歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良市・平城宮跡 出土した木簡の樹種を測定

2010年06月30日 | Weblog
 平城宮跡の大極殿院と朝堂院で出土した木簡86点の樹種を、奈良文化財研究所が生物顕微鏡を使って観察したところ、スギやヒノキのほか、多種多様な樹木が確認された。科学的な樹種の調査は平城宮跡の出土木簡で初めて。
  その結果、30点がスギ、28点がヒノキで多数を占める一方、古墳の木棺材として知られるコウヤマキ2点、サワラ3点、カヤ1点、モミ属1点、シイ属1点などが確認された。
[参考:奈良新聞、奈良文化財研究所HP]

過去の関連ニュース・情報
 2010.5.26 慶州市仁旺洞・伝仁容寺址 7世紀初葉の「瓦築基壇」が出土
 2010.2.16 百済時代木製品の中に、日本産の樹木が多数含まれていることを分析で確認
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糸島市・井田原開(いだわらひらき)古墳 現地説明会を開催

2010年06月30日 | Weblog
 糸島市教委は、5月から発掘調査を実施し、糸島市では2番目に大きい長さ約90mの前方後円墳と確認された「井田原開古墳」(同市志摩井田原)での現地説明会を開く。
 同古墳は、地山を削り形状を整えていることや、出土した葺石の状況から後円部は3段、前方部は2段の構造だったことなどが判明した。出土した埴輪などから、約1600年前に築造された当時の首長墓と推定されている。
現地説明会は7月3日(土)午前11時から開かれる。
[参考:毎日新聞]

備考:
糸島市の大きな古墳は下記の通り。
 一貴山銚子塚古墳(いきさんちょうしづかこふん) 全長103mの前方後円墳。4世紀後半築造。
 端山古墳(はやまこふん) 全長78.5mの前方後円墳。3段築成。4世紀築造
 築山古墳(つきやまこふん) 全長約60mの前方後円墳(帆立貝式)。4世紀築造。
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甲府市・塚本遺跡 古墳時代の須恵器平瓶?と奈良時代の腰帯具が出土

2010年06月30日 | Weblog
 甲府市教委が同市の千塚小校庭で行っている塚本遺跡の発掘調査で、古墳時代の陶質土器・須恵器の甕や奈良時代のベルトの装飾品「腰帯具」が見つかった。
 委託を受けて調査している帝京大山梨文化財研究所によると、2点とも当時の役人が所有する品であり、同校があるエリアが地域を治める上で重要な拠点となっていたことが推察されるという。
 須恵器(注1)は高さ、直径ともに約30cm。液体が注ぎやすいように、注ぎ口が中心からずれた位置に付いているのが特徴。祭祀の際、酒を入れるなどして使用していたと推測される。
 腰帯具は縦約2cm、横約3cmの銅製。大きさからみると、役人が身に着けていたものとみられる。今回の出土品の発見によって、少なくとも古墳時代から奈良時代にかけては役人クラスが住んでいた集落だったと推察されるという。
[参考:山梨日日新聞]

注1: 須恵器平瓶か。最上部に出来る穴は塞いで、すぐ隣に穴をあけ注ぎ口を設けているのが特徴。穴を塞いだ粘土板部にはボタン状の貼付文らしきものが見える。


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大津市・宇佐山古墳群 石棺が出土し、内部からは赤色顔料が塗られた頭蓋骨も

2010年06月28日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会が28日、大津市神宮町の近江神宮境内にある宇佐山古墳群で、古墳時代中期前半(5世紀前半)の古墳から花崗岩製板状の石材を組み合わせた箱式石棺(内寸:長さ158cm、幅24~36cm、高さ30cm)。がほぼ完全な状態で出土し、中から魔よけの顔料で赤く染まった頭蓋骨が見つったと発表した。
 宇佐山古墳群は琵琶湖を見下ろす宇佐山(標高335m)の山腹・標高約150mにあり、これまでに、古墳時代後期(6世紀ごろ)の古墳が12基出土している。日本海側と畿内を結ぶ琵琶湖の水運に従事した有力者の墓ではないかとしている。
 頭蓋骨は20~40歳の成人男性のもので、上顎までで下顎から下の骨はなかった。身長は推定約155cmとみられ、足を伸ばした姿勢で埋葬されたらしい。頭蓋骨の位置から琵琶湖側に足を向ける形で収められていたとみられる。頭蓋骨や棺の内側は、当時、魔よけとして儀式に使われた赤色顔料が塗られ、「朱」か「ベンガラ」とみられる。赤く塗られた人骨は弥生から古墳時代の古墳などで、山陰地方から丹後地域にかけて出土した例があり、県内では打下(うちおろし)古墳(高島市)でも赤く塗られた頭蓋骨が見つかっている。
 石棺を覆っていた粘土の中から鉄剣や鉄鏃などの副葬品が出土した。土器は見つからなかったが、鏃の形などから年代を推定した。
 現地説明会は7月4日(日)午前10時と午後1時半から開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、ABC関西ニュース、読売新聞、滋賀県埋蔵文化財保護協会HP]

大津の古墳、未盗掘石棺から完全な頭骨(読売新聞) - goo ニュース


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「発掘された日本列島2010」 を見て

2010年06月28日 | 「発掘された日本列島」展
(写真は唐古・鍵遺跡遠景)

 江戸東京博物館では、6月5日から発掘速報展「発掘された日本列島2010」が開始されています。(~7月25日まで)
 この1,2年に出土した遺物だけでなく、それ以前のものも多く含まれていますが、重要遺跡がいくつもあり興味のあるものでした。
 高松塚古墳、キトラ古墳の発掘調査成果や保存修理の状況、整備事業の経過を紹介する展示、あるいは地域展「古代武蔵国の郡衛」も併せて行っています。
 ニュースあるいは資料などにより掲載されている写真は、著作権があり使用することができません。そのために、折角、ニュースあるいは情報として採り上げても、写真が載せることができず残念に思うのですが、ここで撮った写真は、このサイトで過去にも振り返って整理したいと思います。

1.赤土山古墳(天理市)
 展示室に入ると、最初に出会うのがこの古墳(4世紀後半)から出土した円筒埴輪と朝顔形埴輪(写真1.)でした。
 築造後まもなく発生した地震により、一部の埴輪列が地面ごと8m滑落し、そっくりそのままに土砂に埋まってしまったため、原形で出土したそうです。
 天理市教委が発表するところによると、地震は過去2回あり、1回目の地震は埋まった埴輪の風化が少ないことから古墳が作られて間もない5世紀初め、2回目の地震は887年の南海地震であろうということです。

2.池田古墳(朝来市)
 昨年2月、池田古墳の渡土堤の部分から、最古の水鳥形をした子持ちの鳥形埴輪計11体が全国で初めて出土しました。さらに9月、東造り出しからも水鳥形埴輪が出土しました。(写真2.)水鳥はガン、カモ類だそうです。
過去の関連ニュース・情報
 2009.2.20 池田古墳 水鳥形をした子持ちの鳥形埴輪出土 
 2009.10.30 池田古墳 墳丘東側の造り出しから第2段目葺石部までを調査中

3.観音寺本馬遺跡(橿原市・御所市)
 土偶と石棒(写真3.)などが展示されていました。ともに橿原市側、すなわち観音寺地区からの出土のようです。
過去の関連ニュース・情報
 2008.12.3 橿原市観音寺地区遺跡・御所市本馬遺跡 東日本文化の影響を受けた縄文晩期遺跡

4.唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)
 ここ数年は新しい発掘調査のニュース・情報はないと思いますが、過去に出土した楼閣が描かれた土器片(写真4-1.)や青銅器工房遺構から出土した銅鐸の土製鋳型外枠(写真4-2.)、鞴羽口などが展示されていました。

5.三雲・井原遺跡(糸島市)
 「魏志倭人伝」の伊都国最大の拠点集落とみられる三雲・井原遺跡ですが、ここ1,2年は大きな発見はないはず。2007年4月に「完形品としては国内最古の内行花文鏡1枚が出土」と発表された朱がかかった鏡(写真5.)が展示されていました。

6.纒向遺跡(桜井市)
 昨年は、3世紀前半の国内最大の建物跡が見つかり昨年最大の話題を提供していました。 
過去の関連ニュース・情報
 2009.11.01 桜井市・纒向遺跡 3世紀前半の国内最大の建物跡が見つかる
 2009.3.20 桜井市・纒向遺跡 卑弥呼時代の建物群と柵が出土
 展示されていたのは、列島各地からもたらされた土器(吉備系、東海系、山陰系など)。写真6.(左)は北陸系甕、(右)は2007年度に出土した木製仮面(3世紀前半)。農耕に関する祭祀に使用されたと考えられています。

7.桜井茶臼山古墳(桜井市)
 昨年は、石室上部「方形壇」を囲む巨大な「丸太垣」の痕跡見つかったことを初めとし、全面を朱で彩った石室を60年ぶりに発掘し一般公開し、81枚以上の銅鏡が副葬されていたことが確認されたりなど、大きな話題が提供されました。また、木棺の材質がコウヤマキ製と特定されもした。
過去の関連ニュース・情報
 2010.1.9 桜井茶臼山古墳 昨年の調査で81枚以上の銅鏡が副葬されていたことを確認 
 2090.10.22 桜井茶臼山古墳 全面を朱で彩った石室を60年ぶり発掘し一般公開
 2009.6.14 桜井茶臼山古墳 木棺はコウヤマキ製と特定
 2009.6.12 桜井茶臼山古墳 石室上部「方形壇」を囲む巨大な「丸太垣」の痕跡見つかる

 残念ながら、パネル以外で特別な展示品はみられませんでした。

8.馬場南遺跡(木津川市)
 馬場南遺跡は、発見当初(2008.8月)は「文廻池遺跡」と称され、須弥山を表す三彩陶器、万葉集の歌が書かれたとみられる木簡、「神尾寺」と書かれた墨書土器が出土しました。
過去の関連ニュース・情報
 2008.8.12 文廻池遺跡 須弥山を表す三彩陶器が出土
 2009.1.19 馬場南遺跡 現地説明会 1月17日
 2009.8.11 馬場南遺跡 奈良時代の湧水施設が出土
 2009.8.16 馬場南遺跡 万葉集木簡の裏面に「越中守」?

 写真8-1.は出土した墨書土器。右は「神雄」、左は「黄葉」と記されています。ほかに神尾(寺)と記されたものがあり、ここに神雄寺(かみおでら)があったと推定されました。「黄葉」は、出土した万葉木簡「阿支波支乃之多波毛美智」(秋萩の 下葉もみちぬ)
  秋芽子乃 下葉赤 荒玉乃 月之歴去者 風疾鴨(秋萩の 下葉もみちぬあらたまの 月の経ゆけば 風をいたみかも)
に関連したものかは興味あるところです。
 写真8-2.は三彩陶器類。
 写真8-3.は彩釉山水陶器。左は組み上がりの位置を示す「左五」の刻書がある三採陶器。。右は魚を描いたもの。この造形物は本来、仏像の足下を飾っていたと考えらそうです。
 写真8-4.は須恵器の鼓胴(推定復元長さ32.5cm、直径18.5cm)。鼓胴は木製が一般的で、陶器製は国内では正倉院に伝わる奈良三彩だけだそうです。

9.キトラ古墳(明日香村)
 写真9-1.は壁画の精密な複製を陶板で製作したもの。左に朱雀、右に玄武。
 写真9-2.は黒漆塗銀装大刀片および金具類。

10.三重津海軍所跡(佐賀市)
 慶応元年(1865)に国産初の実用蒸気船、凌風丸を完成したといわれます。現在、発掘調査を進め、世界遺産登録を目指しています。
過去の関連ニュース・情報
 三重津海軍所跡

 写真10.は出土した海文茶碗と皿。

以下は、併設展示の地域展「古代武蔵国の郡衛」です。
よく本や資料で見る、「无邪志国荏原評」銘瓦、武蔵国府国衛の東隣に造営されたとみられる多摩寺を裏付ける「多寺」「?磨寺」銘の瓦などが展示されていました。残念ながら撮影は禁止でした。

11.幡羅遺跡(深谷市)
  2006年に古代の郡役所跡「幡羅遺跡」(7世紀後半~10世紀前半)で竈(かまど)の支脚とみられる人面が描かれた土製品(写真11.)が発見されました。竈神(かまど神)を描いたものとみられています。
過去の関連ニュース・情報
 2008.7.5 幡羅遺跡「竈神」を描いた人面土製品?を発見
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富山市・小竹貝塚 縄文前期の埋葬人骨13体が出土

2010年06月27日 | Weblog
 富山県文化振興財団埋蔵文化財調査事務所が24日、同市呉羽町北の小竹(おだけ)貝塚で、縄文時代前期後半(約5500~6000年前)に埋葬された人骨13体が、石斧や石皿などの副葬品とともに見つかったと発表した。
 小竹貝塚は日本海側最大級の貝塚として知られ、河川工事などに伴い県や市が断続的に調査してきた。貝塚は「く」の字形に広がり、推定で約2万3千㎡の範囲に及ぶ。これまで、竪穴住居10棟を含む集落跡や墓域から人骨3体が見つかっている。
 同財団が北陸新幹線建設に伴って、東西120m、南北8mにわたり昨年度に調査を始めた。今年は4月から調査し、人骨が出土したのは、今回の調査場所のほぼ中央部分で、小高くなった「通路」の両側に12個の墓坑が見つかった。
 人骨は深さ約2・5mの地中から、約40mの間に2列でほぼ等間隔に並んで出土した。1体は足を伸ばしたままの伸展葬、12体は膝を曲げた屈葬。
 このうち、2体が重なり合うように埋葬されていた墓坑からのみ、副葬品の石斧数個(長さ3~10cm)と四角い石皿(1辺約20cm)が見つかった。石皿は女性の道具、石斧は男性の道具と考えられ、この2体は親族関係があったとみられる。縄文時代の遺跡で、男女を象徴する道具とともに埋葬された人骨が確認されるのは珍しい。
 他に石を抱いて屈葬された人骨もあった。人骨の保存状態が良かったのは、貝のカルシウムと周囲の土に含まれる水分が骨を酸化から守ったためとみられる。
 現地では26日、一般市民を対象にした遺跡の説明会が開かれた。

主な出土品
 イノシシ形の土製品:長さ8cm、幅4cm、高さ3cmの大きさ。背中から腹部に向けて2カ所に穴があり、ひもを通すことができる構造。胴体に模様があり、子どものイノシシをかたどったと見られる。
 イルカやサメ、クロダイ、イヌ、イノシシ、シカなど生物の骨や歯。イヌは、人が埋葬されていた場所の近くから骨が発見され、食用ではなく狩猟の「仲間」として埋葬したと見られるという。
 骨製品:イノシシやシカの骨を加工した釣り針や装身具のヘアピン
 木製品:磨製石斧の柄や筒型の容器、皿など製作途中のものや編み物の一部
[参考:北日本新聞、読売新聞、朝日新聞、KNB北日本放送、NHK]



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扶余・陵山里寺址 彩色漆器に顔料「石黄」を使用

2010年06月26日 | Weblog
 国立扶余博物館は24日、同博物館で開催中の「百済中興を夢見て-陵山里寺址」(2010.6.8~8.15)に出展された彩色漆器片(注1)が、石黄(As2S3)を顔料として使用したとみられると発表した。百済時代の絵画に広く使われた顔料とみられるとしている。
 この彩色漆器片は、黒色漆生地に黄色と赤色顔料を交互に使って6葉花模様を表現した。
 同博物館がX線蛍光分析器(micro-XRF)を通してこの漆器片を調査した結果、黒漆生地に鉄(Fe)が、赤い花びらの彩色には朱砂(HgS)、黄色の茎と花びらには砒素(As)を含有した石黄が使われたと推定した。
 石黄(석황)は雌黄(자황)、石紫黃(석자황)とも云い、重金属のヒ素を含んで毒性と中毒性が強く、主に黄土とともに黄色顔料としてたくさん使われた。
 中国では4世紀東晋時代末期および敦厚莫高窟で石黄が使われたことが報告されており、日本では正倉院所蔵遺物(注2)および楽浪・石巌里205号墳王旰墓出土漆器(注3)で石黄が検出されている。
[参考:聨合ニュース]

備考:
(注1)1993年に陵山里寺址工房跡から百済金銅大香炉とともに出土したものと思われる。
(注2)香薬に分類されている「雄黄(おおう)」のことと思われる。
(注3)平壌・石巌里(석암리)205号(王旰墓)出土遺物 (東京大学文学部考古学研究室所蔵)
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佐賀市・佐賀城跡 村中城の遺構、防御機能備えた「内堀」が出土?

2010年06月26日 | Weblog
 佐賀市教委は25日、5月に初確認した戦国大名・龍造寺隆信(1529-1584)の居城「村中城」の関連大型建物遺構近くから、同時代の堀跡が出土したことを発表した。堀跡は防御機能を備えた「内堀」とみられ、幅7m、深さ4m程度の深堀と推定される。
 5月に確認された2棟の大型掘立柱建物遺構とともに、村中城の「内郭」を形成した一部とみられる。

過去の関連ニュース・情報
 2010.5.20 佐賀市・佐賀城跡 龍造寺氏の居城・村中城の遺構を初発見
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大阪市・大阪城 秀頼と淀殿が自刃した「山里丸」の遺構見つかる

2010年06月26日 | Weblog
 慶長20年(1615)の大坂夏の陣で、徳川家康に敗れて豊臣秀吉の子・秀頼とその母・淀殿が自刃した場所とされる大阪城天守閣北側の区画「山里丸(やまざとまる)」とみられる遺構の一部が、大阪市博物館協会・大阪文化財研究所の調査で初めて出土したことが25日分かった。
 地表から約4mの深さに埋もれ、落城時の火災を示す焼土層が積もっていることが確認された。
 山里丸は、秀吉が千利休らと茶会を催した茶室などがあったとされる。遺構は、南北に延びる石組み溝(幅35cm)で、長さ6m分を確認。溝の側面には高さ35cm、長さ50cm、幅20cmの石が並び、底には平らな石などが敷いてあった。中から見つかった陶磁器から、年代を特定した。
 焼土層は厚さ50cm。焼けて変形した瓦も大量に出土した。溝は、徳川幕府が1624年に始めた城の再築で埋められたとみられる。
 調査成果は7月28日~9月20日、大阪市中央区の大阪歴史博物館「新発見・なにわの考古2010」で展示される。
[参考:読売新聞、産経新聞]

秀頼と淀殿が自刃、「山里丸」の遺構見つかる(読売新聞) - goo ニュース
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船橋市・小室台遺跡 6世紀末から7世紀にかけての鉄製の大刀(長さ約90cm)が出土

2010年06月25日 | Weblog
 船橋市教委は24日、今月18日に同市小室町の区画整理地内で発見された、1300~1400年前の古墳時代のものとみられる鉄製の太刀(長さ約90cm、刃渡り70cm)を報道関係者に公開した。6世紀末ごろから7世紀にかけてのもので、古墳の副葬品と推定されるが、これまで市内では古墳そのものが確認されていない。鉄製大刀が出土したのは市内初。畿内のヤマト政権と、小室町地区とのかかわりを示す「銘文」が残されている可能性もあるという。
 出土したのは、北総鉄道小室駅北側の小室区画整理事業地内の畑だった場所で1997年に発掘調査を開始。旧石器時代後期から鎌倉時代までの複合遺跡で、小室台遺跡と名付けられている。今年は、発掘調査が4月23日から2450㎡の規模で行われた。
 大刀は錆びているが、ほぼ全体が残っており、刃の部分には鞘の一部分らしい木片が付着していた。外見だけでは銘文の有無や、国内で作られたものかどうかも不明という。
[参考:産経新聞、千葉日報]

備考:
 千葉県では市原市の稲荷台1号墳(円墳、径約28m)から、王賜銘鉄剣(長さ約73cm)が出土している。古墳時代中葉の5世紀中頃から後半のものとみられる。鉄剣であるから、両刃。今回船橋市から出土したのは大刀であるから片刃。
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淡路市・垣内遺跡 名称を「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」に変更

2010年06月24日 | Weblog
 弥生時代の国内最大級の鉄器工房とみられる淡路市黒谷の垣内(かいと)遺跡の名称が、「五斗長垣内遺跡」に変更された。
 国史跡に指定されると遺跡名の変更ができないことから、市教委が市内に同じ遺跡名がないかどうか調べていたところ、同市浅野南に奈良時代から室町時代にかけての「かいと」と呼ばれる「開戸遺跡」が存在することが分かった。遺跡名が混同しないようにと、垣内遺跡については地元の集落「五斗長」の名称を付けて「五斗長垣内遺跡」と変更することに県教委に申請し受理された。開戸遺跡は「浅野開戸遺跡」とした。
[参考:毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 垣内遺跡
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京都市・天竜寺 夢窓疎石の着用した「袈裟」が見つかる 

2010年06月23日 | Weblog
 京都国立博物館(京都市)が23日、鎌倉時代終わりから室町時代の初めに活躍した臨済宗の僧侶、夢窓疎石(1275-1351)が着用していたとみられる袈裟が、自ら開山した天竜寺(京都市右京区)で見つかったと報道陣に公開した。
 昨年12月に収蔵庫の箱の中で、折り畳んだ状態で見つかった。劣化が激しいため広げておらず、幅は推定で幅3・5m、丈1・4m。生地は紫色で、金糸が織り込まれている部分もある。
 夢窓疎石の袈裟は、円覚寺(鎌倉市)や、鹿王院(京都市)でも見つかっている。
 天竜寺の袈裟の文様には円覚寺などと同じ直径5cmほどの竜が描かれ、鹿王院所蔵の肖像画に描かれた疎石が着ている袈裟と同じものだった。
 収蔵庫からは、応仁の乱の戦火を逃れるため、袈裟を足利家の菩提寺にいったん移動させたことを記した文書も見つかった。
 袈裟は10月9日~11月23日に京都国立博物館で開かれる特別展覧会・文化財保護法60周年記念事業「高僧と袈裟-ころもを伝え こころを繋ぐ」で公開される。
[参考:共同通信、産経新聞、京都国立博物館]

京都で夢窓疎石のけさ見つかる 自ら開山の天竜寺(共同通信) - goo ニュース
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京都市・法勝寺 八角九重塔跡で梵字が書かれた軒瓦片が出土

2010年06月23日 | Weblog
 京都市埋蔵文化財研究所が23日、平安時代後期に白河天皇(1053~1129)が建てた法勝寺(同市左京区)の八角九重塔跡で、九重塔を示すとみられる「九」の文字や、塔の本尊「大日如来」を意味する梵字が書かれた軒瓦の破片が見つかったと発表した。
 文献によると、塔は高さ約81m(27丈)。塔は1342年に焼失。瓦の破片は八角形の基礎部分「掘り込み地業」の周辺で見つかった。
 地業の外側では、白い凝灰岩を加工した縦約30cm、横約30cm、厚さ約10cmの敷石数枚が並んだ状態で出土。基壇の階段周辺に整然と敷き詰め、装飾したとみられる。
 また地業の総面積は約850㎡に及ぶことを確認。東大寺(奈良市)の七重塔(高さ約96m)や、現存する中で最も高い東寺(京都市)の五重塔(高さ約54m)の基壇より大きかった。
 現地説明会は26日午前10時~正午まで30分ごとに4回開かれる。
[参考:共同通信、日経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.3.12 法勝寺 八角九重塔の基礎部分について初めて規模を確認
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松原市・河合遺跡 市立学校給食センター建設によって、すでに一部破壊

2010年06月22日 | Weblog
■2010.6.22 市教委、大半を保存できるよう設計変更を決める
 河合遺跡が、市立学校給食センター建設により破壊の危機にさらされていた問題で、市教委は遺跡の大半を保存できるよう同センターの設計変更を決めた。
 市教委に遺跡とセンターの共存を要望していた府教委は「破壊は最小限にとどまり、一定の評価はできる」と了承、文化庁に報告した。市教委は将来的に、市指定史跡にすることを検討する。
[参考:読売新聞]

■2010.5.1 松原市・河合遺跡 市立学校給食センター建設によって、すでに一部破壊
 奈良時代の地方役所跡(郡衛「丹比郡家」)とみられる大規模な建物跡が出土した河合遺跡が、市立学校給食センター建設によって危機にさらされている問題で、すでに下水工事で遺跡の一部が壊されていたことがわかったと読売新聞が報じている。
 市教委は、専門家らによる市文化財保護審議会に工事の是非を諮っておらず、遺跡の価値を十分検討しないまま壊していたことになるとしている。
 市教委によると、センター建設の一環で、敷地中央を東西に走る市道を南に移設するのに伴い、1月中旬に下水工事を実施。下水管(直径約30cm)を地下1・5mに約60mにわたって埋設。遺構は地下0・5~1mにあり、遺跡のロの字形の南側にあたる建物跡(東西26m以上、南北3・2m)を壊していたという。
[参考:読売新聞]

過去の関連・ニュース・情報
 2010.4.15 河合遺跡 市立学校給食センター建設によって壊される危機に直面か
 2010.3.10 河合遺跡 奈良時代の役所跡、長さ50mの建物を含む10棟が出土
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春日井市・天王山古墳 古墳前期(4世紀)の円墳を確認

2010年06月21日 | Weblog
 春日井市が発掘調査していた「天王山古墳」(同市大留町西島)の現地説明会が19日あり、市民約100人が参加した。
 これまで、竹藪になっていたが平成15年度から調査を実施し、今回は3次調査となる。
 春日井市内では3例目となる前期古墳(4世紀代)で、葺石・周溝・2段の平坦面のある直径約30m、高さ約5mの円墳であることが明らかになった。墳丘斜面からは赤彩を施した二重口縁壺(壺形埴輪)が、頂上部からは高杯や赤彩を施す器台などが出土している。
[参考:毎日新聞、春日井市HP、郷土誌かすがい第63号、第65号]



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