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水戸市・水戸城跡 「障子堀」発見 江戸氏居城時の遺構か 

2008年11月14日 | Weblog
 水戸市教育委員会は12日、同市三の丸二丁目の「水戸城二の丸跡」で、底面に段差を付けた障子堀と呼ばれる堀跡が発見されたと発表した。今回発見された堀は、江戸氏が居城としていたころの遺構とみられる。
 また、調査地北側の中央付近の大きな溝から、後に第2代藩主徳川光圀が1698年に開設し「大日本史」の編纂を行った彰考館に関連するとされる唐草模様の瓦が大量に出土した。11日報道関係者に公開された。
 発掘場所は、市立第二中学校内の二の丸跡約3500㎡。今回の第二次調査で、十五世紀後半の水戸城の様子が分かってきた。記録によると、当時の水戸城主の江戸氏が最初に二の丸を整備したとされており、有力家臣らを住まわせ、城の外郭を形成していたと伝えられている。
 調査地の西側に幅約10m、深さ約5mの空堀が確認され、数カ所に底面に1~2mの段差を設けた障子堀も含まれていた。
 堀跡は10か所ほど見つかった。大部分は、1426年に、前城主の馬場満幹が留守にしている間に城を占拠し、城主となった土豪の江戸通房の一族が築いたものだという。発掘地点は当時、城の外郭だったとされ、障子堀は、敵が城内に侵入することを防ぐために築かれたとみられる。
市教委は「群雄が割拠する時代の、常に戦闘を意識した防御の造り」と指摘。障子堀は、北条氏の小田原城に見られることで有名という。
 また、国の重要文化財に指定されている「弘道館」に使われているものと同じ形の「棟飾瓦」も見つかり、彰考館の外観を知る上で貴重な資料になるという。
このほか、古墳時代の住居跡や江戸時代の陶磁器、明治から昭和時代の遺物などが見つかった。
 調査は8月29日から始まり、12月まで続けられる。
発掘調査場所の一般公開は、16日の午後一時と同二時半の二回。問合せは市文化振興課TEL029(232)9339。
[参考:茨城新聞、読売新聞、NHK]

水戸城 (別名 馬場城・水府城) 年表
 建久年間(1190~1198) 常陸大掾・平国香の8代子孫・平資幹(ふみもと)(馬場氏を名乗る)によって館が築かれる。
 応永33年(1426) 鎌倉公方方に付いた江戸通房(1410-1465)が馬場満幹(みつもと)の留守を狙って馬場城を攻略した。
このとき、江戸氏の主君は常陸守護の佐竹氏。(江戸氏は藤原秀郷流那珂氏の一族。那珂通辰の子通泰の時に、足利尊氏から常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、その子通高が江戸氏を名乗るようになったという。)
 天文21年(1552) 北条氏康の攻勢で関東管領上杉憲政が追われ、北条氏の勢力が北関東にまで及ぶようになる。佐竹氏は、反北条として越後の上杉謙信と協力しており、江戸氏もこの戦いに加わる。
 天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻めの際に江戸重通は北条氏側に付き、逆に佐竹義重・義宣父子は秀吉軍に参陣した。そのため、佐竹家は常陸・下野で540000石を安堵される。
 文禄3年(1594) 佐竹氏は江戸氏の籠城する馬場城を攻め、重通を敗走させた。水戸城は佐竹氏54万石の所領となった。
 慶長5年(1600) 関ヶ原合戦での帰趨を明らかにしなかった佐竹氏は咎められ、出羽久保田城へ減封されて国替えとなった。
 慶長7年(1602) 徳川家康の七男・武田信吉が下総佐倉城から15万石で入封。翌年死亡。
 慶長8年(1603) 信吉の死後嗣子が無く、家康の十男頼宣(よりのぶ)が入封。
 慶長14年(1609) 家康十一男の頼房が下妻城から25万石で入封。以降徳川御三家の一つとして世襲した。
 元禄10年(1697) 徳川光圀が江戸小石川藩邸においた彰考館の組織を水戸へ移転し、水戸彰考館を発足させた。
 天保12年(1841) 徳川斉昭によって藩校・弘道館が建築される。

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