歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

1600年前の新羅騎馬武者の札甲を復元

2013年04月26日 | 韓国の遺跡・古墳など
 2009年に慶州チョクセム地区(경주 쪽샘지구)で発掘した1,600年前の新羅時代の札甲(비늘갑옷인 찰갑)が復元された。
 発掘した国立慶州文化財研究所は、29日午後2時に慶州市皇吾洞チョクセム地区の新羅古墳発掘調査現場で公開する。
 この鱗鎧は2009年3月、チョクセム地区の新羅古墳であるC地区10号木槨墓で馬甲と共に出土した。 墓築造年代は5世紀前半頃と推定される。研究所は収集した鉄片に対して部位別分離作業を通して、冑と頚甲、胴札、上膊(腕)札(臂甲)、腰札、裳札、脚(大腿甲・下腿甲)部分に鱗鎧が構成されていたことが分かった。
[参考:聯合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2009.6.3・慶州市チョクセム地区で5世紀前半頃新羅の完璧な鎧セットが出土
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大津市・菅池遺跡 近江国府跡から京滋最古(7世紀中頃)の木簡が出土

2013年04月25日 | Weblog
 大津市教育委員会の調査で、一昨年8月に近江国府中枢部の国庁跡から北東約400m(菅池遺跡)の古墳時代~平安時代の溝の最下層から出土した木片2本が、飛鳥時代から白鳳時代(7世紀中頃)の木簡の可能性が高いことが24日までに判明した。 滋賀、京都で最古の木簡らしい。
 国府が成立する8世紀以前のもので、一帯が国府以前から、公的な施設もしくは豪族の拠点があった政治的な要所だった可能性があるとしている。
 木簡は長さ約51cm、幅約5cmと、長さ約26cm、幅約3cmの2本。
 奈良文化財研究所(奈良市)が赤外線撮影で調査したところ、文字が確認でき、大きいほうは何らかの文書に用いた可能性が高く、小さい方は万葉仮名で歌を記した可能性があるという。
 同時に出土した土師器や高坏から、木簡の年代を近江に遷都する天智6年(667)以前とみられる7世紀中頃と推定した。
[参考:京都新聞]




キーワード:近江国府跡・国庁跡
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渋川市・金井東裏遺跡 2つ目の甲(よろい)、大小20以上の足跡が見つかる

2013年04月24日 | Weblog
 群馬県埋蔵文化財調査事業団は23日、古墳時代後期の甲を着た人骨が全国で初めて見つかった金井東裏遺跡で、2つ目の甲を発掘したと発表した。 ともに6世紀初頭の火山灰の地層から見つかり、近くの榛名山二ツ岳の噴火で火砕流に巻き込まれたとみられる。
■ 二つ目の甲は、人骨から約1mの距離で掘り出され、甲と人骨の間には鉄鏃が十数点落ちていた。
 二つ目の甲をCTスキャンすると、小さな鉄板(小札、こざね)を紐で綴じた構造が確認され、2つとも、「小札甲(こざね甲)」であった。
■ 甲を着た人骨についても詳細に調べたところ、大腿骨の長さが約43cmであり、身長は約163cmと推定される。 当時の成人男性の身長としては、標準的という。 人骨は膝を折った状態で見つかったが、両足はつま先立ちのような姿勢で倒れていたことも分かった。
■ 人骨から約100m南にある同時期の地層からは、幅1.5m、長さ8mの空間に人の足跡が大小20以上見つかった。 いずれも裸足で、足の指の形がくっきりと残され、大きいもので約23cmあった。 足跡の多くが噴火した榛名山と逆方向を向いており、火砕流から逃げている時の足跡である可能性が高いとみている。 火山灰が降り積もった後の地層にあったため、噴火が始まってからも、周囲を人が歩いていたとみられ、興味深いとしている。
[参考:上毛新聞、朝日新聞、読売新聞、東京新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2012.12.23金井東裏遺跡 3人目の新たな人骨が出土
 2012.12.10金井東裏遺跡 古墳時代の鎧を着けた人骨1体が出土
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桜井市・大福遺跡 2~3世紀の筒状銅器が出土、奈良県初

2013年04月23日 | Weblog
 桜井市文化財協会が22日、弥生時代の集落遺跡として知られる同市大福の大福遺跡で、弥生時代後期から古墳時代前期初頭(2世紀中頃~3世紀後半)の整地層から「筒状銅器」と呼ばれる青銅製品が出土したと発表した。 筒状銅器の発見は全国11例目で、県内では初めて。 大福遺跡は、纒向遺跡と隣接している。 銅鐸を使用した祭祀が終わる時期にあたるため銅鐸を壊してリサイクルした副葬品の可能性もあるとしている。
 筒状銅器は、長さ9・1cm、直径2・2cm、厚さ最大4mm、重さ74g。縦長の透かし、先端付近に固定するための目くぎ穴がそれぞれ4か所あった。杖(つえ)の先端に取り付ける飾りか、槍の柄に付けた石突きだったとみられる。
 筒状銅器は、これまで川原遺跡(豊田市、1世紀前半)など東海地方を中心に約10例が出土している。 筒状銅器は古墳時代前期中頃から中期の古墳副葬品「筒形銅器」と形が似ており、関係を肯定する説と否定する説があったが、「筒形銅器」の原形だった可能性が高まったとしている。
 また、筒形銅器は韓国で多数見つかっており、朝鮮半島起源とも考えられていたが、筒状銅器が大和王権中枢部で見つかったことで、筒形銅器も日本列島で作られた可能性が高まったともみられている。
 4月24日~9月29日、桜井市立埋蔵文化財センターの速報展で展示される。
[参考: 共同通信、奈良新聞、朝日新聞、産経新聞、読売新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
■国内
2009.7.8大福遺跡 銅鐸片が再び出土 青銅器のリサイクル跡
2009.3.5大福遺跡 弥生時代の木製よろいが出土
  <関連記事・2008年04月29日>奈良県桜井市・大福遺跡 銅鐸リサイクル工房跡
2009.9.18 羽曳野市・庭鳥塚古墳 南河内初ののこぎり(鉄片)が出土
 2005.9.14世紀後半の古墳発見、筒形銅器出土

■韓国
2012.8.9 金海市・大成洞古墳群 4世紀の木槨墓2基を発見 うち1基は鮮卑族との交流を示す遺物が出土
 91号墳から、鮮卑系遺物とともに筒形銅器が出土、88号墳からは巴形銅器が多数出土
2012.2.24 金海市・良洞里遺跡 4世紀の円筒形鉄器(儀器)が出土
 円筒形金属遺物は、金海大成洞遺跡、良洞里古墳、望徳里古墳、釜山福泉洞遺跡などの地で、これまで全部で45点が出土したが、材料は全て青銅である。 この他、国立慶州博物館に寄贈された伝・良洞里出土品もまた青銅製品だ。
2011.3.15 金海・良洞里遺跡で弁韓時代の漆弓と三国時代の短甲などが出土
 三国時代に作られた石槨墓で筒形銅器が出土した。
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倉田弟次郎 と 久伊豆神社 神紋

2013年04月19日 | Weblog

4月17日午前9時頃の西洋美術館前。 ハナミズキとツツジがきれいに咲いていました。

 一昨日(4/17)は、国立西洋美術館の「ラファエロ」展を始めに、東京文化会館小ホールでのモーニングコンサート・高橋優(ピアノ)、そして埼玉県立近代美術館の「たまもの 大コレクション展」を観聴(見聞)きしてきました。
 ラファエロ展は開館30分前から並んでいたため、ゆっくりと絵を観ることができました。 「大公の聖母」やジュリオ・ロマーノの「聖家族」などよかったですね。 1500年頃の絵画の色の鮮やかさに驚きです。
 高橋優介君は、現在上野学園大学の2年生。 横山幸雄氏ほかに師事。 昨年の第10回東京音楽コンクールピアノ部門の第1位です。 登場する雰囲気が指揮者の小林研一郎氏に似ているかな~と眺めていました。 ベートーヴェンの「ワルトシュタイン」を演奏するなんて、随分難しいものを選んだのだなと思っていたら、明るい曲で本人が好きな曲だそうです。 小学校の作文で「将来はお笑い芸人になりたかった」と書いたと話していました。 そういえば、ピアノに向って歩く時に左右の手を交互でなく一緒に動かしてましたね。 まるで、チャップリンを意識しているかのように。 要点をよくまとめて、適度な間を置いて話す話し方は、トークがうまいと感じました。
 埼玉県立近代美術館は初めての訪問です。 会場にたくさんの絵が展示されており、観るのに2時間はかかってしまいました。 レオナール・フジタ(藤田嗣治)「横たわる裸婦と猫」や、横山大観、熊谷守一、小茂田青樹などなどの作品が並んでいました。 今回行った目的は、地元埼玉県作家の作品を観ることでした。 特に、森田恒友、倉田白羊。 行きの電車で、そして西洋美術館前で開館までの待ち時間を利用して読んだ「海を見つめる画家たち」(大久保守作、2006年、鳥影社)に森田恒友と青木繁、熊谷守一などとの関係、また森田恒友と倉田白羊との関係が書かれ、有益な予習となりました。

 倉田白羊の兄・倉田弟次郎の「久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)」(越谷)に目がとまりました。 神社は茅葺で拝殿幕の左右に神紋の立葵紋(丸に右離れ立葵)が大きく描かれ、明治十六年(癸)未九月と書かれていました。 絵が描かれたのは明治24年でした。 現在の久伊豆神社とは随分と違った姿です。 本殿は寛政元年(1789)に再建されたものだそうですが、社殿関係では昭和39年に幣拝殿の建設、昭和55年に外拝殿などが重ねられ、大きく立派な神社となっています。

参考
■ 越谷 久伊豆神社 (越谷市越ヶ谷1700)
 旧社格は郷社。 主祭神は大国主命・言代主命、ほかに高照姫命(たかてるひめのみこと)・溝咋姫命(みぞくいひめのみこと)・天穂日命(あめのほひのみこと)を祀る。 創建は不明だが鎌倉時代とされている。 神紋の立葵は、近くに徳川将軍家が鷹狩などを行う越ヶ谷御殿があったことから、葵紋の使用が特別に許可されたものとされている。

■ 玉敷神社 (たましきじんじゃ、加須市騎西552)
 江戸時代までは、「久伊豆明神」と称しており、久伊豆神社の総本社とされている。
 第42代文武天皇の大宝三年(703)、多次比真人三宅磨(東山道鎮撫使)により創建されたと伝えられ。 一説に第13代成務天皇六年、武蔵国造・兄多毛比命によるという。 延喜式神名帳では「武蔵国埼玉郡 玉敷神社」と記載される由緒ある神社。 寛永四年(1627)の頃、騎西城主・大久保加賀守忠職によって現在の地に遷座された。
 旧社格は県社。祭神は大己貴命(大黒主命)。神紋は左三つ巴

■ 岩槻 久伊豆神社 (さいたま市岩槻区宮町2-6-5) 
 創建は、一説に約1,400年前欽明天皇の時代に土師氏が出雲から久伊豆明神(大己貴命)の分霊を勧進し岩槻に社殿を建てたのがはじまりとされている。
 旧社格は県社。 祭神は大黒主命。 神紋は左三つ巴。
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古賀市・谷山北地区遺跡群 船原3号墳に隣接した埋納坑から古墳時代後期の金銅製馬具が一式出土

2013年04月19日 | Weblog
 古賀市教委は18日、同市谷山北地区遺跡群で、古墳時代後期(6世紀末〜7世紀初め)の円墳「船原(ふなばる)3号墳」(直径約20m)に隣接した埋納坑から、同時期の金銅製の馬具が一式そろって見つかったと発表した。 18点が確認され、14点が金銅製。 馬具専用の埋納坑は類例がないという。 古墳の外側だったためか、盗掘された形跡はなく、貴重な発見である。

 圃場(ほじょう)整備の途中で、7世紀初頭前後に築かれた船原3号墳の墓道入り口から5m離れたところに、長さ5.2m、幅0.8m、深さ0.7mほどの長細い穴(埋納坑)があり、馬具がまとめて納められていたのが発見された。
 鉄製の壺鐙や輪鐙、金銅張りの鞍、紐を連結する辻金具や轡引手(くつわひって)、雲珠(うず)や杏葉(ぎょうよう)、鈴などの馬装飾のほか、馬冑(ばちゅ、馬用の冑(かぶと))や馬甲(ばこう、馬用の甲(よろい))と見られる鉄製品も多数あった。 鞍や鐙の数から2セット以上の可能性もあるという。
 金銅製の轡引手は国宝の藤ノ木古墳や宮地嶽古墳(福岡県)の出土品など4例しかない。
 大きさから馬冑(ばちゅう)の可能性がある鉄製品がもしそうであれば、国内では行田市・将軍山古墳と和歌山市・大谷古墳の
2例しかない珍しいもの。
 繋なぎ合わせて甲にする小札(こざね)もあり、馬甲(ばこう)ならこれも数例しかない。
 辻金具は南海産のイモガイで飾られ、朝鮮半島をルーツとする型式という。
 馬具の下には類例のない黒漆の膜が確認されている。 これが何なのか、分析を進める予定としている。
 古墳時代の馬具は副葬品としての部分的な出土がほとんどで、馬具を着装した全体像は埴輪などを基に推定されてきた。
 古墳付近からは鉄鏃60点を出土した穴も見つかった。
 本格的な発掘はこれからになるとしている。
 現地説明会が21日午前10時〜午後3時に開催される。(雨天中止)市役所から送迎バスを運行される。
[参考:共同通信、西日本新聞、毎日新聞、朝日新聞、RKB毎日放送]

古墳時代の馬具一式出土 金銅製、国宝級か 福岡(朝日新聞) - goo ニュース



キーワード: 船原3号墳、船原古墳
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神戸市・深江北町遺跡 東大寺大仏へ寄進示す木簡が出土

2013年04月11日 | Weblog
 神戸市教育委員会は10日、深江北町(ふかえきたまち)遺跡(同市東灘区)で奈良時代に東大寺・大仏建立のため、庶民の寄付行為があった可能性を示す木簡2片が出土したと発表した。 寄進の裏付けになり得る資料が見つかったのは、全国で初めて。
 同遺跡は役人が宿泊や休憩に使った役所「葦屋駅家」に関連することが過去の調査で分かっていた。
 2片はほぼ同じ場所で見つかり、もとは1枚の木簡だったとみられる。
 上部と見られる木簡(幅3・8cm、長さ13cm)には、表面一行目に 「咒願師□朝臣□成・・・」、二行目に「亀 智識…」、裏面には「天平十九年八月一日・・・」が墨書されていた。
 下部と見られる木簡(幅4・3cm、長さ43cm)には、複数の人物名と「銭一文」「廣足二文」「十文」などが列記されていた。
(注) 咒願師(じゅがんし):法会のとき、呪願文を読む僧。咒=呪。
   天平19年(747)は、東大寺大仏鋳造が開始された年。 翌々年に鋳造が終了された。

 ほかにも論語が記された木簡や土器、硯など約290点が見つかった。
 4月13日~6月2日に、神戸市埋蔵文化財センター(同市西区糀台6)で一部を展示する。
[参考:神戸新聞、共同通信、読売新聞、産経新聞、神戸市HP]



キーワード:深江北町遺跡

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帯広市・大正3遺跡など 1万1千~1万5千年前の縄文土器片から煮炊きした焦げかす

2013年04月11日 | Weblog
 北海道や福井県などの遺跡(注1)から出土した15,000~11,800年前の縄文式土器(Jōmon pottery)の焦げ跡に、サケなどの魚を煮炊きしたとみられる脂質が含まれていることを日英などの研究チームが見つけ、10日付の英科学誌ネイチャー(nature)電子版に発表した。
 加熱調理したとみられる世界最古の痕跡としている。
 (注1) 鳥浜貝塚(福井県若狭町)や大正遺跡群大正3遺跡(北海道帯広市)など。大正3遺跡で見つかった縄文土器は2003年に見つかった14000年前の土器片か?
[参考: 共同通信、時事通信、読売新聞、nature]

過去の関連ニュース・情報
 鳥浜貝塚

土器の煮炊き跡、世界最古=1万4000年前、北海道の縄文式―日欧チーム(時事通信) - goo ニュース
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