歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

韓国・益山市 弥勒寺址 金銅製舎利壺を開封

2009年04月27日 | Weblog
 弥勒寺(미륵사)は、百済武王(在位600-641)とその王妃が龍華山麓の池から弥勒三尊が現れたため、池を埋めて伽藍を作ったと伝わる。
 1980~1996年の発掘で寺の伽藍配置が明らかになった。
 中央の木塔を中心として、その東西に九層石塔があり、各々塔の後方(北)には金堂がある三院一寺式の寺院である。3金堂の後方にはひとつの講堂とさらにその後方には僧房がある。また、中央木塔の前方(南)には南門を配置する。
 17世紀頃にはすでに廃寺になり、半分程破損している西塔と幢竿支柱など一部だけ残っている。
 今年1月に、金銅製舎利壺、金製舎利奉安記などが発見された。百済舎利荘厳具は2007年国立扶余文化財研究所が発掘した扶余・王興寺で塔跡から出土した昌王時代(577年)のものに続き、今回が2番目の発見だという。
 奉安記には全193字が書かれており、弥勒寺の創健者は、武王の王后(佐平沙乇積徳女)であり、創建時期は己亥年正月廿九日(武王在位中であれば、AD639年)であることがわかった。
 金銅製舎利壺は、「国宝中の国宝」と評価の声が上がっていたが、X線透視の結果、中に内壺があるとわかり、それを3月末に開封した。

1.これまでの簡単な経緯
 2009.1.14 弥勒寺址西塔の解体作業中に、1層心柱上面中央で舎利孔を発見、その中から舎利具が見つかる。(19日発表)
 2009.1.20 一般公開される。
 2009.3.31 金銅製舎利壺(外壺)を開封して、その中から金製舎利内壺と舎利、玉などの遺物を収集した。
 2009.4.23 金銅製舎利外壺の開封結果を発表。

2.舎利壺の中身
  金銅製舎利外壺(금동제 사리외호)(高さ13㎝、幅7.7㎝)
  金製舎利内壺(금제 사리내호)(高さ5.9㎝、肩幅2.6㎝)
  瑠璃(ガラス)製舎利瓶(유리제 사리병)(数十個の破片状態で出土、口径4㎜、厚さ0.26-0.32㎜)
  真身舎利(白色) 1顆 および 宝珠(보주) 11顆
 今回見つかったガラス製舎利瓶は口内側直径が4㎜と確認されたことにより、開封当初に12顆の舎利を収集したとの発表がされたが、白色舎利1顆だけがガラス瓶内に安置することができる大きさという点で、舎利は1顆だけ安置されたものと見られ、残りの赤紫色または群青色の「舎利」は供養品に入れた宝珠と考えられると判断された。

3.弥勒寺舎利具と王宮里(왕궁리)舎利具の共通性
 益山弥勒寺石塔から639年百済武王時代に製作された舎利装厳具が発見されることにより、1965年同じ益山王宮里5層石塔で発見された舎利装厳具もまた百済時代作品であることがほぼ確実になった。弥勒寺舎利壺と王宮里金製舎利内箱の蓋を比較すると模様でもその製作技法がほとんど同じことがひと目でわかるものであった。特に葉3枚がある蓮弁文(연판문)、パルメット文(팔메트문)と魚子文(어자문)の配列が類似の構成を見せている。
[参考:聯合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
弥勒寺から舎利装厳具が発見

キーワード:佐平沙乇積徳女、佐平沙宅積徳女、佐平砂宅積徳女
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近つ飛鳥博物館 特別展開幕 「卑弥呼死す、大いに冢をつくる-前方後円墳の成立-」 25日から開催中

2009年04月26日 | Weblog
 大阪府立近つ飛鳥博物館平成21年度春季特別展・開館15周年記念「卑弥呼死す、大いに冢をつくる-前方後円墳の成立-」が4月25日から6月28日までの間、開催されている。
 特別展では、福岡県前原市・平原(ひらばる)方形周溝墓の内行花文鏡や、神戸市・西求女塚古墳の銅鏡、島根県・西谷2号墓のガラス釧など、12府県の27遺跡から国宝と重文計6件を含む前方後円墳の成立につながる遺物約300点が並ぶ。 
[参考:読売新聞、近つ飛鳥博物館HP]
写真は近つ飛鳥博物館の桜時期の一風景
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岡山市・南方遺跡 現地説明会実施 弥生時代前期の井戸跡

2009年04月26日 | Weblog
 4月25日現地説明会が開催された。約160名が訪れた。
 南方遺跡(岡山市北区南方1-3)は、県庁街にある弥生時代の大集落遺構。東西1km、南北800mで、東西2つの集落によって構成されたと考えられている。
 今回は東側集落跡などで、弥生時代前期後半(約2500年前)の集落と外部を区画する大溝や柵跡が確認された。溝は幅2・5m、深さ1mで内側には等間隔に並んだ直径20cmの柱穴跡や、柱穴跡が途切れた底部からは集落に入るための橋板の支柱跡が見つかった。
 集落側からは、県内最古級の井戸が出土した。直径1・2m、深さ1mの素掘りで地下の湧水層に通じている。井戸からは弥生時代前期の壷型の土器が出土した。集落に入る際の祭祀行為などに使われたのではとみている。
[参考:4/25産経新聞、4/19山陽新聞]


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正倉院宝物の下着「紅布杉」がベニバナで染められていた

2009年04月25日 | Weblog
 宮内庁正倉院事務所(奈良市)が24日、正倉院に伝わる赤い布の下着「紅布衫(べにのぬののさん)」(奈良時代)がベニバナで染めた国内最古の布製品と確認したことを発表した。正倉院宝物でベニバナが確認されるのは初めて。
 衫(さん)は下着などに使われる衣服。紅布衫は丈84cm、幅57.5cmの麻布製で、単(ひとえ)仕立て。奈良時代の麻布の幅は一般的に70cm前後で、端を10数cm切り落として、子ども用に仕立てたとみられる。肩の部分にほつれたような跡があり、もともとは袖がついていたらしい。
背面の裾に「刑部小君(おさかべのおぎみ)」という人物名が墨書され、新たに「天平十三年(741)十月」との記載も見つかった。
都の近国では納税の期限が10月と決められており、近国の国司か郡司が租税の一つ「調庸物」として納めた布が使われた可能性が高い。
 全体に紅系統の色がよく残り、蛍光分光分析と紫外可視分光分析の結果、ベニバナ染め製品のデータと一致。当初はさらに鮮やかだったとみられる。ベニバナは退色しやすく、古代の染色が残ることは極めて珍しいという。
[参考:産経新聞、共同通信]
過去の関連記事・情報
 藤ノ木古墳 夏に咲くベニバナの生花を石棺に納めた
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守山市・下之郷遺跡 正倉院の宝物「椰子実」そっくりのココヤシ製人面付き容器

2009年04月24日 | Weblog
 市教委は24日、環濠集落跡「下之郷遺跡」の出土品で、熱帯原産のココヤシの実の殻を加工して人の顔に見立てた容器が、奈良・正倉院に伝わる宝物「椰子実」と似た造形とわかり発表した。
 弥生時代中期後半(約2200年前)の遺物とみられ、弥生時代のココヤシの出土例としては、長崎県の原ノ辻遺跡(弥生時代中期)の笛、神戸市の玉津田中遺跡(同)の容器があるが、人面を模したココヤシ製の容器としては国内最古。正倉院蔵「椰子実」は、少なくとも平安時代終わり頃からあるというから、それより1000年以上遡ることになる。
 東南アジアやオセアニアには容器を人面の形に装飾する文化があり、ココヤシの容器は南方から伝わったとみる研究者が多い。当時、東南アジアとの交易が内陸部にまで及んでいた可能性を示す貴重な史料という。ただ、東南アジアから海流に乗って日本の沿海部に漂着したものが近江に届けられた可能性もある。
 容器は長さ10・3cm、高さ10cmの楕円形、重さは110gで、1993年11月に出土。直径約4cmの穴を開けて口にし、雌しべの跡(子房痕)を目に見立て、鼻になる小さな穴で鼻の形を作り、大きく口を開けた顔を表現。口の両脇には「ひげ」となる線が彫られ、鼻とひげは水銀朱で赤く着色されていた。
 ココヤシ容器は25日から、守山市服部町の市立埋蔵文化財センターで行われる「様々な木器展-甦る古代の木製品」で公開される。
 その後、安土城考古博物館(安土町)でも展示される予定。
[参考:読売新聞、産経新聞、京都新聞]

正倉院蔵「椰子実」
 直径11.8cm 高10.6cm 口径3cm 重さ170g
 内部は刳り取って黒漆のようなものを内塗りしている。
 宝庫にいつ、どのような経緯で納められたのかは不明であるが、少なくとも平安時代終わり頃から宝庫にあったという。
[参考:奈良国立博物館HP]

正倉院の宝物そっくり、滋賀「下之郷遺跡」出土の人面容器(読売新聞) - goo ニュース
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小田原市久野 北条幻庵の屋敷に連なる大規模な堀が見つかる

2009年04月24日 | Weblog
 小田原市久野の住宅新築に伴う遺跡発掘調査で戦国時代の大規模な堀が見つかった。
 堀は上幅7・2m、下幅3・4m、深さ約3・5mの逆台形の空堀で、南北方向に長さ約6mにわたり発掘された。
 堀底の両側には側溝(深さ、幅ともに約50cm)があり、小田原城の遺跡では初めて。
 1707年の富士山宝永大噴火による火山灰が積もっており、一緒に出土したかわらけや、中国・明時代の染付皿(磁器)の土器片などから、十六世紀の北条氏時代と確認された。市文化財課は「小田原城の堀を思わせるような、かなり大規模な堀」と話している。
 現場の堀は南北に延びており、「屋敷跡」は現場より標高が低い地点にある。屋敷は堀より高い地点に築くのが一般的なことから、屋敷は標高の高い現場の西側にあった可能性があるとしている。
 出土した堀の東約100mには、江戸時代に編纂された「新編相模国風土記稿」などにも記されている、北条早雲の末子、幻庵の屋敷跡(別称・久野城)があり、この屋敷に連なる遺構とみられる。
 北条幻庵は重臣として北条氏を支え、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡した8カ月前に亡くなった。上杉謙信の養子になり、家督を巡り上杉景勝と争い自害した三郎景虎の養父でもあり、景虎がこの幻庵屋敷に住んでいた可能性もあるという。
 現場の表土が軟弱で崩落の危険性が高いため、一般公開はせず、27日から埋め戻す。
[参考:神奈川新聞、毎日新聞、朝日新聞]

北条幻庵(1493?-1589)
 伊勢早雲庵宗瑞(北條早雲)の末子として明応2年(1493)駿河の葛山の館(裾野市)に生まれる。
 母は葛山(備中守)維貞の娘。幼名は菊寿丸。通称を三郎、諱は長綱。
 天文10年に兄氏綱が逝去した後は、3代氏康、4代氏政の後見人として、この久野の館に住み、一族の長老的存在となり、
 北條氏が滅びる8ヶ月前、北條氏の盛衰とともに久野の館で97歳で亡くなったとされる。
 『小田原衆所領役帳』(永禄二年1559)には、5,442貫文余と最高の知行高を有する一族の長老的存在であった。
 武田信玄の家臣・志村氏が駿河竹ノ下より移り住んでいた小田原市下堀方形居館のそばには、北条幻庵ならびに同室の所領があった。
  下堀方形居館
 『小田原衆所領役帳』には、小田原市内の幻庵御知行地として、下記が貫高とともに記されている。
  高田郷 269貫285文
  鬼柳  326貫20文
  本寺家 583貫385文
  新寺家 251貫416文
  井細田 100貫文
  早川地 16貫300文



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京都府綾部市 久田山古墳群B支群2号墳 6世紀中頃の未盗掘古墳横穴式石室を調査

2009年04月24日 | Weblog
 京都府綾部市教委は23日、同市里町の久田山古墳群B支群の調査結果を発表した。
 久田山古墳群は弥生時代後期から古墳時代末期までの約90基の古墳で構成される。2007年度から2年間、B支群(約2ヘクタール)の30基を調査したが、うち27基が横穴式石室を備える。
 中でも、2号墳(円墳)の横穴式石室(幅2・3m、奥行き4・5m、高さ3m)は天井の石材もそのままに、多数の石を積み上げて入り口が完全に閉じられ埋葬当時の姿だった。内部から頭の骨(1人分)が見つかった。性別や年齢は不明。副葬品として実物の馬具や貝殻、鏡などがあった。6世紀中頃の築造とみられる。
 B支群全体の出土品は金の耳輪や鉄刀、土器など整理箱約300箱分にのぼる。
 現地説明会は26日午後1時から行われる。
[参考:京都新聞]


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奈良市・春日大社 「天地人」主人公の直江兼続が釣り燈籠を奉納

2009年04月23日 | Weblog
 春日大社(同市春日野町)は23日、境内にある釣り灯籠の1つが、大河ドラマ「天地人」の主人公・直江兼続(1560-1620)が奉納したものと明らかにした。
 釣り灯籠は青銅製で高さ56cm。直江家の繁栄を願って、松に絡まる藤の吉兆模様が描かれ、春日大社の象徴である「藤」と「鹿」の模様があしらわれている。春日大社の屋外にある約1000基の釣り灯籠のうち、6番目に古いという。
 燈籠の灯心を置く火袋には「(春日)社(奉)寄進 御立願成就如意處也 慶長五年(1600)子庚極月吉日 越後国直江山城守息女敬白」の銘文がある。
 春日大社の元神官である大宮家の文書によると、直江兼続は天正16年(1588)、主君の上杉景勝と春日大社を参拝し、報賽料を寄進。兼続の死後も後室のお船が春日大社を参拝するなど、篤く信仰していた。
 燈籠は、息女・於松(1585-1605)からの奉納だとわかるが、元神主家の記録から直江兼続から依頼を受けての奉納のようだ。
 直江家が仕えていた上杉家は藤原氏の末裔であったことから、春日社への信仰が篤いという。
 春日大社は3月下旬からこの灯籠を本殿前東御廊に釣り下げ、公開している。(共同通信)
[参考:共同通信、時事通信、境内・直江兼続奉納釣燈籠説明文]
備考:
 直江於松(1585?-1605) 直江兼続の長女。 本多正信(1538-1616)の次男・本多政重(1580-1647)の妻。 法名・吉山梅龍心立大姉)

「天地人」主人公が釣り灯籠奉納 春日大社が公開中(共同通信) - goo ニュース
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万里の長城 実際は8851.8km(1万7700里)

2009年04月23日 | Weblog
 中華人民共和国国家文物局により18日、中国の世界遺産「万里の長城」の長さが、これまで発表されていた数値より2500kmも長かったと発表された。
 GPSや赤外線技術を使って2年がかりで測量したところ、東は遼寧省の虎山から、西は甘粛省の嘉峪関まで8851.8kmに及んだという。これまで長城の長さは6350kmで、中国の1里は500mのため、すなわち1万2700里となる。
 司馬遷の『史記』によると、秦の始皇帝当時の長城は、西は臨洮に始まり東は遼東に至る全長は「万余里」であったと記され、それが万里の長城の名前の由来となる。
 「築長城,因地形,用制險塞,起臨洮,至遼東,延袤萬余里,於是渡河,據陽山,逶蛇而北。暴師於外十餘年。」(『史記•蒙恬列傳』)

 今回、調査の対象になったのは、明の時代にレンガで作られた壁で、一部、塹壕や天然の険しい地形が利用されていた。
  防壁のうち実際の壁となっている部分が6259.6km
  塹壕が359.7km
  丘や川といった「自然の防壁」が2232.5km
それらを合わせて計8851.8km(1万7700里)ということです。
 しかも、それらは明代(1368~1644年)のものであるので、来年までに秦や漢の時代の長城についても調査が行われる予定で、その結果によっては、長城はさらに長くなりそうです。
[参考:4/18読売新聞、4/20毎日新聞、APF]

「万里の長城」の総延長、2000キロ以上長かった!(読売新聞) - goo ニュース
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京都市左京区・岩倉忠在地遺跡 古墳時代初頭の集落跡が出土

2009年04月22日 | Weblog
 同志社大歴史資料館は22日、岩倉忠在地遺跡で古墳時代初頭の竪穴住居跡が5棟見つかったと発表した。
 竪穴住居はいずれも一辺約5mの方形。掘っ立て柱建物跡1棟や大量の土器を捨てた沼跡も見つかった。土器の分布や地形からみて、集落の大きさは南北250m、東西150m。3世紀前半の集落とみられ、遺構の重複がないことや土器形式から、数10年ほど存続したらしい。
 同遺跡は岩倉で唯一の集落跡。近畿ではこの時期にはそれまでなかった所に集落が営まれることが分かっており、背景として人口増加などが指摘されている。
 現地説明会は25日、午後1時から。現場事務所Tel:075(712)3361。
[参考:京都新聞、同志社大学歴史資料館]
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シナイ半島北部 古代エジプト18-19王朝時代の神殿を発見

2009年04月22日 | Weblog
 エジプト考古最高評議会は21日、シナイ半島北部スエズ運河の東約4km付近で、古代エジプト18-19王朝時代(紀元前1550-同1186年ごろ)の軍事拠点だった神殿4カ所を発見したと発表した。古代エジプトの神や王の石碑も見つかっている。
 現場はエジプトとパレスチナを結ぶ古代の軍事道路「ホルスロード」沿いにあり、古代エジプトの東方遠征の拠点だったとみられている。
 4カ所のうち最大の神殿は縦80m、横70mの敷地にあり、泥レンガ製の神殿は、4mの重厚な防御壁に守られていた。内部には、長方形の 4つの部屋と34の柱があった。神殿には、ホルス神やハトホル神、トトメス2世、ラムセス2世などの姿も描かれており、壁はきれいに彩色されていたことをうかがわせるという。
[参考:共同通信、時事通信 ]

古代エジプトの神殿発見 シナイ半島の軍事拠点(共同通信) - goo ニュース
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幻の南蛮菓子「ケジヤアド」、佐賀でレシピ発見

2009年04月21日 | Weblog
 江戸時代の書物に名前だけが出てくる幻の南蛮菓子「ケジヤアド」の作り方が、佐賀市の老舗菓子店「鶴屋」に伝わる古文書(鶴屋文書)に記されていることが分かった。
 ケジヤアドの名前が登場するのは、長崎出身の天文学者・西川如見(1648-1724)の談話を筆録した「長崎夜話草(やわそう)」。カステラや金平糖などとともに、長崎土産の南蛮菓子として記されている。
 鶴屋文書は、江戸初期の1639年創業の「鶴屋」に伝わる江戸中期から明治期にかけての4冊で、このうち江戸中期の「菓子仕方控覚」にケジヤアドの記述が出てくる。鶴屋文書で「けし跡」とあるのが「けじあど→ケジヤアド」と読めるといい、材料の分量や形も詳しく書いてある。
 カボチャの餡を、小麦粉やゴマ油で作った皮で包んで焼いたもので、チーズを使ったポルトガルの焼き菓子を日本風にアレンジしたとみられる。
現代語訳を依頼された、江戸期の食文化研究家で元別府大短期大学部教授の江後迪子さんは、チーズを使ったポルトガルの焼き菓子「Queijada(ケイジャーダ)」がルーツに当たり、当時の日本にはチーズがないので、カボチャを使ったのではないかと推測する。
 佐賀は、江戸時代に砂糖の運搬路だった長崎街道沿いにあり、菓子作りが盛んなことで知られる。
 鶴屋は、古文書を参考に1年ほど前から試作に取り組んでおり、この菓子を再現し夏頃に売り出す計画という。
[参考:読売新聞]
備考:
 Queijoはチーズの意味
 Queijadaはtartlet、タルトの意味

幻の南蛮菓子「ケジヤアド」、佐賀でレシピ発見…再現して販売(読売新聞) - goo ニュース
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千曲市・屋代遺跡群地之目遺跡 水田跡から9世紀後半の灰釉陶器14点が出土

2009年04月18日 | Weblog
 同市教育委員会は17日、屋代遺跡群地之目(じのめ)遺跡(同市屋代)の水田跡から、約1100年前の灰釉陶器14点がほぼ完形で見つかったと発表した。豊作を祈る祭りなど、重要な儀式に使われた跡ではないかしている。
 同遺跡は、888(仁和4)年の大洪水で条理区画の水田が砂に埋まったもので、その砂の下から見つかったことなどから、9世紀後半のものとみられる。(更埴条理水田址と呼ばれる遺構が地表1・5~2・5m下で見つかっている。)
 出土品は、皿が10点、碗が2点、壺が2点。当時、愛知県と岐阜県の境あたりで焼かれた灰釉陶器で、水田の畦の法面に伏せた状態で見つかった。
 儀式で使った皿などが洪水でそのまま埋まったのではないか。農耕儀礼にかかわる貴重な発見といえるとする。
 現地説明会は18日午前9時~正午。
[参考:毎日新聞、朝日新聞]


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福岡県上毛町・松尾山遺跡 講堂、下宮などの遺構を確認

2009年04月17日 | Weblog
 上毛町教委は15日、松尾山(まつのおさん)遺跡(同町西友枝)の第2次調査で本尊の薬師如来が安置されていた講堂礎石跡や下宮の礎石跡、そして五穀豊穣を祈願する祭り「松会(まつえ)」で立てられる松柱の穴跡などが発見されたと発表した。
 松尾山(標高471m)は、「修験の山」として800年の歴史を持つ。今年度は参道東側の標高420~410mにある上下2段の平らな場所を調べた。
その結果、上段では講堂跡(9・5m×5・8m)、礎石は約60cm四方の正方形で17個が確認された。本尊の薬師如来が「松会」を見渡せる構造になっていたとみられる。下段では下宮跡(5・4m×3m)とみられる建物遺構が見つかった。
 いずれも、江戸期に書かれた「松尾山旧記集」や江戸時代後期の福岡藩の学者、伊藤常足が書いた「太宰管内志」に記述されている寸法や配置と一致し、修験道場の全体の配置が文献通りだったことが裏付けられたとしている。
 また、講堂のがけ下4mに見つかった松柱を立てるための石組みはコの字状で、南側だけ石がなかった。松会のシンボルの松柱を南側から石組みに入れ、北側へ起こして立てたと想定されるという。松柱用穴跡の大きさは、縦横約80cmで深さが約40cm。
 周辺では寛永通宝や宋銭が約40枚見つかり、賽銭ではないかと推測している。
 19日には「松尾山お田植え祭」と合わせ、遺跡現地説明会も行われる。
[参考:西日本新聞、毎日新聞]


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姫路市・豆腐町遺跡 奈良時代の漆紙文書出土、課税台帳か

2009年04月16日 | Weblog
 兵庫県姫路市埋蔵文化財センターは16日、JR姫路駅構内の豆腐町遺跡から、人名や年齢が記された奈良時代の徴税台帳とみられる漆紙文書が見つかったと発表した。
 紙の大きさは、円形に近く直径15cm。中央で2つ折りにされた状態で見つかった。漆が付着した部分が腐らずに残ったとみられる。 紙は当時貴重だった漆を入れた箱のふたに使われていたとみられる。当時の税制「租庸調」の徴税に使った帳簿だったとみられる。
 同センターが奈良文化財研究所(橿原市)に分析を依頼したところ、赤外線カメラで紙の表裏に文字が書かれていたことが判明。識別できたのは表面の53文字だけで、裏面にも文字が書かれていたが判読できなかった。
 表面には、「黒麻呂」「大宅女」など6人の名前と年齢が書かれ、その下に「少子」などの文字が確認された。
 「17歳」の「黒麻呂」の区分が「少子」と表記されていることから、天平勝宝9年(757)4月以降に作成された文書という。また、数字表記に「壱」「弐」を用いていないことなどから、正式な帳簿を作成するための基礎資料だったとみられる。
 遺跡付近は播磨国の中心地と推定されており、漆がついた紙の出土から同遺跡に官営の漆工房存在の可能性が生じ、近くに播磨国府のような役所があったことが推定されるとしている。
 ほかに、奈良時代のものとみられる土器など45点が出土した。
 同センターは29日午前11時半と午後3時の2回、赤外線装置による実物展示を行う。
[参考:産経新聞、神戸新聞]
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