歴歩

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河内長野市・烏帽子形城跡 空堀から「堀内障壁」が見つかる

2008年12月13日 | Weblog
 市教育委員会は12日、16世紀後半の烏帽子形城(えぼしがたじょう)跡(同市喜多町)で、空堀の中から敵の移動を妨げる「堀内障壁」が見つかったと発表した。関西では、豊臣(羽柴)秀吉が築いた大坂城の例しかなく、その時期よりも早く貴重な資料。
 空堀は二重になっており、深さ約4mの内堀の1カ所に障壁が残っていた。高さは約1.2m、厚さは最大約5mとみられる。空堀は通路としても使われたため障壁を設けたらしい。
 市は2005年度から城跡を調査。今回は堀の1区画(横3m、縦5m)を2m掘り下げたところ、2か所で、堀と直交するように固い岩盤で造られた堀内障壁の一部(高さ約1・2m)が確認された。
 文献によると、1584(天正12)年に秀吉の命令で、根来寺(和歌山県)を攻略するための前線基地として、廃城となっていた烏帽子形城を岸和田城主が改修したとあり、堀の形状などから、その時に築造された可能性がある。
 堀内障壁は、関東で勢力を持った後北条氏の城に特徴的な施設で、関東、東海地域の約30の城で確認されている。
 現地説明会は14日午後1~3時。問合せは、河内長野市教委へ。
[参考:共同通信、読売新聞]

備考:
小田城跡
水戸城跡
小田原城跡
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栃木県壬生町・大光寺町 吾妻古墳 全長128mを確認 現地説明会12/13

2008年12月13日 | Weblog
 本日行われた、吾妻古墳現地説明会のニュースが下野新聞で18枚の写真とともに報道されていました。約200名が参集した模様です。 

[12月11日掲載分]
 県埋蔵文化財センターより、現地説明会のお知らせの案内が発表されました。
 前回と今回の計測結果より全長が127.8mとなり、それまで最大であった小山市琵琶塚古墳(全長123.1m)を抜いて、栃木県最大の古墳と確認されたそうです。また、横穴式石室が約100年ぶりに見られるとのことです。
 日 時:  平成20年12月13日(土) 10:30~11:30 (小雨決行)
 場 所:  吾妻古墳の南西川 (トヨタホーム工場の東側)
 問合せ: (財)とちぎ生涯学習文化財団埋蔵文化財センター
 内 容:
① 後円部の北側で墳丘の端が確認され、昨年確認された前方部の端を考慮すると全長が127.8mとなり、それまで最大であった小山市琵琶塚古墳(全長123.1m)を抜いて、栃木県最大の古墳と確認された。
② 周堀の深さは最大で2.8mであり、かなりの掘削をして造られていたことがわかった。また、外側を調査した結果、二重目の堀や周掘を巡る土手などは存在しないことを確認。
③ 2段目の墳丘頂上や斜面、裾から埴輪片(殆んどが土管のような円筒埴輪)が多数出土し、表面にハケが見られる特徴などから6世紀後半に築造されたと考えられる。
④ 前方部で横穴式石室が確認された。奥行き2.4m、幅1.7mの広さで玄室と考えられ、両側の壁と奥壁は、それぞれ1枚石を使用し、内面が赤く塗られている。
 など
[参考栃木県埋蔵文化財センター]

備考:
 今年1月に発表された報道記事では、全長134m、2段造成。さらに、出土する埴輪の大半が大型の円筒埴輪で、ハケメが細かいのが特徴などから、古墳の南約3kmにある「飯塚埴輪窯跡」(小山市)の生産品に似ており、古墳は6世紀後半に造られたことが裏付けられたとしていた。また、堀を含めた長さは165mで、琵琶塚古墳(200m)、小山市の摩利支天塚古墳(197m)に次ぐ第三位の大きさに対しては変更がない模様。
[参考:2008.1.17東京新聞、毎日新聞]

[壬生領史略(嘉永3年(1850)編纂)]
 「(吾妻古墳の石室は)南一方に口あり。厚石を以、上と左右を五六尺に囲、夫より奥に入には、幅三尺五六寸、竪四尺四寸計に穴を穿あり、此の穴を潜りて奥に入ば、九尺四方計、高さ八九尺。皆厚石を以て囲たり。」
 これより、羨道:高さ、奥行き約1.8m、玄室:2.7m四方が推定されていた。

[現地の説明版より]
 国指定史跡 吾妻古墳(あずまこふん)
 昭和45年7月22日指定 壬生町大字藤井字吾妻  栃木市大光寺町
 吾妻古墳は、黒川東岸の台地上に築かれた前方後円墳です。墳丘は二段につくられ、墳丘第一段の平坦面(基壇・・きだん)が幅広くつくられているのが特徴です。墳丘の全長は第一段が117m、第二段が86mあり、堀(周湟・・しゅうこう)の底からの高さは約10mあります。墳丘の周囲には、保存の良い状態で堀が廻っています。東側では、堀の内側に突き出した張り出し部がみられ、堀を渡るための橋がかけられていたと考えられます。堀を含めた古墳の総全長は約170mに達し、壬生町では最も大きな古墳となります。
 吾妻古墳の石室については、昔の記録から凝灰岩の切り石を使用した横穴式石室が前方部前端につくられていたことがわかっています。石室の玄門(げんもん)は、現在壬生城址公園内に保存されています。墳丘からは埴輪が出土しており、これらの資料から吾妻古墳は古墳時代後期(今から約1400年前)につくられた古墳と考えられます。
 平成3年3月 壬生町教育委員会
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宗像市 田熊石畑遺跡 青銅武器計15本出土 現地説明会 12/14

2008年12月13日 | Weblog
 本日の新聞ニュースでも、明日開催の現地見学会の記事がありました。
 市の中心部に位置する遺跡の面積は3万㎡を超え、周辺には弥生時代前期初頭の環濠集落跡などがある。
 7月上旬までに出土した青銅武器は15点を数えたが、内訳は、木棺墓9基のうち6基から中細形・細形銅剣9本▽銅戈3本▽銅矛3本。
 見学会の内容は遺跡内の見学と、出土遺物の展示。
 青銅器や石包丁などの実物を初公開するほか、実物大の木棺模型などを展示する。
 墓域のほか、同遺跡内で新たに見つかった環濠、貯蔵穴、高床式倉庫群の掘立柱建物の遺構見学もある。
 市教委文化財担当者が説明に当たり、遺跡内には簡易の展望施設も設置する。
 日 時:12月14日(日曜日)午前10時から午後4時(少雨決行)
 会 場:宗像区検察庁横
[参考:西日本新聞、毎日新聞]

[12/1掲載分]
宗像市 田熊石畑遺跡 青銅武器計15本出土
 宗像市より12月1日付けで、田熊石畑遺跡現地説明会のお知らせがありました。
 内容は、遺跡内の見学と、出土遺物の展示とだけしか書かれていませんが、台地の北東部から弥生時代前期の環濠の出現したほか、出土品もいろいろある模様です。
 ちなみに、7月上旬までに出土した青銅武器は15点を数えていました。
 日 時:12月14日(日曜日)午前10時から午後4時(少雨決行)
 会 場:宗像区検察庁横

[2008.7.2掲載分]
宗像市 田熊石畑遺跡 青銅武器8本が出土し 合計13本に  
 田熊石畑(たぐまいしはた)遺跡で弥生時代中期前半(紀元前2世紀)の墓から銅剣などの青銅武器8本が新たに出土し、つい先日6月21日に青銅器が5本が見つかったことが発表されてから合計13本となった。
 約200㎡の範囲で、規則的に配列された9基の木棺墓が確認され、うち5基から、新たに細形、中細形の銅剣4本、銅戈2本、銅矛2本が見つかった。装身具も勾玉、管玉、垂飾が出土した。
銅戈の1本は全長13センチで、同時期の出土品としては最小。
 この時期の青銅武器の出土数として、これまで吉武高木遺跡、吉武大石遺跡(福岡市西区)の各11本が最多で、宇木汲田(うきくんでん)遺跡(佐賀県唐津市)の9本、吉野ヶ里遺跡の8本が続く。田熊石畑遺跡はこれを上回る。
同時代の吉武高木遺跡(福岡市西区)や、吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼市、吉野ヶ里町)の出土数をしのぐもので、宗像地域に福岡平野や佐賀平野と並ぶ有力な地域集団がいたことを表すものと専門家は注目する。
[参考:読売新聞、西日本新聞]
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