歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

小田原城 北条氏が城下町を正方位に区画して町づくりをしたことを示す土地境界の石積みを発掘

2008年12月06日 | Weblog
 小田原市本町の旅館跡地の遺跡発掘調査で、戦国時代末期から江戸時代初期のものとみられる南北に延びる土地境界の石積みが見つかった。発掘調査をしているのは江戸時代、東海道に面した宿場があった「宮前町」(現本町3-6)の一角。江戸時代末期に大名が宿泊する本陣や、2カ所の脇本陣と旅籠23軒があり、「本町」とともに小田原宿の中心だった。発見された石積みは旅籠と隣地の土地境界を示すもので、石積みが南北にまっすぐ延びている。震災前の大正時代に作成された古地図と一致しており、戦国時代からの町並みが明治、大正まで続いていたことが分かるという。
 北東250m先の(仮称)城下町ホール予定地(本町1-138)の発掘調査では江戸時代の重臣の屋敷の礎石などとともに、戦国時代(16世紀)に造られたとみられる砂利敷きの道路(幅約5m、長さ120m)が東西方向に延びているのが見つかっている。
 市文化財課は、小田原北条氏の時代に京都の町並みと同じように、正方位に区画された町づくりが行われていたことを示すと云う。
 小田原北条氏は戦国時代、城と城下の整備を進め、1590年に豊臣秀吉に滅ぼされる前には、堀と土塁からなる周囲約9kmにも及ぶ「総構(そうがまえ)」を完成させている。
 石積みなどとともに、伊万里、瀬戸焼など多数の陶磁器、茶道具なども出土している。
[参考:毎日新聞]
関連:前出
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仙台市・郡山遺跡 藤原京の1区画と同じサイズであることを確認

2008年12月06日 | Weblog
 多賀城が造られる前の国府跡である「郡山遺跡」(仙台市太白区)のII期官衙(役所)が、藤原京(694~710年)の1区画と同じ1辺533m(1500尺、1大尺=35.6m)の正方形であることが5日、仙台市教委の調査で分かった。
 建物の配置などから藤原京の宮殿との類似性は指摘されていたが、数値面から初めて裏付けられた。
 II期官衙は700年頃できた初めての陸奥国府で、724年に国府が多賀城(多賀城市)に移るまで大和政権が勢力を北へ広げる拠点だった。
 市教委が10月から遺跡の東辺を調査したところ、幅最大約3m、深さ約1・4mの大型の溝を発見。官衙の外郭となる材木列(塀)、大溝(堀)から55.5m(150大尺)離れ平行していた。以前の調査で西辺から同規模の溝が出土していることから、東西の長さが533mと判明。官衙の外側が塀と溝で区画され、一定の空白地を挟んでさらに外側に溝を持つことや、南北も同じ長さの正方形であることが分かった。
 藤原京で使われた尺度が使われていたことから、都市の設計思想が盛り込まれていた可能性が高まったとする。
 7日午前10時半から見学会が開かれる。問い合わせは発掘調査事務所((電)090・9633・4291)。
[参考:読売新聞、仙台市文化財]
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