李方子さんが残した写真、日記などの資料が都内で発見される
韓国の李王朝最後の皇太子に嫁いだ元皇族の李方子(りまさこ)さんが残した写真、日記などの資料が二カ月前、都内の某氏宅で発見された。
今回発見された資料は全684点。皇子李垠(りぎん)との婚約後の1919年に書かれた日記帳をはじめ、婚礼記念に撮影したガラス製の原版写真など11点、李夫妻が長男晋を連れて韓国に里帰りした日程表、母伊都子妃からの手紙など新発見の資料ばかり。
後に初代韓国総監となった伊藤博文が大勢の役人を引き連れ、韓国各地を視察した様子をまとめたアルバム写真58枚や父高宗と韓国で撮影した幼いころの李殿下の写真などもある。
すべての資料を4日、韓国大使館を通じて韓国政府に寄贈した。
[参考:埼玉新聞]
[2008.11.14掲載分]
韓国国立中央博物館 日本近代西洋画展 行方不明の小磯良平作品戦後初公開
「戦後初めて公開する」としていた小磯良平の絵画「日本髪の娘」について、2005年に韓国国立現代美術館で展示されていたとそうです。
小磯作品、05年に公開済み=韓国博物館(時事通信) - goo ニュース
韓国国立中央博物館(ソウル)は13日、所蔵する李王家の日本美術コレクションの中から、日本を代表する洋画家、小磯良平の作品で、日本では行方が分からなくなっていた「日本髪の娘」(昭和10年)が見つかったと発表した。
18日から同博物館で公開される「日本近代西洋画展」で、「日本髪の娘」をはじめ李王家が収集した日本を代表する作家の洋画40点すべてが戦後初めて公開される。
「日本髪の娘」は、欧風の椅子に座った和服姿の若い女性を描いた100号サイズの作品。昭和12年に李王家が購入した。同館は「日本近代西洋画の最高傑作」と評価している。神戸市立小磯記念美術館の広田生馬学芸員は「小磯の脂が乗り始めたころに描かれ、非常にアカデミックな完成度の高い作品。昭和10年に東京で開かれた展覧会に出品され存在は知られていたが、その後日本では行方不明になっていた」と話す。朝鮮王朝最後の皇太子、英親王が、東京美術学校長の正木直彦や洋画家和田英作らの助言で収集した作品群の一つという。展示は09年10月まで。
今回の展覧会について、国立中央博物館の宣承慧学芸員は「小磯作品をはじめ日本では所在が分からなくなっていたものばかりで、中には図録などの記録も残っておらず、存在そのものを知られていない作品もある。李王家がどんな日本の作品をコレクションしていたのかが初めて明らかになる展覧会だ」と語った。
李王家コレクションは全体で約200点。韓国国民感情への配慮から長く封印されてきたが、日韓共催のサッカーW杯が開かれた2002年に日本画や工芸品などが一般公開された。今年2月に就任した李明博(이명박、イミョンバク)大統領(65)の日韓協力路線を受け、残る洋画の公開も決まった。
ほかに公開されるのは和田三造(1883-1968)の風景画「風景」や、藤田嗣治(1886-1968)が猫や男性を描いたスケッチ2点など。田辺至(1886-1968)の「少女」や小山敬三(1897-1987)の「熊野灘の遠望」、平塚運一(1895-1997)が朝鮮半島の古代国家、百済の首都付与・定林寺五重石塔を見て製作した版画「百済の過去の首都」も公開される。
李王家コレクション: 朝鮮王朝時代に歴代国王を出した李王家の最後の皇太子、李垠(이은、イウン)殿下が中心となり、昭和8~18年にかけて収集した日本美術コレクション。約200点ある。韓国の国民感情への配慮から長く封印されてきたが、日本画と工芸品は日韓共催のサッカーW杯が開かれた平成14年に一般公開された。李垠殿下は日韓併合により日本の皇族に準じる待遇を受け、日本の皇族、梨本宮家の方子さん(韓国名:李方子、이방자、イ・バンジャ、り まさこ、1901-1989)と結婚。昭和38年に韓国に帰国するまで日本で暮らした。
[参考:共同通信、産経新聞、ニッカンスポーツ、産経iza]
ここで、とりあげるのは平塚運一(1895-1997)の作品
島根県松江市生れ。版画家。父親が宮大工であった影響を受け、彫刻に興味をもったらしい。棟方志功の師でもある。
1925年、仏教版画の勉強と収集し始める。また、古代の屋根瓦の模様についての研究を重ね、有名な仏教版画や古瓦を収集する。収集した古瓦3000点を島根県古代文化センターが所蔵している。
李王家コレクションの中のでも版画が収蔵され、今回「百済の過去の首都」(多色摺り版画)が展示される。産経izaにはその写真が貼付されている。初期は多色摺り、後に単色摺りに戻ったといわれる。だから、初期の作品なのだろう。後に1940年に単色摺りで題材を同じくして製作した「百済旧都」という作品がある。
小磯良平の「日本髪の娘」発見 行方不明の作品 李王家収集(共同通信) - goo ニュース
韓国の李王朝最後の皇太子に嫁いだ元皇族の李方子(りまさこ)さんが残した写真、日記などの資料が二カ月前、都内の某氏宅で発見された。
今回発見された資料は全684点。皇子李垠(りぎん)との婚約後の1919年に書かれた日記帳をはじめ、婚礼記念に撮影したガラス製の原版写真など11点、李夫妻が長男晋を連れて韓国に里帰りした日程表、母伊都子妃からの手紙など新発見の資料ばかり。
後に初代韓国総監となった伊藤博文が大勢の役人を引き連れ、韓国各地を視察した様子をまとめたアルバム写真58枚や父高宗と韓国で撮影した幼いころの李殿下の写真などもある。
すべての資料を4日、韓国大使館を通じて韓国政府に寄贈した。
[参考:埼玉新聞]
[2008.11.14掲載分]
韓国国立中央博物館 日本近代西洋画展 行方不明の小磯良平作品戦後初公開
「戦後初めて公開する」としていた小磯良平の絵画「日本髪の娘」について、2005年に韓国国立現代美術館で展示されていたとそうです。
小磯作品、05年に公開済み=韓国博物館(時事通信) - goo ニュース
韓国国立中央博物館(ソウル)は13日、所蔵する李王家の日本美術コレクションの中から、日本を代表する洋画家、小磯良平の作品で、日本では行方が分からなくなっていた「日本髪の娘」(昭和10年)が見つかったと発表した。
18日から同博物館で公開される「日本近代西洋画展」で、「日本髪の娘」をはじめ李王家が収集した日本を代表する作家の洋画40点すべてが戦後初めて公開される。
「日本髪の娘」は、欧風の椅子に座った和服姿の若い女性を描いた100号サイズの作品。昭和12年に李王家が購入した。同館は「日本近代西洋画の最高傑作」と評価している。神戸市立小磯記念美術館の広田生馬学芸員は「小磯の脂が乗り始めたころに描かれ、非常にアカデミックな完成度の高い作品。昭和10年に東京で開かれた展覧会に出品され存在は知られていたが、その後日本では行方不明になっていた」と話す。朝鮮王朝最後の皇太子、英親王が、東京美術学校長の正木直彦や洋画家和田英作らの助言で収集した作品群の一つという。展示は09年10月まで。
今回の展覧会について、国立中央博物館の宣承慧学芸員は「小磯作品をはじめ日本では所在が分からなくなっていたものばかりで、中には図録などの記録も残っておらず、存在そのものを知られていない作品もある。李王家がどんな日本の作品をコレクションしていたのかが初めて明らかになる展覧会だ」と語った。
李王家コレクションは全体で約200点。韓国国民感情への配慮から長く封印されてきたが、日韓共催のサッカーW杯が開かれた2002年に日本画や工芸品などが一般公開された。今年2月に就任した李明博(이명박、イミョンバク)大統領(65)の日韓協力路線を受け、残る洋画の公開も決まった。
ほかに公開されるのは和田三造(1883-1968)の風景画「風景」や、藤田嗣治(1886-1968)が猫や男性を描いたスケッチ2点など。田辺至(1886-1968)の「少女」や小山敬三(1897-1987)の「熊野灘の遠望」、平塚運一(1895-1997)が朝鮮半島の古代国家、百済の首都付与・定林寺五重石塔を見て製作した版画「百済の過去の首都」も公開される。
李王家コレクション: 朝鮮王朝時代に歴代国王を出した李王家の最後の皇太子、李垠(이은、イウン)殿下が中心となり、昭和8~18年にかけて収集した日本美術コレクション。約200点ある。韓国の国民感情への配慮から長く封印されてきたが、日本画と工芸品は日韓共催のサッカーW杯が開かれた平成14年に一般公開された。李垠殿下は日韓併合により日本の皇族に準じる待遇を受け、日本の皇族、梨本宮家の方子さん(韓国名:李方子、이방자、イ・バンジャ、り まさこ、1901-1989)と結婚。昭和38年に韓国に帰国するまで日本で暮らした。
[参考:共同通信、産経新聞、ニッカンスポーツ、産経iza]
ここで、とりあげるのは平塚運一(1895-1997)の作品
島根県松江市生れ。版画家。父親が宮大工であった影響を受け、彫刻に興味をもったらしい。棟方志功の師でもある。
1925年、仏教版画の勉強と収集し始める。また、古代の屋根瓦の模様についての研究を重ね、有名な仏教版画や古瓦を収集する。収集した古瓦3000点を島根県古代文化センターが所蔵している。
李王家コレクションの中のでも版画が収蔵され、今回「百済の過去の首都」(多色摺り版画)が展示される。産経izaにはその写真が貼付されている。初期は多色摺り、後に単色摺りに戻ったといわれる。だから、初期の作品なのだろう。後に1940年に単色摺りで題材を同じくして製作した「百済旧都」という作品がある。
小磯良平の「日本髪の娘」発見 行方不明の作品 李王家収集(共同通信) - goo ニュース