たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

農業政策の失敗 - シリア内線の背景

2017-01-20 03:27:54 | シリア内戦

 

=====《国家戦略としての食糧増産》========

The Role of Drought and Climate Change in the Syrian Uprising:Untangling the Triggers of the Revolution

    著者 Francesca de Châtel   2014127

 

第二次大戦後、シリアでは農産物の増産が国家戦略となり、降水量の少ない地域では、農業用水の確保が必須となった。ユーフラテス流域の農地に供給する水の量を調節するため、1950年代以後ダムが建設された。

農地を増やすことに心を奪われ、農業政策者は自然資源が有限であることを忘れた。

無謀な増産計画と長期的な観点の欠如により、国民に食糧を供給する農業地帯を荒廃させてしまった。また農産物はシリアの重要な輸出品であり、外貨獲得の面でも損失になった。

これまで60年間シリアの農業生産量は増え続けた。シリアの農地面積は20年間で2倍になった。1985年には65.1万ヘクたータールだったが、2010年には135万ヘクたータールに増えた。これらの農地の60%は地下水を利用しているが、将来枯渇することを予測せずに汲み上げられてきた。

シリアの水資源の90%が農業用水として使われており、きわだって農業国の特徴を示している。しかし灌漑方式が旧式であり、貴重な水を無駄使いしている。川の氾濫にまかせるだけである。またコンクリートの水路は覆いがなく、10%-60%が蒸発してしまう。

農地を増やしたた当然の結果として、水が不足するようになった。2007年シリアの水資源は156億立方メートルと推定されるが、同年の水の使用量は推定で192億億立方メートルだった。使用超過分の36億立方メートルはダムの貯蔵水と地下水で補った。2007年シリアの一人当たりの水使用量は年間882立方メートルであり、シリアは水の少ない国となった。

(注)シリアは肥沃な三日月地帯の一部をなし、ダマスカスはオアシス都市として繁栄してきたのであり、乾燥地帯の中東諸国の中では比較的水に恵まれていた。

 

干ばつの原因は人口増加と気候変動による少雨であると政府は説明するが、長期的な水管理政策の欠如と無謀な農地拡大こそが真の原因である。

第二次大戦後シリアの人口は急速に増加した。1950年代は330万人だったが、現在は約2140万人である。この爆発的な人口増加は、1950年代以後政府が人口増加を推進したことにもよる。1970代政府は避妊を禁止した。1970代シリアの年間人口増加率は3.75%だった。現在2.94%に下がったが、中東諸国の中で最高である。このまま推移すれば、2050年シリアの人口は3700万になる。

人口が増加したので食糧の増産が必要になり、また戦略的な見地から食糧の自給を維持しなければならず、農地を拡大せざるを得なかった、と政府は説明する。しかし小麦の生産目標を年に400万-500万トンとしたのは、国内の需要を超えている。また食料ではない綿花栽培のために使用される水の量は、小麦に次いで2位である。農産物は外貨獲得の輸出品として重視されたのである。東北部で無制限に水を使用するなら、いずれ地下水が枯渇することは明らかだったにもかかわらず、新たに土地を埋め立て農地を増やす政策は変更されなかった。2011年デリゾール県とハサカ県において40万ヘクタールの埋め立てが計画された。

水は国家の戦略資源であり、重要な機密事項である。これはシリアに限ったことではなく、乾燥気候に属する中東では特にそうである。そのためシリアの水源管理の実態を知るのは政府だけであり、在野の専門家が口を出す余地がなく、緊急事態が起きてもそれを認識しなかった。機能不全に陥っている政府の農業部門は、地下水が枯渇しかかっていることに気づかなかった。

政府内内でも水資源に関する情報は共有されなかった。各省・研究機関が得た情報は他の省・研究機関に対して秘密にされた。一般的な情報でさえ、他の省・研究機関に情報を漏らすには、面倒な手続きが必要だった。また県政府の間でも情報の交換がなかった。

水資源についての調査方法が省によって異なり、調査結果が互いに矛盾した。こうした混乱によって、政府は一貫した政策を決定できなかった。政府の省を含め、22の会議・委員会・理事会が水管理に直接、間接に関わっていたが、形骸化しており、有効な対策をできなかった。

ハフェズ・アサドの時代(1963年-2000年)に、農地を増やすことと水源開発が始まったが、関係各省はそれぞれ独立しており、互いに争った。

これは2000年にバシャールが大統領になってからも変化がなかった。農業行政に関わる各省の間には協力関係がなく、農業用水に関する統計は省によって異なり、最新のものではなかった。農業・灌漑省の官僚のほとんどは中等教育しか受けておらず、大卒者は非常に少なく、先見の明に富む者はいなかった。下級官僚の人数は多かったが、40%ー60%は小学校卒だった。

上級官僚であっても、給料は低く、省内に部族の主従関係と縁故関係が持ち込まれ、汚職があたりまえになった。

以上のことから、政府の野心的な計画は決して実行されなかった。特別委員会が設置され、水源管理の近代化ついて様々な角度から研究されたが、最終報告はされなかった。法律ができても、きちんと実行されなかった。

地下水の枯渇が明らかになっても、水源管理の見直しはされなかった。大河から遠い地域の農民は昔から雨水によって作物を育ててきた。飲み水については、人力で浅い井戸を掘った。乾季の終わりには井戸水は底をつくが、雨期に再び満たされた。地下水の水位は保たれた。

しかし1970年代に大型のディーゼル動力ポンプが導入され手から、地下水のレベルが急速に低下した。1970年代以後、シリア中の農民が数百の新しい井戸を掘り、地下水に頼る農地を拡大した。2000年代になっても新しい井戸が掘られ続けた。1999年に井戸の数は135000だったが2010年には23万に増えた。2010年井戸の57%は無許可だった。

1980年代と1990年代地下水のくみ上げ量は1970年以前の5倍だった。最悪の例はハマ県のMhardeh とイドリブ県の Khan Shaykhunであり、1950年代と比べ、2000年には地下水が100メートル低下した。他の地域も同様で、特に1993年ー2000年地下水の使用量が急増した。ダマスカス郊外のグータ地区とその周辺では、地下水が一年で6メートル低下した場所もある。

1980年代と1990年代、政府は地下水の急速な低下を認識せず、地下水に頼る農地の拡大を奨励した。また綿花栽培のために新たな井戸を掘るのを支援した。農民は井戸を掘る動力ポンプを買う際、有利なローンをりようできた。また補助金によって燃料を非常に安く買うことができた。農民は低コストで深い井戸をほることができた。井戸を掘る許可と井戸の検査がずさんだったので、1980年代と1990年代数千の井戸が認可なく掘られた。

無許可で掘った井戸は2001年までに認可を申請するように、と政府が1990年代命令を出したが、効果がなかった。2005年政府は水資源保護法を制定し、違法な井戸掘削者に対罰金や禁固刑を科した。また井戸使用の許可を1年ごとの更新制にし、地下水の水位を調査した。しかし結果は汚職がひどくなっただけで、目的は達せられなかった。許可の更新を求める農民に対し、秘密警察と地元の役人がわいろを要求したのである。農民はこれを非常に憎んだ。井戸の数を減らすための法を実行する者がわいろを要求したため、井戸の数は増え続けた。

 

ハサカ県は1970年代以後人口が急増し、農地が拡大したが、地下水が枯渇し、1990年代多くの農民が土地を捨てた。地下水を大量にくみあげたため、たくさんの泉が枯れた。井戸が枯れ、もともと水量が少ない地下水も枯れた。1990年以後カブール川は夏になると水が消えた。トルコとの国境にあり、世界最大のカルスト泉であるラス・アルアイン泉は2001年以後水がなくなった。

ダマスカスの北ノネブク地区のぶどう畑と小麦畑は有名だったが、砂漠になった。2009年ここの元農民は不動産開発業者に変身している。

==============(The Role of Drought and Climate Change ・・終了)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 破産した農民 ー シリア内... | トップ | シリア内線の原因: 貧しい... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

シリア内戦」カテゴリの最新記事