歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

中野市・柳沢遺跡 昨年出土の礫床木棺墓のひとつが県内最大規模と判明

2008年12月17日 | Weblog
 長野県埋蔵文化財センターは15日、柳沢遺跡で昨年出土した礫床木棺墓群の中央部分の墓が、県内で見つかっている中で最大規模だったことが調査で分かったと発表した。
 77個の管玉を確認。約40m南側から同時代とみられる弥生時代中期の青銅器の「銅鐸」「銅戈」が出土しており、埋葬されたのは集落のリーダー的な人物で、青銅器と係わりがあったと考えるほうが自然とみている。
 礫床木棺墓は底に小石を敷き詰め、遺体を板で四方に囲って盛り土をしたと考えられる埋葬法で、県内特有の形態という。
柳沢遺跡からは18基の墓と、さらに北側約40mの地点で2基の計20基の墓が見つかった。
 多くの墓が縦約1.5m、横約60cmであるのに対して、中央部分の墓は縦約2・5m、横約2・3m。遺体安置部分が縦約1・4m、横約70cmで、その周りをたくさんの大きめの石で囲んでいる。石は近くを流れる千曲川のものとみられる。
 同木棺墓は、同遺跡を含め長野市や松本市など10遺跡、計89基となるという。
 昨年12月1日同新聞で、中野市の柳沢遺跡「礫床木棺墓」出土として報じられていた。
[参考:信濃毎日新聞]
前出
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大和郡山市・額安寺 宝篋印塔の矢跡は中国・寧波がルーツ

2008年12月17日 | Weblog
額安寺の石塔「宝篋印塔」矢跡のルーツは中国・寧波
 今年9月25日のニュースで、額安寺(大和郡山市)の石塔「宝篋印塔」を解体修理中に「矢」の跡が見つかったことがわかった。
 その「矢」と呼ばれるくさび状の道具を使った石割り技術が、中国浙江省・寧波から国内に伝わった可能性の高いことが分かり、現地を調査した中日石造物研究会などが12日、発表した。
 「矢」は金属で作ったくさび状の道具で、石に開けた穴に差し込んで、たたき割る。国内では13世紀に畿内で広まるが、ルーツは不明だったが、中国の工人らが技術を急速に伸展させたとみられる。
 額安寺の石塔(高さ約2.83m、花崗岩製)は、1260年に石工の大蔵安清が製作。修理のため市教委が解体したところ、台座に6個の矢穴が残っていた。底が丸くなった半円形で、1個の幅は約10cm。銘文がある宝篋印塔としては国内2番目の古さだが、京都府の阿弥陀笠石仏(1262年)を遡り、国内最古の矢穴痕跡と確認された。
 調査したのは、考古学者らでつくる「中日石造物研究会」(代表=藤澤典彦・大阪大谷大教授)と、学際研究グループ「寧波プロジェクト」(代表=小島毅・東大准教授)の2グループ。
 寧波は、鎌倉時代に南宋時代(1127~1279)の貿易港であった。11月に、当時の石造物を調査。市内の石造物庭園に残る武人像(高さ約3m)の底部に矢穴跡4カ所を確認した。芦屋市教委の森岡秀人・文化財担当主査の鑑定で、矢穴の形状がいずれも半円状で幅は約8~10cm、額安寺の石塔、宝篋印塔の矢穴跡6カ所と形状や大きさが同じだったと分かった。
 額安寺の塔は、武士石像よりも25年以上新しく、鎌倉時代の東大寺復興時に重源上人が招いたという宋の石工が技術をもたらし、継承された可能性が高いという。
 同グループは、東大寺(奈良市)の石造獅子(重要文化財、同)の牡丹文と、寧波・天童寺の石造物の文様との類似性も新たに確認。泉涌寺(京都市)の開山無縫塔(重文、同)と酷似した塔も寧波・阿育王寺で確認したとしており、中世石造物の技術のルーツが寧波一帯にあったことを裏付ける成果という。
[参考:2008.9.12奈良新聞、産経新聞、朝日新聞、共同通信]

参考:
東大寺南大門 石造獅子 中国の石材「梅園石」か
矢穴

[2008.9.25掲載分]
大和郡山市・額安寺 宝篋印塔を解体修理し重文申請へ
 聖徳太子が建立した「熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)」が前身とされる古刹・額安寺(かくあんじ、大和郡山市額田部寺町)で24日、鎌倉時代の石塔「宝篋印塔」(市指定文化財)の解体修理作業が始まった。
 倒壊の恐れがあるためで、京都市内の工房で修理され、来年3月には造られた当初のような姿を見ることができる。同寺では修理後、文化庁に重文の申請をするという。
 宝篋印塔は中世以降に供養塔などとして造られた石造物。「相輪」「笠」「塔身」などいくつかの部分から成る。額安寺のものは本堂南方にある明星池の中島にあり、高さ2.84m。花崗岩でできており、塔身には表面から2段彫り込んだ上で月輪(がちりん)が刻まれ、その中に古代インドのサンスクリット文字・梵字などで四つの仏が彫られている。基礎部分にある銘文によると、文応元(1260)年に石工・大蔵安清が制作。銘文のある宝篋印塔としては輿山往生院(生駒市)の1259年に次いで全国で2番目に古いという。
 寺では1973年、池に落ちていた塔の一部を引き上げて島に置いたが、島の浸食などの影響で塔が傾いていることが04年に判明。再び倒壊しないよう、解体修理をして本堂近くに移動させることになった。
 解体作業では、クレーンを使って塔を五つの部分に分解。慎重に梱包してトラックに載せ、修理される京都市内の工房に運んだ。そのうち、塔身からは経典を納めたとみられる穴(直径14cm、深さ24cm)が見つかった。また、石材を割るために打ち込む「矢」の跡も見つかった。矢の使用例としては最古という。
 修理を担当する京都市左京区の石工、西村金造さん(70)は「当時の最高の技術を使って造られており、修理に携われることはありがたい。断面がV字形の薬研彫りなので、丸彫りと違い、700年たっても文字が残っている。仏様をお守りするため、手間暇をかけた苦労がうかがわれ、1000年先に残る修復をしたい」と話した。同寺の喜多寿佳(すが)住職(97)は「以前からの念願がかなって、本当にうれしい」と喜んでいた。
[参考:読売新聞、毎日新聞]

銘文
「文応元年十月十五日 願主永弘・大工大蔵安清」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都・鹿背山瓦窯跡 平城宮の瓦の官製一貫生産工房か 現地説明会12/21実施

2008年12月17日 | Weblog
2008.12.21現地説明会開催
 奈良時代中期の粘土採掘場や窯、運搬用通路の跡などが見つかった木津川市鹿背山の「鹿背山瓦窯跡」で21日、現地説明会が開かれ、参加した約300人の考古学ファンらは、平城宮に瓦を供給した古の光景に思いをはせた。
[参考:読売新聞]

[2008.12.27掲載分]
京都・鹿背山瓦窯跡 平城宮の瓦の官製一貫生産工房か 瓦製造工程くっきり  
 府埋蔵文化調査研究センターが16日鹿背山瓦窯(かせやまがよう)跡(木津川市鹿背山)で、奈良時代中期の粘土採掘場や作業用通路、瓦窯などの跡が見つかったと発表した。
 同時に出土した瓦の文様が平城宮の建物(式部省)の瓦と一致し、瓦生産の官制の一貫生産工房だったとみられる。
 瓦生産の行程全体が分かる奈良時代の遺跡の確認は全国初で、聖武天皇が恭仁宮や難波宮などへ遷都を繰り返し、平城宮へ再遷都した時代にフル稼働した可能性もあるという。
 出土したのは、
▽粘土の採掘坑(長さ10・8m、幅2・4m)
▽並行する2本の石敷き通路
 長さは48mと34m。幅4m、深さ1mのU字形に掘りくぼめられ、底に砂利を丁寧に敷き詰めていた。砂利には運搬用の一輪車(注1)が何度も通ってできたとみられる幅30cmほどの轍(わだち)が残っていた。傾斜の違いがあることから「上り専用」「下り専用」に分かれていたとみている。通路を往復すれば、粘土採掘から製品搬出まで、一連の工程がたどれるという。採掘坑からは粘土を運ぶ「もっこ」も出土した。
 注1:一輪車は吉田南遺跡(神戸市)でも出土している。
▽2基の窯跡。瓦窯跡は、平城京の北に広がる丘陵の北東部に位置。多数出土した瓦の文様から730-745年ごろに操業していたらしい。
 1基は登り窯から2度改修されており、奈良後期以降主流になった平窯に作り替えられていた。
▽瓦を成形、乾燥するための工房とみられる掘立柱建物跡(長さ21・8m、幅4・5m)。通路は、西に位置する採掘坑から東方向に延び、その先に窯跡や建物跡が配置されていた。
▽「軒丸瓦」や「軒平瓦」も出土。少なくとも11点は平城宮の建物の屋根にふかれた瓦と文様が一致した。
 現地説明会は21日午前11時から。JR木津駅から東へ徒歩約20分。問合せは現場事務所。
[参考:産経新聞、京都新聞、共同通信、中日新聞、静岡新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする