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海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

第6代 セルヴィウス・トゥリウス

2020-05-31 20:40:50 | 世界史

初代国王 ロムルス 在位:紀元前753ー717
② ヌマ(Numa Pompilius)  
     在位:紀元前715-673
③ トゥルス・ホスティリウス(Tullus Hostilius)
    在位:紀元前673-642
④ アンクス・マルティウス(Ancus Martius)
    在位:紀元前642ー617
⑤ ルキウス・タルクイヌス・プリスクス(Lucius Tarquinius Priscus )
    在位:紀元前616-579
⓺ セルヴィウス・トゥリウス(Servius Tullius)
    在位:紀元前575-535

ローマはパラティーノの丘に建設された。初代国王ロムルスの時代に、サビーネ人がローマに移住し、彼らはカピトリーヌヌの丘に住んだ。第3代国王トゥルス・ホスティリウスは将来の人口増加に備えて、カエリアの丘を市内とした。第4代国王アンクスはラテン人の町ポリトリウムの住民をアヴェンティーヌの丘に移住させ、丘の周囲に城壁を築いた。
4つの丘を居住地とする過程でローマは城壁を拡張してきたが、城壁がない場所もあった。第5代国王タルクィヌスはこの点を整備し、城壁を完成した。タルクィヌスはそのほかに重要な土木工事をおこなっている。4つの丘のふもとは水はけが悪く、雨が降ると、池になってしまった。タルクィヌスは水路を掘り、テベレ川に水を流すようにした。また彼は最も壮大な神殿を建てた。彼はエトルリアの町で育っており、彼の妻はエトルリアの名家の生まれだったので、エトルリアの神殿に匹敵する神殿を建てようとしたようである。
タルクィヌスは土木工事によってローマに貢献しただけでなく、戦争においても有能な指揮官だった。ローマは建国以来連戦連連勝を続けていたが、ローマは小さな村から出発しており、兵士は勇敢だったが、兵の数が少なく、ローマ軍は不利であった。ローマ軍の勝利は指揮官の素早い戦況判断と、をれに基づき予想外の戦術を繰り出すことによって得られた。第5代国王タルクィヌスの時代にはローマの人口は見違えるように増え、兵士の数も増えていたが、サビーニ人の町コラチアとの戦争で、ローマの歩兵は敗れそうになった。その時タルクィヌスは騎兵を投入し、ローマ軍を勝利に満導いた。実はコラチア軍との戦闘は2度あり、最初の衝突でタルクィヌスは相手の強さを知り、ロ――マ軍を引き上げた。タルクィヌスは騎兵を2倍にしてから、再びコラチアとの決戦に臨んだのである。
このようにタルクィヌスは土木事業と戦争の両面で輝かしい業績をあげたが、他方で彼はローマの素朴な政治を変質させた。これまでローマの国王は元老院の推薦により、市民が決定していていたが、彼は市民の歓心を買い、自分を国王に推薦した。また彼は国王になると、元老院の人数を100名増やした。これまでも
元老院は2回増員されているが、他国民が多数移住した際彼らの代表を元老院に迎えたのである。こうして元老院は住民と結びついており、住民の意見は元老院に伝わりやすかった。こうしたローマの良き伝統を、タルクィヌスは破壊した。彼は元老院の独立性を弱め、自分に都合のよい議会にするために自分の忠実な支持者100名を元老院に送り込んだ。こうして三百数十名の元老の中の100名がタルクィヌス派となった。タルクィヌスは良い面でも悪い面でも、前例のない国王だった。彼の業績については前回でほぼ終了している。今回は彼の末期と第6代国王セルヴィウス・トゥリスについての記述である。
 

===《リヴィウスの歴史第1巻39ー46章》====

                   Titus Livius   History of Rome            

                                         translated by Canon Roberts

その頃驚くべき事件が起こり、重大な結果を生んだ。セルヴィウス・トゥリスという少年が眠っていると、人々の目の前で少年の頭が炎に包まれた。このような光景を出現させた少年は宮廷の関心を呼び、王家の家臣が水をかけようとしたが、王妃が止めた。王妃は人々の騒ぎを鎮め、「少年が自分で目を覚ますまで、少年の眠りを邪魔しないように」と命じた。すると間もなく少年は目を覚まし、炎が消えた。王妃タナクィルは夫(タルクィヌス王)に言った。

「私たちはこの少年を貧乏の中に放置したのよ。将来私たちが困難にぶつかり、途方に暮れる時、彼は光となり、よろめく王家を守るでしょう。今後この少年を大切に、何の不自由もなく育てましょう。彼は国家と王家にとって無限の栄光の源泉になるのですから」。
この時から少年は国王夫妻の息子となり、統治者にふさわしい人格を形成するため、教養を身に着けていった。これは神々の意思を実行できるようになるための訓練だったので、少年にとって難しい課題だった。間もなく少年は国王にふさわしい性格の持ち主であることがわかった。
タルクィヌス王は念のため養子にふさわしい少年がほかにいないか国中探し回ったが、いかなる点でも現在育てている少年セルヴィウスに匹敵する者は見つからなかった。それで国王はセルヴィウスを娘の婿にした。

王家で育てられ、王の娘の婿となったた少年の出自について、別の伝説がある。タルクィヌス王がコルニクルムを占領した時、この町の指導的な人物であったセルヴィウス・トゥリウスは戦死した。妊娠していた彼の妻は、他の女性たちと共に捕虜になっていた。彼女は地位が高かったので、ローマの王タルクィヌスの妻は労働を免除した。セルヴィウスの妻は王家に引き取られ、男の子を生んだ。このような親切を受け、彼女は王妃を深く信頼するようになった。男の子は王家で育ち、愛され大切にされた。男の子の母は戦争により夫を失い、故郷を占領され、捕虜になった。少年はこうした不幸な運命を経験した女性の子供だったので、人々は少年を貧しい奴隷の子と考えたのである。しかし、この少年に特別の栄誉が与えられたこを考えると、身分の高い家の生まれであったと考える方が自然である。

タルクィヌス王が約38年間統治した時、王の娘婿のセルヴィウス・トゥリウスは、国王だけでなく貴族・平民からも高く評価され、彼に匹敵する人物はローマにいなかった。しかしながらタルクィヌスの前の国王アンクス・マルティウスの2人の息子は、父の王位がタルクィヌスの詐術によって奪われたことを恨んでいた。タルクィヌスはアンクス王に信頼された家臣だったが、王を裏切ったのである。タルクィヌスはローマ人ではなく、イタリア人でさえなかった。このようなよそ者がローマの王となったのはおかしい、と前王アンクスの息子たちは怒った。タルクィヌスの死後も自分たちに王座が戻らず、代々受け継がれてきたロムルスの神聖な王冠が奴隷の息子に渡ろうとした時、アンクス王の2人の息子の怒りは頂点に達した。アンクス王の息子である彼らの存在を無視して、外国の奴隷の娘婿がローマの権力者になるのは、ローマ国民の名誉を傷つけることであり、アンクスの家名を侮辱するものだった。アンクス王の息子たちは暴力を用いて、この不正義を正すことにした。タルクィヌス王の娘婿を取り除いても、王自身が健在なら、アンクス兄弟は王によって処罰されるだろう。その後王は新しく王を選ぶだろう。王の娘婿を殺害しても解決にはならず、まず国王タルクィヌスを取り除いてしまえば、その後女婿を取り除くのは容易だろう。こう考えて、前王アンクスの2人の息子は現在の王を殺害することにした。彼らは自ら国王を殺害するのではなく、貧困にあえいでいた2人の牧人(家畜を放牧する人)に依頼した。2人の牧人が宮殿の前庭にやって来ると、まるで本気であるかのように激しく喧嘩を始めたので、警備兵全員の注意をひいた。2人はそれぞれ、自分の主張を国王に訴えたい、と叫んだ。騒ぎは宮殿内部に伝わり、牧人たちは国王の前に呼ばれた。2人は国王の前でも、大声で互いに罵り合ったので、護衛兵が彼らを注意し、順番に話すように命令した。すると、2人はようやく静かになり、まず一人が自分の言い分を述べた。国王が話に聞き入った時、残りの一人が斧(おの)を振り上げ、王の頭に振り下ろした。あっという間もなく、2人は宮殿から逃げ出した。
そばにいた者たちが国王を抱きかかえる一方で、護衛兵たちは犯人を追いかけ、捕まえた。護衛兵の叫び声を聴き、何事だろうと、群衆が集まってきた。混乱の中で、王妃タナクィルが王宮の前の人々を追い払い、宮殿の門を閉めた。そして彼女は国王がなんとか回復するようにと、傷を癒すための薬を注意深く準備した。同時に夫が死ぬ場合に備えて、彼女は対策をした。娘婿であるセルヴィウスを呼び、ひん死の国王の姿を見せてから、「必ず復讐をするように」といった。また彼女は「敵のなすがままにしないように」と頼んだ。
「あなたは次の国王です。この恐るべき犯罪を犯した者は手先にすぎません。彼らの背後には敵対勢力がいます。彼らに王座を奪われてはなりません。決心しなさい。あなたは神々に選ばれた人間です。子供の頃、あなたの頭の周りに、聖なる炎が現れたことを思い出しなさい。聖なる霊感に導かれなさい。目覚めなさい! 夫と私は外国人でしたが、ローマを統治してきました。自分の出自を引け目に感じることはありません。重要なのは、あなた自身の能力です。突然の緊急事態において、迷うことがあるなら、私の助言に従いなさい」。
人々の騒ぎが一向に静まらなかったので、王妃タナクィルは宮殿の上の階の王の居間に行き、新道(ヴィア・ノーヴァ)を見下ろし、人民に向かって言った。
「最善を望みなさい。国王は切りつけられましたが、傷口は深くありません。王は意識を取り戻しました。血を洗い、傷を調べた結果、傷は深くありません。皆さんは近いうち国王に再会できるでしょう。ですが国王はセルヴィウス・トゥリウスの権威を受け入れるよう命じています。セルヴィウスが司法権と国職王の職務を代行するのです」。
間もなく、紫色の縞模様がある白い長衣を着たセルヴィウスが護衛兵を引き連れて、王宮に現れた。彼は玉座に座ると、いくつかの案件を決済し、残りについては、国王に相談してから決めると言った。こうしてセルヴィウスはタルクィヌス王の死後数日間国王代理として権力を行使しながら、自分の地位を固めた。やがて宮殿で国王の弔いが始まり、人々は国王の死を知った。
強力な護衛に守られながら、セルヴィウスは人民に選ばれことなく、国王に就任した。これはローマの慣例に反しており、元老院が強く反対したにもかかわらず、セルヴィウスは強行した。
アンクス王の2人の息子は殺害犯が捕まったことを知った。また国王が命を取り留め、セルヴィウスの地位が固められたことを知り、ティレニア海沿岸部のウォルスキ人の町へ逃げた。

セルヴィウス・トゥリウスは私的・公的の両面で権力基盤を固めた。暗殺されたタルクィヌスには長年娘しかいなかったが、娘が成人した頃になって2人の男子が生まれた。ルキウスとアッルンという名前だった。セルヴィウスはタルクィヌスの養子であるのに対し、ルキウスとアッルンは実子だった。セルヴィウスは彼らの野心から身を守らなければならなかった。彼は2人の娘をそれぞれに嫁がせた。しかし人間の思慮は運命の避けがたい結果を予測できない。セルヴィウスは妻の弟たちのそねみをなだめることができず、妻の弟たちはセルヴィウスを憎み、機会があれば裏切ろうとしていた。
ちょうどこの時、ウェイイ(テベレ川西岸、エトルリア人の都市)との平和条約が終了した。ローマの建国者ロムルスがウェイイに勝利した時の条約が満期になったのである。ウェイイとの戦争が再開されれば、他のエトルリア都市が参戦するかもしれず、ローマにとって悩ましい問題だった。ところが、セルヴィウスはこれを好機ととらえた。外国との戦争になれば、彼が抱えていた国内問題が忘れられるからである。この戦争で、セルヴィウス・トゥリウスの勇気と幸運は目覚ましかった。ローマ軍は大軍を相手に勝利したので、セルヴィウス・トゥリウスは元老院と平民から信頼され、国王としての地位が固まったように感じた。
平和な時期にセルヴィウスは大きな仕事にとりかかった。第2代国王ヌマが宗教の法律と制度を定めたことは後世の人々に高く評価されている。セルヴィウスはこれに匹敵する社会制度を定めた。彼は国民を分類し階級を定めた。権威と富のいくつかの段階が区別され、国民は明確に分類された。またセルヴィウスは人口調査を制度化した。後にローマが大帝国になった時、この制度は非常に役立った。人口調査に基づき、平時のさまざまな税そして戦時には兵役が課された。無差別に税や兵役が課されることはなくなり、各人の財産に応じて定められた。こうしてセルヴィウスはそれぞれの階級に税を課し、百人隊を配分した。兵士の数は各階級の人数に比例するのではなく、最も裕福な階級が多くの兵を供出した。財産が最も多い階級は80個の百人隊を供出したのに対し、最下層の階級はほぼ兵役を免除され、象徴的に1個の百人隊を供出した。
①第1階級は銅10万ポンド(4万5千キログラム)以上の財産を有する富裕市民である。この階級は80個の百人隊を編成した。これらの半分の40個は18-46歳の少壮年者から成る百人隊であり、残りの40個の百人隊は46-60歳の市民で構成された。老人隊は都市を防衛し、少壮隊は野戦を戦った。武具は自分で準備しなければならなかった。防具は兜(かぶと)、丸い楯、鎖かたびら(金属の小さな輪を編んだ物)製のよろい、脛あて〈脚の防具)であり、すべて真ちゅう製だった。攻撃用の武器は槍と剣だった。大工で構成される2個の百人隊が第一階級の部隊に所属した。彼らは武器を持たず、戦争機械を操作した。

②第2階級は銅7万5千ポンド(3万4千キログラム)以上、10万ポ以下の財産を有する市民であり、20個の百人隊を編成した。彼らの武具は第一階級とほぼ同じであるが、盾は長方形で、真ちゅう製ではなく、木製だった。彼らは鎖かたびら製のよろいを身に着けていなかった。
③第3階級は銅5万ポンド(2万2千7百キログラム)以上の財産を有する市民であり、20個の百人隊を編成した。(半数が小壮隊、残り半数が老人隊)。武具は第2階級と同じであるが、彼らは脛あて無しで戦った。
④第4階級は銅2万5千ポンド(1万1千キログラム)以上の財産を有する市民であり、20個の百人隊を編成した。彼らの武器は普通の槍と投げ槍だった。
⑤第5階級は人数が多かったので、30個の百人隊を編成した。彼らの武器は紐の付いた石とただの石だった。彼らの財産は1万1千ポンド(5千キログラム)以上だった。
⑥5千キログラム以下の財産しかない市民は1個の百人隊を編成し、多くの者が兵役を免除された。
各階級への歩兵の配分と装備について決めると、セルヴィウスは騎兵を再編した。前王タルクィヌスが騎兵を2倍にした際、3個隊を6個隊にせず、3個隊のままで各隊の騎士の数を2倍にした。ロムルスが創設した3個の騎兵隊は神聖な部隊だったので、できるだけ変更を小さくしたのである。セルヴィウスは実戦を重視し、各隊の人数を元に戻し、3隊を6隊にした。これより重要なことは、新たに12個の騎兵隊を創設したことである。ローマの主要な家族から騎兵を徴募し、12個の百人隊を編成した。騎士のために馬を購入しなければならず、セルヴィウスは国庫から1万ポンド(4千5百キログラム)支出した。馬を世話をする未亡人たちはそれぞれ2千ポンド(9百キログラム)の年俸が支払らわれた。これらの出費は裕福な階級に対すル税で賄われ、貧しい人に負担はなかった。
ーーー(訳注)ーーーー
兵士の数を確認しておく。まず歩兵は次の通りである。
⓵ 8000人と戦闘機械兵200人 ②-④の合計 6000人 ⑤3000人 ⑥200人
合計1万7千400人の歩兵であり、これに騎兵2100人が加わった。(ロムルスの騎兵百人隊は1隊150人で3個隊だったが、タルクィヌスは1隊を300人とした。合計で450人から900人になっていた。セルヴィウスは1隊を150人に戻し、6個隊としたので総数は900人のままである。新設した百人隊は1隊100人と仮定し、12個隊で1200人)。
これだけ立派な軍隊を擁するローマは侮れない町に成長していたようである。後段でリヴィウスは、兵役義務のある市民の人数が8万人としている。
ーーーーーー(訳注終了)

最上級の階級は兵役と税において貢献が著しかったので、セルヴィウスは彼らに特権を与えた。ロムルスの時代以来ローマのすべての成年男子は平等に投票権を有していたが、セルヴィウスは制度を形骸化し、実質的に上層階級の投票によって市民の意見が決まるようにした。騎士が最初に投票し、記録された。次に
第1階級の歩兵(80個の百人隊)が投票した。この時点でいったん投票が終了し、賛否が明白であれば、市民の意見となった。賛否が拮抗した場合、第2階級が投票した。第2階級の賛否も拮抗した場合、第3階級が投票した。多くの場合最初の投票で結果が決まり、第6階級が投票することは全くなかった。
またセルヴィウスは財産による市民を分類することによって36の部族の存在を無視した。4つの丘を中心にローマを4つに区分し、この4つを部族とみなした。
セルヴィウスは人口調査を逃れようとする者を投獄と死罪に処すことにしたので、人口調査は大いに進んだ。
調査が終わると国王は歩兵とと騎兵の全員をマルスの広場に集合させた。兵士たちの幸運を祈り、豚、羊、牡牛がいけにえにされた。これは人口調査の完了を記念する儀式だった。8万の市民が登録された。ローマ人の最初の歴史家ファビウス・ピクトル(Fabius Pictor)によれば、兵役義務のある市民の人数が8万人ということである。
その後5年ごとに人口調査がおこなわれ、マルスの広場での儀式が催された。
人口が増えていたので、ローマは市域を拡張しなければならなかった。最初キリナルとヴィミナルの2つの丘を市内とし、続いてエスキリンの丘を加えた。3つの丘がローマの市内になったことを強調するため、セルヴィウスは自らエスキリンの丘に住んだ。彼は市つの丘のの周囲に、盛り土、堀、壁を築いた。

 

こうして彼は市の境界(ポメリウム)を拡張した。ポメリウムの語源は市壁の片側とされているが、昔のエトルリア人は「市壁の近く」という意味で用いた。昔のエトルリア人が都市を建設した際、占いに従って壁に近い場所に家を建てないようにした。壁から一定の距離のところに石を並べ、建築禁止区域の目印とした。建築禁止区域は壁の両側だったが、ローマではその後、内側では禁止区域が無視され、壁の近くまで家が建てられた。壁の外側に近い場所は現在でも建物がなく、工作もされず、荒野のままである。建建築が許されず、耕作さえ許されないこの地域を、ローマ人はポメリウム(pomoerium)と呼んだ。ローマが拡大するにつれて、聖なる境界石は外側に移動した。
ローマは7つの丘を市内とするようになった。

セルヴィウスは軍隊と行政の課題を解決すると、武力を用いず、外交によって領土を拡大した。
次にセルヴィウスは神殿の建築に取りかかった。当時エフェソス(アナトリア南西部のギリシャ都市)のディアナ神殿が有名だった。アナトリアの複数の国家がディアナ神殿の建設に協力したと言われていた。セルヴィウスはラテン人の都市との友好関係を慎重に進めており、ラテン人が協力し合い、共通の神を持つことを熱心に提唱していた。エフェソスの神殿の建設に周辺諸国が参加した例にならい、セルヴィウスはローマのディアナ神殿建設にラテン人の参加を呼びかけた。これに参加することはローマの覇権を認めるこことなので、ラテン人は内心では応じたくなかった。しかし彼らはローマを恐れて神殿建設に参加した。これまでローマは武力により、ラテン人を従属させようとしてきた。その結果ラテン人の多くの町が戦争に敗れ、この不幸な経験により、彼らはローマに歯向かうことは無理だと考えていた。サビーネ人も同様だった。ところが、ひとりのサビーネ人が策略によってローマを懲らしめる機会が訪れたと考えた。彼は裕福であり、美しい雌牛を所有していた。雌牛はまだ若く並外れて大きかった。成長すると雌牛の素晴らしさは人々の目を引いた。サビーネ人はいつも牛の大きな角をディアナ神殿の前庭につないでいたからである。人々はこのような雌牛を見たことがなく、この雌牛は奇跡の生き物と考えられた。占い師たちが言った。
「この牛をディアナ神殿にささげた者の国家は帝国となるだろう」。
ディアナ神殿の神官がこの予言を知った。いけにえを捧げる日になると、サビーネ人は雌牛をローマに連れて行き、ディアナ神殿の祭壇の前にさし出した。ローマ人の神官は犠牲となる牛の大きさに驚いた。神官は噂が本当であることを知り、占い師の予言を思い出した。彼はサビーネ人に言った。
「外国人であるお前が汚れた犠牲をディアナ神にささげる理由は何か? 神殿から去り、流れる水で身体を清めてから、戻って来なさい。向こうの谷の底をテベレ川が流れている」。
サビーネ人は不安になったが、予定通りに儀式が進み、予言が成就されるのを願い、テベレ川のほうに降りて行った。その直後、ローマ人が雌牛をいけにえとしてディアナ神にささげた。ローマの国王と市民は大いに喜んだ。

セルヴィウスは長年国王の座にあり、彼の地位は安定した。ところがタルクィヌス家の若者が「セルヴィウスは人民の同意なしに王座に就いた」と主張し始めた。この主張は事実に基づいていた。この若者は敵から奪った土地を平民の各家庭に分配したので、平民は彼をすると彼は大胆になり、セルヴィウスの正当性を問いただし始めた。「諸君はセルヴィウスを王に選んだの人々が国王セルヴィウスを疑うように仕向けてから、タルクィヌスは国王を暗殺した。この無謀な行為によって、タルクィヌスの評判が落ちなかっただけでなく、人々はますます彼を信頼した。これまでの王が獲得したことがない多数の票によって、国王に選ばれた。タルクィヌスは大胆で野心的な若者だった。彼の妻トゥリアは夫の野心を刺激した。
タルクィヌスが平民に土地を分配したことは、元老院に対する挑戦だった。元老院が彼を許さないと知って、彼は窮地に陥った。そこで彼は死亡した国王セルヴィウスを中傷し、元老元老院における彼の支持者を増やした。
タルクィヌスは国王を殺して自分が王となったのであり、ローマの宮廷はギリシャ悲劇に描かれるような犯罪の場になった。犯罪的な手段により国王の座を手に入れたタルクィヌスであるが、やがて彼は国民に憎まれ、彼に対する憎しみが自由な体制(=共和制)の到来を早め、悪漢が国王に就任することが永遠になくなった。
新しく王となったルキウス・タルクィヌスが本当に5第代国王プリスクス・タルクィヌスの息子か孫であったかについては、疑問があるが、彼は息子であったとする伝説が広く受け入れられている。
か、彼にローマの統治を委ねたのか?」

 


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