を鋳造したことがあげられる。 その後、堀親賢(1684-1715)の時代の正徳3年(1713)、烏山にあった東江寺の梵鐘(万治4年(1661)堀親昌寄進)を改鋳し祥雲寺に寄進している。


堀親賢によって寄進された梵鐘は、今も祥雲寺の鐘撞堂に架かっている。
梵鐘の銘文は「武蔵野州瑞泉山祥雲寺鐘銘并序」から始まり、 
 (略)
 那須山之城主美作刺吏菅姓堀氏親昌丁先考東江院前美作刺吏従五位下菅原朝臣親良二十五遠年之忌新鑄鳧鐘以寄本寺
 (略)
 萬治四年龍集辛丑夏五月 日
         檀越美作刺吏従五位下菅原親昌
           冶工 山城大掾 藤原清光
           前大徳見住當山僊溪叟宗春 撰
  跋
鐘暦半百年所洪音嗄缺於越衆議革故錬冶勤以旧銘冀不廢先功故檀越曾孫石州刺吏従五位下菅原姓堀氏親賢施金助費以酬先志
  旹
正徳三歳舎昭陽大荒落仲冬中澣日
         住持比丘前徳禪桂州宗愞(注)謹誌
            椎名  伊豫藤原重休
            椎名  平藏藤原重祐
と刻まれている。
(注)愞 は忄(りっしんべん)でなく女へんが正しい。

□霊泉院 または龍興院(隆興院)、今は霊泉院
開基 出雲広瀬城主松平佐渡守近栄(結城秀康の孫)
開山 徳峯宗古(祥雲寺2世黙翁宗淵の嗣法、?-1705) 
寛文9年(1669) 当地を拝領し建立。

写真左は霊泉院、真ん中上は瓦当(三つ葉葵紋と五三桐紋)、右は出雲広瀬藩松平家墓(右が松平近栄公墓)

 出雲広瀬藩初代藩主松平近栄(ちかよし、1632-1717)は、寛文6年(1666年)に兄の松江藩主・松平綱隆から3万石を分与されて広瀬藩を立藩したとされるから、それから3年後にこの霊泉院を建立したことになる。
 墓石からはっきりと、「法雲院殿前上州刺史松隂宗長大居士 享保二丁酉年 九月十九日」と読み取れる。

■天桂院
④では、元は春霄(宵)庵と云い、後に天桂院と改めるとしている。ただし、②、③にも掲載されているので明確ではない。
寛永年中、麻布台本寺内に建立したが、寛文8年(1668)類焼のため当地に再建した。
開山 黙翁宗淵 (祥雲寺開山龍嶽宗劉の嗣法、?-1677)
資料「史料大徳寺の歴史」によると、開基は堀孫太郎親智(1628?-1666)。寛永14年(1637)親良から下野国に3千石を分かち給う。
「寛政重修諸家普」には、堀親智の法名は宗雲、渋谷の祥雲寺に葬るとしている。 先の東江寺の堀家墓(写真)には、おそらく親智系の墓誌があり、堀親智と思われる戒名「天桂院殿瑞溪宗雲」が刻まれている。
親智→親興→親賢と続き、親賢(1684-1715)は、本家の信濃飯田藩堀家第4代親常の跡を継ぎ信濃飯田藩第4代藩主となる。この時に、天桂院はなくなった可能性がある。

香林院
寛文5年(1665) 麻布小山に建立したが、寛文8年(1668)類焼のため本寺を当地に移し建立。
開基 大給縫殿頭真次(法名・香林院殿前尚衣徹景清暁大居士、1577-1646)、嗣子・乗次(1632-1687)が建立。
開山 絶山宗信(愚渓宗智の嗣法、?-1685)

■眞常庵
元禄8年(1695) 霊泉院開山の徳峯宗古が建立。④以後に廃寺。

■棲玄庵
元禄2年(1689) 霊泉院2世功海宗勲が建立。④以後に廃寺。

ほかに、末寺として天桂庵と龍護山大聖寺がある。
□天桂庵

年貢地(百姓地内)に敷地270坪として建立。
開山 東天宗嶽(?-1788) 
寛保2年(1742) 本庄柳島長寿寺持ちの庵であったが、祥雲寺塔頭香林院へ譲り受ける。
天明7年(1787) 香林院東天宗嶽(?-1788)の弟子尼妙立が附囑され、今の尼庵になる。
往時は、間口8間、奥行4間の本堂があった。

□龍護山大聖寺
前身は府中番場宿の曹洞宗高安寺の末・瑞龍山慶正寺。
寛延3年(1750) 香林院の東天宗嶽が慶正寺を香林院へ譲り受けて本山大徳寺末にし、祥雲寺の年貢地(百姓地内)に敷地736坪を引き建立したいと願い出て許可された。
安永4年(1776) 一宇の建立が未だされていなかったので、寺号を大聖寺と改号して建立することを改めて願い出た。
香林院の大聖寺分の過去帳によると 、開基は本還宗智居士 山中姓で先祖が山中鹿之助であるという。
東天宗嶽の入滅後、衰退をしたが、初代常盤津文字太夫が霊像を寄進し堂宇を修繕したという。
明治33年頃までの地図には臨済宗妙心寺派東北寺に隣接して、大聖寺あるいは大祥寺の名前となって存続している。今は廃寺となっている。

現在残っているのは、東江寺、霊泉院、香林院、天桂庵の4寺か。

[参考資料]
「大徳寺の歴史」山田宗敏編 平成5年5月 毎日新聞社発行
「渋谷区史」 昭和27年6月渋谷区役所発行
「新修渋谷区史」 昭和41年東京都渋谷区発行
「寛政重修諸家普」
「江戸名所図会」

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渋谷区広尾・瑞泉山香林院 奥殿藩初代・松平真次の菩提寺

2011年03月19日 | 瑞泉山祥雲寺


 臨済宗大徳寺派寺院のひとつである。 右写真は大給恒氏墓。

 寛文五年(1665)、大給藩主・松平乗次(のりつぐ、1632-1687)が父・真次(さねつぐ、1577-1646)の菩提を弔うため、絶山宗信和尚を開山として建立した。 真次の法名から寺号を香林院とした。
 初め麻布小山にあったが、江戸の大火により寛文五年(1668)現在地に移ったとする。
 大給(おぎゅう)藩(現豊田市)は、乗次、乗成、乗真と続き、乗真の時に藩庁を奥殿(現岡崎市)に移し奥殿藩とし、盈乗、乗穏、乗友、乗尹、乗羨、乗利、乗謨(恒)と続き、乗謨(のりかた、1839-1910)の時に藩庁を信濃佐久郡田野口村に移し田野口藩とした。乗謨は西洋式築城法による龍岡城五稜郭を作り、慶応3年(1867)に完成を見るが、大政奉還を迎えた。翌年、龍岡藩と改名するが、明治4年(1871)には廃藩となった。 明治2年(1869)7月に名前を大給恒(ゆずる)と改名している。

龍岡城五稜郭跡にある説明板

 香林院の墓は、瑞泉山祥雲寺の墓地にあり、大給松平家の藩主で香林院に墓があるのは大給恒氏だけらしい。
 ただし、岡崎市立中央図書館のホームページに、「松平乗友 文政7年(1824)10月4日に65歳で没した。法号は観誉玄圃呑海蓬瀛院。葬地は江戸祥雲寺塔頭香林院」と記されていた。

大給松平家の家紋
 「太輪に蔦」が大給松平家の家紋である。 香林院の本堂、院門にそれが見える。
院門の蔦紋の鬼瓦は「奥殿陣屋」にも見当たらないような大きさを誇る。香林院の格式の高さがうかがえる。
 龍岡城五稜郭跡に行った時に、近くにある新海三社神社に寄ってみた。
 神社の参道脇と境内に手水鉢があり、ひとつは「松平兵部少輔乗友」(下写真右上)、もうひとつには「天保六年(1835)八月 石見守 乗利」と刻まれ、ともに大きな蔦紋が陽刻されていた。

 左写真中央奥には、三重塔、手前には東本殿が並んで建てられている。ともに、重要文化財である。 右の写真は新海三社神社の前に立つ説明板。

 岡崎市奥殿町にある「奥殿陣屋」には2度ほど行ったことがある。 残念ながら、当時は残すべき写真の撮り方分からず、今欲しい写真が残っていない。 パンフレットだけは大事に手元に残っている。 庭に大輪の花が咲くバラがあり、季節になると、その場でバラの花を長い枝ごと切って販売してくれた。

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渋谷区広尾・瑞泉山祥雲寺 竹姫の娘・菊姫(眞含院)の墓

2011年03月17日 | 瑞泉山祥雲寺

 今日3月17日は、徳川綱吉および吉宗の養女であった竹姫(浄岸院、1705-1772)の娘であり、黒田重政(1737-1762)に嫁いだ菊姫(眞含院、1733-1808)の旧暦ではあるが命日である。
 広尾の祥雲寺の墓には、「文化五戊辰年三月十七日 眞含院殿實高慈清大襌定尼」と刻まれている。
 左隣には筑前福岡藩第6代藩主・継高室「圭光院」の墓、右隣には同7代藩主・治之室「瑶津院」の墓が並ぶ。

過去の関連情報
 2010.12.27 東京都目黒区・祐天寺 江姫・崇源院宮殿を初公開/江戸東京博物館

臨済宗大徳寺派 瑞泉山祥雲寺(しょううんじ)
 黒田忠之(1602-1654)は元和9年(1623)に、父長政(1568-1623)が没すると冥福を祈るために赤坂溜池の邸内(注1)に一寺を建立し、長政の法名・興雲をとって龍谷山興雲寺(注2)と号し、長政が崇敬した龍岳宗劉(大徳寺164世、?-1628)を講じて開山としたのが当山の始めであるという。

(注1) 寛永9年頃に作成されたとみられる武州豊嶋江戸庄図(江戸初期の地図)には、赤坂溜池の東側に黒田右衛門佐(忠之、1602-1654)の大きな屋敷が見られる。 忠之は1612年に右衛門佐に任官され、1623年に筑前福岡藩主になっている。
(注2) 渋谷区HP(区指定文化財→区指定文化財 黒田長政の墓)には、前述のことに加えて、「福岡藩主黒田長政は、京都紫野大徳寺の龍岳和尚に深く帰依していたので、元和9年に長政が 没すると、嫡子忠之は龍岳を開山として、赤坂溜池の自邸内に龍谷山興雲寺を建立しました。寛文6年(1666)には麻布台に移り、瑞泉山祥雲寺と号を改め、寛文8年(1668)2月1日、寛文の大火(注3)により現在の地に移りました。」としている。
 また、江戸名所図絵では、「昔は赤坂の藩邸にありしが、麻布谷町の上の方へ移し、つひに明暦4年(1658)今の地に引くとぞ。」と書いている。
(注3) 寛文8年(1668)2月、牛込酒井忠直邸からの出火他2件と、同月6日小日向(現・文京区)からの出火を合わせ、被害は武家屋敷2,400余り、寺社130余り、町屋132町、農家170に及ぶ。

 これらの記述は、いずれも黒田家側からみたもので、祥雲寺に墓がある戦国時代から江戸時代にかけての名医師・曲直瀬東井玄朔(二代道三、1549-1632)について調べていくと違う見方もできる。 朝日日本歴史人物辞典では、「玄朔は麻布に薬園地を与えられ、そこに生前建てていた瑞泉山祥雲寺(のち渋谷へ移転)に葬られた」としている。 さらに、現在の祥雲寺は、玄朔の下屋敷があった場所だとしているものもある。

 別の角度から見ると、京都・大徳寺の塔頭に、長政が黒田如水(1546-1604)の菩提を弔うために建立した龍光院があり、一方、曲直瀬正琳(3代道三、1565-1611)が初代道三・曲直瀬正盛(1507-1594)の菩提を弔うために建立した玉林院がある。 初代道三および二代道三(玄朔)はともに法印であった。
 黒田家、曲直瀬家とも大徳寺とは深い関係があったわけである。

2011.3.20追記
 資料「大徳寺の歴史」(注4)によると、
 「初在江戸麻布、名曰龍谷山興雲寺、元和中建、龍岳禾上為開祖、寛永中、移麻布南岡、改曰瑞泉山祥雲寺、寛文八年移渋谷、属玉林院、筑前国主黒田氏檀護干此」
 と記されている。また、祥雲寺近くにある仏陀山天真寺(開祖仙渓宗春)も属玉林院となっている。
[(注4)参考資料. 「大徳寺の歴史」 山田宗敏編 平成5年5月 毎日新聞社発行]


 写真 上左:境内、上右:黒田長政墓、下左:曲直瀬東井玄朔墓、下右:秋月黒田家墓群


 祥雲寺の扁額に、「朝鮮国 花菴書」と書かれています。花菴こと李爾芳(1676-?)は、正徳元年(1711)に第8回朝鮮通信使の写字官として派遣されて日本にやって来ました。
 李爾芳については、日本はおろか韓国での情報も非常に少なく、出生などについてもわかりません。名前の読みについても、インターネットで調べられている方が時々いるようですが、今のところそれらしいものはありません。ただ、ハングル読みで이이방ですから、日本語読みにすると、「イ・イホウ」あるいは「リ・リホウ」でしょうか。

関連情報
 瑞泉山祥雲寺



キーワード:浄岸院(竹姫)
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