歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

胎内市・城の山古墳 国内最古の弓装飾「両頭金具」2点と中国製「盤龍鏡」を確認

2013年01月15日 | Weblog
 新潟県胎内市教委は15日、大和政権の勢力下にあったとされる同市大塚内にある古墳時代前期(4世紀前半)の「城(じょう)の山古墳」から昨年9月までに見つかった副葬品を調査したところ、国内最古とみられる弓の装飾品「両頭金具」2点と中国製(注1)の「盤龍鏡」を確認したと発表した。
 両頭金具は約2cmで、鉄製とみられる。 これまで、長野市若穂川田の大星山3号墳(直径16mの円墳、4世紀第3四半期)から出土したものが国内最古とされていたが、同古墳の年代などと比較し、出土した両頭金具は数十年遡ることが判明したという。
 また、盤龍鏡は直径約10cmの銅鏡で、裏面に龍の文様がみられた。中心の鈕に紐を通したような跡があった。 布でくるまれていた可能性もあるという。 中国の後漢(1世紀後半~2世紀前半)か魏晋代(3世紀中頃)に作られたものとみられる。 近畿以西を中心に出土している。
 城の山古墳からは、銅鏡や勾玉など、近畿地方でよくみられる副葬品がそろって出土し、大和政権の影響がこの地域に及んでいたと考えられることとなった。 調査では、ヒスイ製の勾玉や大刀など計19点が、古墳時代前期の出土品としては本州最北だったこともわかった。
 3月3日に胎内市産業文化会館でシンポジウムが開かれ、出土品を一般公開する予定という。


(注1) 仿製鏡の可能性もあるらしい。
(注2) 鉄斧(てっぷ)などが布に包まれて副葬されていた。

[参考:共同通信、日経新聞、時事通信、読売新聞、新潟日報、NHKニュース]

大和政権から伝来?…新潟「城の山古墳」の銅鏡(読売新聞) - goo ニュース

副葬品に中国製銅鏡=重要人物を埋葬か―大和政権下の「城の山古墳」・新潟(時事通信) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
2012.9.6 城の山古墳 未盗掘の古墳から畿内的要素を持つ副葬品が出土
 4世紀前半の城(じょう)の山古墳(東西41m、南北35m、高さ5mの楕円墳)から、長大な舟形木棺や弓2張、靫(ゆき)、刀剣、銅鏡、ヒスイの勾玉、凝灰岩製管玉、ガラス玉、大刀、銅鏃、鎗、鉇(やりがんな)、斧(注2)などの副葬品100点以上が未盗掘の状態で出土した。
2011.10.23 太宰府市・大宰府跡 弓金具の「両頭金具」が出土
 両頭金具は両端に突起物をつけた芯棒を筒状金具に入れ、弓の両端に穴を開け装着する。


2013.11.27追記
 胎内市教委が28日、「城の山古墳」(4世紀前半)で、被葬者のものとみられる歯が見つかったと発表した。
 歯はエナメル質表面の減りが少ないことから若い人物(10〜20代)の可能性があるとしている。
[参考:共同通信、時事通信、毎日新聞]


キーワード; 槍鉋、やりがんな、ヤリガンナ

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徳島市・庄・蔵本遺跡 水田跡を新たに発見 全体で1万㎡以上

2013年01月11日 | Weblog
 徳島大埋蔵文化財調査室が10日、同大学蔵本キャンパス(徳島市蔵本町)にある庄・蔵本遺跡で、弥生時代前期(2600年前~2500年前)の水田約30枚が約2千㎡にわたって新たに見つかったと発表した。 今回の調査区域の南側と西側でも計約7千㎡の水田跡が見つかっており、未調査の区域も含めれば全体で1万㎡以上になるとみられ、弥生前期としては四国で最大の面積。 その後、洪水で埋没したとみられる。
 稲穂を刈った石包丁と石斧(せきふ)も出土した。 ともに、縄文時代の特徴がある打製石器だった。
 現地説明会が12日(土)午前10時から開かれる。
[参考:徳島新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 庄・蔵本遺跡
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岡山市・千足古墳 直弧文が刻まれた埴輪片が出土 直弧文石障を初公開

2013年01月11日 | Weblog
1.直弧文が刻まれた埴輪片が出土
 岡山市北区新庄下の千足古墳(5世紀前半)の発掘調査で、新たに直弧文が刻まれた埴輪片が9日までに前方部西側の試掘溝で、墳丘上から転落したとみられる多数の埴輪に交じって見つかったことがわかった。
 埴輪片(縦16cm、横11cm)は、「靱形埴輪」の一部。 同古墳を陪塚とする造山古墳(同所)で採集されているほか、近畿地方の大型古墳を中心に出土例がある。 石室内だけでなく、墳丘上も邪気を払う古代文様で守られていたことが分かった。
 現地説明会が26日((土)午後1時半から開かれる。

2.直弧文石障を初公開
 千足古墳から取り出された石障が28日(月)から、保存措置先の岡山市埋蔵文化財センター(同市中区網浜)で初めて一般公開される。
 石障(高さ53cm、幅162cm、厚さ13cm)は九州産の砂岩製で、直弧文が浮き彫りされている。 2009年10月に石材表面の劣化と直弧文の剥落が判明したため、11年12月に搬出。同センターで保存措置を行ってきた。
 公開は2月9日まで(同3日は休館)の午前9時〜午後4時半。
[参考;山陽新聞]

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武蔵野市・井の頭池遺跡群 焼き鳥店「いせや総本店公園店」跡地から後期旧石器時代の「焼き場」が見つかる

2013年01月10日 | Weblog
武蔵野市・井の頭池遺跡群
 焼き鳥の「いせや総本店」(同市御殿山)には、ある時期、勤め先から近かったことから、ちょくちょく利用した。 井の頭池西端からやや北にある。 一方「いせや総本店公園店」(同市吉祥寺南町)が井の頭池中央から北岸側にあった。 昨年、7月8日より建て替えにより一時閉店となり工事が行われていた。 この跡地を発掘したら、なんと後期旧石器時代末期(約1万5千年前)の「焼き場」が見つかった。
 旧石器時代のものと考えられる拳大の石が集まっている「礫(れき)群」が4基発見された。 火を使った調理場だとみられる。 たき火で焼けたような石や炭化物も出土した。
 このほか、旧石器時代の石器や、中世の板碑など1千点を超える遺物や遺構が見つかったという。
 遺跡は調査後、埋め戻された。
[参考:朝日新聞]

いせや公園店、石器時代も焼き鳥? 跡地から「調理場」(朝日新聞) - goo ニュース
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与謝野晶子直筆の未発表を含む短歌103首 倉敷市で発見

2013年01月09日 | Weblog
 先月(12月)24日の日経新聞で『与謝野晶子の未収録歌4首、京都で見つかる』と報道されたばかり。 今度は、与謝野晶子直筆の短歌103首が収められた原稿用紙が岡山県倉敷市で9日までに見つかったと報道された。
 親交が深かった同市出身の詩人、薄田泣菫(すすきだ きゅうきん、1877-1945)に新聞掲載用に送った作品で、うち16首は未発表とみられる。
 1913〜21年の大正期の作とみられる。
<未発表とみられる与謝野晶子の短歌の一部>
・生れたる日をば悲しと何の云ふ一萬日(いちまんじつ)の時の語れる
・砂踏むを燒(や)けむとそしり網小屋の蔭をあゆめり物思ふ人
・わが世をばうちまどふことしきりにも續(つづ)きし頃のおぞましき日記(にき)
・髪よりも静かなるなし夕ぐれの山の色よりみづうみよりも
・街行けば涙ぐまるるおもひでの必ずわきぬまづしきがため
・うばたまの髪煩(わづら)はし身の中の焦がれ心はなほ煩はし
・君がこと浅間の嶽(たけ)のふもとなる落葉松(からまつ)の木が知るよしもなし(注1)
・縁(えん)にいで瓜をくらひて茶すすりぬ貧しき家も夏はよろしも 
・物思ふ萱(かや)の葉などと並ぶ時 今こし方のわれもうらめし
[参考:共同通信、時事通信、日経新聞、毎日新聞、朝日新聞、産経新聞、山陽新聞、NHK]

(注1)与謝野晶子書簡集成第二巻: 逸見久美編(発行2001.7 八木書店) 175 大正10年11月21日 有島武郎宛晶子書簡に
「(略) かの星野に居り候ひしころ
  君がこと浅間が嶽のふもとなるから松の木がしるよしもなし」
が記載されている。 書簡中に星野と記されているのは、現在軽井沢町長倉星野にある星野温泉のことと思われる。
 星野温泉は、大正3年(1913)に開業したのが始まりで、上田から宮大工を呼び神社風の浴場を建て明星館と呼ばれていた。
 大正10年から始まった「芸術自由教育講習会」(夏季セミナー)には、内村鑑三、与謝野晶子、島崎藤村、北原白秋などが集い、当時の文化を牽引する場となった。

与謝野晶子の直筆103首発見=16首は未発表か―岡山(時事通信) - goo ニュース
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沼津市東熊堂・高尾山穂見神社

2013年01月02日 | Weblog

 沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)北方(きたかた)の高尾山古墳(旧名、辻畑古墳)の東に隣接して鎮座する。
 元は、全長約62mの前方後方墳、高尾山古墳の墳頂(標高21m)に鎮座していた。
 弘化3年(1846)10月、山梨県の高尾山穂見神社(おそらく南アルプス市高尾の穂見神社)(注1)より分祠し東熊堂荒久の地に祀ったという。 その後、明治21年には交通の便の良い、熊野神社境内上の地に移した。 高尾山古墳の後方部高台(墳頂部標高21m)のことと思われる。 社殿は、明治時22年に建立されたといい、現在の社殿は明治30年代に建立したものらしい。
 神紋は「流三巴紋」で、通常とは反対の右巴である。
 沼津市には、このほか興国寺城祉内にもうひとつの穂見神社がある。
[参考:『スルガの王 大いに塚を造る』2012年沼津市教育委員会、沼津市文化財センター]

■穂見神社 (沼津市根古屋、興国寺城祉内北条氏碑横)
 伊勢新九郎盛時(北条早雲)が、今川氏の家督争いでの活躍により与えられた興国寺城本丸の中心にあったと思われる。 ただし、穂見神社は北条早雲の時代にあったわけではなく、安政四年(1857)に施主15人が南アルプス市高尾山穂見神社(注1)から分祠し祀ったのがはじまりという。 「高尾大明神」とも呼ばれた。

(注1) 高尾山穂見神社(山梨県南アルプス市高尾498)
 標高850mの櫛形山北東山腹の山間集落である高尾に位置しており、通称を高尾山穂見神社、「高尾さん」、「山の高尾」という。 御崎明神」という別名もある。
 旧郷社、 祭神:保食神(うけもちのかみ)。『甲斐國古社史考』では、白山権現・三体王子(大福王子、大寿命王子、大智穂王子)であったとしている。 神紋は丸に違い鷹の羽。
 創立年代は不詳。 享保十三年(1728)七月に大洪水があり、崩れた土中より文治三年(1187)の古碑が出てきて、そこに「穂見神社」の銘があったという。
 『延喜式』神名帳に式内社として、巨麻郡五座のひとつに「穂見神社」が記載される。 論社には当社のほかに韮崎市旭町の穂見神社、同市穴山町の穂見神社、中央市の八幡穂見神社、北杜市の穂見諏訪十五所神社があるが、どの神社に比定されるかは明確ではない。
 韮崎市旭町の穂見神社は本宮(奥宮)(注2)が標高1037mの苗敷山(旭山)山頂にあり、山岳信仰の場所として相応しい。

(注2) 苗敷山穂見神社社殿(奥宮) (山梨県韮崎市旭町上条南割3389)
 神亀元年(734)鳳凰山を拝する山岳信仰の神社として、苗敷山山頂に建立される元文元年(1736)に再建された穂見神社は、本殿、渡殿、拝殿が一体(権現造り)で、構造・彫刻等、江戸時代そのままに残されている。現在、県内唯一の山岳信仰の神社である。
 祭神は天底立命 国之常立命 豊受姫命
[参考: やまなしまなびネット 文化財情報ほかより]

過去の関連ニュース・情報
 高尾山古墳(旧名、辻畑古墳)
 辻畑古墳

2013.2.27追記
 毎年、11月下旬の土日2日間 にかけて「東熊堂高尾山神社祭典 」が盛大に行われている。商売繁盛の神様として知られ、神社境内と周辺には熊手やお宝等の縁起物を売る露天商が並ぶという。
 沼津市観光化の記事に「弘化3年(1846)(農業神である山梨県(甲斐の国)、櫛形町の高尾山穂見神社のご祭神を分祠し東熊堂荒久の地へ祀りました。明治21年交通の便の良い、熊野神社境内の地に移しました。」とある。櫛形町とは、平成15年(1203)まで、山梨県中巨摩郡櫛形町としてあった地名で、ほかの5町と合併して、アルプス市となった。 
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出雲大社神楽殿の大注連縄

2013年01月01日 | Weblog

平成25年 元旦
コメント (2)
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