江戸南町奉行所があった東京都千代田区の有楽町二丁目遺跡で、「大岡越前守」と書かれた木札が出土していたことが、区教育委員会などの調査で分かった。
大岡越前守は、奉行の大岡忠相(ただすけ)(1677~1751)を指しており、出土品で大岡の名が確認されるのは初めてという。
木札は当時の書記官が仕事をする地下の部屋に残っていた。
伊勢神宮の神主が大岡の側近3人のために書いたらしい。詳しい用途は不明。
区教委は平成17年に奉行所跡を発掘。木札は縦26cm、横5cm。上段は「大岡越前守様御屋敷ニ而(テ)」で始まり、左に「市川儀平太様」「山本左右太様」「小林勘蔵様」と3人の側近の名があった。下段は「檜垣(ひがき)六神主」など伊勢神宮の神主3人の名を連ねていた。
[参考:共同通信、産経新聞]
「大岡越前守」の木札が出土 東京・南町奉行所跡(共同通信) - goo ニュース
参考:前出・江戸初期の南町奉行所は呉服橋のそばにあった
コメント
江戸遺跡研究会会報N0.108(2007.12.27発行)/(江戸遺跡研究会)を見ると、「有楽町二丁目遺跡」の発掘調査は2005年度に2回に渡り(延べ100日間)実施され、この時に今回の木札は出土され、既に「大岡越前守屋敷ニ而し ~」の部分は判読されている。
南町奉行所の場所は、現在の有楽町マリオンと東京交通会館の間に位置し、有楽町イトシアとして2007年(平成19年)10月12日に開業された。したがって、この遺跡を再び我々の代で見ることはできないだろう。
大岡氏
藤原北家教実流九条忠教(1248-1332)の後裔あるいは九条 尚経(1469-1530)の子とされる(大岡)伝蔵善吉、あるいは善吉以前の者が三河国八名郡大岡村(現、新城市黒田大塚字大岡)に住み、その地名をとって大岡氏と名乗ったとする。大岡善吉の子の大岡助勝(1522-1594)が松平氏に仕え、主君広忠(1526-1549)から偏諱を受け忠勝と名乗り、以降「忠」の一字を用いることとなる。忠勝が大岡宗家初代当主となる。
次代忠政(1550-1629)は徳川家康に仕え、功績により家康の関東転封に従い、相模国高座郡堤村を知行しそこに移った。
大岡忠助(1677-1752)は4代目当主忠真(1637-1700)の養子となり5代目当主となる。
大岡越前守は、奉行の大岡忠相(ただすけ)(1677~1751)を指しており、出土品で大岡の名が確認されるのは初めてという。
木札は当時の書記官が仕事をする地下の部屋に残っていた。
伊勢神宮の神主が大岡の側近3人のために書いたらしい。詳しい用途は不明。
区教委は平成17年に奉行所跡を発掘。木札は縦26cm、横5cm。上段は「大岡越前守様御屋敷ニ而(テ)」で始まり、左に「市川儀平太様」「山本左右太様」「小林勘蔵様」と3人の側近の名があった。下段は「檜垣(ひがき)六神主」など伊勢神宮の神主3人の名を連ねていた。
[参考:共同通信、産経新聞]
「大岡越前守」の木札が出土 東京・南町奉行所跡(共同通信) - goo ニュース
参考:前出・江戸初期の南町奉行所は呉服橋のそばにあった
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江戸遺跡研究会会報N0.108(2007.12.27発行)/(江戸遺跡研究会)を見ると、「有楽町二丁目遺跡」の発掘調査は2005年度に2回に渡り(延べ100日間)実施され、この時に今回の木札は出土され、既に「大岡越前守屋敷ニ而し ~」の部分は判読されている。
南町奉行所の場所は、現在の有楽町マリオンと東京交通会館の間に位置し、有楽町イトシアとして2007年(平成19年)10月12日に開業された。したがって、この遺跡を再び我々の代で見ることはできないだろう。
大岡氏
藤原北家教実流九条忠教(1248-1332)の後裔あるいは九条 尚経(1469-1530)の子とされる(大岡)伝蔵善吉、あるいは善吉以前の者が三河国八名郡大岡村(現、新城市黒田大塚字大岡)に住み、その地名をとって大岡氏と名乗ったとする。大岡善吉の子の大岡助勝(1522-1594)が松平氏に仕え、主君広忠(1526-1549)から偏諱を受け忠勝と名乗り、以降「忠」の一字を用いることとなる。忠勝が大岡宗家初代当主となる。
次代忠政(1550-1629)は徳川家康に仕え、功績により家康の関東転封に従い、相模国高座郡堤村を知行しそこに移った。
大岡忠助(1677-1752)は4代目当主忠真(1637-1700)の養子となり5代目当主となる。